第11話 霜月
このところ登下校中に不審者に襲われる子が後を断たないので、全校集会で注意するよう言われたばかりだった。
めっきり落ちるのが早くなった太陽はもう竹薮の向こうに隠れ、長々と伸びる影に覆われた道の端から夜が滲み出している。昼間はまだ過ごしやすいけれど、それはつまり朝夕が冷え込む季節になったということで、日陰に入ると鳥肌の立つような冷気が凝っていた。家で待っているストーブが恋しい。
それでも、両手に手提げと鍵盤ハーモニカと体操着の入った袋を下げて、ずっと駆け足を続けていると全身に汗が吹いてくる。重く萎える足に鞭打って、がちゃがちゃと喧しいランドセルを背負い上げながら、今はとにかく帰路を急いでいた。
(――振り向くなよ)
兄貴の言葉を思い出しながら、後ろを確かめたい気持ちをようやく宥めて先を急ぐ。
つかずはなれずの距離を置いて、いつの間にかずっと背後を追いかけてきている静かな足音に耳をすませる。押し殺した獣のような足音は、逃げる側の乱れがちな靴音に比べるとずっと規則的で、そしてとても不気味だった。
――油断した、と唇を噛む。
このところ運動会の練習と学習発表会の準備で、全体的に遅くなることが多かった。そんな時期を見計らったように、学区内に不審者が現れるようになったのだ。声を掛けられて連れ去られそうになったとか、いきなり腕を引っ張られただとか、男女を問わず被害に遭う子が続出していて、先生はぴりぴりしていた。今のところは全部未遂で済んでいるけれど、驚いて転んで怪我をした子もいると聞いている。
そのため集団下校が原則になって、居残りは禁止になった。それでも作りかけの大道具や応援旗について、こっそり隠れて作業を進めている子は少なくない。今日もうちのクラスは学校の近所に住んでいる子の家に旗を持ち込んで、先生に内緒で色塗りをしていたばかりだった。
やっぱり不審者は怖いから、帰るときは方向が同じ子で固まって帰るし、不審者が出た直後の地区の子なんかは親を迎えに呼んだりする。うちの地区も下の集落までは、皆で固まって帰ってきた。ただうちの家は少し奥まったところにあって、周りに民家も何もない通りを少し通らなくてはいけない。危ないから送ろうか、と言ってくれる奴らもいたけど、帰り道はそいつらが怖い思いをするわけだし、こんな奥の方まで不審者は出ないだろうとたかをくくって、一人でふもとで仲間と別れた。
追いかけてくる足音に気付いたのはそれからほんのわずか後。竹薮は音が響きやすいから、はじめのうちは自分の足音が反響しているものと思っていたけれど、そのリズムが自分と違うと気付いたときには鳥肌が立った。
知らずの内に足を早めたけれど、足音は離れていかない。むしろひたひたと迫ってきている気がして、思わず振り向きそうになったとき、唐突に兄貴の話を思い出したのだ。
「つけられている、と思ったら、絶対に振り向くなよ。立ち止まるのはもっての外だ、追いついてくれと言っているようなもんだ。とにかく距離を稼ぐために、ひたすら前を向いて逃げろ」
変質者が出るらしいよ、と他人事みたいに兄貴に教えてみたら、意外にも兄貴は真面目な顔でそんなふうに言った。
「でも、警察とかに証言するときには顔を見ておいた方がいいんじゃないの?」
「馬鹿」
兄貴は怒ったように頭を叩いてきた。
「警察の世話になるような目に遭いたいのかお前は。考えてもみろ、顔を見られたと知ったら後ろ暗いところのある奴がマトモに帰してくれると思うのか? 逆上してえらい目に遭わされたらその方がコトだろう」
それもそうか。
