冬の日 .8
温泉を出てエントランスの扉を開けると、ロビーで女子三人組がソファに座ってしゃべっていた。相川夫妻もすでに夕食を食べ終わったのか、食堂の方を覗いたがそこには誰もいなかった。結局僕も四十五分くらい温泉に浸かっていたから、当然といえば当然だ。夕食を食べ始めてから二時間以上たっているし、もしまだ食べているような人がいたら、それはもう牛かコアラの類だろう。まだ若干濡れた髪を首にかけたタオルで拭いて、壁に掛けられた風景画を改めて見た。なるほど、黒沢さんが言っていたように、確かに調和がとれている。左右対称というわけではないんだけど、絵の右側と左側で重さがつり合っているような感じがするんだ。これはもう感覚の問題で、言葉で説明することはできないけど、どこかちょっとだけ木の枝を長くしたりしたらたちまちこのバランスが崩れてしまいそうな、そんな感じがした。
「でさ、見てこの写真」
暖炉の前のソファでは、真ん中に座った金髪ギャルが左右に座る二人に携帯の画面を見せていた。
「この前彼氏と韓国行ったときのやつ」
その時のことを思いだしているのだろう。金髪の子はそれはそれは楽しそうにしゃべっていた。その脇の二人もそんな彼女の話を遮ることなく聞いている。女の子たちって、基本的にこんな話ばかりしているんだ。生活の中心に恋愛があって、誰の彼氏が一番素晴らしいか、そんなことでマウントを取り合っている。つまりさ、こんな僕みたいに壁に掛けられた絵なんか見てあれこれ思ったりすることもないんだ。もし僕が彼女たちに近づいて、「ねえ、ここの雲の色をもう少し明るくしたらどうなるかな」なんて言ったらさ、彼女たちは不審者を見るような目を僕に向けてくると思うよ。賭けてもいい。でも別にそれは悪いことじゃないんだ。インテリの人たちは彼女たちを馬鹿にするけど、僕からしたらどっちもどっちだと思うね。むしろ彼女たちみたいな人間の方が、自分の人生との距離が近いんじゃないかな。批評家気取りで俯瞰してる人間よりかはさ。
でも僕は、やっぱりちょっとだけ、この絵について話したい気分になっていた。影響されやすいんだよ。もし黒沢さんが絵画じゃなくて暖炉のデザインについて話していたら、きっと僕は暖炉のデザインについて誰かと意見を交わしあいたい気分になっていたんじゃないかな。とはいえ、まさか彼女たちにいきなり話しかけるわけにもいかない。僕は井波と坂本に携帯で連絡を入れた。
井波たちは、ものの五分もしないうちにロビーに来てくれた。暇人なんだ。二人とも。たとえ僕が「今すぐアメリカに来てほしい」って言っても、彼らは来てくれるんだよ。ありがたいことにね。坂本はちょっと不機嫌そうだったけど、悪いのは僕だから仕方ない。
「なんの用?」
「暇だから話そうと思ってさ」
暖炉の前にあった一人がけの椅子にそれぞれ腰を下ろす。
「わざわざ長野まで来てくだらないパズルゲームなんかやりたくないだろ」
「え、あのゲームまだやってたんだ」
井波は驚いた顔をしていた。彼はすでに一年前くらいにやめている。言っただろう。つまらないゲームなんだ。年がら年中期間限定イベントをやっているようなさ。でもこういう言い方をされると、自分だけ過去に置いてかれてるような気がして悲しくなっちゃうよね。
その時、女子三人組がまた馬鹿みたいにでかい笑い声をあげた。女子三人と言っても、大体は金髪と黒髪ボブの二人なんだけどさ。黒髪ロングの大人しめの子は、控えめに笑っている。そこら辺のバランス感覚が上手い子なんだろう。こういう時、一緒に大声を出すのは恥ずかしいけど、かといって全く笑わないのもそれはそれで角が立つ。大変なんだよ。集団の中で生きていくっていうのはさ。
「夕飯の時も思ったけど、うるさいわね。あの人たち」
坂本がちらりとそちらを見て言う。僕らはそれを聞き流した。井波も僕も知っているのだ。だいたい坂本のこの手の話題を拾ってしまうと、話しているうちにどんどん一人でエスカレートしていく。
「それで、なんの話する?」
