第9話 長月
小学校からの帰り、リコーダーを吹き鳴らしながら近道代わりに田圃の畦を抜けていると、兄貴と遭遇した。
田圃ではたわわに実った稲穂が重く頭を垂らし、もう稲刈りの済んでいる早生田から吹き込んでくる稲藁風にさらさらと音を立てている。その縁を埋め尽くすように、彼岸花が咲いていた。葉のない彼岸花がぞろっと畦道に沿って並んでいると、まるで真っ赤な風車がたくさん地面に突き刺さっているみたいだった。
ちょうど彼岸花の脇でぞろっと着物を着流した兄貴は、道端にしゃがみ込んでいた。兄貴が人目に触れそうな時間に表を出歩くなんてことは滅多にない。
「あれ、兄貴珍しいね」
思わず声をかけると、屈みこんでいた兄貴はふとこちらを見た。
「花枝切ろうと思って出てきたら曼珠紗華が見頃だったんでな」
兄貴は彼岸花を根元の方でさくっと折り取って立ち上がった。鼠色の三尺帯の端にちょっと挟むと、ますます風車みたいに見えた。
「んで、お前は下手くそな笛を吹きながら何やってんだ」
「笛を吹きながらじゃないの。帰りながらリコーダーの練習をしてたんだよ」
リコーダーの指運びをさらいながら、兄貴をちらりと横目で見た。帰り道を辿り始めると、兄貴も隣をついてきた。
小学校では秋の終わりに学習発表会があって、みんなで音楽を演奏することになっている。それに向けて新学期早々から発表曲の練習が始まったのだけれど、普段音楽の授業でやるのよりも少し聞き応えのある長めのカッコイイ曲が選ばれたせいで、いつものようにはなかなか思うように吹けなかった。リコーダーのパートは思ったより難しいので、密かに鍵盤ハーモニカや打楽器とかを狙っているのだけれど、希望者が多くなるとピアノとかの楽器を習っている奴が有利になってくる。楽器が決まるまでは主旋律を覚えるためもあって全員リコーダーの練習をしているから、さし当たって練習をする必要があったのだ。
「何でみんなあんなにすらすら吹けるんだろう」
「お前が下手くそなんだろう」
「じゃ、兄貴見本お願い」
「だめ、俺アマリリスしか覚えてねえ」
兄貴はひょいと彼岸花を顔の前に掲げた。そうか、そう言えばアマリリスって彼岸花の仲間だったっけ。
「……どっかで神頼みしちゃおっかな」
わざと軽く言ってはみたものの、願掛けでもしないとやっていられないってのは本音だった。隣で兄貴が肩を竦める。
「言っとくが、記紀にも風土記にも万葉集にも歌舞音曲の神は出てこねえぞ」
「そうなの?」
八百万もいるのにそんなはず、と言い返そうと思ったら兄貴がやる気なさそうな声で補足した。
「一応芸能の神はアマノウズメとは言われているが、元祖お立ち台の女王で、ダンサー引退後は夫婦漫才ユニットおかめ・ひょっとこで一世を風靡したような女神にリコーダー教えてくれと頼むつもりか?」
「それ、岩戸隠れの神話のときに舞を奉納した女神様だよね……?」
そのくらいは神楽とかで見てあらすじも知ってる。天照大神が天岩戸に隠れたとき、光がなくなって大変だから何とか誘き出そうとして踊った女神のことだろう。お立ち台ってのは何となくわからないではないけど、まさか芸人までやってたなんて知らなかった。
「おう。ちなみに亭主のひょっとこは猿田彦な。あの女神は人々を湧かせるのが本義だから、芸人や俳優の方に性質は近い」
変な喩えだけど、レトロゲームの「あそびにん」が神様になったみたいなものだろうか。確かにその女神様に音楽を担当しろと言っても厳しい気がする。
「他にいないの?」