「そもそも、尾けている時点ではまだ向こうも品定めの最中ってことだろう。逃げ覆されてしまったらそこまでだ。手当たり次第に襲って回ってるってことは計画も何もあったもんじゃねえんだろうから、とにかく逃げ切ることだけを考えろ。距離を詰められないように、速度を落とさず前に進め。逃げる獲物に追いつくのは意外と楽なことじゃない。そんで、とにかく誰かに助けてもらえ」
――そのときはふうん、と適当な相槌を打っただけだった。まさか兄貴の言葉に、こんなに縋りつく目に遭うとは思っても見なかった。
汗で服が背中に貼りつく。一歩進むたびに肘からぶら下げた手提げ袋が足を打つ。ぎいぎいと鍵盤ハーモニカのケースが喧しい。何よりずっと駆け足で下から登ってきたので、心臓の音がばくばくと響く。後ろを確かめたいというのは半分は言い訳で、立ち止まって息をつく口実が欲しかった。けれど、そんなことをしたらどうなるかわかったものじゃない。乱れのない足音は、ひたひたと遠ざかりもせず響いている。
竹薮を通り過ぎる風は昼間のそれではなくて、大きな鳥が翼を広げるような黄昏時の音を立てていった。上弦の月が中空で白く光って、そこに引っ掛かる灰色の雲が夕日の残照を照り返して少しだけピンクのような紫に色づいていた。逢魔が時が刻一刻と深まる中で、空の微かな紅色が紫色が、地面に落ちる影の輪郭が、辛うじて残った命綱のような気がしていた。
竹の茂る丘に沿って、道が緩くカーブする。そこを越えたら家が見えてくる、と思った途端に気が急いた。道なりに飛び込んだカーブの先には、遮られた夕日の作る大きな山影が落ちていた。微かな光だけを必死に探していた目が、突然の闇に驚いて眩む。
あ、と思ったときには遅かった。体操着を入れた巾着型の袋が、重石のように片足の周りにぐるりと絡みついた。駆け出していた勢いそのままに前へとのめりこみ、気付いたときには自分の足音が途絶えていた。ランドセルががしゃんと背中で凄い音を立てて、手提げとかの荷物で塞がっていた腕は反応しきれず、顔から真っ直ぐに地面に飛び込んでいた。閃光のような衝撃、遅れて鼻と膝がかっと熱くなる。
擦り剥いただろうどの傷よりも、耳に響いてくる足音が痛かった。と、と、と、と一歩ずつ、着実に背後から距離が近づいてきて、そして――。
「――お疲れさん」
不意に、頭の上の遠くから聞き慣れた声が響いた。転んで身を起こしきれないまま項垂れていたということに気付いて顔を起こすと、真っ直ぐ正面から近づいてくる足音が聞こえてきた。ざり、ざり、と真砂土を踏む草履の音。そして同時に、背後から迫っていた微かな足音がぴたりと止んだ。
草履の音はざりざりと、いっそ爽やかな音を立てて近づいてきて、そして鼻先までやってきた。
「うちのが世話をかけたな」
暮明の中から、指の細い二本の手がぬっと伸びてくる。肩口から脇の下に差し込まれ、そのまま抱き起こされながら、見慣れた着物の柄に泣きそうになった。
「……兄貴ぃ」
両腕の荷物は転んだ拍子に手放して、地面に転げたままになっていた。自由になった両腕で、思わず裾にしがみつく。結び締めた角帯の手触りがやけに懐かしかった。
ふと、軽い足音が再び響き始めた。と、と、と、と一歩ずつ、今度は距離が開いていく。
「待てよ」
兄貴がふと、それを呼び止めた。そして片身を屈め、片方の草履を拾い上げる。
袖を垂らして兄貴が真っ直ぐに腕を伸ばし草履を差し出すと、足音は再び近づいてきた。そして一瞬の間に草履を受け取ったかと思うと、大きな跳躍の音を一つ残してどこかへと消えていった。
「悪い悪い、迎えに出るのが遅くなった」
