冬の日 .6
食堂に行くと、先ほど僕たちが到着した時にもいた三人のほかに、大学生くらい女の子たちが三人座っていた。きっと僕らと同じ旅行客なのだろう。彼女たちはすでに入浴を済ませたのか、リラックスした様子でキッチン側の長テーブルの奥に腰かけている。なんとなく近づきがたい雰囲気のする集団だ。ぱっと見で僕はそんな第一印象を覚えた。別に彼女たちが全員ボディビルダーみたいにガングロマッチョで、やたらとフレンドリーな態度で白い歯をきらめかせているとか、反社会的勢力みたいに全身に刺青が入ってるとか、そういうわけじゃない。むしろ普通の、電車とかでよくいる、馬鹿みたいに大きな声で内容のない会話をしていそうな女の子たちだ。だけど、どことなく近づきがたい。この雰囲気はなんとも言葉では説明しにくいんだけど、そうだな、たとえるなら心霊スポットみたいなものだと思ってくれればいい。特に実害を被ったこととかはないんだけど、なんとなく避けるだろう。あれと同じさ。そもそもの話、彼女たちに限らず、僕は集団になった女の子たちがあまり得意じゃなかった。謎の圧があるんだよ。そこだけ空気が違うというか、変に自らの存在を周りに主張しているような、そんな気がするんだ。
ちょっと長めの金髪で、若干つり目の一人が「いかにもギャルです」といった感じで足を組み、ほかの女子二人に話しかけていた。何を話しているのか、ひどく楽しげだ。入浴後ともあって化粧はもうほぼしていないんだけど、不思議とギャルっぽさのある子だった。昔のテレビとかで、けばけばしいメイクをした女の子たちを目にすることがあったが、ああいうのともまた違う。なんていうか、本当のギャルっていうのは、全身からギャルっぽさが出てるもんなんだ。化粧じゃないんだよ。本当に。
それからその正面、一番キッチンに近い位置に座る女の子が、テーブルに肘をつきながらそれに相槌を入れている。こちらもギャルっぽいんだけど、金髪の子ほどはそれを感じない。黒髪のボブで、結構気の強そうな印象を受ける子だった。テーブルに肘をついてあごに手を当ててるような人間は、大体が気が強いから、多分僕の印象は間違ってないはずだよ。
そしてそんな二人の会話を、金髪の隣に座る黒髪ロングの女の子が静かに聞いている。そんな三人組だった。最後の子はとても大人しそうな印象を受けた。座り方も二人と違うし、自分からはあまり話さない。一瞬、二人とは違うグループなのかと思ったくらいだ。だけど時折金髪の子が楽しそうにその子にも話しかけるから、友達なのだとわかった。
そしてもう一人、同じテーブルの彼女たちから少しだけ離れた場所に、先ほど老夫婦と話していた四十代くらいの男が静かに座っていた。なんとなく怪しい雰囲気のする男だった。もしかしたら、羽織っている黒いコートがそう思わせているのかもしれない。というのも、その男の表情自体は柔らかく、彼はただただ食事が楽しみ、といった感じで食堂全体を見まわしているだけだからだ。だけどそれはまるで、洋画の世界から飛び出してきたキャラクターみたいな、妙な浮き方をしていた。
「順平、こっちこっち」
もう一つのテーブルの奥、ちょうど金髪の子と背中合わせになる位置に坂本は座っていた。それに軽く頷いてから、歩いて彼女の正面に腰を下ろす。井波はまだ来ていないみたいだった。
「こんにちは」
隣、といっても少し離れた位置に座る老夫婦の、旦那さんの方が挨拶してくる。かなりフレンドリーな人のようだ。低く渋みのある声で白いひげを生やし、サンタクロースみたいな笑みを浮かべている。
「どこから来たんだい?」
「……東京から」
僕と坂本は多少たじろぎつつもそれに答えた。こういう、数人にいっぺんに話しかける、みたいなことをされたとき、僕はよく困ってしまう。「誰が答える?」みたいな空気読みが始まるんだ。答えようとしてほかの人と声が被り、譲り合いみたいになるこの感じが、僕はあまり得意じゃなかった。現に今も坂本と被り、微妙な間が生まれてしまった。誰が悪いとかじゃない。僕も坂本も、もちろん話しかけてきたおじいさんだってそうだ。だけどそれゆえ、タチが悪いんだよ。
