冬の日 .5

 目を開けた時には、窓の外を流れる景色はさらに山奥のものへと変わっていた。正直、周りには木と雪しかないからどれくらい進んだのかわからないが、なんとなく雰囲気でそろそろだと感じられた。最初のころ一緒に乗っていた老人二人も、いつの間にかいなくなっている。肩を並べて眠る二人を揺すると、先に起きたのは井波だった。目をこすりながら、彼は状況を確認する。


「助かったよ順平。危うく寝過ごすとこだった」


 そう言われ、自分が起きなかった時のことを想像してぞっとした。もし三人ぐっすり寝ていたら、山奥で降ろされて凍死していたかもしれない。そんな起こりえた可能性なんてつゆ知らず、坂本は相変わらず呑気に口を開けて爆睡していた。


「起きろ」


 おでこをひっぱたくと、彼女は額をさすりながら「なに、地震?」と目を覚ました。


「めっちゃ揺れてるんだけど」


 もはやツッコミをする気にもならず、僕と井波は降りる準備を進める。


 それから五分ほどして、何もないような雪道に一本寒々しく立った鉄のポールのそばで、バスは軋む音を立てながら停車した。炭酸が抜けるような音を立ててドアが開く。途端、冷え切った空気が顔に触れた。まるで殺意を持っているみたいだ、と思う。もちろんそんなわけないんだけど、でもそれくらい寒かった。


 僕たちと同じく白い息を吐いて遠ざかっていくバスを見送って、僕たちは歩きだすことにした。ここからペンションまで十分くらい雪道を歩かなくちゃならない。バスに乗る前に降っていた雪は、収まるどころか少し強くなっているようだ。少し憂鬱な気分になりつつ足を動かそうとすると、「見て!」と坂本が嬉しそうな声を上げた。


 彼女が指さした先には、かつては雪だるまだったのだろうと思しき大きな雪の塊が、二つ転がっていた。近寄ってみると、頭部にはご丁寧にも木の枝で目と口がつけられている。


「かわいい!」


 坂本はそれはもうずいぶんと興奮している様子だった。僕としては、どうしてそこまでテンションが上がるのか理解できなかった。今にして思うと彼女は、人がたしかにそこにいたんだ、という歴史的視点で舞い上がっていたのかもしれない。でもその時の僕には、無惨にも首ちょんぱされた雪だるまの死体が、悲しく転がっているだけにしか思えなかった。


 三人で協力して胴体に頭を乗せてから、僕らは歩き出した。見た目以上に雪の塊は重く、予想以上の重労働だったが、坂本は満足しているようだった。それからその辺に落ちていた木の枝を拾って、胴体に二本ぶっ刺してやった。幸運にも手を得た雪だるまは、なんだか嬉しそうに見えた。


 雪の積もった道を歩くというのは、結構しんどいことだった。車の車輪で踏みつぶされた部分は凍っていて気を抜くと転んでしまいそうだし、足の裏からは冷たさが靴底を貫通して皮膚に伝わってくる。対策不足と言われればそれまでだが、雪を踏んづけていると知らないうちに靴の中に水が入っているもので、気づいたら足の先がひどく痛むようにもなっていた。


 歩くのをやめてここに座り込むことを想像する。実際にはちゃんと足を動かし続けてるんだけど、そういう妄想が頭に流れる。そのまま死んで、青白くなった僕の体に真っ白な雪が積もっていく。別に楽しくもなんともない想像だったけど、現実逃避としては意外と救われる。そうやって何度も死んでたら、木造の一軒の白いペンションが見えてきた。二階建てで、その周辺は広く開けている。そのそばには小さな小屋と、もう一つ大きな建物があった。駐車場らしき場所には、黒いセダンが一台止まっている。


「ここか……」


 やっと着いた、とばかりに顔を上げた。実際に歩いていたのは十分くらいだったけど、なんだか相当長いこと歩いていたような気がする。空はもうほとんど暗くなっていて、遠くの方にかすかに太陽の残滓を感じるだけだ。携帯で時間を見ると、時刻はちょうど五時を示していた。


 遠目から見た感じ、ペンションは意外と綺麗だった。安い宿を選んだから、値段からしてもっとお化け屋敷みたいな、隙間風ぴゅうぴゅうの掘っ立て小屋を想像していたんだけど、全然そんなことはなさそうだった。