「そもそも記紀に音楽はほとんど出てこない。それらしいところだと歌か、楽器だと琴が辛うじて出てくるが、これは主に神託の場面だな。常陸風土記には天之鳥琴と天之鳥笛ってのが出てくるが、これも祭器としての扱いで、音を楽しむ音楽とは別のものだ。遺跡からはオカリナみたいな石笛が出ることもあるが、文字資料での記述は特にない。要するに、古代日本で音楽ってのは人間の耳を楽しませるものじゃなく神に奉納するためのものだったわけだ。管絃が入るのは大体仏教伝来と同じ時期だが、そこから遡って新しい音楽神が創出されたってことはねえみたいだな」
へえ、と思わず兄貴を見上げた。何となく古代から横笛とか太鼓とかで神楽みたいなことをしてそうなイメージなのに。
「実際にやってたかどうかと、書き残すかどうかは別問題だろうが、祭祀に最低限必要な修養だとしたら今更拝むまでもないってことじゃねえの?」
つまり、自分で地道にがんばれということだろうか。思わず俯くと、兄貴がこちらをちらっと見て笑った。
「まあ、日本出身の神に拘らなきゃ弁財天がいるけどな。あそこも専門は琵琶だし、女神だから恋愛成就やら芸事上達やら海上安全やら色々忙しいから、お前のリコーダーまで手が回るかどうか」
そう言えば弁天さんもいたっけ、と言われてようやく思い出した感じだった。どっちかと言えば財運の神様みたいな気がしてたけど、それを言ったら弁才の神様でもあるんだろうし、結構守備範囲が広そうだった。音楽専属の神様っていうわけでもないのかもしれない。
「思ったより少ないんだね、音楽とか芸事の神様」
「そんだけ専業でやってる人間が少ねえってことだろ。プロになるのは易しい道じゃねえんだ」
「別にプロになりたいわけじゃないんだけど……」
「それならますます、お前が頼むのは筋違いだ」
兄貴にぱしっと言われてしまって、思わずしゅんとしてしまった。そりゃあ兄貴の台詞はごもっともだけど、小学生だって笛の練習ばっかりしていられるほど暇じゃないし、複雑な運指もそう易々とマスターできるような気がしない。
そんな本音を見透かしたように兄貴が笑って、ふと袖を揺らしながら先を指差した。
「そんなに上手くなりたいなら、あそこで練習してみな」
そこに待ち受けていたのは畦道の終わり、農道との十字路だった。刈り入れの終わった田圃がその向こうに広がっているけれど、うちへ帰るにはそこの農道を曲がった方が近道だ。
「あそこって?」
「四辻で楽器の練習をしていると、もしかしたら神頼みよりも強力な師匠が降りてくるかもしれねえぞ」
意地悪く兄貴は笑う。彼岸花が咲き乱れる夕暮れ時の十字路は赤いフィルタをかけたみたいな色合いで、どことなく不気味だった。
「……逢魔が辻とか言わないっけ、ああいうとこ」
「今時は言うかもしれないが、逢魔が時が正解な。まあいいや、確かに辻に現れるのは魔物の類と相場が決まってる。辻神も神とは名ばかりの妖だしなあ」
一瞬その様子を想像し、不気味さに鳥肌を立てた。思わずリコーダーを振り上げて兄貴の肩をはたく。
「何だよ」
「ろくな目に遭わないじゃないかそんなの」
たかが学習発表会のリコーダーで犯すリスクにしては大きすぎる。いきなり突拍子もないことを言い出す兄貴にむくれていると、兄貴は機嫌を取るように頭を撫でてきた。
「魔物っつっても結構主観的なもんだぞ。例えば、西洋で悪魔なんて言われてるものなんて、実はキリスト教が入る前の土着信仰の神だったりするし、仏教でも似たような経緯で魔物を量産してたりするんだから。ほれ、悪魔には対価を求められるとか色々言われるが、生贄を求める神だって幾らでもいるんだし、魂を持っていかれるって言ったって、どうせキリスト教的な死後の世界とは別のところに行かされるってくらいのことなんだからそう気にすることもねえよ」