「スキーをしに来たんです」
ちょうどその時、井波が階段から降りてくるのが見えた。僕が手をあげると井波はそれに気がついたのか、こちらに来て僕とおじいさんの間に「失礼します」と言って腰を下ろした。
「それはそれは、遠いところから来たね」
おじいさんは楽しそうに頷きながら髭を触った。髭を伸ばしてる人って、よくこうして髭を触るんだ。まるで世界一大事な宝物かのように、その手つきには深い愛情みたいなものすら感じる。みんなそうなっちゃうんだ。髭を生やしてなかった人も、自分のことが嫌いな人も、髭を伸ばした途端猫を撫でるみたいに一日中口元を触るようになる。
「お二人はこの近所の方なんですか?」
坂本が尋ねると、おじいさんは笑顔で首を振った。
「いいや、私たちは愛知から。全国の山を登ってるんだ」
「へぇ」
それは結構意外なことだった。彼らは見るからに七十歳は超えているように思えた。それで山を登るっていうんだから、大したものだと思った。僕なんか学生のくせに、たかだか数百メートルの山で音を上げる自信がある。一度どこかの山に登ったことがある人ならわかると思うんだけど、思ってたより大変なんだよ、登山って。そりゃあ、ロープウェイみたいな文明の利器の力を借りたら、あっという間だけどさ。
楽しそうに話すおじいさんとは対照的に、その正面にいるおばあさんは厳めしい表情で座っていた。たまにちらりとこちらに視線をやるだけで、ろくに目を合わせようともしない。さっきも言ったけど、きつい感じのする人なんだ。愛想の「あ」の字もないどころか、「あ」の字も発さない。でも物語に出てくる魔女みたいな陰湿で不快な感じは不思議となくて、きりっとした辛口の日本酒みたいな雰囲気を感じる。たぶん意地悪とかじゃなくて、かなり神経質な人なんだろうと思う。数百キロ先で誰かが爪を噛んだら、その音で目が覚めちゃうような、そんなくらいの。
その時、かなり大きな笑い声が隣のテーブルから上がった。女子トリオの誰かが何か面白いことでも言ったのだろう。人が集まると、時々こういう何かが爆発したみたいな盛り上がり方をすることがある。インテリぶったインチキくさい集団だと逆に起きないんだけど、普通の集団なら起きるんだ。僕はそこまでバカ騒ぎするタイプじゃないけど、それでも時々、本当に面白いことが起こったときなんかにこうなっちゃうことがある。でもそういう時って大抵、大きい声を出した後に自分でも大きい声を出したことに気づくもんだから、結構恥ずかしいんだよね。それすらも気づかない人もたまにいるんだけどさ。
現に金髪と黒髪ボブの二人は楽しそうにそのまま会話を続けている中、大人しそうな黒髪ロングの子だけが少し申し訳なさそうに肩をすくめていた。神経質な人とか、周りがちゃんと見える人ほど生きづらい世の中なんだ。困ったことに。
ちらっと斜め奥に座るおばあさんを見ると、やっぱり不快そうな顔をしていた。怒りゲージ一、って感じ。少しずつたまっていって、あるとき突然爆発する。このタイプの人たちって「ヒステリー」なんて言われて煙たがられたりすることもあるけど、周りの人たちが悪いことも結構あるんじゃないかな。
「お待たせ致しました」
そのとき、食堂の奥にあるキッチンから浅田さんが出てきた。手にはトレーが乗せられており、その上には全員分の料理が美しく置かれている。
「こちらが前菜のカプレーゼになります」
丁寧な手つきで浅田さんが一人一人の前に皿を置いていく。今になって思えば、安い宿で部屋も何もかもがいいとなると、ごはんの部分が不安になってもおかしくはないんだけど、この時にはもう、僕は完全にこのペンションとオーナーを信頼していた。もし仮にこれが僕の知らないタイプの新手の詐欺で、チェックアウトの時に法外な追加料金を請求されたとしても、僕はもうそれでもいいやという気すらしていた。
目の前に置かれたカプレーゼは、美しく盛り付けられていた。高級なイタリアンレストランとかで出てくるものとも遜色ない。丁寧に切られたトマトの上にモッツァレラチーズが乗り、まるで紅白の横断幕のようにお互いの存在を引き立てあっている。