「雰囲気あるね」


 井波が言った。たしかに外観だけで見れば、映画のセットなんかにも見えなくはない。こういうところで暖かい料理がふるまわれ、人々は外の寒さとは無縁の、至福のひと時を過ごすのだ。きっと照明は柔らかい橙色で、人や物の輪郭をぼかすエフェクトなんかもかかっていることだろう。そんなシーンを頭に浮かべた。


「行こうか」


 足元に目をやる。僕たちの前に来たほかの宿泊客のものと思われる足跡が二つ、まっすぐにその建物まで伸びていた。駐車場に止まる車のそばにも、一人分の足跡が残っている。それを見ていたら、なんだかそこを通った人の動きが見えるような、過去を覗いてるみたいな不思議な感覚に陥った。きっと、エベレストでも登るみたいにガチガチに防寒対策をした若いカップルが、遭難中偶然にもこのペンションを見つけたのだ。そんなどこか憔悴と安堵が混ざったように感じられる(少なくとも僕はそう感じた)足跡をたどって、僕たちもペンションの、木でできたダークブラウンの扉を開けた。


 ドアを開けてまず視界に飛び込んできたのは、少し広めのロビーだった。壁際には薪がくべられた黒い暖炉があり、その前面についた扉の透明な窓からは、あたたかなオレンジの炎が揺らめいている様子が確認できる。口で説明するのは難しいんだけど、本当にイメージ通りの暖炉なんだ。サンタが不法侵入してくるようなレンガ造りのやつじゃないんだけどね。黒い金属でできた素朴な感じのそれは、不思議とそばに寄っていないのに見ているだけで体が温まるような感じがする。


 そしてその暖炉の周りには、一人がけの背もたれがついた木造の椅子が六つと、白い石でできたローテーブル。それから三人がけくらいの赤いソファが置かれており、壁には十七世紀にオランダで描かれたような素朴な風景画が額縁に入れられて飾られていた。暗い小さな湖の周りに控えめな色をした緑の木々が茂り、空には青空と灰色の雲が浮かんでいる。絵画にはあまり詳しくないけれど、いい絵だなと思った。絵によっては「自分こんなこともできます」と画家自身の主張が全面に出すぎた作品や、派手な色をたくさん使った作品があるけれど、そういったものよりはこういう落ち着いた雰囲気の作品の方が僕は好きだった。


「すごい……」


 見るからに高級感があるその内装に、エントランスで立ち尽くす僕たち。宿を間違えてしまったんじゃないかと何度か携帯を見返したくらいだ。とてもじゃないが、あんな安値で泊まれそうな場所じゃない。ようやくはっとしたころには、今度は誰かのしゃべり声が左手から聞こえた。


 靴を脱ぎ、赤い絨毯が敷かれたロビーに足を踏み入れる。ロビーの右手奥には二階に続く木製の階段があり、正面には胸の高さくらいの、これまた木でできた受付があった。首を伸ばして様子を窺うも、受付には誰もいなさそうなのでロビーをさらにもう少し奥に進み、今しがた声がした方向に目をやった。


 するとそこは、さらに開けた空間になっていた。一見するに食堂のようだ。貴族が一堂に会して食事をするような長いテーブルが二つ並べられており、その両脇に椅子が等間隔で並んでいる。机も椅子もどれも木製で、ところどころ木目がはっきりとその表面を飾っている。そしてそんな木のテーブルをはさんで向かい合うように四十代くらいの男と老夫婦が談笑していた。


 彼らは僕たちの到着に気づいたのか話すのをやめると、サンタクロースみたいに穏やかな笑みをこちらに向けてきた。おばあさんだけはちょっときつい感じのする人で、愛想の「あ」の字もないような顔だったけど、別に僕たちの到着を疎ましく思っているわけではなさそうだった。僕らは無言のまま軽く会釈する。三人そろって人見知りというわけではないけれど、こういうときってうまく声が出ないんだ。だからとりあえずの礼儀として、ほんのちょっとだけ、痙攣みたいに一瞬頭を下げる。


