第2話

八神やがみさんでいらっしゃいますか?」


 先に声を発したのは女性の方だった。ちょうど六十歳と聞いていたが、声は歳よりも若く聞こえ、体型もスラッとしている。この日のために美容院でも行って来たのだろう。髪は明るいブラウンで染められ白いものは見えなかった。


 すぐさま俺も相手の名前を確認し軽く自己紹介する。汚れでも払うような仕草をしてから隣に座るよう促すと女性は恐縮そうにしながらワンピースの裾を畳んだ。アラ還の男女がこうして公園のベンチに腰掛ける様は至って自然に見えるだろうが、当事者たちは何ともしがたい距離を感じていたに違いない。


 女性の名前は松原美恵子まつばらみえこと言った。


「松原さんは、今日のことをなんて言われたんですか?」


 在り来たりの会話の流れであるかのように俺は笑顔を交えながら問い掛けた。


「なんて言うか、会って欲しい人がいるからって。知り合いと言うか遠い親戚の人なんですが。それでいろいろ聞きましたら八神さんところの社長さんがお友達だったらしくて」


 なるほどと俺は心の中で相槌を打つ。大方飲みにでも行って話でも盛り上がったのだろう。


「実は私もまったく同じで」


 社長室での出来事を苦笑交じりに伝えると松原さんは口に手を当てた。


「うちの方も同じことしてました。というか土下座みたいにして頼み込まれちゃって」

「どうやら余程二人は世話焼きと見えますね」


 松原さんの言葉に俺はゆらゆらと顔を揺らす。松原さんも肩を揺らしやや切れ長の目を細めた。


「一応、これで二人の顔は立ったわけですけど、せっかくだから―――」



 義理は立てた。恐らくこの女性、松原さんとは会うこともない。そう思った俺だが、ベンチで話をしただけでは土産話に格好がつかないと郊外にあるカフェに向かった。


 松原さんの家は比較的公園の近くらしく徒歩で来たのだとか。車内ではそんな他愛もない話が中心だ。ただ、女性を乗せて走ることなど久しぶりだったので普段とは違う緊張を覚えた。それでも悪いものではないと軽やかにハンドルを操った。




「どうだったね?」


 翌々日の月曜、倉庫で荷物の確認をしていた時、社長が俺の肩をポンと叩いた。周囲に聞こえないよう小声ではあったが、目は報告を催促している。しかし、期待に沿う答えは返せなかった。


「で、次の約束はしなかったって。連絡先くらいは訊いたんだろ?」


 ニンマリした表情が俺の声を聞き徐々に真顔になっていく。


「やり手のセールスマンだった八神さんらしくないって言うか、気持ちはわからんでもないけどな~。あくまで友達としてどうかって話だからさ」


 言った後で社長は何か考える素振りを見せ、「また段取るからさ、飯でも行って来いよ」と二度ほど軽く肩を叩いてその場を立ち去った。


 家に帰った俺は皺の残る洗濯物を取り込んでから風呂の用意をした。そして冷蔵庫から缶ビールを取り出しそのまま口に運んだ。洗い物を少しでも出さないようにとグラスで飲む習慣はだいぶ前から無くなっている。


 料理に関しても同様で大抵はコンビニ弁当だ。社長が言うように男やもめは大変でもあるが、何も俺だけではないし、だいぶ慣れても来た。


「友達としてか…」


 点けた煙草の煙と一緒に言葉を吐き出す。禁煙だった家も一人で暮らすようになってからは気を遣うこともなくなった。たなびく紫煙をじっと見つめる。この歳になれば社長たちの意図はくみ取れるし、厚意は有難いとも思える。


 しかし…だ。


 あの日の松原さんや俺の表情からして、義理立てしていることは明白。それはそうだろう。あの歳まで独り身でいて今更他人のために料理や洗濯などしようなんて思うはずはない。

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