「コース料理なんだ」
驚いた様子の井波に、浅田さんは優しく微笑んだ。
「いえ、前菜と次に出てくるパスタだけ、こうして時間差でお出ししてます。その後は皆さんやりたいこととかもあるでしょうから、一度にまとめてお出しします」
「なるほど」
すごいホスピタリティだと僕は感心した。こうやって最初だけでも分けて提供すれば、料理の高級感はぐっと上がる。その上無駄に時間ばかり取らせるわけじゃなく、早く食事を切り上げたい人のことも考えているわけだ。一食数万円するようなレストランならともかく、ここはあくまでペンションだからね。
「どうしてそこまで?」
「わたくしは泊ってくださる方々に精一杯楽しんでいただきたいのです。旅先での出会いは一期一会ですから、お客様同士でも仲良く会話していただけたらと思います。ここペンション浅田にいる間は、皆さん家族みたいなものだと思っていただければと」
そう言うと、浅田さんは一礼してキッチンに去っていく。その様もなんだか格好いい。余裕がある大人って感じだ。女の子ならもれなく全員メロメロになっちゃうんじゃないかな。現にほら、坂本だって……と彼女の方を見てみたら、彼女は浅田さんよりも料理に夢中のようだった。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったね」
おじいさんが思い出したように話しかけてくる。彼は運がよかったね。人によっては「人に名前を聞くときはまず自分から名乗れ」って怒鳴ってきてもおかしくないからね。でも僕はそういうタイプではなかったし、そんな度胸もないので素直に名乗った。
「高津順平と言います。こいつが井波康介。――――で、このリスみたいに口に食べ物を詰め込んでるのが坂本香織です」
彼女を指さしながら説明すると、おじいさんは笑っていた。カプレーゼってそういう食べ方をするものじゃないと思うんだけど、注意するのも面倒なのでスルーしておいた。食い意地が張ってるというか、コース料理には向かないタイプなのかもしれない。もしデートで君の彼女がこんな食べ方をしていたら、きっと千年の愛も一瞬で覚めちゃうんじゃないかな。
「全員大学三年生です」
「若いねえ」
おじいさんはカプレーゼを一口食べて、満足そうに頬を緩める。年上の人っていつもこうなんだ。「若いね」とか「羨ましい」とか言いつつも、実際のところ自分の方が先に生まれていることを心のどこかで優位に感じている。そりゃあ、この人たちくらいの歳になったら体のいたるところにガタがきて、若者の健康さが本気で羨ましくはあるんだろうけどさ。ひどい時だと、大学で数か月しか誕生月が変わらない人に同じ言葉を吐かれたりする。そういうのって、嫌になっちゃうよね。
「私は相川響。それから、家内の千代です」
千代さんと呼ばれた方のおばあさんは、バジルを落とさないよう丁寧にチーズの上にのせていた。
「相川さんですか」
僕は二人に改めて会釈した。過激なフェミニストなら「家内」という言葉に反応して、きっとネットで声高らかに「女性蔑視だ」と鬼の首をとったように主張し始めるのだろうけど、残念ながら僕はそこまでの意識の高さは持ち合わせていなかった。あの界隈の人たちが言うには「奥さん」とか「家内」とか「嫁」といった呼び方には、女性が家で家事に専念していた時代の意識が残っているようで、そういう言葉を無意識に使っていることを自覚しなければいけないらしい。たしかに女性の社会進出が進む今、そういった意識が無意識に残っているのは問題だと思うけれど、使い慣れた言葉ってそう簡単に矯正できるものじゃないんだよ。実際自分の配偶者ならともかく、ほかの男性の配偶者を呼ぶときは「奥さん」の方がやっぱりしっくりくるし、むしろ女性の方が配偶者のことを「主人」なんて呼んだりもするんだからさ。
そうしてちょうど前菜を食べ終わったころ、浅田さんが今度はパスタを運んできた。見たこともないくらい細い麺が、これまたトマトベースのソースに絡められて美しく盛られている。
「こちらカペリーニになります」
「美味しそうだね」
