揺らめき .2
食堂の椅子に座ったのは、僕と米山さん、小倉さん、響さんの四人だけだった。こうしてみると、やけに寂しく感じる。当然と言えば当然だが、全員無言のまま、うつむきながら朝食が運ばれてくるのを待っていた。時刻は八時十五分だったから、四十五分になったら井波たちと交代することになる。僕は正直、気が重かった。第一、坂本が死んだということの気持ちの整理すら、ろくにできていなかった。
「ご飯を食べて元気を出しましょう」
朝食の乗ったトレーを持ってきた浅田さんが僕たちに言った。スクランブルエッグやベーコンなどの洋食のほかに、けんちん汁や白米などの和食もあった。和洋折衷みたいな朝食は、ビュッフェで小学生が好きなものばかり取ってきたみたいな、あまり見ない組み合わせだったけど、どれもおいしそうだった。こんな状態じゃなければ、きっと喜んでそれらを胃に収めていたことだろう。
テーブルに置かれた料理を前に箸を持つ。食欲は全くなかった。少しずつつまんで口に入れてみたが、全然味が感じられない。まるで自分の舌じゃないみたいで、飲み込むのも一苦労だった。そんな僕とは反対に、少し離れた位置に座る響さんは昨夜と変わらない様子で朝食をとっていた。長年の経験からくるものなのだろうか。その手つきには余裕すら感じられる。人が死んでいるのにどうしてここまで冷静でいられるのか。僕には不思議で仕方なかった。
一瞬、僕が神経質になりすぎているだけなのかとも思ったが、どうやら特殊なのは彼の方のようだった。周りを見ると、米山さんや小倉さんも、箸が進んでいないみたいだった。
「お口に合いませんか?」
なかなか料理が減らない僕や彼女たちを見て、心配そうに浅田さんは尋ねてきた。意地悪だよね。こんなことを言われたら、まるで僕たちが悪いみたいに思えてくるじゃないか。あんなことがあった後に、平気で食べ続けられるわけないのにさ。でも浅田さんも彼なりに、この重苦しい沈黙を破ろうと頑張っているのだろうことは察せられた。
「いや、美味しいです」
僕は味のしないパサパサの非常食を食べるみたいに、固形物を口に含んでは汁物でそれを流し込んだ。たっぷり時間をかけて、ちょうどすべて食べ終わるころには三十分がたっていた。
「それじゃあ、行こうか」
ごちそうさまを言った後、響さんに連れられて僕と小倉さんは二階へ上がった。小倉さんは結局最後まで食べきれなかったみたいで、申し訳なさそうな顔をしていた。
坂本の部屋に着くと、三人は立ったまま会話していた。三人とも浮かばない表情をしている。黒沢さんが中心となって、色々と質問しているみたいだった。
「お疲れ様です」
響さんが声をかけた。深みのあるその声は、不思議と聞く人を安心させるような感じがする。たまにいるんだ。こんな風に自分が持っている余裕をほかの人にも伝播させられる人が。この人が「大丈夫」って言ってるんだから大丈夫なんだ、って思わせられるような人がね。実際、その人がどう思ってるかは知らないよ。もしかしたら心の中では一刻も早く逃げ出したいくらい焦っているかもしれないし、まったくもって大丈夫じゃないかもしれない。でももし、もし仮に君がそういう人間になりたいなら、胸を張ってどんと構えてればいいんだよ。そうすれば言霊っていうのかな、不思議と周りの人たちが乗ってきて、何とかなったりするんだ。だけどこう言うと、時々勘違いする人が出てくる。要するにね、きついときに「助けてくれ」って言えなくなっちゃったりするわけだ。「ありがとう」と「ごめんなさい」と、「助けてくれ」が言えなくなったら終わりだよ。僕はそう思うね。世の中にはそういう終わっちゃった人がごまんといるけどさ。
「あとはお願いします」
黒沢さんは僕たちに気づくと、軽く頭を下げて廊下を歩いて行った。井波と桐原さんもそれについていく。みんな食事をとれる気分なのだろうか。その背中を見ながら、僕は考えた。少なくとも井波は無理だろうと思った。そういう神経が図太いタイプではないのだ。夏にアスファルトの上にセミがひっくり返ってるのを見ただけで、数日は寝込んじゃうんじゃないかな。冗談とかじゃなくてさ。
僕らは再び坂本の部屋に入った。井波たちはちゃんと見張っていたのか、部屋の中は三十分前と何一つ変わらぬ状態で保持されていた。少なくとも、僕が見た感じにすぎないけど。
