第7話 文月

 朝、ラジオ体操から帰ってきたら珍しく兄貴が起き出していた。

 明け方に一雨来たばかりの庭先からはそよ風が寄せてきて、一晩中凝っていた熱気を追い出している。

 「あれ、おはよう」

 「遅かったな、寄り道か?」

 「よくわかったね」

 確かに、小学校の飼育当番が当たってたから、ラジオ体操のついでに回ってきた。いつもと比べて時間にして大体三十分ほど遅かったけど、いつも朝寝ている兄貴はラジオ体操の時間を知らないはずだ。

 まあ、夏休みになったばかりの小学生が早朝に家を留守にしていたらラジオ体操に行っているという推測はできるだろうし、場所が近所の公園だということも見当はつく。公園に行ってラジオ体操をして真っ直ぐ家に帰れば三十分、それに加えて今日は小学校に寄ってきたからプラス三十分。つまり兄貴が起きてから、そろそろ一時間近く経つということだろう。

 兄貴は寝るときも起きているときもぞろりと浴衣を着流しているのでわかりにくいが、今は帯を背中で結んでいるので本格的に二度寝をするつもりはないらしい。見れば、何の気紛れか床の間の花器に百合の花が描かれた団扇をを活けていたりする。こんな洒落をするということは、よほど寝覚めがよかったらしい。

 「当番が当たってたから、学校の飼育小屋に寄ってきた」

 「ふうん」

 「ウサギや小さいインコはイマイチ反応が薄いんだけどさ、一羽大きなオウムがいて、喜ぶと物凄いうるさいの」

 うちの小学校の飼育小屋には、真っ赤な身体に鮮やかな五色の翼を持つ、海賊船の船長が肩に乗せていそうな感じのオウムがなぜか一羽だけボタンインコに紛れて飼われている。特徴を言ったら、兄貴は「ベニコンゴウインコだな」とすぐにわかったらしかった。

 「大きいからオウムじゃないの?」

 「別に大きさの違いで分類しているわけじゃないさ。どっちもオウム目だが、オウム科はオーストレーシアにしか住んでなくて、アメリカやアフリカ原産のはインコ科だ。まあオウム目の中にもオカメインコとかダルマインコとかいるんだが、とりあえずそういう和名なんだからそれでいいんだろう」

 よくわからないという顔をしていたら、「まあ尻尾が長くて派手なのは全部インコだと思っとけ」とか曖昧なことを言われた。

 ともかく、小学校のオウム……ではなくインコは随分長い間飼われているらしく、この前やってきた先生はうちの卒業生だったらしいけど、まだ生きていたのかと驚いていた。その先生を見るなりインコが「久しぶり」とか声をかけたものだから、先生はむしろ不気味そうな顔をしていた。

 そう、小学校の赤いインコは言葉をしゃべるのだ。それもお決まりの「オハヨウ」だけではなく、「今日は暑いねえ」とか「そろそろお腹すいたんだけど」とか、結構流暢に口をきく。その気になればしばらく会話が続くくらいで、不特定多数の人が集まる小学校で、それも他のインコと紛れて飼われているときに、そんな風になるのは凄く珍しいらしい。

 そんな話をすると、兄貴が興味深そうに身を乗り出した。

 「インコもオウムも寿命の長い鳥だからな。大きい奴だと五十年くらい生きることもあるし、さては前に飼い主がいて譲られたんだろう」

 「あ、何か先生もそんなことを言ってた。小学校に来る前の飼い主も、別の人からそのインコをもらったんだってさ」

 「しっかし、飼育小屋をよく破壊しなかったもんだなあ。あの手合いなら、小屋の網を破って逃げ出すくらい朝飯前だぞ」

 「網は壊さないけど、鍵はときどき壊すんだよ」

 ペンチみたいな嘴で飼育小屋の南京錠を壊して、飼育小屋の扉から外へ堂々と出てきたことは一度や二度ではない。飼育小屋は中の小鳥やウサギが逃げないように扉が二重になっているのだけど、そのインコはきちんと戸締りをして出入りをするものだから、今のところ他の動物まで逃げてしまったことはない。ちなみにそのインコは、大体校舎内のどこかで遊んでいるところを捕獲され、悲鳴のような声を上げながら小屋の中へ連行されていく。人間の言葉を喋っているときはそうでもないのだけれど、そいつの鳴声は学校中に響き渡るほどけたたましく、脱獄と身柄確保は学校中の誰もがすぐにわかる。