響さんは嬉しそうに目を細めて髭を撫でる。何度でも言うけど、髭を伸ばしてる人はよく髭を触るんだ。
「綺麗でしょう。天使の髪、なんて呼ばれることもあるんですよ。この後お肉とかを一気にお出しするので、さっぱり目の味付けにしました」
「ありがとう」
それは、なんだか紳士的なやりとりだった。そんな会話を浅田さんと響さんがしている一方で、隣のテーブルではギャルが露骨にテンションの上がった声を発していた。同時に、スマホで写真を撮る音なんかも聞こえてくる。ちょっと鬱陶しいけど、彼女たちを責めちゃいけないよ。彼女たちは料理が運ばれてきたら必ず写真を撮らないといけないんだ。そういう風に義務付けられてる。かわいそうだろ? その上画像の加工なんかまでその場でしだすもんだから、ついに食べ始めるときにはもう完全に冷め切っちゃってるんだ。ラーメンなんて食べようもんなら、汁が全部なくなっちゃうんだよ。千代さんはそれを聞いてまたも不快そうな顔をしていた。これで怒りゲージ二だ。まいっちゃうよね。ほんとにさ。
パスタは浅田さんが言っていた通りさっぱりとしていた。でも全然淡泊なんかじゃなくて、海鮮系だろうか、しっかりとした味わい深さまで残っている。とにかく美味しかった。隣のテーブルに座るコートの男性は、女子三人組の会話に特別不快そうな様子もなく、無言で頷きながら一瞬でそれをたいらげていた。
その後は、堰を切ったように大量の料理がテーブルに運ばれてきた。別にイタリアンにこだわっているわけではないらしく、ハンバーグや焼き魚なんかもそこにはあった。料理を食べながら、相川夫妻が過去に登った山のことを話してくれた。別に話してくれと頼んだわけじゃなかったけど、彼ら自身それを誰かに話したい気分のようだった。それに僕たちの方としても、その話はどうしようもなくつまらないものというわけではなかった。
若いころから二人は山に登るのが好きだったらしい。響さんの方は、それこそ剱岳とか赤岳とか、三千メートル近い山も登るような人で、森林限界を超えた世界のことをいろいろと教えてくれた。ある一定の高さ以上になると風や日光を遮るものもなくなり、普段見られない植物が見られるようになるんだそうだ。スキーでもそれなりに高い山に登ったりするけれど、やっぱり登山とは見える景色が違うらしい。話を聞きながら、僕たちはそんな世界を思い浮かべた。○○と煙はなんとやらというが、響さんはとても知的な喋り方をする人だった。
一方で千代さんの方は、もともとそこまで高い山には登らない人だったらしい。ガチ登山というより、ハイキングといった感じの楽しみ方をしていたそうだ。しかしある登山中怪我をしてしまい、下山すらできなくなっていたところをたまたまその山に来ていた響さんに助けられ、二人は結婚したんだそうだ。それはなかなかにロマンチックな話だった。基本的にずっと黙っていた千代さんも、その話の時だけは何度か口を開いていた。人生でロマンチックなことってなかなかないから、こういう映画みたいな話に人は目がない。この時ばかりはさすがの坂本も、食事の手を止めて響さんの話に耳を傾けていた。
「今でも高い山に登られてるんですか?」
「千代はもともと体があまり強くなくてね。最近は医者に頼んでかなり強めの鎮痛剤を出してもらってるくらいなんだ。私も歳だから、そんなに高い山には登っていないよ。それでも二人にとって大切な時間だから、時々こうしてハイキングに来てるんだ」
「素敵ですね」
坂本はフォークを握りながら、うっとりしたような顔で天井を見ていた。たしかにこの雪の中、寄り添いあってこんな山奥まで来た二人のことを思うと、長年の絆みたいなものが感じられた。登山には興味がない僕なんかからすると、鎮痛剤を飲むくらいなら家で大人しくしていたらどうなんだと思ってしまわなくもないけど、きっと山にはそれだけの不思議な魅力があるということなんだろう。
