第8話 葉月
新しくできた住宅街に幽霊が出る、という話を夏休み中の登校日に小学校で聞いたので、兄貴に報告してみたら、「そりゃあ百鬼夜行だろ」と一蹴された。
外では油蝉が、太陽で素揚げにされているみたいな声で鳴いている。
「あそこら辺は五百年ばかり田圃しかねえ場所だからな。タヌキが化かしに出てくるのは奥の部落の方どまりだろうし、あんな真新しいところに湧いて出てくるのは九十九神の類くらいだろうよ」
大きく扉を開け放し、風鈴の鳴る縁側に猫のように横になり、西瓜の種を庭先に吹き散らしながら、兄貴は憮然としている。日がな浴衣をぞろりと着こなして、頭に近所の酒屋で貰った手巾を巻いた兄貴は、うちの家の中以外の場所だと不審者以外の何者でもない。まあ、この兄貴が人目につくような時間帯に表を出歩くことはまずないのだけど。
「第一イマドキのガキどもは語彙が貧相で困る。向日葵も朝顔も全部「花」、ハシブトもハシボソもみんな「カラス」、どころか雲雀も百舌も鵯も全部纏めて「トリ」ときた。まあ百歩譲って間違いじゃねえにしても、妖怪と幽霊は全くの別もんだろうが。訳のわかんねえもんを猫も杓子も「ユーレー」ってのはうまくねえ、実にうまくねえな」
「んじゃ、どう違うの?」
兄貴にとっては常識でも、こっちは全然知らないことだから、試しに尋ねてみる。意外と兄貴も嫌がらずに、ただ投げやりな感じで答えた。
「幽霊は元人間、妖怪は元神。神はときどき元人間だったりするけど、まあそりゃ例外だな」
「んじゃ妖怪は神社にいるの?」
「まずいねーよ。神社で祀られてる神は妖怪になんざならねえ。妖怪になるのは、社がなくなって野良になった神だからな」
「ふうん」
兄貴は不真面目だけど嘘は言わないし、知らないことを知っているように誤魔化したりもしない。そういうもんなのか、と思いながら聞いていると、兄貴は徐に起き上がって切り分けた西瓜を差し出しながらこっちを向いた。
「んで、その「ユーレー」ってのはどんなんだ?」
うん、と頷いて西瓜を受けとる。
この辺は最近市町村合併で市に組み込まれたばかりの田舎で、昔からの住民には農家が多い。ただ国道が走っていたりJRの駅があったりと結構交通の便がいいので、このところベッドタウンとして宅地開発が進んでいる。幽霊話に盛り上がっていたのは転入組の女子たちで、何でも塾の帰りとかに変な気配を感じるとか、農道を光の行列が進んでいたとか、夜中に外で話し声がするとか、そんなことを言っていた。
「先生は不良が夜遊びしてるところを見間違えたんだろうって言ってたけど」
「まあ大方はそうだろうな。そう締めておかねえとガキは厄介だ。思い込みで調子を崩したら元も子もねえ」
兄貴によれば、怪談は年頃の子どもにとって格好の話題の種らしいが、それを信じ込みすぎることで自家中毒を起こしたりヒステリーになったりするので色々と厄介らしい。下手に否定してコミュニケーションの機会を奪うとろくなことにならないが、肯定しすぎても人格形成に影響が出るので、要するに面倒な代物なんだ、とか独り言みたいに言っていた。別に兄貴がそんなことを心配する必要もなさそうなのだが、そこはそれ、人間は社会的生物なので自分以外のものにも注意を払うことは最低限必要なものらしい。
「お前は怖いか?」
「怖いも怖くないも、見たわけじゃないし」
「見たわけじゃないから判断を保留にするってのは逃げだ、あんまりいいことじゃねえ」
兄貴がそんな風に言うので、少しふくれていると、頭の上で風鈴がちりんちりんと鳴った。
「しょうがねえ、何事も経験だ。今夜は夜更かしするから、それ喰ったら昼寝しておけよ」
西瓜の種を吹き散らしながら兄貴はその場でごろりと横になった。
そしてその夜。日中に比べ気温は下がるが、それでも真夏の夜風は生ぬるい。
「何でこんな真夜中なの」
「草木も眠る丑三つ時、百鬼夜行は本当はこの時間に通るもんだ」