「浅田さん、お客さんだよ」


 老夫婦のご主人であろう白いひげを生やしたダンディな感じのおじ様が、食堂のさらに奥にある、ここからは見えない場所へと呼びかけた。すると五秒ほどして、スーツを着た男性が柔和な笑みを浮かべて現れた。豪邸で働く執事を思い浮かべてほしい。「おぼっちゃま」「お嬢様」とか言ってるやつ。その男は、まんまあの感じだった。パリッとしたタキシードを着て、その胸元には赤い蝶ネクタイがあしらわれている。何か作業をしていたのか、白い手袋まではしておらず、彼はタオルで丁寧に手を拭いていた。


「いらっしゃいませ。ペンション浅田へようこそ」


 その執事みたいな男性は「寒かったでしょう」と言って深々と頭を下げた。それで僕はちょっとだけ笑いそうになってしまった。勘違いしないでほしいんだけど、こんなセンスのある建物で、きっちりとした格好の人が、「ペンション浅田」なんてまるで売れない芸人みたいな名前を口にしたから笑ったわけじゃ決してないよ。何も面白くはないんだよ。本当に。


「予約していた、高津順平です」


 僕はふっと一息吐いてから、頭を下げた。


「はい。そちらは井波様と坂本様ですね。お待ちしておりました。わたくしはこのペンションのオーナー、浅田隆一と申します」


 改めて深々とお辞儀をする浅田さん。その仕草はとても落ち着いていて、どこにもインチキ臭さは見られない。大抵、僕なんかが同じことをやるとひどく間抜けになるか詐欺師っぽくなるかの二択だから、これは結構不思議なことだった。


 彼に連れられて受付の方へと歩く。そこで、ここでのルールについて軽く説明された。僕らには一人一部屋ずつ個室が用意されており、それは受付のすぐ脇にある階段を登った先の二階にあるらしい。そこで基本的には寝泊りすることになるわけだが、夜は七時、朝は七時半に夕食と朝食が用意されるので、その時間になったらこの一階の食堂に降りてくるよう伝えられた。


「それから、非常に申し訳ないのですが……」


 浅田さんは受付のカウンターの向こうで何か書類を書く手を止めて、一枚の紙を見せてきた。その紙には、温泉の利用可能時間が書かれていた。それをペンで示しながら、彼は説明を続ける。


「うちの温泉は露天風呂になっているんですが、脱衣所など分かれていませんので二時間おきに男湯と女湯で分けさせていただいております」


 三人でのぞき込むようにして紙を見る。




男湯


 十六時――十八時。二十時――二十二時。零時――二時。四時――六時。


女湯


 十八時――二十時。二十二時――二十四時。二時――四時。六時――八時。




 紙にはそう書かれていた。


「つまり、私は順平や康介と一緒には入れないわけね」


 ものすごく残念、といった調子で坂本が言う。彼女の性格を知っている僕と井波にはそれがいつものつまらない冗談であると理解できたが、浅田さんはそうじゃないみたいだった。彼は「ははは」と笑ってから「申し訳ありません」と謝罪してきた。もしかしたら、男二人と女一人で一緒に風呂に入ろうとしていた、なんて訳の分からない勘違いをされたかもしれない。もしそんな三人組がいたら、それは結構歪んだ関係性だと思うけど、オーナーである浅田さんは一切詮索するような様子もなく、プロらしく淡々としていた。まあ多様性の時代だし、中にはそういう客もいるのかもしれない。下手に言葉を交わすと訴えられるかもしれないし、そこには彼なりに身につけてきた護身術みたいなものが感じられた。


「お手洗いと温泉は後ろにあるエントランスの扉から出ていただいたところにあります。左手にある小さな小屋がお手洗いで、右手にある大きな建物が浴場になります。お外は雪が降っていますので、ご利用の際はお気をつけください」


 浅田さんの説明によると、個室にはトイレや風呂はついていないみたいだった。いちいち外に出ないといけないというのは結構面倒だけど、文句を言えた義理はなかった。そもそも値段からして想像もしていなかったくらい上質なのだ。釣り合いをとろうと思ったら、それこそ個室の壁中に虫が張り付いてるとか、血痕が床にべっとりと染みついてるとか、そのレベルじゃないとおかしい。浅田さんから個室のカギを受け取った僕は、わずかに緊張感を覚えた。