その時、ちょうど隣のテーブルでコートの男が立ち上がった。様子を見るに、もうすでに夕食を食べ終わってしまったみたいだった。携帯を見ると、まだ時刻は七時半だったから、三十分でこれだけの量を食べきったことになる。相当な早食いだ。彼はそのままロビーの方へ歩いていくと、暖炉の前、一人がけの椅子に腰を下ろした。背もたれに寄りかかり、コートのポケットから一冊の文庫本を取り出す。ロビーはキッチンに比べ暗かったので、どんな本を読んでいるのか、背表紙までは見えなかった。
彼が座ったのを見届けると、一瞬静まり返っていた僕たちは会話を再開した。どういうわけか、彼のその仕草には目をひくものがあった。いつの間にか僕だけじゃなく、食堂にいる人全員が動きを止めて彼のことを見ていた。ちょうど授業中に誰かが遅刻して教室に入ってきた時みたいな感じだ。みんなが手を止めてそちらを振り返る、あの感じ。
それからもしばらく、響さんの話を僕たちは食事をしながら聞いていた。老人ってとにかく自分の話をしたがるものなんだ。老人会の集まりなんかを見ていると、それがよくわかる。ろくに耳が聞こえない上に各々自分の話をしているから、会話と言えるかどうかも怪しいやり取りがそこでは繰り広げられている。幸運にも僕たちは彼の話を聞く耳を持っていたから、そこまで混沌としたことにはならなかったけどね。
そうはいっても、初対面の人と話すことなどそこまで多くはない。三十分くらいしたらさすがの響さんもネタが尽きてきたのか、少し無言の時間ができてきた。井波や坂本との会話なら平気だが、初対面相手となると沈黙に多少の気まずさを覚える。僕はたまらず間を埋めるようにして口を開いた。
「あのコートの男性とは知り合いなんですか? 僕たちが到着した時に話してましたけど」
正直な話、響さんと彼が知り合いかどうかなんて、僕にはどうでもいいことだった。つまりだね、僕もファミレスなんかに生息する動物と同じになっちゃったわけだ。暖炉の前で本を読む彼を目で示しながら僕が尋ねると、響さんは魚の骨を丁寧に取り除きながらそれに答えた。彼の皿はすごく綺麗だった。僕は少し恥ずかしくなって、皿の上でぐちゃぐちゃになっていた骨や身を一か所にまとめた。
「いいや。私たちがここで浅田さんと会話してるときに黒沢さんが来たんだ。四時半くらいだったかな。それと入れ替わるようにして浅田さんが夕食の準備をするからとキッチンに行ってしまったから、彼に話し相手になってもらったんだよ」
横を見ると、井波はすでにほとんどの料理を食べ終わっていた。もともと僕や坂本以上に知らない人と話すのが得意じゃない井波は、少し持て余したようにわずかに残った野菜かなんかを箸でつついていた。
「そうなんですか。てっきり旧知の仲なのかと」
坂本の言葉に響さんは笑う。何度見てもサンタクロースみたいな笑顔だった。これで酒でも飲んで顔を真っ赤にしていたら、どんな家にだって侵入できるんじゃないか。家宅侵入をする響さんを想像して、僕は内心笑った。口元が緩まないように少しだけ唇を噛む。自分から質問したくせに頭の中じゃそんなことを考えているんだから、救えない話だと自分でも思う。
「この歳になると人見知りしたりするのがもったいなく思えてくるんだよ。他人にどう思われてるか考えて臆病になるくらいなら、話しかけて嫌われた方がマシだというかね。だからといって他人の気持ちに鈍感になってはいけないけれど」
それは結構深いことに思えた。他人の目に対するアンテナが段々鈍感になっていくのかもしれない。おじさんのくしゃみが大きいのは、若いころ持っていた羞恥心が薄くなるから、という話を思い出す。それとこれとじゃ、全然受ける印象は違うけどさ。
「そういえば、三人は温泉には入ったかい?」
「いえ、まだです」
「そうか。なら気をつけるといい。この歳ということもあって危うく死にかけたから」
「どういうことですか?」
「まあ、行けばわかるよ」
響さんはそう言うと、いたずらっぽく笑った。千代さんもまだ温泉には行っていないのか、怪訝な顔をして響さんのことを見つめる。その時、視界の隅で誰かが動くのが見えた。首ごとそちらに目を向けると、暖炉の前で読書をしていた男の人が、ちょうど立ち上がって階段の方へ行こうとしているところだった。
「康介、食べ終わったなら先に行ってていいよ。八時だから男湯の時間だろ」