井波が僕に視線を向けてくる。言外に、お前が呼び出したんだから何とかしろ、と言われている気がした。
「あの絵について話したい」
壁にかかった風景画を僕は指さす。井波も坂本も、まるで今初めてその絵の存在に気づいた、という風に顔をそちらに向けた。
「あの絵のどこがいいと思う?」
「はあ?」
坂本はわけがわからない、といった風に額に手を当てる。彼女からしたら、話題に困った僕が適当に目に入った絵を指さしただけのように見えたんだろう。実際、そう思われても仕方ない突拍子のなさではあった。でも僕は最初からこの絵について話したくて彼女たちを呼び出したのだ。問題は、僕が絵について誰かと話したことというのが、絶望的に少ないことだった。最後に美術館に行ったのだって何年も前のことだし、その時だって訳知り顔で腕を組んで、ただ作品を眺めていたにすぎない。
「そりゃあ、実在する風景っぽいところじゃないの?」
それでも坂本は、一応ちゃんと答えてくれた。不審者を見るような目を向けてくることもなく。そこがこの二人のいいところなんだ。大学生なんて、酒とたばことギャンブルと、それからセックスのことくらいしか話題がないのが一般的だけど、この二人は違う。だいたい、今あげたような話ってつまらないんだ。人間の表面を滑ってるだけというか、中身にまで入っていかないだろう。本人たちはなんとなく笑ってるけど、心の底から笑えてるわけじゃないんじゃないかな。
「写実的だからか」
「僕は使われてる色の問題だと思うな。落ち着いた色ばかり使われてるから、どことなく懐かしさを感じるんじゃない?」
じっと絵を見つめながら、井波は続ける。
「水面にも木々にも風を感じないし、なんか全体的にひっそり佇んでるんだよね。動じゃなくて静っていうか、荒々しさがなくてどことなく希望を感じるような、そんな気がする」
「なるほど。確かに風は感じないな」
それは結構新鮮な会話だった。他人とこういう話をすることは少ない。自分の芸術的センスをさらけ出すようでなんだか恥ずかしいし、それこそインテリぶった感じがしてインチキくさくなっちゃうからだ。
「じゃあこの灰色の雲をもう少し明るい色にしたらどうなると思う?」
僕が聞くと、井波は「難しいな」と笑った。
「青空に灰色の雲が浮かんでるから、ちょうどいい曇りっぽさが出てるんだよね。これが真っ白な雲とかだったら、それこそ夏の空っぽくなっちゃうんじゃないかな。そうなると絵全体を明るくしないといけない感じがするし、もし雲の色だけを変えるなら、この木の影が今以上に暗く感じると思うよ」
「なるほどね」
「私知らなかった。井波が絵に詳しいなんて」
坂本が驚いたように言うと、井波は顔の前で手を振ってそれを否定した。
「いや、一切興味ないよ。この絵の存在にたった今気がついたくらいだからね。むしろ僕としては、順平が絵について聞いてきたことの方が驚きだね。何か気になることでもあったの?」
「いや、さっき温泉で黒沢さんに芸術論を語られてさ」
「なるほど。それで感化されたってわけね」
坂本がふふっと笑う。その言い方はなんとなく癪だったけど、事実なので何も言い返せなかった。
その時、ふいに背後から視線を感じた。不思議っちゃ不思議だけど、こういうのってなんとなく気づくんだ。たまに「第六感」なんて言う人もいるけど、さすがにそれはなくて、ただ単に視界に移る影かなんかに反応しているだけなんだと思う。僕が以前授業中、友達の背中を睨み続けた時には、彼は一切気づいていないみたいだったしね。野生の心を忘れた人間は、そういう点でどうしようもなく鈍感になっちゃってるんだ。今の僕だって、たぶん向き合って座っていた坂本の表情が変わらなければ、気づかなかったんじゃないかな。
振り返ると、女子三人組がちらちらとこちらを見ていた。話している内容までは聞こえないが、どうやら僕たちについて話しているらしい。気まずそうに下を向く黒髪ロングの子に、イケイケの二人が面白がるように話しかけていた。
「なんなの、あいつら」