「夕食は七時になります。それまでご自由にお過ごしください」


 現在の時刻が五時過ぎだったから、あと二時間弱あることになる。食堂で談笑している三人に軽く頭を下げてから、僕たちはとりあえず荷物を持って部屋に向かうことにした。


 受付脇の階段には踊り場があって、そこで一度折り返すような形になっていた。手すりにはゴシックっぽいデザインが施されており、その両端にはチェスのクイーンの頭を引っこ抜いたみたいなオブジェがついている。木造の段を踏みしめるたびにかすかに軋むような音がなるが、別に気になるほどのことではなかった。


 階段を上りきり二階に上がると、そこには洋館みたいな廊下がまっすぐに伸びていた。床には暗い緑と赤の絨毯が敷かれていて、その両脇と突き当りに扉が並んでいる。右側に三つ。左側に三つ。突き当りに二つと、全部で八部屋あるみたいだった。ペンション全体を通してやや照明が抑え気味だからか、それとも壁や扉がどれも暗い茶色で作られているからか、こうして見てみるとシックな印象を受けるとともに、少し寒々とした雰囲気があった。でもまあ実際は、暖房がきいているからむしろ暖かいくらいなんだけどね。


 僕の部屋は、階段を上がった先から見て突き当りの右側の部屋だった。その隣、突き当り左が坂本の部屋で、井波の部屋は廊下右側の一番奥の部屋だった。つまり僕は井波とも坂本とも部屋が隣り合っていることになる。きっと浅田さんが気を利かしてくれたのだろうと思った。


 それぞれ部屋の前に立って、鍵を差し込んだ。扉の取っ手に手をかけた際、僕は少しばかり緊張してしまった。今のところ、この宿が安い理由が見当たらないからだ。どんな虫がいるのだろう。どんな事故物件なのだろう。ありとあらゆる最悪の可能性を頭に思い浮かべ、ぎゅっと目をつぶると、僕は取っ手を回した。はたから見たら部屋に入るだけなのに何をしているんだという感じだろうけど、この時の僕は本気で少々緊張していたんだよ。


 ドアを開けても、異臭はまったくしなかった。灯油ストーブっぽいあの独特なにおいはしたけれど、死体が腐っているような不快感はない。それで目を開けると、これまで通ってきたロビーや廊下と同様、落ち着いた雰囲気の部屋が広がっていた。もちろん、壁にゴキブリやムカデなんかもついていない。そこまで広い部屋じゃないけれど、大きめの窓がついていて、そこには黒いカーテンがかかっていた。部屋の真ん中には綺麗にメイキングされたベッドが置かれていて、赤い毛布もその上に用意されている。隅にも目を向けると、クローゼットと冷蔵庫、それからちょっとした作業ができるくらいの机まで置いてあった。この時の僕の安心感は、言葉じゃ言い表せないよ。


 適当に荷物を放ってドアに鍵をかけると、僕はベッドに腰を下ろした。部屋中を見まわして、よくもまあ、こんなに無駄なく家具を配置できるものだと感心してしまう。受付とつながっているだろう机上の電話一つとっても、邪魔にならないよう工夫して置かれているのがわかる。浅田さんにテトリスとかパズルゲームをやらせたら、ひょっとすると世界記録を出してしまうんじゃないか。そう思えるほどの整然さだった。浅田さんが必死になって「長い棒来い!」とか言ってるんだ。そうやってスーツを着てテトリスをやる彼を想像してみたら、だいぶ笑えた。


 ベッドに横になって天井を見上げる。三つの円が三角状にくっついたようなデザインのオレンジのライトが、まぶしすぎない程度の明るさで部屋を照らしていた。まるでテーマパークに隠されたネズミのシルエットみたいだ、と思った。きゃぴきゃぴした女子高生とかがこれを見たら、「あ、隠し○○」なんて言い出すだろう。それで僕はちょっとうんざりするはずだ。腕と足を広げて、ちょうど大の字を描く感じで全身の力を抜いた。


「疲れた……」


 自然と声が漏れた。初めてのスノボで普段使わない筋肉を使ったからか、いつもより筋肉が強張っているのを感じる。しばらくその体勢のまま体を休めていた。そのままどれくらいの時間がたったのかはわからない。この部屋には時計がなかったし、わざわざ確認するために携帯をとりにいくのも面倒だったからだ。