兄貴は片肩にランドセルを引っ掛けて、ナスカンに体操着の袋の紐を結わえ、両手で手提げと鍵盤ハーモニカのケースをぶら下げて持ってくれた。手持ち無沙汰になった両手をどうしようと思って、兄貴の袖の袂を掴む。あちこち擦り剥いた場所がじっとりと湿った痛みを抱えていた。
「――さっきの、何?」
影の中でよく見えなかったけれど、兄貴の草履を獣のように咥えて持って行ったのだけはわかった。最近出没する不審者の正体も、もしかしたら、と思っていると兄貴が見透かしたように言った。
「ガキに欲情する変質者と一緒にはするなよ。あれは由緒正しき送り狼だ」
「……夜道で女の人を襲うの?」
兄貴がぷ、と笑いをこらえた。
「大神も零落したなあ。ありゃ元々里山に住んでいる山犬でな、自分の縄張りに入ったもんがいるとそいつが出て行くまで変なことをしないか見張る習性があるんだよ。立ち止まったり変な動きをすれば襲いもするが、危害を加えないとわかれば黙って去っていく。自分の縄張りを守るために見張っているわけだから、無害な奴を尾行中に変なのと遭遇したら、ついでに追い払ってくれたりする」
野良犬みたいなものかな、と思ったけれど、あんまり口を利く気力が残っていなかった。それを酌んでいるのか、兄貴の声はあくまで陽気だ。
「通りすがりについてくるSPみたいなもんだが、効果は絶大だ。場所によっては神社で講を作って集落ごとに貸し出してたところもあるんだが、田圃の見張りから泥棒避けまで何でもござれの総合警備っぷりだったらしいぞ。あんまりにも重宝だから、大神と呼ばれたそうだ」
確かにそれは便利そうだ。ものすごく優秀な番犬をレンタルしてくれるみたいなものなんだろうか。
「講で貸し出される大神はきちんと躾ができているから人を襲わないが、野生の送り狼の方もちゃんとある程度は弁えていて、隙を見せたり怯えて転んだ人間は襲うこともあるが、休んでいる場合は襲わないんだ。あと、帰り着いた人間も襲わない。もうここまででいい、と声をかけたらそこで追尾も終わる。もしうっかり転んでも、どっこいしょとか掛け声を上げて休んでいるふりをしたり、もうここまでとか言えば、そこでメーターを倒してくれる」
何て言うか、すごく人間にとってはありがたい。習性というかルールをよく知っていれば不利益になることはないし、それを知らない人はつまり余所者ということなのだから、家を守るのにはうってつけだ。
「結果的に道中の安全を守ってくれているわけだな。今はもう講で貸しているのはいないが、お前は運がよかったな」
そんなことならもっと早く教えてくれたら、とか少しだけ思った。ただ、送り狼だから安全と油断していて本物の変質者だったら洒落にもならない。とりあえず、兄貴の言うとおり運がよかったんだと考えることにした。
「――そんなに便利なのに、もうレンタルやめちゃったの?」
ふと思ったことをそのまま訊ねると、兄貴は少しだけ口を噤んだ。そしてランドセルをがちゃりと言わせながら、もう一度口を開いた。
「講の山犬は大神という別名の通り民間信仰で祀られる神で、送り狼はそれが野に下りた妖怪だが、こいつらはきちんとした正体を持つ生き物なんだよ。今だと日本狼って名前がつけられている」
ニホンオオカミ。
あれ、と思って兄貴を見上げる。背の高い兄貴の顔は暗がりに呑まれていて表情はわからない。
「そう、動物園にはもういない。博物館でしか見ることができなくなった動物だ」
なぜだかぎくりとした。その意味を訊ねる言葉を捜しているうちに、兄貴はぽつりと言った。
「里山に住む神だった山犬は、いつの間にか祀られなくなったんだ。そのせいで追われ狩られ、すっかりいなくなっちまった」