どうやらそれが気に入らなかったらしい。坂本はがたっと席を立つと、彼女たちが座るソファの方へすたすたと歩いて行った。だから僕と井波も、それについていくしかなかった。
「はじめまして」
坂本は意外にも、いきなり怒鳴り込む、みたいなことはしなかった。作り物の笑みを顔にくっつけて、彼女たちに話しかけた。その笑顔は、それなりによくできていた。彼女のことをよく知らない人からしたら、優しそうな人に見えるかもしれない。だけど僕と井波は、正直、あまりいい予感はしなかった。その笑顔が般若みたいに変わるところを、これまで幾度となく見てきているからだ。
「……? はじめまして」
女の子たちは、いきなり話しかけられるとは思っていなかったのか、少し狼狽えた様子だった。自然と、僕らが座ったままの彼女たちを見下ろす形になる。
「私、坂本香織って言います。――ほら、あんたたちも」
彼女はそう言うと、いつ爆発するかもわからない時限爆弾みたいな笑みをこちらに向けてきた。たまったもんじゃない、と僕は内心震えあがった。怒った女性って怖いんだよ。何をされるかわかったもんじゃない。綺麗な薔薇には棘がある、とはよく言うけれど、棘くらいならまだマシだ。実際のところ、彼女たちは刃物なんだよ。握ったら指ごとスパっと切断されるくらいのね。多少圧に負けるようにして、僕と井波も順番に名乗った。
それに対して、まず最初に答えたのは金髪のギャルだった。
「私は、桐原恵です」
思ったよりも落ち着いたしゃべり方だったので、僕は驚いた。なんとなく、こういう子たちって敬語が使えないと思ってたんだ。一人称が「あーし」とか「うち」とか、そんな感じの。でも彼女のしゃべり方は少しも馬鹿っぽいところがなくて、それなりに知的な印象を受けた。もしかしたら僕が分からなかっただけで、彼女たちは笑顔で威嚇しあっていたのかもしれないね。
「小倉桃花です。よろしくお願いします」
大人しそうな子がそれに続く。彼女は坂本から発せられる覇気を察したのか、少し怯えた様子で坂本を見上げていた。坂本はそれに対して無言のまま、ただにっこりと頷いた。いちいち怖いんだよ、この人は。現に一瞬にしてマウンティングが成立し、小倉さんと名乗った彼女は浦島太郎に救われる前の亀みたいに首をすくめている。
ただそれとは対照的に、もう一人の女の子の方は一切屈していないみたいだった。
「なんで名乗らないといけないわけ?」黒髪ボブの子が腕を組む。
「だいたい、なんの用なのよ?」
「あなたたちとお友達になりたいと思って」
「は? 私は別にあんたと友達になんかなりたくないけど」
「喧嘩はやめてよ……」
なんとなく空気がピリピリしてきたのを感じて、僕と井波は震えていた。こうなると男は無力なんだ。いや、むしろ女の前で男が無力じゃないことの方が珍しいんじゃないかとは思うけどさ。
「この子は米山莉月です」
なかなか名乗らない彼女に代わって、金髪ギャルの桐原さんが名乗った。それに対しても米山さんは不満だったみたいだけど、軽く睨むだけで何も言わなかった。
「それで坂本さん、本当に、なんの用かしら」
立ち上がり、胸を張った桐原さんが坂本と見合う。二人とも笑顔なんだけど、そこには確かな緊張感があった。
「それはこっちのセリフよ。なんなの? あなたたち」
「というと?」
「さっきからこっちをちらちら見てきてたじゃない」
「見てないわよ。自意識過剰なんじゃないの?」
ふっと鼻で笑うように米山さんが言う。「まずくね?」と井波と視線を交わすも、特に何か行動を起こせるわけでもなく、地蔵みたいに固まることしかできなかった。情けないよね。状況が悪化していくのをただ眺めてることしかできないんだから。でもこういうやり取りをこっそりしてる時って、ちょっと楽しいんだ。不謹慎だけどさ。
「見てたわよ。ああいうの、すごく不快なんだけどやめてくれる?」
「だから見てないって。男二人にちやほやされて、勘違いしちゃってんじゃないの」