僕ら三人集まっても、話すことは特になかった。無言の時間を気にしてか、響さんが話を振ってくる。コミュ力がとにかく高いんだ。昨日も言ったけどさ。
「二人は昨日、何時ごろ寝たんだい?」
「僕は一時十五分くらいです。直前まで井波と部屋でゲームしていてその後すぐ寝ました」
「私は十一時です」
「早いね」
「いつもこの時間に寝てるんです。そういう体になっちゃってるっていうか」
小倉さんは僕と目を合わせようとしなかった。やっぱりあまり人と話すのが得意ではないのだろう。僕もあまり人の目を見て会話できる人間じゃないから、ちょっとだけ親近感を覚えた。人に目をじっと見られるとさ、緊張するんだ。目は口ほどにものを言うっていうだろう。だからさ、不躾にこちらの目をじっと見てくるような人を相手にすると、こちらの心の奥を覗こうとしてるんじゃないかって警戒しちゃうんだよ。別にやましいことなんかないとしてもね。自分のことを知られるのはいつだって怖いんだよ。特に、大切に思っていた友人が死んだときなんかはさ。
「小倉さんもか。実は私も十一時に寝たんだよ」
響さんも響さんで、小倉さんとの共通点を見つけたことに喜んでいるみたいだった。それから彼は、自虐的な笑みを浮かべて僕たちを見た。
「この歳になると寝るのも起きるのも早くなるんだ。体力がないから早く寝るだろう。そしたら不思議と朝早く目が覚めちゃうんだよ。全然疲れなんかとれてないのにね」
「千代はそんなことないみたいだが」と付け足すと、響さんは心の底から羨ましそうに言った。老人の自虐って、若者からすると結構迷惑だったりするんだよね。ネタとして笑うのも本人にその気がないなら失礼にあたるし、かといって本気で受け取りすぎると老人に惨めな思いをさせてしまうかもしれない。つまり何が言いたいかというとね、老人の方々は自虐的になりすぎないでほしいってことなんだ。とはいっても、ブリッジしちゃうくらいふんぞり返って威張られても、それはそれで迷惑なんだけどね。難しい話だけどさ。
「早寝早起きはいいことですよ」
結局僕は返答に困って、そんな頓珍漢なことを言った。響さんが苦笑する。どうしていつもこんな馬鹿みたいなことしか言えないのだろう。本当に会話が下手なんだよ。嫌になるくらいにね。
「もう少し寝ていたいんだけどね。私が思うに、人生で一番難しいことの一つが睡眠だよ。自分じゃコントロールできない。その意味じゃ、誕生や死なんかと同じだね」
僕は「たしかに」と頷いた。睡眠って、ある種死んでいるのと同じだ。そう考えると、大人が「寝たい」って言ってるのは、「死にたい」って言ってるようなものなのかもしれないね。考えてみてほしいんだけど、子供は「寝たい」なんて言わないだろう。むしろ「まだ寝たくない」と言うはずだ。彼らはきっと、本質的に睡眠と死を同一視しているんだよ。意識がなくなる睡眠が怖いんだ。
「若いころは睡眠の悩みなんかなかったんだけどね。親父も似たようなことを言っていたけど、自分で経験するまでは他人事だと思ってたんだ。高津くんや小倉さんが羨ましいよ」
「そんなことありませんよ」
僕だって若者とはいえ、翌日大切な予定があるときに限って眠れなかったりする。色々試すんだけど、結局全然寝付けないんだ。ああいう時って焦るよね。まさか寝不足のまま翌日を迎えるわけにもいかないし。そう考えると、毎日そういったことで悩んでるとしたら、それって結構つらいことなのかもしれないと僕は思った。
それから僕らは三十分間、他愛のないことばかり話した。坂本のそばでこんな呑気な会話をしていることに罪悪感を覚えなくもなかったが、彼女の死によって僕らの気が滅入ってしまわないよう、響さんが色々気を使ってくれているのだろうことが会話の節々から感じられた。だから、僕らもそれに乗っかっておくことにしたんだ。
一方で、ただ無口な印象だった小倉さんは、話してみると案外話しやすい人だった。とにかく聞き上手なんだ。こちらの話をちゃんと聞いてくれるし、こちらが話してる最中にそれを遮って自分の話を延々始めたりもしない。だからついつい自分の話ばかりしてしまいそうになるんだけど、理性でそれを抑えて僕の方からも彼女にいくつか質問したりもした。実際、僕は少しだけ彼女に興味を持っていたんだよ。彼女は嫌な顔一つせず、それに答えてくれた。昨日桐原さんが言っていた通り、彼女たちはスノボをしに長野まで来たらしい。三人とも東京にあるC大学の大学生で、僕らと同い年だということがわかった。
