揺らめき .1
朝。山の中特有の静かな寒さで目が覚めた。朝方は冷えるとよくいうが、この部屋の暖房も完全にはそれに打ち勝てなかったみたいだ。上と下が貼りついたみたいな瞼を無理やりこじ開け、目がくらむのをこらえて周りを見回す。カーテンの隙間からは白い日の光が差し込んでいた。どうやら雪は止んでいるようだ。掛け布団をかけなおし、まだはっきりしない頭で携帯を開く。いつものようにSNSを見ると、価値のない無数の情報で溢れていた。あくびを噛み殺しながら、それらを脳に流し込んでいく。もうこれだけで一日何かをしたような気になっちゃうんだから、まいったもんだよね。これは明確に現代人のよくないところだと思うけど、基本、僕たちは何をするにしても常に携帯と一緒なんだ。寝るときも食事中も、トイレだってそうだ。携帯が半径五メートル以内にないとそれだけでたちまちパニックになっちまうし、自分が何者かだってわからなくなっちゃうんだよ。ほんとの話。
ようやく意識が覚醒しだしたところで時刻を確認すると、七時十五分だった。大学生にしては早い起床だ。でも昨日のチェックイン時に朝食は七時半だと浅田さんに言われていたから、あまり余裕は残されていなかった。掛け布団を外して立ち上がる。服の隙間から伝わる冷気が身に染みた。動き出すまでがつらいんだよ。しばらくしたら案外平気になるんだけどさ。
朝のルーティンを終え、部屋着のまま部屋を出た。廊下には美味しそうな朝食のにおいが漂っていた。旅先でのこういう瞬間って、結構テンションが上がるんだ。赤と緑のカーペットの上を歩きながら、僕は一人で朝食のメニュー予想なんかをやったりした。
昨日より軋む音がでかいような気がする階段を降りると、ロビー奥の食堂には女子三人組や相川夫妻、それから黒沢さんがすでに席に座っていた。示し合わせたわけじゃないだろうが、自然とその配置は昨日の夕食の時のままだ。井波や坂本の姿はまだなかった。それはちょっとだけ意外なことだった。井波はともかく、坂本はこういう時しっかりと時間通りに来る人だからだ。相川夫妻に挨拶をして、席についた。二人ともそこまでぐっすりとは眠れなかったのか、それともその年齢故か、それなりに疲れた顔をしていた。特に千代さんの方は、あまり体調がよくなさそうだった。
「残るお二人が来たら料理をお持ちします」
テーブルそばに立っていた浅田さんが全員を見回して言った。なんだか申し訳ない気持ちになって、僕は軽く頭を下げた。真面目な人が損をするんだよ。この社会はね。「どうぞ、気にせず先に出してください」と言ってみても、浅田さんは「いえ、お待ちします」と立っていた。そういう気づかいって、逆に心苦しかったりするんだよね。誰が悪いとかじゃないんだけどさ。いや、まず間違いなく、悪いのは遅れている二人なんだけど。
しかししばらく待ってみても、一向に二人は降りてこなかった。ざっと十分くらいは待ったはずだよ。さすがに僕は居心地が悪くなった。みんな忙しいだろうに、待たせてしまっているからだ。この時間まで降りてこないということは、そもそも起きていない可能性が高い。
「すみませんが高津様。お二人を起こしてきていただいてもよろしいですか」
早くしろよ、みたいな皆の空気を察してか、浅田さんはとうとう僕に言ってきた。僕としてもいたたまれない気持ちだったので、その提案はありがたかった。僕は何も悪くないのに、どうしてこんな思いをしなくてはならないのか。本当に、真面目な人が苦労するんだよ。おかしな話ね。
僕は謝罪の意味を込めてほかの人たちにもう一度頭を下げてから、二階の二人の部屋に行くことにした。ついさっき降りてきた階段を上りながら、僕はなんとなく嫌な予感を感じていた。これは未来にいる僕がその時のことを振り返っているからそう思うのかもしれないけど、確かにこの時の僕は、どこかそわそわした気持ちだったことを覚えている。単純に、みんなを待たせている焦燥感からだったかもしれないし、そんな二人に怒っていたのかもしれない。でも僕はとにかく、少し速足で階段を駆け上がったんだ。