米山さんのその一言で、坂本は我慢できなくなったようだった。貼り付けていた笑顔の仮面が、べらりと剥がれ落ちる。その下からは、鬼の形相が顔をのぞかせた。ちやほや? 冗談じゃないよ。僕から言わせてもらえば、こんな恐ろしい人間をちやほやするなんて一流のホストでも難しいんじゃないかな。
「はあ? あんたねえ」
その時だった。階段の方から足音がして、僕たちはそちらを振り返った。多少板を軋ませながら降りてきたのは、黒沢さんだった。彼は今にもつかみかかりそうな坂本と米山さんを交互に一瞥すると、そのまま何事もなかったかのようにそばにあった一人がけの椅子に腰を下ろした。普通、この状況に出くわしたら気まずくてとてもじゃないが居座れないと思うんだけど、あろうことか彼はまたあのコートのポケットから文庫本を取り出してそれを読み始めた。たぶん活字の読みすぎで頭がおかしくなっちゃったんだ。銃撃戦が繰り広げられる戦場の中心地にいたとしても、こうして座って読書を始めるんじゃないかな。
「ただの冗談じゃない」
怒った坂本に対して、桐原さんも煽るようなことを言う。
「今ので怒るってことは図星なのかしら、坂本さん」
「はあ?」
怒ってる人を煽るのってなんとなく楽しいんだ。それはなんとなく僕もわかる。怒っている人って滑稽だし、自分が冷静でいられているように感じられて、優越感を覚えるんだ。でも大抵、そういう時って自分自身も冷静じゃないんだよね。だって本当に冷静な人は、そんなことをしたって状況が悪化するだけだって、ちゃんとわかるはずなんだから。
「違うわ。むしろすぐそうやって恋愛に結びつけようとするのは、あなたたちが猿のまま進化していないからなのかしら。年がら年中盛ってるのね、かわいそうに。理性よりも本能の方に支配されてるんだわ」
「はあ? 盛ってるのはそっちでしょう? 男二人を侍らせて、3Pでもしてるの? 汚らわしい」
「近寄らないで」と米山さんがシッシッと体の前で手を払う。僕と井波は「お、落ち着いて」とわたわたすることしかできなかった。こういう時、男は無力なんだ。本当に、情けない話だけどさ。
「いいわ。まあ仮に私たちが3Pをしていたとしましょう」
「おいおい」とツッコむ僕と井波を無視して、坂本は続ける。もう僕らのことなんか見えてないんだ。言っただろう。女の子っていうのは、怒りながら自分でヒートアップしていっちゃうものなんだよ。平気で過去のことを掘り返してきたりしてさ。どんどんイライラを増大させていく。しまいにはそもそもなんで自分が怒り出したのかわからなくなっちゃってるんじゃないかな。ダチョウみたいにさ。
「あなたたちは年中盛ってるくせに一緒に旅行に行く男もろくにいないの? 女だけで固まっちゃって。哀れね」
少なくとも桐原さんの方は彼氏いるし、なんならこの間韓国に行ったらしいよ、なんてとてもじゃないが言える空気ではなく、僕は黙って聞いていた。第一、そんなことを言ったらさっきの会話を僕が盗み聞きしていたみたいになるじゃないか。ただ彼女たちの声がでかかっただけなのにさ。
それからは、ここに書くのもためらわれるくらい見苦しい喧嘩が三十分近く続いた。「ちょっと落ち着いたらどうだい」と黒沢さんが一度声をかけたが、三人はほとんど聞く耳を持たなかった。女の子たちのうち唯一小倉さんだけが居心地悪そうにしていて、僕はちょっと同情しちゃったくらいだ。「なんか、すみません」と泣きそうになりながら僕や井波に謝ってきて、僕や井波の方こそ申し訳なくなっちゃったよ。
結局、十時になったころ、ずっとキッチンで作業をしていた浅田さんが気づいてロビーまで出てきてくれた。ちょうど女湯に切り替わる時間だったから、坂本は温泉へと向かい、女の子たち三人は自室に戻っていった。僕と井波が黒沢さんや浅田さんに謝ると、二人とも「大変だね」と笑ってくれた。僕としては、結局喧嘩中もほとんど意に介さず読書を続けていた黒沢さんの方が異常に思えたけどね。
それから浅田さんにすすめられて、僕と井波は食堂にあったテレビを見ることにした。テレビをつけると、東京じゃ見ないような地方ならではの天気予報がやっていた。それによると、どうやら雪はこの後さらに強まるらしい。交通状況に対する懸念を、キャスターが述べていた。