残っていた野菜も食べ終わり、いよいよ困っていそうだった井波に声をかける。すると彼は内心ほっとしたような顔で「そうしようかな」と言って椅子から立ち上がった。僕と坂本はまだ料理が残っていたから、席に座ったままロビーの方へ向かう井波の背中を見送った。
千代さんが温泉について響さんに問い詰め始めたので、僕と坂本は話し相手を失ってしまった。向かい合って座りながら、早くも遅くもないペースで箸を進める。
「これうまいね」
「ハンバーグ? ああそれね。チーズが入ってないのがいいわね」
先ほどの部屋での出来事なんてまるでなかったかのようなトーンで、僕らは喋る。
「チーズインもいいだろ」
「嫌よ。普通に肉だけの方がおいしい」
それから僕たちは、以前三人で行ったハンバーグ屋の話を始めた。内容なんてないような、いっそ口を開かない方がエネルギー消費上効率的に思えるような会話だった。僕らの、というより世の中全般で行われている会話なんて、そんなものがほとんどだろうけどさ。
井波はたぶん、僕と坂本が時々キスしていることなんて一切知らないはずだ。それについて罪悪感というか気まずさみたいなものを感じたこともなくはないけど、僕は正直、坂本を異性として好きというわけではなかった。そして彼女の方もたぶん、僕に対して恋愛感情は持っていないように思えた。だから実際、僕と彼女は最後までしたことはないし、これからもするつもりはなかった。
いろいろと仕事が終わったのか、キッチンから浅田さんが出てきた。自分用の夕食を持ってテーブルの隅、僕たちから見たら相川夫妻を挟んで向こう側に腰を下ろした。
「どうですか。楽しんでいただけていますか?」
浅田さんは笑顔で、僕たちよりも若干少なめに盛り付けられたそれらをテーブルに置く。
「はい。どれもおいしいです」
それは心からの言葉だった。実際、出てきた料理はすべて美味しかったし、都会で高級レストランを構えてもやっていけそうなクオリティだった。これを全部ひとりで用意したなんて信じられないくらいだ。
「それはよかったです。いつもお客様の口に合うかドキドキしてしまうもので」
それは単なる謙遜というわけではないみたいで、浅田さんは内心本当にほっとしているように見えた。僕はほとんど自分で料理をしないから、自分が作った料理を他人に食べてもらうということの緊張感みたいなものがいまいちピンとこない。まあ確かに、もし不味かったらと考えたらそれなりのプレッシャーはあるかもしれない。お金をもらっているならなおさらだ。でも味覚って人それぞれ好みがあるから、たくさんの人に美味しいと思ってもらうのって結構難しいことだよね。世の中には蓼を好きで食べる虫みたいな人もいるんだもの。悪口とかじゃなくてね。事実、いるんだよ。僕の友人にも、フルーツグラノーラにケチャップをかけて食べるやつがいる。信じられないことにね。
「何か困ったことがありましたら、お気軽にお聞きください。お部屋には電話もありますから、そちらからかけていただいても構いません」
「そういえば、冷蔵庫に入っていたお酒は飲んでいいのかね?」
思い出したように響さんが尋ねる。僕は何のことかさっぱりだったが、話の流れから察するに、部屋にあったあの冷蔵庫の中にはお酒が入っているみたいだ。僕はあまりお酒を飲まないから、関係ない話ではあった。
「すべてサービスとなっておりますので問題ありません。チェックアウトの際に料金を請求するということもないので、好きなだけお飲みください」
「ありがとう。では好きなだけ飲ませてもらうよ」
「ダメですよ。お医者さんに止められてるでしょ」
笑顔を浮かべる響さんに、正面に座る千代さんが強烈な視線を向ける。それはきっと彼を思ってのものなのだろうけど、そのあまりの鋭さは見るものをずたずたに切り裂いてしまいそうな迫力があった。実際それを向けられたわけではない僕の方が思わず身震いしてしまいそうになったくらいだ。坂本なんてもうほとんど漏らしてたんじゃないかな。
「わかっているよ。ほんの冗談だ」