 人の顔を見るとすぐに寄ってくるくらい人懐こいし、悪戯はするけれど愛嬌もあるし、そんなインコは学校中の人気者だ。飼育係がじゃんけん必至の高倍率を誇るのは間違いなくこいつのおかげだと思う。

 そんな話をすると、兄貴もさすがに興味を持ったらしかった。

 「名前は?」

 「……さあ」

 「さあって何だ。普段からどう呼んでるんだ」

 「人にもよる。みんな勝手な名前で呼んでる」

 鳥だからピーちゃん。人の言葉を喋るから九官鳥にちなんでキューちゃん、あと、そこから派生してキュゥベエ。海賊の連想からかアニメのキャラクターの名前で呼ぶ奴もいるし、赤いからかあっちゃんとか呼んでるのを見たこともある。

 「お前は?」

 「訊いたけど教えてくれなかったから、敢えて呼ばない」

 言葉を喋る鳥は、飼い主に一番よく話し掛けられるだろう自分の名前をまず覚える。それを言わないということは、名前を知らないとか忘れてしまったとか、もしくはもっと別の理由が何かあるに違いない。何か理由があることに対して、理由もないのに詮索するのはちょっと筋が違うんじゃないかと思う。

 「そりゃあ正しいな。ガキ相手に軽々しく名乗らないインコも、名乗らない名前を呼ばわらないお前も正しい」

 ひねくれた言い回しだけど、多分兄貴は褒めているつもりなんだろう。よほど今朝の兄貴は機嫌がいいらしい。

 「……なるほどなあ。学校とは上手いこと考えたもんだ」

 兄貴はのそりと片膝を上げる。眺める間にも、兄貴は床の間に活けていた団扇を片手に立ち上がった。

 「どうしたの?」

 首を傾げてみせると、兄貴は団扇で顔を半分隠しながらにやりと笑った。

 「どうしたもこうしたもあるか。珍しく朝起きしたんだ、三文の得を拾いに出かけるぞ」



 蝉の鳴声はいつもと変わらずけたたましい。ラジオ体操からの帰り道よりも少し日差しの高くなった道は、白くかんかんと輝いている。

 ほんの一時間の間に太陽は勢いを増していて、もう麦藁帽子なしではやりきれない。兄貴は団扇を日傘代わりにさしかけながら、からんからんと下駄を鳴らして裾を捌いている。

 「久しぶりじゃない? こんな時間に出歩くの」

 「そうか? 俺は人のいない時間帯なら結構ぶらぶら表に出るぞ」

 今は真昼間じゃないか、と言い返そうと思ったけれど、辺りに人の気配がまるでないので口を噤んだ。確かに炎天下の夏休み中、行く手に小学校しかないような道の上には誰もいない。プールの開放は午後からだから、それもまだまだ先だ。耳鳴りか潮騒かと思うほどの蝉時雨が辺りを覆い尽くすと、その他の物音は何も聞こえない。獰猛な真夏の太陽を嫌って、犬猫すら物陰や小屋の中に引きこもって姿もない。

 その真夏の空気を浴衣の袖で掻き回しながら、兄貴はふと愉快そうに言った。

 「思えば学校ってのは面白いもんだよな。人が常にいるくせに、常に中身が入れ替わる。私立や大学だと少し話も違ってくるが、小学校はありゃあ、結構胡散臭いもんだぞ」

 「兄貴に言われちゃ形無しだよ」

 「そう言うな。中身が変わっても平気ってことは、外身の方に実体が認められてるってことだ。学校という自明の器があるからこそ、中身が入れ替わってもアイデンティティを失わない。つまり中身はどうだっていいってことなんだから、胡散臭いことこの上ないだろ」