「ほかに面白い番組ないのか?」
僕が聞くと、井波がぽちぽちとリモコンをいじってチャンネルを変える。よくわからないドキュメンタリーやニュース番組ばかりの中、見たことのあるバラエティの再放送がやっていたのでそれを見ることにした。地元企業で働く人のリアルな生き様とか、ローカル線でのぶらり旅とか、そんなものを見たい気分では今はなかった。
「これでいい?」
「いいよ」
僕も井波も、しばらく黙ったままそれを見ていた。女の子たちの喧嘩のせいで、仲良く話すなんて雰囲気じゃなかったんだ。なんとなくああいうのって、終わった後もその場に空気が残り続けるものなんだよ。その意味でバラエティ番組は少しだけ空疎に感じたけれど、むしろそれがちょうどいい気もしていた。
その番組では日本の芸人が海外のお祭りに参加する企画をやっていた。なぜか奇声を発しながらトマトを投げ合っている人々が映し出される。熟したものから硬いものまで、大量のトマトが床に散らばり、血だまりみたいに画面を真っ赤に染めていた。「お残しは許しまへんで」とか言ってる給食のおばちゃんが見たら、気を失って倒れてしまいそうな光景だ。
「うわ、痛そうだね」
井波は若干引いていた。まだ硬いトマトって、野球のボールみたいに硬いんだ。それが当たった人の額には、大きな痣ができている。もし野球をしたいのにボールがなかったら、その時は代わりにトマトを使うことをお勧めするよ。アントワネットじゃないけどさ。
「でもあれだけのトマトを無駄にして、大丈夫なのかな」
「豊作を願ったり祝ったりするイベントだからな。あえて捨てることで、また豊かな実りを得られるってこともあるんじゃないか」
実際、世の中にはそういう考え方がある。意味わかんないんだけどさ。宗教的な考え方なんだ。全部抱えるのは卑しいとか、謙虚さを保つとか、そういうやつ。ところで、君は今お金を持ってるよね? それを僕に渡せば、君は不浄から解放され、今後さらに君のもとにお金が入ってくるような気がするんだけど、どうかな。
――――三十分ほど、その特別面白くもない番組を見ていたら、階段から米山さんが降りてきた。どうやらお風呂に行くらしい。手には入浴道具を持っている。彼女たちは夕食前にも一度風呂に入っていたはずだから、僕は疑問に思った。
「あれ、また入るのかな、彼女」
「ああ、うん。別におかしなことじゃないんじゃない? 綺麗好きなのかもしれないし、温泉は何度でも入るのがマナーって考え方もあるから」
「へえ」
僕らはテレビから視線を外し、彼女の姿を見送った。問題は、今はまだ坂本が温泉に入っているということだった。つまり彼女たちは、お風呂でばったり鉢合わせ、ということになるわけだ。そんなの、熱いお湯も冷え切って凍りついてしまいそうだよね。そんな修羅場を想像して、僕はちょっと震えた。
「にしても、さっきの喧嘩は怖かったな」
僕が言うと、井波はテレビ画面を見ながら頷いた。ちょうど、芸人の顔面にどろどろのトマトがクリーンヒットしたところだった。
「でもまあ、これに比べたら平和なもんじゃない?」と井波は指さす。「あくまで口喧嘩だったわけだしさ」
「そうか?」と僕は首をひねった。あのまま浅田さんが出てこなかったりしたら、泥沼化して殴り合いになっていた可能性もなくはない。
「時間の問題だっただろ」
坂本の性格を考えたら、ありえないことではなかった。
「まあ、何事もなくてよかったよ」
それからまた、僕たちは無言でその奇妙な祭りを見ていた。
米山さんがお風呂に行ったから、坂本はすぐに出てくると思ったが、意外にも彼女は戻ってこなかった。番組の終盤、今度は桐原さんが降りてきた。彼女は僕たちを見て数秒固まった後、結局僕たちとは違う隣のテーブルの、テレビが見える位置に腰を下ろした。ロビーを見ると、いまだに黒沢さんは読書していた。メンタルがおかしいんだ。ここの人たちは。
「さっきは坂本がすみませんでした」