そんな話をしていたら、廊下の向こうから米山さんと浅田さん、そして黒沢さんの三人がこちらに歩いてきた。まだ現場維持をしていない二人に、黒沢さんがついてきた感じだろう。夜通し起きて作業していたのか、浅田さんは疲れているようだった。その隣に立つ米山さんも元気がない。昨日の触れたら切れてしまいそうな鋭い雰囲気も、今は見る影もなかった。顔色もよくなさそうだ。あの様子を見るに、朝食もあまり食べられなかったんじゃないかな。
「何かわかりましたか?」
浅田さんが僕らの目を見て尋ねてくる。まさか三十分間呑気に雑談していたとも言えず、僕らは「いえ、何も」とだけ答えた。実際、特に変わったことなんてなかったんじゃないかな。それにあまりじろじろ自分の死体を見られることを、きっと彼女は嫌がるんじゃないかという気もしていた。
「では、あとはお願いします」
「ああそうだ」
その場を離れようとした僕らを黒沢さんが引き留めた。
「警察の方の到着は十一時頃になるみたいです。その前に私たちでも情報を整理したいので、今から四十五分後、十時になったらロビーに集まってください」
「千代は?」
「もちろん部屋から出てきていただきます。全員の行動を把握しないといけませんから」
「はあ」
響さんはため息をつくと、渋々それを認めた。あの状態の千代さんを説得するのは、なかなかに骨が折れそうだと他人事ながら思った。
「それから、高津くんと小倉さんは三十分後もう一度ここに来てくれないかな? 十五分だけにはなってしまうが、私個人として二人にもあらかじめ話を聞いておきたい」
「え? まあ、いいですけど……」
断る理由もなかったので、僕と小倉さんは頷いた。ただなんとなく、僕は嫌だったね。黒沢さんの探偵ぶった態度が気に入らなかったんだ。大体からして、彼も容疑者の一人なんだよ。どうしてそんな自分が白であることを前提にした話し方をしているのか、僕には理解できなかった。つまりね、自分が名探偵か何かだと勘違いしているんだよ。もう、事件が起きてうきうきって感じに見えるんだ。そういうのってさ、友達をなくした僕からすると、かなりうんざりしちゃうんだよね。
小倉さんと響さんは、そのまま自分の部屋へと入っていった。僕は井波と少し話したい気分だったので、食堂へ戻ることにした。
食堂には井波しかいなかった。桐原さんがまだ食事をしていると思っていたから、ぽつんと一人席についた彼を見て、僕はなんだか切ない気持ちになった。
「順平か……」
降りてきた僕を見て、井波は落ち込んだように言った。声のトーンからして、かなりメンタルにきていることはすぐに察せられた。彼のそばに歩いていき、隣に腰かける。彼の分の朝食はほとんど口をつけられることなく、運ばれてきた時のままになっていた。
「桐原さんは?」
「さっき自分の部屋に戻っていったよ。黒沢さんもそうだけど、彼女すごいね。普通に完食してた。ろくに食べられなかったのは僕と米山さんだけだったよ」
「安心しなよ。僕と小倉さんも食べられなかったから」
きっと、何事もなかったかのように食べられる人が異常なのだ。食べ物を箸でつかんだ瞬間、坂本の苦しそうな顔がちらつくんだから。そうすると食欲なんて一気になくなっちゃうんだよ。
「僕ら、どうなるのかな?」
膝に両手を置いた井波がぽつりとこぼした。それはどこか含みがあるように感じられて、僕は内心不安に思った。
「どうもならないだろ」
「順平さ、昨日何時に寝た?」
彼は突然そんなことを聞いてきた。正直訳が分からなかったが、僕は戸惑いつつもそれに答えた。
「あの後すぐ寝たから、一時十五分くらいだと思うよ」
「それから朝まで?」
「ああ」
僕が頷くと、井波は「そっか」とつぶやいた。響さんにも同じことを聞かれたが、一体なんだというのだろう。少し考えて、アリバイについて聞かれているのだと気がついた。
「もしかして井波、僕を疑ってる?」
「まさか。そんなわけないよ。そうじゃないんだ」