神が零落すると妖怪になる、と兄貴は常々言っている。さっきの送り狼もつまり、信仰を失った大神の末路なんだろうか。昔と同じルールで人を追いかけて、勝手にルールを忘れた人間をこっそり襲う。それは仕返しとも呼べないほどささやかな意趣返しみたいだ。
「一匹もいなくなっちゃったの?」
「さあな。日本中全部の山を草の根掻き分けて探したわけじゃねえから、今でもたまに見たって話はあるみたいだが」
気付けば家の明かりが近づいてきていた。すっかり日暮れた宵闇から、もう一度ものの形が浮かび上がってくる。
ふと俯いた先に、並んで歩く兄貴と自分の足が見えた。転んだ拍子に砂埃と血痕のついたスニーカーが、左と右と順序よく閃く。その脇で、着物の裾から履き古した草履と、それから剥き出しの足袋がひらひら交互に覗いている。
「……ねえ兄貴」
「何だ?」
「草履は、何だったの? あげちゃったの?」
さっきの一瞬、草履を受け取った姿は確かに犬か何かの獣に似ていた。鼻先で確かめて、口で咥え、嬉しそうに身を翻して去ってゆく姿。それは確かに、実体を持つもののように見えた。
答える兄貴の声はさり気ない。
「きちんとお前を送り届けてくれた礼だ」
ふうん、と兄貴の足元を見下ろす。片方だけ草履を履いていると、少しだけ歩き辛そうだった。
「何で草履なの?」
「俺もよくわからん。送り狼への礼は何でか履き古した履物ってことになっている」
兄貴にもわからないことってあるんだ、と見上げると、兄貴がふとこちらを見下ろして眉を寄せた。
「……ほれ、犬ってよく人の靴とかサンダルを隠しては、喜んでしゃぶってるだろ。あれじゃねえの?」
思わず兄貴の足元を見返した。うちの門灯をあびて、残っている方の草履はくたびれきっている。
その草履の片割れを、人知れず里山の中で嬉しそうに前脚で抱き込んで齧っている送り狼の姿を少し想像してみた。狼の姿が想像しきれず、どうしても犬みたいな姿で思い浮かべてしまうので、何だか微笑ましいような侘しいような複雑な気がした。
「兄貴の草履だけじゃ悪いから、今度おやつ買ってくる」
「……お前も大概な奴だな」
「まだお世話になるかもわかんないし」
兄貴に持たせっぱなしの手提げを受け取りながらそう言うと、兄貴はぐしゃりと掻き混ぜるように頭を撫でてきた。擦り剥いた鼻の頭に前髪が擦れて痛かった。
――学区内を騒がせた不審者が逮捕されたのは、それから間もなくのことだ。
兄貴によれば、容疑者は野犬か何かに襲われてほうほうの体で交番に逃げ込んだらしく、散々な有様だったらしい。学習発表会の前に決着がついたのがありがたかったので、骨型の犬用お菓子を買ってきてうちの玄関先に置いておいたところ、一晩の間になくなっていた。
山犬
【分布】
かつての日本列島全域。
【形態】
中型~大型犬程度の大きさ。
日本犬に似るが腰の位置が低く、体型はシェパードに近い。
毛色は赤、黒、白、灰、虎、胡麻等バリエーションに富む。
被毛は短いものが多いが、飼育例には長毛種も確認される。
【生態】
夕暮れ時または明け方に活発になる。
多くの場合は10頭未満の群れで活動し、鹿等の獲物を狩って生活する。遠吠えをしたり、テリトリーに入った人間を追尾する等の習性があるため、生息域の周辺では認知されることが多かった。
山犬講のある山では、夏の霧の深い日に仔犬が生まれると伝えられる。立派な神使として成長した山犬は、シリアルナンバーを割り当てられて全国の希望者にレンタルされる。シリアルナンバー1番は当該神社の営業本部に割り当てられる。
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