僕と井波はなんとなく謝った。彼女はそれを無視して携帯をいじっていた。これはダメだ、と井波と僕が肩をすくめると、彼女は携帯から一瞬だけ顔を上げた。
「別に。勘違いしないでほしいんだけど、私は謝るために降りてきたわけじゃないから」
どうやら彼女と僕たちの間には時差があるみたいだった。たった数メートルしか離れていないのに、返事が返ってくるまで何秒もかかるんだ。まいっちゃうよね。ほんとにさ。
「さっきまで一緒に話してた桃花が寝ちゃったから」
でも桐原さんは、そんなこと気にもしていないのか、そのまま話し続けた。
「桃花?」
一瞬、誰だっけ? となったが、あのおとなしそうな顔が思い浮かんだ。それとほぼ同時に、彼女が言いなおす。
「そう、桃花。小倉桃花」
「ああ」
「あの子いつも寝るの早いのよ。一人じゃないと寝れないしね」
だからこうして降りてきて、テレビでも見ようと思ったわけ、と彼女は言った。ちょうど時刻は十一時で、バラエティも終わったところだった。
「じゃあ、よければ好きなの見ますか?」
井波がリモコンを渡そうとする。しかし、彼女はそれを無視した。エントランスの扉から、ちょうど坂本が戻ってきたんだ。彼女がいるところでは桐原さんは話したくないのか、まるで僕らの存在なんてなかったみたいに、再び仏頂面で携帯に目をやっていた。女の子って大抵、こういう勘が鋭いんだ。もし君が家に帰ってきて、玄関の前で鍵を探してたら、彼女たちはすぐに気づいて中からドアを開けてくれるし、逆にもし君が何かやましいことがあってクローゼットの中に隠れたとしても、どういうわけかすぐにばれちゃうんだよ。何かしらのセンサーでもついてるんだ。女の子にはね。
坂本が食堂に座る僕たちに気づいて、こちらに歩いてくる。ちょうど千代さんが入浴道具を持って降りてきたので、僕たちは無言のまま彼女に会釈した。大丈夫だろうか。あの地獄の洗い場でショック死したりしないといいけど。
「大丈夫だった? 喧嘩したりしてないだろうな?」
「してないわよ。彼女、一度も私と目を合わせようとしなかったから」
僕の隣に腰を下ろし、まだ若干湿った髪をタオルで乾かす。
「てか何? なんで彼女ここにいるのよ」
井波はしばらくリモコンをいじった後、気に入るような番組がなかったのかテレビの電源を切った。そのせいで、たまたま小声で発せられた坂本の声がはっきりと耳に届く。もしかしたら桐原さんにも聞こえたんじゃないかと、僕は内心肝を冷やした。
「さあ、暇だからじゃない?」
坂本は「ふーん」とつまらなさそうに言うと、自分の爪を軽くいじりだした。女の子が退屈そうにしてるところって、不思議と圧があるよね。男としてはちょっと焦っちゃうんだ。まあ坂本が相手となると、僕らはさすがに何も感じないわけだけど。
「あんたたちはここで何してたの?」
「トマトの投げ合いを見てた」
「は?」
意味が分からない、という風に坂本は頭を抱えた。そりゃそうだろう。僕だって今の一時間、自分が何を見ていたのか頭でちゃんと理解できていたかと問われると自信がない。それでも僕と井波は適当に、さっきの番組の内容をかいつまんで彼女に話してみせた。もちろん、多少は面白くなるようそれなりに盛ったりして。しかし彼女は、くすりともしなかった。まあ元々がそこまで笑えるようなものじゃなかったし、ああいうバラエティの面白さって実際に見ないと伝わらないものではあるからね。
そんなこんなで適当にしゃべっていたら、食堂にあるドアから浅田さんが出てきた。確か、彼の自室と言っていたところだ。彼は僕らと桐原さんを見て、少し驚いたように目を丸くすると、にこりと穏やかな笑みを浮かべた。
「どうですか皆さん。一緒にお茶でも」
断る理由は特になかった。桐原さんも頷くと、浅田さんは満足そうにキッチンの奥へ入っていった。五人分のお茶を乗せた盆を持って戻ってきたとき、風呂から上がった米山さんがエントランスから入ってきた。山葵色の長袖をめくり、手首を軽く掻いている。
「莉月も飲む?」
桐原さんが尋ねると、彼女はちらっとこちらを見て、「いや、いい」と二階に上がっていってしまった。ロビーで読書していた黒沢さんにも声をかけてみたが、彼もいらないみたいだった。
「せっかくなので、同じテーブルに座りませんか?」
浅田さんは、桐原さんと僕たちを交互に見る。落ち着いていて、でも不思議と断れないような、そんな口調だった。桐原さんは困ったように少し考えた後、渋々といった感じで僕たちから少し離れた、斜め前の椅子に腰を下ろした。浅田さんがちょうど彼女と井波の間くらいの位置に座る。本当に、色々と空気を読むのが上手い人だった。
「仲直りはできましたか?」
「いえ、仲直りだなんて、そんな」
坂本は少し気まずそうに下を向いた。桐原さんもなんとなくばつが悪そうにしている。この歳になって他人との喧嘩を大人に宥められるなんてそうないことなので、二人とも多少は反省しているようだった。
「夕食の時に少し話しましたけど、私はこのペンションに泊まるお客様のことを、家族だと思っています。そしてお客様方にも、そう思っていただけるよう努めています。たとえ一泊だけだとしても、同じ屋根の下で寝泊りするのですから」
かつてここに泊まった人たちのことを思い浮かべているのだろう。浅田さんは少しだけ視線を上げて、懐かしむような表情をした。その中には、もう二度と会うことのない人もたくさんいるはずだ。そう思うと、なんだかこっちまでしんみりした気持ちになってしまいそうだった。
「でも家族だからこそ、時には喧嘩をすることもあります。お客様同士の喧嘩が起こったのも、今回が初めてじゃないんですよ」
浅田さんが笑う。
「何度か警察を呼ぼうか迷ったこともあります。同じ空間にいる時間が長ければ長いほど、争いの種も増えますからね。今回のなんて、まだかわいいものです」
おそらく僕らに気を使ってくれたのだろう。人は下を見て安心する生き物だから、自分たちよりひどい状況になったことがあるという話は、多少なりとも僕らの気を楽にしてくれた。実際のところ、それで僕らがかけた迷惑がなかったことになるわけじゃないのだけど。僕はごまかすようにカップを両手で包み込むと、そのまま少しだけお茶を口に含んだ。
「ずっと疑問に思っていたんですが、どうしてこんなに格安なんですか」
口元についた水分を軽く拭ってから、僕はついに浅田さんに聞いてみることにした。なんとなく、今なら何でも答えてくれそうな気がしたのだ。言葉じゃ説明できないんだけど、確かにそういう空気がこの場にはあった。きっとそれだって、浅田さんが作ってくれたものなんだろうけど。
「ここの経営は趣味みたいなものなんです」と浅田さんは言う。
「実は私、この冬のシーズン以外は別の仕事をしているんです。ここよりもっとずっと田舎の、一家でやってる畑があるんですけどね、そこで野菜を作っています。だけど昔から、ずっとこういうことをやってみたくて。それで数年前から、冬の時期だけここのオーナーをやっています」
「畑、ですか」
それは結構意外なことだった。なんたって、全然農家には見えないのだ。どちらかというと、東京とかの大都会でオフィスビルに勤めてると言われた方がまだしっくりくる。
「だから利益を上げることはあまり考えていません」と、浅田さんは微笑んだ。
「喧嘩をすることもあるでしょう。でも話してみたら意外と共通点とかもあるものですよ。だからこうして旅先で、偶然にも同じ宿を選んだんです。価値観とか、求めてるものとか、そういう根元のところで似ているんだと思います」
「ないですよ、そんなの」
なかなかにロマンチックなことを言う浅田さんとは対照的に、坂本は現実的だった。
「彼女たちと私の共通点なんて、同じ女ということくらいです」
「はあ? あんたいくら何でもそれは――」
再び坂本と桐原さんが言い争おうとしたのを、浅田さんは手をそっと動かして制した。たったそれだけの動作で二人が口をつぐんでしまうほど、それには有無を言わせぬものがあった。
「ではお二人は、どうしてここ長野まで?」
穏やかな口調で浅田さんは尋ねる。僕や井波なんかじゃ、こんな余裕はまず出せない。歳を重ねるってこういうことなんだ、と僕は思う。世の中には、ただ長く生きてるだけの、中身が小学生のころから変わってないような人間も多く見かけるけど、意外と捨てたもんじゃないのかもしれない。
「スキーです」
「スノボです」
同時に答えた彼女たちは、はっとお互いを見つめ合った。今にして思えば、そりゃあこの時期雪の降る長野に来る大学生なんてウィンタースポーツ目当ての人がほとんどなのだから、被って当たり前ともいえるんだけど、この時の僕たちからしたら、まるでAIの中に自分たちと同じ感情を見出したみたいな、そんな奇跡的なものに思えたんだ。浅田さんはそれを聞いてにっこりと笑う。策士なんだよ。ほんとに。時代が違えば名将になっていたんじゃないかな。
「あなたスキー滑れるの?」
「桐原さんだっけ、あなたもスノボを?」
それから二人は、さっきまで言い合っていたのが嘘みたいにお互いの話を聞き始めた。嘘みたいだと思われるかもしれないけど、雪山で遊ぶ奴らはだいたい友達なのだ。どれくらい友達かって言うと、リフトで知らない人の隣に座って、そのまま終点まで無言でいられるくらいには仲がいいんだよ。ほんとの話さ。僕と井波は置いてけぼりだった。二人で顔を見合わせ、苦笑する。女の子ってよくわからないんだ。思い返せば、小学校のころからそうだった。突然誰かを無視しよう、みたいなことを始めたかと思えば、次の週には普通に会話してるんだから。ああいうのって、子供ながらに結構残酷だよね。
二人の会話は、それからもしばらく続いた。その間、浅田さん含め僕ら男たちはただただお茶をすすっていた。さすがにおいしいんだ。高い茶葉を使っているのかもしれない。あるいは水がいいのかも。実際のところは知らないよ。もしかしたら、普通にスーパーで買えるようなものなのかもしれないけどさ。でもこういうところで飲む飲み物って、不思議と美味しく感じるんだよ。
坂本と桐原さんの会話は、ご当地キャラの話になったところで頂点に達した。もうミュージカルの後のスタンディングオベーションみたいな感じで、口笛なんかまで吹き出しちゃうんじゃないかと思ったくらいだ。坂本はポケットからあのガチャガチャで出した変なストラップを桐原さんに見せた。桐原さんはもう完全にテンションが上がっちゃって、声もそれなりにでかくなっていた。特に彼女が気に入ったのはカラスのストラップだった。あの世の中に絶望したような表情でうどんに浸かっているやつだ。
「これかわいすぎるでしょ」
「だよね」
坂本も桐原さんも笑っていた。これが出た時坂本が「うわ、はずれだ」と言っていたのを僕は忘れないよ。でもそんなことをここで言うほど、僕も井波も野暮じゃなかったから、笑いそうになるのを何とかこらえてその会話を聞いていた。
時刻は十一時半を過ぎようとしていたので、僕らは解散することにした。「いい夜を」と言って、浅田さんは食堂のところのドアから部屋に戻っていく。まだロビーで読書していた黒沢さんに軽く声をかけ、僕らはみんなして二階に上がった。女の子たちが喧嘩していた時からずっとだから、もう二時間以上あそこでああして読書していることになるけど、彼はあまり疲れた様子もなく笑顔で手を振ってくれた。
「ねえねえ、まだ話したりないんだけど」
階段の踊り場で折り返しながら、桐原さんが興奮した様子で坂本に話しかけた。もうまるで幼稚園のころからの幼馴染みたいな感じなんだ。
「じゃあ私の部屋来る?」
「え、嘘、いいの?」
「いいよいいよ。おいでー」
二人はそんな会話をしながら、坂本の部屋に消えていった。僕と井波はそこまで彼女たちと話したいという気分ではなかったし、そもそもお呼びじゃなかったのでそれぞれ自室に戻ることにした。井波と何かしゃべろうかと思わなくもなかったけど、付き合いたてのカップルじゃあるまいし、そこまで無理に一緒にいる必要性も特になかった。
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