冬の日 .9

 部屋に戻ると、なんだか急に静かになったような気がした。さっきまで音で麻痺してた鼓膜が少しずつ感覚を取り戻していくような、そんな感じがする。ベッドに腰かけ、足を組む。なんとなく落ち着かなかった。旅先の部屋で一人でいるのって、不思議とそわそわするんだ。それで足元には今日のスキーウェアやらなんやらが散らかっているもんだから、僕は柄にもなく掃除を始めることにした。大抵、ホテルなんかじゃ脱いだ服を脱ぎっぱなしにしたりしてるんだけど、今はそれくらいしかやることがなかったからさ。


 結局、十五分ほどで荷物の整理は終わった。いくら何でもちょっと時間がかかりすぎじゃないかいと思われるかもしれないけど、なぜか服とかが袋に入らなかったから、改めてたたみなおすことになったんだ。旅行の荷物って、行くときはちゃんと大人しく入ってたはずなのに、帰りになると入らなくなるんだよ。絶対に体積が増えてるんだ。不思議な話だけどさ。


 携帯で時間を見ると十二時近くになっていたので、そろそろ寝ようかとベッドに寝転んだ。もうこのまま目を閉じればいつでも眠れる。そんな気がした。でもどうしてかこういう時に限って、トイレに行きたくなっちゃうもんなんだよね。僕は寝転がったまま逡巡した。起き上がるのが億劫だったんだ。なにせ今日は慣れないスノボもやったしね。もうくたくたではあった。みんなと別れてから、それがどっと押し寄せてきたんだ。だからこのまま朝まで寝てしまおうかとも思ったんだけど、山の朝は寒いと聞くし、もしこの歳でおねしょなんかしたらそれこそ一生の恥になりそうだったから、鉛みたいな体を何とか起こして僕はトイレに行くことにした。


 部屋の扉を開けると、廊下の一番奥、階段を降りようとしている浅田さんが見えた。基本的に彼は一階にいるという話だったから、誰かに用でもあったのかもしれない。声をかけようかとも思ったけどやめておいた。特に話すことも思い浮かばなかったからね。


 浅田さんの後を追うように階段を降りる。驚くべきことに、黒沢さんはまだそこで読書していた。よほどその本が面白いのか、それともそれが彼にとっての日常なのか。それを知るには、まだ僕は彼のことを知らなすぎた。周りを見渡してみると、ロビーにも食堂にも、彼以外の姿はなかった。今降りていった浅田さんもいない。おそらく自室に戻ったのだろうと僕は思った。


 エントランスから外に出ると、雪はどんどん強まっているみたいだった。この調子だと、明日滑りに行くのは無理かもしれない。左手にある小さな小屋へ僕は向かった。たった数秒のうちに、降りしきる雪が頭やら肩やらに積もっていく。でも僕は気にしないようにして歩いた。だって、わざわざトイレに行くのに傘を持っていくのも馬鹿らしいじゃないか。寒さに身を震わせながら、用を足した。トイレが家の中にあるのが当たり前の時代に生まれてよかったと心底思う。それが僕の人生における一番の幸福かもしれないね。そう考えると、昔の人たちはすごいと僕は思った。ちなみに、誰も気にならないだろうけど一応教えておくと、トイレは水洗だったよ。ぼっとんかとも思ったんだけどさ。ちゃんと凍らないように工夫もされてるみたいなんだ。そんなところに、僕はびっくりしちゃったわけだよ。


 それから、僕は部屋に戻った。早く寝たかったんだ。とにかく疲れていたからさ。電気を消して、ベッドに横になった。心地いい柔らかさが全身を受け止めてくれる。やっぱり人間は布団かベッドで寝るべきなんだ、と思う。あんなくそ狭いバスの座席なんかじゃなくてね。


 目を閉じたらすぐに寝れると思ってたんだけど、どうしてかなかなか寝付けなかった。どうしようもなく疲れてる時って、逆に眠れなかったりするんだよ。寝るのにも体力がいるんだね。それで僕は、今日の出来事をなんとなく思い出した。別に自分から思い出そうとしたわけじゃない。こういうのって、勝手に浮かんできちゃうんだよ。特に布団の中にいるときなんかはさ。不思議と、あのおとなしそうな女の子の顔が頭に浮かぶ。小倉さんだ。どうして彼女はあの二人と一緒にいるのだろう。そんなことを考えた。つまりだね、もっと自分と近しい性格の人と一緒にいた方が楽なんじゃないかと僕なんかは思うわけさ。僕と井波や坂本みたいにね。でも桐原さんと仲良くしゃべっていたみたいだし、別に人の交友関係にとやかくいう筋合いも僕にはなかったから、不思議と頭に浮かぶ彼女の顔を見ながら僕は目を閉じていたんだ。そんなこんなでそろそろ眠れそう、という時だった。急に隣の部屋から、誰かの怒鳴り声みたいなものが聞こえた。いかんせんうとうとしていたもんだから、僕はびっくりして飛び起きた。電気をつけてあたりを確認する。時刻は十二時半だった。