気にするなと言われても、何て言うかちょっと次元が違うような気がする。反論の仕方を探して首を捻っていると、兄貴は畳み掛けるように言った。
「それに、音楽は悪魔の得意分野なんだぞ。パガニーニは凄腕のヴァイオリンの名手だが、悪魔と契約したと自他共に認めるところだったし、同じくカリスマソリストのタルティーニは夢で悪魔が弾いてた曲で今日まで名を残すことになったし、モーツァルトに至っては、楽曲全般を悪魔が授けたとか言われるところだしな」
「モーツァルトって、トルコ行進曲とかも?」
あの陽気なアップテンポの曲までそう呼ばれてるのかと思ったら、兄貴はいつの間にかもう一本折り取った彼岸花を片手に振りながら言った。
「ありゃ完璧に真っ黒だろ。っていうかキリスト教だと音楽は緩やかな、まあ教会で聖歌隊が歌うみたいなあんなもんってことになってたんだ。教会の慣例に逆らうもんは全部悪魔のものってことになるからな。特にトルコ行進曲は元々イスラム軍楽の耳コピなんだから、異教徒の音楽なんざもってのほかだ」
それも乱暴な話だ。指が回らないくらいテンポの速い学習発表会の発表曲なんか、完全に悪魔の音楽ってことになってしまう。
「あと、有名どころだとブルースはじめたロバート・ジョンソンなんかも悪魔の愛弟子だな。アコギ一本抱えてアメリカ大陸中を歩いてたとき、十字路で悪魔にギターを習って超絶技巧を身につけたとか言われてる。こいつなんかは経歴もよくわかんない上に早死したから、余計に伝説が広まってるな」
歩いている間に、畦道が終わってちょうど辻の真ん中に立っていた。兄貴が足を止めるので、つられてそこに立ち止まるけれど、何だか落ち着かなくて思わず左右を見渡す。十字路の周りは全て田圃に囲まれていて、刈り終わった田圃から冷たい風が吹き込んできては稲穂をいっせいに騒がせるものだから一層不気味だった。さらさらと頭を揺らす彼岸花が、くるくると回っているように見えた。
「ブルースの悪魔は信奉者も多いんだぜ。何せブルースは、差別全盛期のアメリカにいたアフリカ系移民に爆発的にウケたからな。白人やキリスト教の世界に迫害されてた人間にとってみたら、まさしく別の秩序の神だろう」
「……でも、リコーダーは守備範囲外なんでしょ?」
兄貴の袖を引っ張ると、兄貴はひらりと彼岸花を顔の前にかざしてみせた。
「この悪魔の正体は、ブードゥー教の精霊のひとつ、レグバと言われてる」
「ブードゥーって、ハイチとかでやってるやつ?」
よくは知らないけれど、それって何か中米にあるオカルトっぽい宗教じゃなかったっけ。ゾンビとかそういうおぞましそうなイメージが付きまとっているやつだ。あからさまに顔を引き攣らせていると、兄貴は眉根を寄せて笑った。
「何かおどろおどろしいイメージが一人歩きしてるみたいだが、別にブードゥー自体はそんな変なもんでもねえぞ。アフリカの民間信仰が奴隷と一緒に新大陸に渡って定着しただけのもんで、中には藁人形的な呪術もあるが、別に全部それだけってこともねえさ」
「そうなの?」
「国教に指定してる国もあるくらいだ」
へえ、と思わず声が洩れた。何かちょっと意外だったけれど、そう思えばそこまでヤバイものでもないような気がする。
「レグバはそうだな、四辻や門と言ったものごとの境界に住んでいて、人の運命を司ったり神と人の仲立ちをするんだそうだ。元はアフリカの家屋敷の守り神だったんだが、奴隷と一緒に新大陸に連れて行かれて、白人社会で零落した挙句悪魔呼ばわりされるようになった、まあ不遇な精霊だな。日本の辻神とちょっと似てるかもしれん」