 体感三十分ぐらいそうしてから、風呂にでも行こうかと上体を起こした。ベッドから立ち上がり、風呂の準備をする。それからもう部屋を出ようかというところで、肝心なことに気がついた。つまりだね、いつだって僕たちが何かを始めようという気になったときに限って、時間とかそういうどうしようもないものが邪魔をするんだ。男湯は十八時までと浅田さんが言っていたのを思い出す。携帯を見ると、時刻は五時四十分を過ぎたあたりだった。今から行っても、三十分も入れない。それで完全に萎えた僕は、せっかく用意した入浴道具を床に放って、過去の再現みたいに再びベッドに横になった。


 何もやる気がしなかった。いや、僕の場合やる気があることの方がむしろ少ないんだけど、一度生じた意志をくじかれたときは、なおのこと気分が落ち込むんだ。特に、温泉に行こうとしたらもう時間がほとんど残っていなかった、みたいなときにさ。


 目を閉じたら、そのまま何時間でも眠ってしまいそうな予感がした。だから僕は携帯を拾って、別にやりたくもないパズルゲームをすることにした。ちょうど今、期間限定でレアモンスターがドロップするイベントをやっているのだ。もうこれっぽっちも欲しくないんだけど、惰性で続けているゲームだった。だいたいからして、この手のイベントは珍しいものでもないんだ。どうせこのイベントが終わったら、また新しい期間限定イベントが始まる。そうやってユーザーを飽きさせないようにしているわけだ。そういうところも含めて正直うんざりだったけど、どういうわけか僕は毎度のこと、この手のイベントに参加していた。


 そうしてあと少しでボスが倒せるという頃、突然部屋のドアがノックされた。僕は携帯から顔を上げた。時刻は六時十五分。まだまだ夕飯までは時間がある。携帯の電源を落としてドアを開けると、そこには坂本が立っていた。


「来ちゃった」


「何の用だよ」


 彼女はいたずらっぽくはにかむと、勝手に部屋の中に入ってきた。女の子っていうのは、とにかく男の部屋に入るのがうまいんだ。そして一度入ったら最後、なかなか出ていかない。そうやっていつかは金品を物色しだすんだよ、きっとね。


「暇だからさ。ほら、座って」


 僕の上着とか、入浴道具とか、パンツとかが散らかっているのには気にも留めず、まるで自分の部屋みたいにベッドに座った彼女が、自分の横をぽんぽんと叩く。部屋で着替えたのだろう。かわいらしいもこもこした部屋着姿が、おしゃれなベッドとよくマッチしていた。


「あのつまらないゲームから現実に引き戻してくれたことには感謝してるけど、でもほんとに何の用?」


 僕の質問には答えず、彼女はじっと僕を見つめてくる。彼女のことを知らない人が見たら、きっとかわい子ぶっているだけの嫌な娘に思えるだろう。でもそれなりに長く彼女と一緒にいる僕には、それが何か言いだそうとして言い出せないでいるだけだとすぐに分かった。


「何か話があるんだろ? 教えてよ」


 そう言いながら、坂本を見つめ返す。でも同時に、こうなったら全然話しださないことも、僕は知っていた。結局は気分次第なのだ。そして彼女が話す気にならない限り、拷問をしようが何しようが彼女はそれを教えてくれない。


「はやく座りなさいよ」


 一向に立ち続けている僕に嫌気がさしたのか、彼女は半ば強引に、腕を掴んで僕をベッドの方へ引っ張った。仕方なく彼女の隣に腰を下ろす。まだ風呂には入っていないはずなのに不思議といい匂いがして、そんなことを一瞬でも考えた自分にうんざりした。


「あのさ、前に腕時計買ってくれたじゃない?」


 彼女はまるで小さな子供がお父さんに何かをねだるような口調でしゃべりだした。


「今度の誕生日も、何か買ってくれたりするの?」


「なんでそんなことを聞くんだよ」


 僕はちょっとびっくりして聞き返した。彼女はそんなことを言い出すタイプじゃなかったからだ。むしろ普段は「自分のものは自分で買う」と言っているし、もし仮にほしいものがあったとしても「これが欲しい」とはっきりと言うタイプだ。


