疫病神

ちびゴリ

第1話

 中指の第二関節あたりで二度ほど扉をノックする。ある程度聞こえるよう、ただし、強さは控えめだ。その直後、社長室と記された部屋の中から声が届く。馴染みの声ではあるものの、滅多に立ち入らない場所だからか、ドアを開ける手にはやや緊張があった。


「おーっ!来たか。忙しいところ悪いな」


 顔を見た途端、社長の五十嵐は七十歳を過ぎた顔に刻まれた皺をさらに深くし、四人掛けのソファーに座るよう促す。その表情と仕草からも仕事の話ではないなと感じた。


―――「三時休憩に社長室に来るようにって」


 事務員からそう言われたのは二時半くらい。とりあえず返事はしたが、呼ばれる理由が皆目見当がつかない。定年後の延長雇用の際でも声を掛けられたのは倉庫で棚卸しをしている時だった。


 従業員が二十人程度の零細企業だ。気さくでマメな性格もあってこの部屋にいること自体も少ない。そんな社長があえてここに呼びつけたということは、恐らく人に聞かれたくない話なんだろうと腰を下ろしながら思った。あるいはそろそろ延長雇用の切れる三年。だとしたら俺の耳に届くのは別の言葉か。



「ちょっと今日は折り入って相談というのか、頼みとでもいうのか―――」


 やや、薄くなった白髪を撫でながら続く台詞を言い辛そうに苦笑を浮かべる。


「退職ってことですか」


 脳裏にあった言葉をポツリ呟くと社長の表情は一転した。


「何をバカな。退職どころかさらに一年延長してもらうよう吉川よしかわには伝えてあるんだけど」


 吉川というのは部長で、俺よりも十歳若く五十三歳になる。名前を聞いて面倒見のいい穏やかな顔を思い浮かべていると、「実は会って欲しい人がいるんだけど、どうだろうか?」


 社長は反応を伺うように俺の目を覗き込んだ。




 翌週の土曜日の午後、俺はとある公園のベンチで先週の社長とのやり取りを思い出していた。約束の時間まではあと三十分程。春の訪れを感じさせる暖かい陽射しに包まれた園内には小さい子供と遊ぶ親の姿などもあって、それが俺の心を少しだけ解してくれる。


 一通り眺めてからは手持無沙汰にでもなったのか、スマホを取り出し保存してある画像を眺めた。妻の写真だ。



―――「会って欲しいというのは女性でね。なんていうか知り合いに頼まれちゃってね。もちろん結婚とかそういう話じゃないから」


 軽く考えろとばかりに手を数回振って見せ、「そろそろ三年。傷はまだ癒えないだろうけど、まだ若いんだから独り身ってのも何かと大変なんじゃないかって」


 気落ちさせまいと社長は顔を崩してから、目の前のテーブルに手をついて頭を下げた。元々、腰の低い社長ではあるが、いきなりだったので面食らってしまった。すぐに頭を上げるように言いながらも、ここまで面倒見てくれた恩義もあると俺は戸惑いながらも承諾した。


 会えばひとまず顔を立てられる。そう思った俺はあえて余分な質問はせず、社長の声に耳を傾けていた。


「一応バツイチだってことは伝えてあるから」


 腰を上げた俺に二度ほど頷いてから社長は片手を挙げる。よろしく頼む。これはいつもの社長のゼスチャーだ。



 スマホをポケットに仕舞いこんで視線を上げた時だった。こちらに向かって来る女性に気付いた。セミロングの髪に淡い紺色のワンピース。何かを窺うかの仕草に俺は間違いないと素早く腰を上げて軽く頭を下げた。

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