昼間、寝て過ごしている兄貴はすこぶる元気そうだった。兄貴に手を引かれ、欠伸をしながら辺りの景色を見渡してみた。
真新しい住宅と、ジオラマみたいな小さな庭が、スペースの中に等間隔にはめ込まれている。どれも似たような、だけどほんの少しだけ違う家々が軒を連ねる住宅街には、網の目のように舗装された道路が走っていて、街灯にぼんやりと照らし出されている。玄関灯を点けている家もあるが、とうに寝静まる時間とあっては消しているところも少なくない。
そんな暗い路面の上を、「それ」は列を為して進んでいた。
食器、鍋、文房具、椅子や少し古びた家電製品、大きなところでは机や箪笥などの家具も並んでいる。人が暮らすのに必要なそれは、捨てられた後に九十九神という呼び名を得る。誰もが寝静まる深夜、列を為して進む彼らの道行きが、兄貴によれば「百鬼夜行」と呼ばれるものの正体らしい。
昔はもっと古びて壊れた悲惨な姿をしていたものが多かったというが、存外原型を留めているのは、取りも直さず彼らが捨てられたときの姿に所以するためだろう。ほんの少し型番が落ちただけのオーディオや、間に合わせで使われていただろう合板製の安っぽい棚が痛々しい。子どもの手による落書きが残っていたり、持ち主の手による素人じみた改良の痕跡が生々しく残っているものもある。
彼らの道行きは驚くほど遅い。脚の壊れた椅子などは、外れそうな繋ぎ目を自由に動かして進むことも可能だが、下手に頑健な形を保っている家財道具は、本来家に据え付けられることを前提に設計されているため、その役割から放たれた後も自由に動くことがままならないのだ。だからまるで亀の歩みのように、じわりじわりと進んでゆく。
「どこに行くの?」
「持ち主の家だよ。道具ってのは人に使われてナンボのもんだろ? だから自分に意味を与えてくれる持ち主を、道具は人が思うよりずっと慕ってるもんなんだよ」
ぞろりぞろりと角を曲がってやってくる道具の群れを見ながら、繋ぐ兄貴の手を握り締める。
「いっぱいいるね」
「引越しのときには、まとめて色んなもんを捨てていくからな」
「捨てられたのに、どうして百鬼夜行をするの?」
「捨てられたってことをわかってないんだろうさ」
果たして幾つの夜を越えてきたのか、ようやく目的地に辿り着いた百鬼夜行の歩みが止まる。
そこには洒落た表札の掛かった一軒の真新しい家がある。夜目にも眩い白い壁の二階建てで、庭先には可憐な花が植え込まれている。こういう園芸に凝っている家というのは、ずっと庭付きに憧れていたことが多い、とか兄貴はぼそりと言った。
まず行列の中から飛び出したのは、車輪のついた掃除機だった。ホースをくねらせ、器用に飛び上がるとリビングの前のガラス戸にへばりつく。よく見ると、明るいパステルカラーの所々が手垢で汚れていた。
ふと、ガラス戸に張り付くようにしていた掃除機の姿が、空中で霞のように溶けて消えた。
次に飛び出したのは茶碗や湯呑や皿や箸、それから遅れて卓袱台代わりに使われていたと思しき炬燵が後を追う。それらもまた、ガラス戸の前で家の中を覗き込んだかと思ったらすぐに消えていった。
「あれは何をしているの?」
「道具ってのは、人を便利にするために生まれたもんだから」
扇風機が一本足で飛び出して行って、ぴょんぴょんと扉の前で飛び跳ねながら消えてゆく。大型のオーディオ機器は、重そうな身体に似合わず何と二階の窓まで飛び上がって、それから掻き消えた。ゆっくりと進み出た冷蔵庫、転がるようにそれを追いかける炊飯器、いずれも勝手口の方まで回り込んで、そのまま物音ごと消えていった。
「道具がないと、日常の些細なことが不便で仕方なくなるだろう。捨てられたあいつらにとって一番心配なのは、自分がいなくなったことで持ち主が不自由していないかってことなのさ。だから遥々、こんな風にやってくるんだ」
ふと、家の前の駐車場に止まっている車に目を止める。庇のついた駐車場に止まったファミリーカーには、三つ隣の県のナンバープレートがついていた。