 怒鳴り声の正体を推理するのは難しいことではなかった。大体からして、僕はこの声を今日すでに何度か聞いていた。坂本だ。彼女の怒鳴り声はよく響く。もうオペラ歌手にでもなった方がいいんじゃないかと思うくらい響くんだ。脳の中までね。ずっと聞いてると、多分頭がおかしくなっちゃうんじゃないかな。


 声の主が彼女なのはいいとして、問題は喧嘩の相手が誰なのかということだった。当然喧嘩は一人ではできないし、いくら坂本といえど一人でこんな声を上げるほど頭がおかしくなってはいない。だけどその相手の声はあまりよく聞こえなかった。一緒に彼女の部屋に入っていた桐原なんじゃないかと思ったけど、それも一時間近く前のことだし、確証は持てなかった。今になって思えば、確かめに行くべきだったのだろうか。でも僕は、さすがにこの状態の彼女に会いに行きたくはなかった。


 その喧嘩は十分くらい続いた。もううんざりして、さすがに文句を言いに行こうかと思ったところで、いつの間にか止んでいた。始まる瞬間は覚えていても、終わる瞬間って覚えてなかったりするんだ。僕はもう一度布団にもぐろうとしたら、部屋のドアが叩かれた。もしかして坂本なんじゃないかと思って無視して寝たふりを決め込もうと思ったんだけど、それはそれで明日が面倒になりそうだったので、僕は渋々鍵を外しドアを開けた。


「ちょっといい?」


 そこに立っていたのは、井波だった。想像していた人物と違ったが、坂本じゃないことに安心して部屋に入れる。井波は部屋をぐるりと見まわすと、「ちゃんと整理してるんだ」と感心した様子で言った。


「ちょうどさっき掃除したんだよ」


「順平が? 珍しいね」


「実は自分でも驚いてる」


 井波はベッドに腰かけ、僕は電話の乗ったミニテーブル近くの椅子に座った。椅子って結構ものによって座り心地が違うと思うんだけど、これは結構硬い椅子だった。


「で、なんの用だ?」


「いや、なかなか眠れなくて。そしたら香織がすごい勢いで喧嘩してたから、この苦しみを順平と分け合おうと思ってさ」


 苦笑しながら井波が言う。不幸のおすそわけとは大胆なことだ。僕は呆れながら髪をかいた。


「別にいいけど、特にこの部屋でできることもないぞ」


 軽く会話するだけでも別によかったが、今これといってしゃべりたいこともない。坂本についてなら話すこともできたけど、今の怒声の後だとなんだか悪口っぽくなってしまいそうだったのでやめておいた。


「じゃあまたあのパズルゲームやろうよ」


 井波は携帯をいじりながら思いついたように言った。


「いいけど、やめたんじゃなかった?」


「またダウンロードすればいい」


 それから、僕と井波はあのひどくつまらないアプリを一緒にやった。久しぶりだというのに、井波は結構うまかった。


「そういえば、冷蔵庫にあるお酒、自由に飲んでいいらしいぞ」


 画面に映る聖騎士みたいなモンスターを倒しながら、僕は言った。


「ほんとに? 嘘じゃないだろうね」


「嘘じゃないよ。というか、ここで嘘をつく意味もないだろ」


「そりゃそうだ」と井波は言う。パズルに必死なのか、視線は画面から離れていない。


「追加料金とかもないらしい。浅田さんが言ってた。でもあまり飲みすぎるなよ」


「わかってるよ」


 こうして話していると大人しめの印象を受ける井波だが、実はあまり酒癖がいい方ではなかった。普段楽しく飲む分には別に問題ないんだけど、何かにイライラしていたりすると途端に制御がきかなくなる。苛立ちを酒で流し込もうとするのか、どうも飲みすぎてしまうんだ。そうやってつぶれた彼を、僕はこれまで何度か目にしている。


「楽しかったよ」


 アプリを落として、井波は笑う。携帯で時間を見ると、一時十五分くらいになっていた。知らぬ間にずいぶん熱中していたみたいだ。このゲームをやっていると、とにかく時間が無駄になってしまう。


「久しぶりにやるといいもんだね」


「またやろう」


 井波はベッドから立ち上がると、「おやすみ」と言って部屋を出ていった。これはゲームに限った話ではないけど、一度飽きてやめたものでも久しぶりにやると結構楽しかったりするんだ。そうして復帰してはやめ、復帰してはやめを繰り返しているものを僕は数えきれないほど持っている。まあとにかく、僕にとってもこの時間は結構悪くないものだったね。


 部屋の電気を消して横になった。瞼を閉じたら、今度はすんなりと眠ることができた。眠りに落ちる瞬間って、頭がぐわんって後ろに引っ張られる感じがするんだ。そしてそれに無理に抗おうとすると、頭の中でパンって何かが破裂するような音が響くんだけど、そんな感覚的な話をしたところで、誰も共感なんかしてくれないだろうね。「疲れたな」とつぶやいて、僕の意識は暗闇の中へと落ちていった。

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