井波は自分でも感情が捉えられていないのか、焦ったようにそれを否定した。なんとなく気まずい空気になってしまったので、僕はテレビの電源をつけた。ニュースでは記録的積雪だとして、キャスターがハイテンションでレポートしていた。地方のアナウンサーって、たまにこういう人がいるんだ。頑張ってるっていうかさ、とにかく元気いっぱいです、って感じで、時々それが空回ってたりすると、胸のあたりがきゅっとしちゃうんだよね。だから地方のアナウンサーって僕は結構苦手だったりするんだけど、とにかく今の僕たちにその声はあまりに眩しすぎた。
チャンネルを変えると、時代劇がやっていた。見るからに芝居っぽい声や言い回しで、いつもなら笑っちゃいそうなものだったが、今はこちらの方が幾分かマシに思えた。見たこともないし、今しゃべっているのが誰なのかもまるで分らなかったけど、僕と井波はただ黙ってそれを見ていた。
「もうそろそろ行かなくちゃ。現場を見張らないと」
意外にも時間はあっという間に過ぎた。僕は椅子から立ち上がる。
「また?」
「黒沢さんに呼ばれてるんだ。消していい?」
リモコンを持って井波に聞くと、彼は首を横に振った。
「いや、どうせ十時までだろう。最後まで見るよ」
テレビに視線を戻した井波を置いて、僕は坂本の部屋へと向かうことにした。
二階に上がると、ちょうど小倉さんの部屋から彼女と桐原さんが出てくるところだった。たぶん部屋で二人で話していたのだろう。米山さんはそれを見ると「ちょっといい?」と言って桐原さんと一緒に自室に入っていった。
「では、あとはお願いします。私は朝食の片づけをしないといけませんので」
「また十五分後」と言って、浅田さんは階段を下りて行った。残された僕と小倉さんは、黒沢さんと一緒に坂本の部屋に入った。彼はそのまま床にしゃがみこむと、その場で胡坐を組んだ。
「早速だけど、二人は今回の坂本さんの死についてどう思う?」
どうやら彼は、みんなにそれを聞いているようだった。黒沢さんはじっと僕と小倉さんを見つめる。僕らは一瞬だけ彼と目を合わせると、すぐに視線をそらした。さっきも言ったけど、目を見て話されるのが苦手なんだ。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
僕は逆に聞き返した。ちょっとイライラしていたのかもしれないね。ここで仮に黒沢さんが「事件を解決したいから」なんて言ったら、僕は一切この人のことを信用しないつもりでいた。しかし彼は「そうだな……」と少し悩むようにそっと下を向くと、まるで秘密を打ち明けるみたいに口を開いた。
「簡単に言うと、不安だからかな」
「不安?」
「正直に言うとね、怖いんだよ。人の死体を見るのなんて初めてだし、暗闇の中一人放り出されたみたいな、自分がどこにいるのかわからないような感じがするんだ」
黒沢さんは自嘲的な笑みを浮かべる。それは僕としては、結構意外な答えだった。
「だから自分がこうして先頭に立って話していると、ちょっと気がまぎれるんだよ」
「それで、二人は?」という彼の問いに、「悲しいです」と小倉さんは答えた。
「誰かが亡くなるってことは、もう二度と会えないってことです。去年祖父が亡くなってそれを実感しました。正直まだ坂本さんのことは、信じられない気持ちですけど……」
坂本の死体の方を見ないようにしながら、彼女は言った。それは嘘じゃないんだろう。僕もまだ、これが現実だとは思えないでいる。
「高津くんは?」
「僕も同じで、悲しいです」
答えてから、なんとなく違うなという感じがした。どういうことかというと、僕はまだ悲しさをちゃんと感じることができていなかったんだ。正直なところ僕は、自分が悲しいのか嬉しいのか、あるいは怒っているのかもわからなかった。心が追いつかないって、きっとこういうことをいうんだと、僕はある種冷静に、そんな自分を見ていた。
「そうか……」
黒沢さんはそんな僕と小倉さんを見ると、黙り込んでしまった。急に黙られると、こっちが不安になるんだ。やめてくれよと思ったけど、結局彼は十時になるまで、一人で何か考えるようにして座り込んでいた。
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