まず井波から起こすことにした。部屋の前に立って扉を叩く。起きているならこれで出るはずだが、一向に扉が開かれる気配はなかった。ドアノブに手をかけたが、中からカギがかけられていて開けられない。僕はため息をついて、もう一度強めにドアをノックした。
「起きろ康介! 朝ごはんの時間だぞ」
何度もばんばんとドアを叩いていたら、ようやく錠が外れる音がして扉が開いた。目をこすった井波がうんざりした様子で出てくる。うんざりなのはこっちの方だった。
「なんだよ順平。まだ早朝じゃないか。こんな時間に起きるのは鳩か鶏くらいのものだよ」
「馬鹿。朝食の時間だよ。忘れたのか」
「は? 朝食?」
寝ぼけていた井波は、しばらくその言葉を口の中で転がすと、ぱちぱちと目をしばたかせた。どうやらようやく自分が寝坊したことに気づいたみたいだった。「やばい、早くいかないと」と歩き出した井波が、突然「うっ」と顔をしかめる。
「どうした?」
「なんか頭が痛い」
「おいおい、風邪か?」
僕は結構真面目に彼を心配した。今朝はかなり寒かったし、寝相で掛け布団が剥がれたりしていたら、風邪をひいてもおかしくない環境だったからだ。でも井波はばつが悪そうに顔をしかめると「いや、たぶん二日酔い」と苦笑した。
「あのなあ……」
僕はいよいよ呆れてしまった。昨日冷蔵庫の中の酒のことを教えなければよかったと後悔したくらいだ。でも寝込んでいないといけないほどのものではなかったらしく、井波は扉を閉めて僕の横に並んだ。
「じゃあ降りようか。みんなを待たせちゃまずい」
「いや、実はお前のほかに、もう一人間抜けな奴がいる」
「まさか! 誰のことだい?」
自分以外に同類がいたのが嬉しかったのか、井波はちょっとだけテンションが上がったような声を出した。困ったやつなんだ。ほんとに。「坂本だよ」と言うと、井波は目を丸くした。
「香織が? ほんとに?」
「ああ。だからこうして僕が起こしにいくことになった」
それから僕と井波は坂本の部屋の前に立った。改めて言うけど、この時の僕は本当になんとなく嫌な予感がしていたんだ。
「気が進まないな」
ぽつりとこぼした僕に、井波は「そうだね」と同意した。彼もそんな気配を感じていたのか、それとも単に坂本の機嫌が悪かったらどうしようという意味なのか。それを図ることは、この時の僕にはできなかった。とんとん、と井波が彼女の部屋の扉を軽く叩く。
「香織。いつまで寝てるんだい。朝食の時間だよ」
まるで自分はしっかり定時に起きてました、みたいな口調で井波が言った。僕はツッコむ気にもならずに、無言のままドアの前でそれが開かれるのを待った。しかし、いつまでたっても返事がない。ちょっと強めに叩いても、中で人が寝返りを打つ気配すらなかった。
「まさかな……」
僕はじわっとした不快感を胸に、ドアノブに手をかけた。自分でもどうしてこんなに緊張しているのかわからないくらい、べっとりと手汗がにじむのを感じた。恐る恐るドアノブをひねる。すると先ほどの井波の時とは違い、その扉は錠に阻まれることなくゆっくりと開いた。
「入るぞ、坂も――――」
ドアが開かれ、部屋の中が次第に明らかになっていく。その光景は、まるで舞台の幕が開くみたいに、ゆっくりしたものに感じられた。
「う、うわあああああああああ」
その瞬間、自分のものか井波のものか、それすらもわからないくらい大きな悲鳴が建物中に響き渡った。坂本は、ベッドに仰向けになるようにして死んでいた。苦しそうなその目は、いくら乾こうとも瞬きすることなく永遠に見開かれている。僕はしばらくの間、何も言えず立ち尽くしていた。……凪だ、と思った。風のない砂浜に、真っ青な海が波一つ立つことなく静かに存在している、そんな光景が頭に浮かんだ。目に入ってくる情報が処理できなくて、思考が止まり、それ故にどこか冷静にその光景を眺めていた。だらんと垂れた手足が、ベッドから投げ出されるようにして伸びている。それはどこからどう見ても人間ではなく、モノだった。友達のことをこんな風に言うのはどうかとも思うけど、でも本当に、僕にはそれが血の通っていないただの物体に見えたんだ。
どれくらいの時間、そこに立ち尽くしていたのだろう。数秒だったかもしれないし、もっと長かったかもしれない。僕は急にはっとなって、下にいるほかの人たちに伝えに行くことにした。井波は腰が抜けてしまったのか、その場で床に座り込んでしまっていた。
「ここで待ってて。今みんなを呼んでくるから」
井波にそう言い残し、僕は廊下を駆け足でいった。途中、足がもつれて転びそうになったが、何とか階段までたどり着く。たった数メートルのはずの距離が、やけに遠く感じた。
階段を降りると、さっきの悲鳴が聞こえたのか、みんな僕の方を見て、怪訝そうな表情を浮かべていた。
「どうしました?」
浅田さんが一番に尋ねてきた。僕はなんといえばいいのかわからず「坂本が死にました」とただ事実だけを言った。それはあまりに心無い言い方だと思われるかもしれないけど、この時の僕にはそれが限界だった。事細かに、あらゆることに配慮した説明をする余裕なんてなかったんだよ。
言葉にならないような、息をのむ音だけが食堂に響いた。呼吸って音が鳴るんだな、と僕は場違いにもそんなことを思った。
「とりあえず見に行きましょう」
騒然とする中、浅田さんの指示に従ってみんなで坂本の部屋まで行くことになった。千代さんなんかはもう完全に取り乱してしまって、ショックで死んじゃうんじゃないかと思うくらい荒い息をして口元を抑えていた。でもみんながみんなそうというわけじゃなくて、中には半信半疑という目を僕に向けてくる人もいた。桐原さんや米山さんだ。彼女たちは露骨に僕を疑っているみたいだった。でもまあ無理もないだろう。冗談にしては趣味が悪すぎるけれど、世の中にはこういう冗談を言う人がたまにいるんだから。僕だって、あまり知らない人が急にそんなことを言い出したら、信じないかもしれない。でもそうはいっても、信じていようが信じていなかろうが、全員がそれを見てしまえば、それは事実として受け入れられるんだ。
坂本の部屋の前に行くと、井波は僕が離れた時と全く同じ場所で固まっていた。完全に放心したように、へたりと地面に座り込んでいる。
「中に入りましょう」
井波を避けるようにして、黒沢さんが言った。僕はこのとき、やっぱりこの人のことを好きになれないと感じた。というのも、彼はどこかテンションが上がったような表情をしているように僕には感じられたからだ。ミステリーの読みすぎで、人の死をエンタメかなんかと勘違いしちゃってるんだよ。馬鹿みたいだろう。こいつには人の心ってものがないんだ。大体からして、探偵に憧れるような人間にろくなやつはいない。みんなカスばかりだ。ああそうさ。認めよう。この時の僕は気が立っていたんだ。人の表情や言葉の一つ一つを、悪い意味でとってしまうくらいにね。
全員で坂本のベッドを囲むようにして部屋の中に立った。そこまで大きい部屋じゃないから、九人も入ると結構ぎゅうぎゅうだった。坂本の死体は、さっき見た時のまま、そのままそこにあった。推理小説みたいに死体が消えている、なんてこともなかった。
「触らないで」黒沢さんが言う。「警察に電話します」
黒沢さんはドアの近くに歩いていくと、あの忌々しい黒いコートのポケットから携帯を取り出して耳元にあてた。
「――もしもし、警察ですか? 事件です。――ええ、はい。死体が見つかって」
それから、彼はある程度の情報を伝えると、「えっ、どうにかならないんですか?」と焦ったような声を上げた。僕らは気が気じゃなかった。誰かが警察と電話しているときにそんな反応をされたら、誰だって不安になるはずだよ。しばらくして彼は「――はい。はい……」とため息をついて電話を切った。
「どうなさいました?」
心配そうに見つめる浅田さんを、黒沢さんは見つめ返す。
「まさか警察が来ないとか?」
桐原さんと米山さんも不安げに尋ねると、彼は携帯をポケットにしまいながら言った。
「安心してください。警察はちゃんと来ます。ただこの雪のせいで駆けつけられるのは地元の警察官一人らしくて。本署からの到着は明日以降になるみたいです」
それを聞いた僕らは、何も言えず立ち尽くした。この状況で警察が来てくれるというのをありがたいと思うのか、それともたった一人じゃ不安だと捉えるのかは、各々違うみたいだった。みんなそれぞれ異なる表情を浮かべている。僕は一応、警察という立場の人間が一人でもいてくれることに、安心したタイプだった。
「警察の方が到着するまで、現場をこのまま保つ必要があります」
黒沢さんが言った。
「三人一組くらいで、交代で見張りましょう。仲間をかばう可能性があるので、夫婦や友達など、同じグループの人だけにならないように」
まるで本当の探偵みたいに、彼は指示していた。実際、全員でこの部屋にとどまり続けるというわけにもいかないし、それは結構合理的な提案に思えた。
「じゃあ、誰から見張りましょうか」
浅田さんが全員を見回した時だった。
「私もう無理」
精神が限界に来たように、目に涙を浮かべた千代さんが部屋から飛び出していこうとした。
「どこに行くんですか?」
黒沢さんが疑うような目を向ける。千代さんはもう限界とばかりに金切り声みたいな、耳がキンとする声を上げた。
「自分の部屋よ!」
「それは困ります。あなたも容疑者の一人なのですから」
あくまで冷静に、淡々と黒沢さんは言う。そんな彼を、今度は浅田さんが止めた。
「いいですよ。相川様。ご気分がすぐれないのも無理ありません。お部屋でゆっくり休んでいてください」
「ですが……」
納得いかない様子の黒沢さんに、浅田さんは言う。
「改めてになりますが、このペンションにいる間は、みなさん家族だと私は思っています。ですので私としては、必要以上に疑い合いたくはありません。見張りに関しても、彼女以外でやればいいじゃないですか。そうすれば少なくとも彼女は現場には近づけません」
黒沢さんは少しだけ考えて、それから無理やり納得したように腕を組んだ。
「では千代さん以外の三人で、三十分おきに交代という形にしましょう。まずは私と井波さん、それから桐原さんでどうですか?」
井波と桐原さんが、別に構わないという風に頷く。時間がたったからか、それとも自分以上に取り乱した人がいたからか、井波は少しずつ冷静さを取り戻しているみたいだった。
「それ以外の方々は朝食をとったり、お部屋で自由にしていただいて構いません」
みんながみんな、お互いを見つめ合った。まだ他殺と完全に決まったわけではないけれど、この中に犯人がいる、と全員考えているみたいだった。
一刻も早く坂本の部屋から出ていこうとしている千代さんに、浅田さんが尋ねる。
「朝食はいかがなさいましょう?」
「いらないわよ!」
彼女は吐き捨てるように叫ぶと、そのまま自室へ戻っていってしまった。
「では三十分後、次は誰が?」
その背中を心配そうに見守った響さんが、黒沢さんに尋ねた。
「どなたでも構いませんよ」
「では私のほかに、高津くんと小倉さんでどうかな?」
響さんは、僕と小倉さんを交互に見た。僕としては友達が死んだ現場にいるなんて嫌だったけど、それはたぶんみんな同じだろうと思ったので断ることはできなかった。
井波と桐原さん、それから黒沢さんの三人を残して、僕たちも食堂へ戻ることにした。
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