「坂本は僕のことを、都合のいい財布かなんかだと思ってるのか?」


「違うわよ! そうじゃない、そうじゃなくてね」


 それから彼女は、何か気まずそうにごにょごにょと口の中で言葉を転がして逡巡した末、結局何も言わなかった。


「ちょっと気になっただけよ」


「あ、そう」


 僕は返す言葉に困って、床におろしていた足を適当に組んだ。内心、まるで意味が分からなかった。優秀なホストやメンタリストなら彼女が言わんとしていることが読み取れたのかもしれないけれど、僕はあいにくそんなインチキくさい連中の一人じゃなかった。でもそんな僕にも、彼女が何かしらの理由で落ち込んでいることくらいはわかった。いまいち無理して明るくふるまっているような、そんな気がするのだ。うまく言葉にはできないんだけど、なんとなくそういうのってわかるんだよ。もちろん僕の気のせいかもしれないし、相手からしたらそういう変に察されている状態って鬱陶しいものかもしれないけど、とにかく彼女はただ黙って下を向いていた。


「――――っ」


 それから彼女は、いつもみたいに唐突に、僕にキスをしてきた。なんとなくそんな雰囲気がしていたから、これに関してはあまりびっくりもしなかったんだけど、僕は静かに彼女を引き離した。


「ダメなの?」


 彼女はじっと僕の目を見つめながら尋ねてきた。そういう言い方ってずるいと思うんだ。こんな風に言われたら、大抵の男は家だってなんだって彼女に買ってしまうだろう。僕はいろんなことを考えて、結局情けない感じでそれに答えた。


「ダメじゃないけどさ」


「ならいいじゃない」


 そう言うと彼女は再び唇を合わせてきた。僕は自分で結構理性的な方だと思っているけど、だからと言って僧侶みたいな確固たる潔白さを持ち合わせているわけじゃなかった。そうして僕たちはしばらくの間、ネッキングみたいなことを続けていた。キリンじゃないんだから、そんなことに必死になっているなんて馬鹿みたいだと自分で思う。だけどさ、大抵の場合、人間なんてセックスが絡むと馬鹿になっちゃうんだ。君たちだって、人のことを馬鹿にしたりはできないはずだよ。とにかく、明日は我が身なんだ。


 そしてついには、彼女の手が僕のズボンのベルトにかかった。もうそういう空気になっていた。部屋全体にエッチな雰囲気が充満していて、ピンクの煙でも漂っているみたいだった。でもこういうときに限って、意外と冷たい意識が入ってくるんだよね。隙間風みたいに。僕はそこではっとして、彼女の手首を掴んでそれを止めた。やっぱり、僕は理性的なんだよ。単に疲れていたとか、自信がなかったとか、そういうことじゃ決してない。ここは僕の自宅ではないし、ましてやラブホテルでもないんだ。少し古びた、おしゃれなペンションなのだ。隣の部屋には井波もいる。それで僕は、坂本をそっと引きはがした。


 彼女は何も言わなかった。別に気まずさなんてものもない。もうほんとに最初から何もなかったみたいに、僕の隣に腰を下ろした。


「スノボどうだった?」


「難しかったよ。気づいたら体が宙を舞ってるんだ。全身の骨が折れたかと思ったよ」


「スキーの方が簡単?」


「どうだろう。スキーに慣れてなかったら、スノボの方が簡単かもしれない」


 結局、ああいうのはどっちに長く慣れ親しんでいるかによる気がする。なまじっかスキーができる分、変な癖みたいなのがついちゃっているのかもしれない。これは別にスキーやスノボに限った話じゃなく、先入観がない方が上手くいくのは往々にしてあることだ。


「今度は坂本も一緒にスノボやろうよ」


 別に深い意味があって言ったわけじゃない。そもそも、ちょっとした日常会話で深い意味を込めるほど、知的ぶったインチキなことを僕も彼女もしたりしない。坂本もそれはわかっていたようで、「そうね、考えとく」と笑って立ち上がった。


 それから、彼女は僕の部屋を出ていった。もうすぐで夕食の時間のはずだ。軽く身なりを整えて少しだけ時間をつぶしてから、一階へと降りることにした。

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