フィルム式と思しき古いコンパクトカメラが、紐で綴じられた雑誌の山が、多分道具入れに使われていたらしいカラーボックスが、家の中を覗きこんでは消えていく。遥々とやってきたであろう無数の道具の行列が、見る見るうちに短くなっていく。
「どうして消えちゃうの?」
「持ち主が不便してなかったからだろ。道具は人間を便利にするためのものだから」
人の家を覗き込むのも気が引けたが、少し目を凝らすと、薄明かりに照らされた屋内に真新しい綺麗な家財道具が並んでいるのが垣間見えた。家を新築するに辺り、新調したものなのだろう。うっすらとレースのカーテン越しに見えるのはピアノだろうか、それを確かめた脚付きの電気キーボードが空中で煙になった。
「恨んだりしないの?」
「どうして?」
「だって……」
兄貴は消えていく道具を眺めながら、凄く真面目な顔をする。
「悔いがなくなったから消えていくんだ、あいつら自身は満足だろう」
少しほっとしたが、兄貴は少し冷たい声でこんな風に続けた。
「ただ、一言、役目が終わったときにそう伝えてやっていれば、こんなことしなくてもよかったんだろうけどな」
あっという間に百鬼夜行は、行列とも呼べないものになっていく。一つ、また一つ、主の今の暮らしを確かめながら消えていく。大きな書棚が消えてしまうと、もう残りはほんの僅かだった。
最後に残ったのは、小さな玩具だった。車輪が外れた車の玩具や、電池を入れ替えても動きそうにない古い特撮モノの玩具などで、安っぽい見た目に似つかわしくない機敏な動きで窓を順番に覗きこんでいった。多分二階の一番隅が子ども部屋なのだろう、そこの前でしばらくじっとしていたかと思うと、驚くほど静かに消えていった。
そして一番最後、今までで一番みすぼらしいものが残っていた。
それは、つぎはぎだらけのぬいぐるみだった。多分始めは犬か熊の形をしていたのだろうが、型崩れがひどくてもう正体が何なのかもわからない。色も褪せ、しみだらけで元の色さえわからない。
そいつはしばらく路上に立ち尽くした後で、ようやく思い詰めたように玄関の真上の窓に飛び上がった。窓には薄いピンクのカーテンが掛かっていて、中は伺えそうになかった。
ぬいぐるみはそこにしばらくじっとしていたが、不意に手の部分を動かして、窓をがらりと開いた。音もなく開いた隙間はほんの僅かだったが、そこから中に滑り込むと、内側から窓を閉めた。そしてカーテンを揺らして向こう側へ消えていった。
「……あれは?」
「役割を果たしに行ったんだろう、あれも道具だから」
窓を見上げながら、兄貴はそんなことを言った。
街灯で照らされたその横顔が少し笑っているようで、つられて窓の方を眺めやった後、兄貴ともう一度手を繋ぐことにした。
「どうした、怖かったか?」
兄貴がこっちを向く。街灯に浮かび上がる白い顔が笑っている。
首を振りながら掌を握りこんで顔を伏せると、兄貴のもう片方の手が頭を撫でた。浴衣の袖が顔に掛かるので払い除けながら、兄貴と一緒に夜の道を歩いていった。
付喪神
【分布】
住宅街や都市部に多く分布し、主に夜間に活動する。
庶民生活の隆盛と消費の拡大が進んだ江戸時代から、爆発的に増加した。
【形態】
長い期間を経た器物や自然物を憑代として、魂が宿ったもの。
元になったものが道具類の場合には、それに顔や手足がついた姿のことが多い。
【生態】
長い時間(概ね百年程度)を経た生物または無生物が意志を持つようになった状態。と言っても人を驚かせることを本義とはしていないらしく、できるだけ人目につかない時間帯に集団行動をすると言われている。
深夜2時頃に彼らが行うデモ行進を通称百鬼夜行と呼ぶ。
杵と蛇、五徳と牛など動物と道具のハイブリッドというユニークなルックスのものも少なくない。
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