辻の真ん中で兄貴は袖を風に揺らしながら首をめぐらせた。それを見上げながら、率直な疑問を投げる。
「……レグバ、音楽とは全然関係ないじゃん」
「おう。ギターとも全然関係ねえ。要するに、人の望みに何でも感応してやってくれるってところが、悪魔の凄いところだ。『ファウスト』しかり、古今東西悪魔は結構律儀で面倒見がいいもんらしいぜ」
それもむちゃくちゃな話のような気がしないではない。
「ま、悪魔も元神って考えたら、信仰を取り戻せば元の地位に戻れるわけだから、普通の神よりは融通をきかせてくれるんだろう」
「そんなもんなのかなあ」
今ひとつ納得しかねるのだけれど、兄貴は彼岸花を手にしたままひょいと袖を絡げて腕を組んだ。
「神ってのは信仰あっての神だからな。零落すると妖怪になるし、迫害されると魔物にもされる。ああいう観念的な存在にとって一番大切なのは本義だ、変節した状態よりは元の姿に戻りたいのも道理だろう」
何となく考え込んでしまった。神様だから無条件に崇められそうなものだと思っていたけれど、人間の都合でいいように振り回されるのも堪ったもんじゃねえだろう。まして、祀っていた人間が他の人間の奴隷にされたせいで、祀られていた神まで悪魔扱いされるようになったのだとすれば、物凄く不当だと思う。
「どうだ、頼んでみるか? 神頼みよりは気安いぞ」
「……いい」
首を振ると兄貴はしたりと笑った。何か兄貴に上手いことはめられたような気がしたけど、いい加減人間に振り回されてる悪魔を呼びつけてくだらない願い事で奔走させるのは、さすがに申し訳なかった。頼める神様もいないことだし、素直に練習に精を出そうと心に決める。
と、ふと視野の端にちらりと人影が目に入って顔を上げた。見ると、刈取りの済んだ田圃の畦から人がやってきているところだった。
「兄貴、真ん中に突っ立ってると邪魔になるよ」
兄貴の袖を引っ張って囁き、家の側へ一歩道を譲る。その脇を丁寧に会釈をしながら通り過ぎたその人は、黒い古めかしいスーツを着て丸い帽子を被っていた。帽子のつばで表情までは窺えなかったけれど、微笑んだ口元は割と綺麗な感じだった。この辺りで見かける人ではなさそうで、ふと手荷物を見ると、ヴァイオリンか何かの楽器のケースを持っていた。
その人はすい、と黒い靴を翻して、うちへ向かうのと逆の方向の道へ入っていく。
そのまま兄貴の袖を引っ張って家に帰ってしまおう、と足を踏み出した途端、兄貴が不意に呼び止めた。
「おい」
じれったく兄貴を振り向いて、そして思わずその場で立ち尽くした。
振り向いた兄貴の肩越し、さっきの人が確かに曲がっていったはずの農道には、誰もいなかった。その両脇に伸びてゆく畦道にも人の姿はなく、ただ咲き誇る彼岸花だけが金色の稲穂の波をこえて吹いてきた風にくるくると花を翻すばかりだった。
辻神(つじがみ)
【分布】
日本では中国地方以西で多く出現するが、全国で存在が確認される。
十字路に出現する魔物という伝承自体は、古今東西を問わず分布している。
【形態】
十字路に現れるということ以外、詳しくは不明。
不可視の場合も多い。
【生態】
その名の通り十字路に現れる。
移動する際には右左折及び迂回ができないため、ひたすら直進する。人間よりは丈夫なため、衝突すると人間側に被害が出る。但し漆喰や石よりは弱いため、住居や住民を守るために照壁や石敢当を設けている地域もある。
神とは呼ばれるものの、現在は信仰する人間がいないため、神格を発揮することはない。小規模であるほどその被害は甚大になるとも言われる。
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