第3話
人生百年時代。これは社長の口癖の一つでもある。だから六十歳などまだまだと言いたいのだろう。とは言え、恋愛に踏み出そうとは思えない。これは歳のせいではない。愛した女性は皆不幸の道を辿っているというのがそもそもの理由だ。
それをどこまで知っているのか社長から一枚のメモが手渡された。日程と店の名前が記されている。軽く目で合図し、「領収書はうちの会社名でな」口にしたのはこの一言だけだった。
向かった先は料亭だった。超が付くほどの高級な感じではないものの、趣は十分に感じられる。ほぼ同年代と思われる女将に名前を告げると、お連れさんがお待ちですと言って奥の個室に案内された。
襖の先は六畳程度の広さがあって、そこに恐縮そうに女性が座っていた。松原さんだった。予想通りだったため特に驚きもせずに俺は向かい側に腰を下ろす。
「どうにも世話焼きで困ったもんですね」
微苦笑を浮かべると松原さんも控えめにこくりと頷いた。
「でも考えようによってはこんなところで美味しいものが食べられるんだから感謝した方がいいのかな」
同意を得ようと笑って問いかける俺に松原さんもニッコリと微笑む。優しそうな笑みだ。だが、あまり気乗りではないことも見て取れる。ひとまずはこの時間だけでも楽しもうと俺はメニューに手を伸ばした。
「せっかくだから一杯飲もうかな。松原さんはどうです?」
「いえ…私は…」
無理強いしてもいけない。そう思った俺はビールと一緒に注文を告げ、早々に届いたグラスを口に運ぶ。ある程度のことは話すべきだろう。これは向かう途中で考えていたことだ。ならばアルコールの助けを借りた方が多少は喋り易くはなる。
卓を彩った料理が半分ほど消えかけた頃だった。
「死別だってことはご存じというかお聴きになりましたか?」
「ええ…交通事故だったとか。お気の毒なことでしたね」
事前に多少の情報は伝えてあるのだろうと俺は頷きながら視線を落とした。
「ちょうど定年になるって日でした。それを祝おうと妻がケーキを買いに行ったんですが、運が悪いというのか…」
松原さんはやや目を見開くようにじっと俺の顔を見ていた。
「スマホに夢中で信号を見落としたんでしょうね。病院に搬送されましたが…」
そこから先は続かなかった。三年経っても色褪せないその時の光景が頭の中に映像として流れ始める。
幻聴かもしれないが、あれは確かに
「…そうでしたか」
やっと出したと思われる松原さんの声で俺は記憶を断ち切る。そして漂い出した静寂な空気を追い払うように追加のビールを頼んだ。
「実はこんなことを松原さんに話して良いものか悩んだんですが―――」
二杯目のビールを口に運んでから、過去の恋人の話を聞かせた。
「つまりは…なんていうか、俺の愛した女性は不幸な結末を迎えてしまうわけで。いうなれば疫病神って感じなのかな」
笑ったつもりだったが、はたしてそう映ったかどうか。
「疫病神だなんて…。お付き合いした人全員じゃないんでしょ?」
「二人…だけですが」
付き合ったのか単に友達だったのかはわからないが、それを含めると三人ということにもなる。ただし、それを言ったところで何もならないと口を噤んだ。
「もう一人の方というのも、事故か何かで?」
「いえ…事故というよりは自殺なんです」
言い終えた直後、松原さんの瞳が大きく開く。驚くのも当然だ。そこでしばし会話が途切れ、沈黙が部屋の中に漂い始めた頃、「気休めにもならないでしょうけれど、悪い偶然がたまたま重なってしまったんじゃないかしら」
親身と邪険の中間という口調で松原さんはポツリと呟いた。それが俺には有難かった。いうなればこれも年齢を重ねたからこその配慮だろう。
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