でも長年その視線を受けてきた響さんは、一切恐れることなく飄々と笑っていた。この二人は幾度となくこんなやり取りを繰り返してきたのだろう。千代さんの方も、そこまで本気で響さんを窘めようとしているわけではないようだった。
「こっそり飲もうとしてもダメですからね。ちゃんと見てますから」
「君が寝たあと飲めばいい」
「じゃあずっと起きてます」
どうやら二人は同じ部屋で寝泊りするようだった。浅田さん曰く、ベットが二つある大部屋が一部屋だけあって、相川夫婦がそこを使うことになっているみたいだった。このペンションには八部屋しかないので、九人の客が泊まるとなると当然二人はこの部屋を使うことになる。僕らやギャルたちは三人グループだしあのコートの男性も一人のようだったから、相川夫妻がその部屋を使うのは当然と言えば当然の話だった。
「浅田さんはどこで寝るんですか?」
デザートの桃のゼリーをスプーンでつつきながら坂本が尋ねた。たしかに、この建物の周りにはそれらしき家もなかったし、この雪の中どこかへ帰るのも一苦労だろう。すると浅田さんは、自然な感じで食堂の壁を指さした。ちょうどキッチンの横くらいの位置だ。
「そこですよ」
見ると、そこには確かにドアの取っ手があった。扉と壁の色がどちらもダークブラウンで似ているのであまり目立たなかったが、たしかにその先に部屋があるみたいだった。
「そこの扉を開けると私の個室があります。ずっとこの建物にいるので安心してください。お部屋から電話をかけていただくと受付のほかに私の部屋の電話も鳴るようになっているので、多分気づけないことはないと思います。それでももし電話に出ないようでしたら、大体はキッチンとかで作業しているので、お手数ですが直接降りてきていただければと思います」
僕らはあまりホテルとかでスタッフに何かを要求するタイプではなかった。だいたいからして、ホテルでしょっちゅうフロントに電話するようなやつにろくな人間はいないのだ。そういう人たちって大抵、シーツがちょっと曲がってるとか、電子ポットのコードが汚いとか、そんなくだらないことで電話をかけてくるものだ。お客様は神様だという考えを無自覚に持っているせいで、気に入らないことがあったらすぐクレームを入れる。たしかに、神は理不尽なんだ。
ともかく、僕が何か要求するということは今回もないだろう。でもまあ何かあったら、例えば部屋にとんでもない大きさのゴキブリが出たりしたら、その時はお世話になるかもしれない。そんなことを思いながら、僕は残りの夕食を食べきった。
携帯で時間を見ると、すでに井波が席を立ってから三十分くらいがたっていた。僕もそろそろ風呂に入ろう。次に男湯から女湯に変わるのが十時だったはずだから、あと一時間半くらいは余裕がある。そこまで急がないといけないわけではなかったが、一日スキーをしていたこともあって、早くさっぱりしたかった。坂本と一緒に「ごちそうさま」を言って席を立つ。相川夫婦も浅田さんも、隣のテーブルに座る女子三人組も、まだ話しながらゆっくり食べているみたいだった。
「女子は大変だな。六時から七時の間に風呂に入らないと、十時まで入れないんだから」
階段を上りながら、坂本に話しかける。
「いいわよ。部屋でゆっくりしてるから」
「何して?」
「さあね。スマホとか見るんじゃない? わかんないけど。っていうか、女の子のプライベートにあんまり踏み込むと嫌われるわよ」
「それは怖いな」
「思ってもないくせに」
それから僕たちは、各々自分の部屋に入った。女の子っていつもこうなんだ。自分たちは男が何をしてるか知りたがるくせに、自分のことは秘密にしようとする。もし付き合ったりなんかしたらもっと悲惨だ。位置情報共有アプリなんかを入れさせて、逐一今何をしているのか問い詰めてくる。そのくせちょっとこちらが何か尋ねるとすぐプライバシーの侵害だとかストーカーだとか、キモイだとか言ってくるんだ。別に嫌とかじゃないけどさ。疲れちゃうんだよ。そういうのって。だから僕はまだ今のところ、誰かと正式に付き合ったりしたことはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます