冬の日 .7

 入浴道具を持って、エントランスの扉から外に出た。外気は肌を刺すように冷たく、降りしきる雪はここに来た時よりもさらに強くなっているように感じる。夜の闇と白の中、温泉とトイレに向かう数人の足跡だけが、薄い橙色の照明に照らされてぼんやりと伸びていた。


 温泉のあるという建物の扉を開けると、そこには簡易的な脱衣所が設けられていた。それなりに古い建物だからか、ところどころ木の傷んだ部分が散見されるが、ここもまた清掃が行き届いていて、汚いという印象は受けなかった。すでに井波が入っているのだろう。置かれたラタンの脱衣籠には彼の服も入っている。適当に脱ぎ散らかした感じではなく、一応丁寧にまとめて置かれているところに、彼の性格みたいなものが見て取れた。そしてさらにそのもう少し離れたところには、井波以上に丁寧に折りたたまれた衣服が置かれていた。たぶんあの黒コートの男性のものだろう。僕も服を脱いで、その二つのちょうど中間くらいの位置にある籠にそれを入れた。一応、見苦しくないようにたたんでね。こういうのって、なんとなく伝染するんだ。例えば公衆トイレに行ったとき、僕は結構石鹸を使って手を洗うんだけど、僕がそうやって手を洗っていると、普段手なんか洗わずそのまま出て行ってしまうような人たちも僕の横でちゃんと石鹸で手を洗い出すんだ。彼らが意識しているかどうかは別としてね。もちろん、僕がいなくても最初からその人は石鹸で手を洗うタイプの人間だったのかもしれないけど、でも僕にはどうしてもそうは見えないね。彼らは絶対に、僕に流されて手を洗ってるんだよ。今僕がこうして、脱いだ服をたたんでいるみたいにさ。


 脱衣所にはちょっとした暖房がついていたみたいだけど、この夜の冷気には負けていた。服を脱ぐとそれなりに寒い。早く温泉に入りたい、と浴場への扉の前に立った時、なんとなく嫌な予感がした。そしてそれは、すぐに的中した。


 扉を開けると、そこは露天風呂になっていた。雪の降る中、それなりに大きな石造りの温泉が、まるでそこだけ切り取って描き出した絵画みたいに抒情的に広がっている。それはなかなかにいい光景だったけど、唯一の、そして最大の欠点として、とてつもなく寒かった。


 鳥肌が立つなんてもんじゃない。全身が震えるのを抱きかかえるようにして抑え、先ほど響さんが言っていたことの意味を理解する。周りを見渡すと、ここには室内の洗い場というものが存在しなかった。洗い場もこの寒空の下なのだ。壁際に三つほど鏡と椅子が並んでいる。これは確かに、老体にはこたえるだろう。下手したら心臓発作で死んでしまうんじゃないかという気すらした。最近はヒートショックなんてものも耳にするし、僕も油断はできなかった。死ぬとしても、僕は絶対に裸で死にたくはなかった。生まれた時と同じ状態で生を終える、と言えば聞こえはいいけれど、やっぱり僕としてはそれはなんとなく嫌だった。人間の尊厳にかかわるものだから、できることなら僕は服を着て死にたいと思っていた。


 いくら寒いとはいえ、体を洗わずにお湯につかるほど、僕はマナーの悪い人間ではなかった。たまに銭湯とかで何のためらいもなくそのまま浴槽に突っ込んでくる人がいるけど、ああいう人たちは本当に出禁にしてほしいと心から思うね。お湯の表面に垢みたいなのが浮かんでいたら、それだけで気分が台無しになっちゃうんだよ。


 僕が扉の前でガタガタ震えていたら、ちょうど井波が股間をタオルで隠しながらこちらに歩いてきた。


「もう出るのかい?」


 お湯の中から、あの男性が口元に手を当てて叫ぶようにして井波に声をかける。


「はい。僕カラスなので」


 井波はそれに首だけ振り返りつつ答えると、「じゃあね、順平」と言って今僕が出てきた扉から脱衣所に戻っていった。


 男性に軽く会釈して、洗い場の方へと向かう。三つあった椅子のうち、一番手前のやつに腰を下ろした。アメニティはそれなりに充実していた。シャンプーやコンディショナー、ボディソープなんかは当然のこと、踵とかの固い角質を落とすあのよくわからないブラシみたいなものも置かれていた。僕はこういうのを使うのになんとなく抵抗を覚えるけど、それなりに歳がいったら気にならなくなるものなのだろうか。とにかく、僕はちょっと急ぐようにして体を洗った。とにかく寒いんだ。お湯は温かいんだけど、そんなんじゃとてもじゃないが相殺できない。まさに死と隣り合わせといった気持ちだった。


 シャンプーやボディソープは、よく旅館とかで見かけるブランドのやつだった。本当にどこにでもあるやつだ。この会社の営業の人たちはとんでもなく優秀なのだろうな、と旅先でこれを見るたびに思う。お湯でそれらを洗い流すと、なんだかまだぬるぬるしている感じがした。使ったことのある人ならわかると思うんだけど、このシャンプーってとにかくぬるぬるするんだ。お湯で流しても流してもぬるぬるが消えない。温泉の効果で肌がすべすべになってるのか、単にこのシャンプーがぬるぬるしてるだけなのか、よくわからなくなっちゃうんだよ。僕なんかは、むしろこれこそが温泉施設の策略なんじゃないかなんて思っちゃうんだけどさ、とにかくそうこうして僕は最大の難所である洗い場を突破したわけだ。


 肝心の温泉の方は、熱くもぬるくもない、ちょうどいい湯加減だった。白く濁ったりはしていない透明なお湯だったから、そこはちょっと残念だったんだけどさ。ほら、白いお湯の方がなんとなく温泉って感じがするだろ。子供みたいな話だけどさ。目に見えるものの方が、なんとなく実感がわきやすいんだ。


「彼の友達?」


 お湯につかって十秒もしないうちに、男性の方から声をかけてきた。見た目によらず、意外とフレンドリーな人なのかもしれない。彼が相川夫婦と会話していた様子を思い出す。旅先の温泉で知らない人と話すって、イメージはできるけど実際には結構難しいことだよ。旅の恥はかき捨て、とはその通りなんだけど、一度かいた恥ってなかなか捨てられない。


「井波ですか? そうです」


 風になびかれて、白い湯気が水面を滑るように移動する。ぼんやりとそれを見ながら、映画とかで使えそうな映像だな、なんてことを思った。


「私は黒沢誠っていうんだ」


「僕は高津順平です」


「井波くんと高津くんか。いい苗字だね」


 彼はそう言うと、自分で納得するみたいにうんうんと頷いていた。僕からしたら、わけがわからない。名前を褒められることはそりゃあまあ、あるだろう。親がつけてくれたものだから。でも苗字とは。しかも井波も高津も、そこまで珍しいわけじゃない。


「一緒にいた女の子も君たちの友達かい?」


「そうですけど……」


 坂本、と言おうとして、言いとどまった。井波や僕なんかはともかく、女の子の情報を男の人に教えていいものか悩んだんだ。もしかしたらこの男がどうしようもない変態で、彼女のことを狙っているかもしれない。僕は心の中で一瞬警戒を強めたが、彼は一切気にしていないようだった。たぶん彼としても、そこまで大した意味なく尋ねたのだろう。


「高津くんたちは、何しにここまで?」


「スキーをしに来たんです」


「スキーか。いいね。私も昔は何度かやったな」


「本当ですか?」


「とてもじゃないが滑れるとは言えないレベルだったけどね」


 黒沢さんは笑う。響さんに劣らず、人のよさそうな笑みを浮かべる人だった。


「あれってスピード調節難しくないかい? ストックを刺して無理やり止まろうとしたら、危うく肩がはずれそうになったよ」


 懐かしそうに笑う彼に、今度は僕から質問することにした。


「黒沢さんは、何しにここまで?」


「私はただの一人旅だよ。時々こうして、理由もなく宿に泊まるんだ」


「へえ」


 意図せず間抜けな声が出てしまい、口をふさぐ。僕にはまだその感覚はよくわからなかった。旅行とは目的があってするものだし、ただ宿で眠るだけなら、それこそ時間と金の無駄だという気がした。黒沢さんはそんな僕の内心を知ってか知らずか「軽い現実逃避みたいなものだよ」と両手でお湯をすくって顔を洗う。


「旅行に行くとさ、どこにでも行けるって気持ちと、どこにも行けないんだな、って気持ちが両立するんだ。帰る場所があるっていうのは安心感があるけど、一方でずっと足を引っ張られているような感じもする」


 つぶやくように黒沢さんはそう言うと、一瞬ではっとしたように首を振り、「ごめんね。暗い話になってしまった」と頭を下げた。


「いえいえ」


 大人って大変なんだな、と僕は思う。会社とか、家族とか、そういう社会のしがらみにとらわれながらみんな生きているのだ。それは、大学生の僕だって理解できないことではない。ちょうど今は春休みだけど、もう一、二か月もすればすぐに大学生活が始まる。自由なときに不自由な未来を想像してつらくなるのというのは、珍しいことではないだろう。


「さっきロビーで読書してましたけど、なんの本読んでたんですか?」


 話題を変えるべく、僕の方から話を振った。単純に、大人がどんな本を読んでいるのか気になったというのもある。


「推理小説だよ。実は私、ミステリーが大好きでね。小さい頃は探偵になりたかったんだ。恥ずかしい話だけど、あのコートも探偵に憧れて買ったんだよ」


 どうりで、不思議と物語の世界から出てきたような浮き方をしていたわけだと僕は一人納得した。


「高津くんは、ミステリーは好きかい?」


「いえ、僕はあまり本を読まないんです」


 答えながら、若干の苦手意識を黒沢さんに持ったのを自分で感じた。経験上、「ミステリーは作家と読者の勝負だ」とか言って、眼鏡をくいくいさせているような人間にろくなやつはいないのだ。なんというか、胡散臭い。僕の友人にも一人、ずっとトリックの穴を探して文句を言っているやつがいる。児童向けの漫画に対してだよ? あくまでフィクションなのにさ。嫌になっちゃうんだよ、そういうのって。


「そうなのかい。それはもったいない」


 と言っても、僕の苦手意識なんてそんな大したものじゃないんだ。あくまでも一過性のもので、その人とちょっと話したらすぐになくなってしまう。単純なんだよ。自分でいうのもなんだけどさ。


「本はいいよ」と黒沢さんは言う。


「絵画はわかる?」


「いえ、なんとなくいい絵だな、ということくらいです」


 答えながら、自分で言っていて情けなくなる。だから僕は、インテリぶった連中は嫌いなんだ。こうしてそういう人間と話していると、自分がひどく浅い人間に思えて嫌になる。現代から見た芸術の評価方法を知っていたからと言って、人間として優れているというわけではないだろうに。むしろ欠点じゃないか。こんなに面倒臭くなってしまうんだから。


「絵画を評価する上でまあ基準はいろいろあるけど、写実的なものにせよそうでないにせよ、大事なのは調和だよ。ラファエロもダ・ヴィンチも、ほとんどの有名な画家はその点で非常に優れている」


 僕は黙って聞いていた。


「人間も同じじゃないかって思うんだよ」と黒沢さんは続ける。


「読書というのは、パレットから絵具を筆につけ、カンヴァスに塗り付けるようなものだよ。最初のうちは色が濃く出ていても、時間がたつと薄れ、かすれていく。そうしたらまた新しくパレットに筆をつけなければいけない。ある特定の色だけが濃すぎてもいけないし、かといって全く色がないのもつまらない。いろんな本を読み、時に同じ本を再読し、そうやって自分の中で調和をとっていく。そういうものじゃないかな」


 そのとき、自分の中で何かがはじけるように反発したのがわかった。昔からある、僕の悪い癖だった。こうして上から来られると、というより僕が上から来られたと感じると、つい言い返してやりたくなってしまう。でも勘違いしないでほしいのは、別に本気で怒っているわけじゃないんだ。揚げ足取りとか子供の言い訳みたいな、そんな感じ。


「じゃあ生まれてこのかた本を一冊も読めない環境の人は、まっさらで何もないってことですか?」


「あー、そうじゃないよ。確かに私の言い方が悪かった。別に読書は数多ある人生体験の一つでしかない。でもね、読書はそれだけであらゆることを疑似体験できるから、その意味で人生体験の効率がいいってことだよ」


 黒沢さんはちょっとだけ焦ったようにそう答えた。僕としても彼とそのことについて本気で言い争うつもりはなかったし、彼の言っていることも理解はできた。


 しばらく無言の時間を過ごしてから、ちらりと黒沢さんが左手首を見る。おそらく時間を確認しようとしたのだろう。でも今はお湯の中だから、そこには何もなかった。その代わり、温泉を囲う壁に掛けてあった時計を見る。時刻は九時になろうとしていた。


「どれくらい入ってるんですか?」


「ご飯を食べ終わって軽く読書してからだから、一時間くらいかな。少しのぼせてしまった」


 ざばっと音を立てて黒沢さんが立ち上がる。一時間というと長い気もするが、せっかくの温泉なのだから、それくらい入っていてもおかしくはない。


「井波くんは相当早かったね。いつもそうなのかい?」


「さあ、わかりません」


「私の方が十五分くらい先に来たんだけど、彼、体を洗う時間を除けば五分も浸かってなかったんじゃないかな」


「そうなんですか」


 何度か井波と旅行に来たことはあったが、考えてみればそこまで一緒に温泉に入った記憶はない。でも別に、友達の風呂の長さなんて僕からしたらどうでもいいことだった。


「じゃあね、なかなかに楽しい会話だったよ」


 本心なのかどうなのか、黒沢さんはそう言い残すと、軽くシャワーで体を流してから出ていった。僕はしばらく座ったまま、降ってくる埃みたいな雪が水面で消えていくのを眺めていた。

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