階段サーフィン

雪月風花

第1話 階段サーフィン

 あれは、ン年前――。


 ゲフンゲフン。ちょっとさばを読んでしまいました。

 はいはい、十ン年前。

 わたしがまだ独身だった頃の話。


 当時二十代だったわたしは、都心のそこそこ大きな会社で働いていた。

 会社は一部上場企業だけあって、山手線の某駅から歩いて数分の位置にあり、出勤時退勤時共に駅が凄く混んでいた覚えがある。


 なぜ片道一時間半も掛けて出勤しなければならない、家から遠い会社を働き場所として選んだのかというと、やはり大学で恩師が勧めてくれた会社だったということと、そこに至る為の定期券が欲しかったというよこしまな気持ちが働いたからに過ぎない。


 お陰で、習い事に買い物にと、会社帰りに定期を存分に使って都心生活を堪能したのだが、それは全て昔の話だ。 


 結婚して田舎に引っ込んだわたしが今、同じことをやれと言われたら、断固拒否するだろう。

 想像するだけで腰が砕ける。 

 そのくらい、当時のわたしは若かったのだ。


 さて、そんなわたしに起こったある日の朝の出来事だ。

 

 その日もいつもと同じように出勤し、高架のホームから大勢の人に混じって階段を降りようとしたとき。

 階段の手前でわたしはつまづいた。


 そのまま顔面から階段落ちするかと思いきや、当時の若かったわたしは、ぎりぎりバランスを保った。

 その結果どうなったか。


 目をしかめないで欲しい。

 わたしは正座の姿勢で階段を滑り降りたのだ。


 幸いにしてホームから途中の踊り場まで十数段で済んだとはいえ、その段数をわたしは正座で降り切った。


 いやもぅ、痛いの何のって。

 動けなくて、しばらく正座のままその場に留まっていたくらいだ。

 それこそ、高座に座った落語家さんのように。

 今思い出すだけでも泣けてくる。


 スカートは汚れただけで済んだ。

 ただストッキングはズタズタだった。 

 そして、言うまでもなく、スネは擦り傷で血だらけだった。 

 段々の痕がついたスネの痛かったこと痛かったこと。


 朝の出来事なこともあって、周りの人々は皆、会社に急いでいる。

 当然、そんなおかしなことをやっている若い子のことなんて、遠巻きに冷たく見て通り過ぎるだけだ。


 考えてみれば一瞬の出来事だったし、わたしが滑り落ちるところを近くでバッチリ見てた人ならともかく、通り過ぎる人には傷の具合なんて分かるはずもない。

 いきなり踊り場にペタンと座り込んだ変な子にしか見えなかったのも無理はない。


 だけどわたしはその時思ったものだ。

 世間って冷たい! と。


 ただまぁ、痛いことは痛いのだが、っていうか猛烈に痛いのだが、恥ずかしさで顔を真っ赤にしていたので誰も話し掛けてくれなくって、逆にある意味助かったとも言える。

 

 しばらくトイレにこもって、身なりを整えてからヒョコヒョコ足を引きずりながら会社に行ったのだが、この時ほど、会社がフレックスだったことをありがたく思ったことは無い。

 ともあれ、痛みに涙を堪えつつ仕事に打ち込んでいると……。


「ねね、雪月さん。さっき大丈夫だった?」


 出社するや否や、別の部署の同僚が話し掛けてきた。

 見てたのなら声掛けんかい!!


「ううん、全然。大丈夫、大丈夫」


 痛みにジンジンするスネを抱えつつ、わたしは彼女に頬を引き攣らせながらも笑ってみせたのであった。



 END

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