 兄貴は暴論をさらりという。でもまあ、器というと何だかうさんくさい気がするけれど、施設や小学校の勉強を教えるという役割や地区での学校という場所の意味とかを考えると、多少中の人が入れ替わったところで学校という存在の意味は変わらない気がする。

 「その上、自明のものについて、普通は長々と説明をしない。短いスパンで入れ替わる連中が、いちいち知れ切ったことについて申し送りなんてしないからな。全く、現代社会の意外な盲点だな」

 兄貴は団扇を手慰みに仰ぎながら、校門の脇に立ち止まる。

 小学校の通用口は普段は施錠されているけれど、飼育当番は当然学校の敷地内に入らないといけないから、通用口や飼育小屋の鍵束と餌を入れるかごを持ち回ることになっている。今日から一週間当番が当たっているので鍵は手元にあるから、難なく通用口を開けることができた。

 「学校にまつわる怪談が多いのも、つまりはそういうことだ。きちんと事実を知っている人間が定期的に消えてしまうから、伝聞だけが後に残る。些細な物事であればあるほど、語られないから細部が曖昧になって、そこに怪異の入り込む隙間も生まれてくる。幽霊の正体見たり伝言ゲームってところだな」

 兄貴はそう言うけれど、無人の学校というのは現実離れしていて薄気味悪い。それを素直に白状したら、兄貴は笑いながら「選挙権を持つ歳になるとそうでもなくなるぞ」とか言った。そう言えばこの辺りの投票所はうちの学校だったはずだから、何度か投票に来れば休日の学校のもつ独特の雰囲気にも慣れてくるのかもしれない。ただ、兄貴が真面目に投票に来ている姿はちょっと想像し辛かった。

 外に開けている下駄箱の脇を通り抜け、兄貴と二人で目指すのは、当然飼育小屋のある中庭だ。うちみたいに古い小学校は、廊下も全て外側に面しているので扉の閉まる場所はとても少ない。外気温そのままの熱気がじりじりと床のコンクリートを焼いていた。

 「まあ、ここまで隙だらけだとホンモノの怪異にとってもとてつもなく住みやすい環境だろうな」

 夏でも薄暗くひんやりと湿ったトイレの脇を通り過ぎるときに兄貴がそんなことを言うものだから、反射的に袖の袂を握ってしまった。兄貴は楽しそうにからから笑うが、シャツの下の背中を伝う汗の感触がやけに薄気味悪かった。

 「現代社会が怪異に優しくないっていうのは半分は本当で、半分は嘘だ。確かに何でも情報として集められて管理されるから、平均値から外れたものはすぐに発覚するし、何かにつけて逸脱したものは排除される。ただ、元々形を取るのが難しいものを無理に型にはめようとするから、ひずみの部分が生まれてきて、そこに現代の怪異は巣食うんだ。結局のところ、闇が怖いから光を当てたらそこに濃い影ができたようなもんだ」

 中庭への近道になる犬走は、土足で踏んだらいけないので普段は迂回するけれど、夏休みで咎める人がいないから容赦なく横切る。さすがに下駄の跡は目立つかなと思ったけれど、兄貴は器用に下駄の歯を段差に引っ掛けて足跡を残さないように歩いている。何だか慣れた仕草なのが不穏だ。

 「まあ、余談はともかくとして」

 ようやく見えてきた中庭の飼育小屋は古びたトタン屋根で、日差し避けの葦簾の隙間から赤い影がちらりと覗いていた。若草色や空色のボタンインコがちちちと陽気に囀り、白いウサギがもこもこと床の上を走り回る。その賑やかな金網張りの小屋の中で、ふとけたたましい叫び声が響いた。

 「――妖怪の中には、経立ふったちってのがいるんだが」

 兄貴はおもむろにそう言いながら、立てかけてある葦簾を剥がす。その途端、重さのある羽音が鼻先を掠めた。

 「常識外れの長生きをした動物は、奇怪な行動を始めると言われている。それを経立と呼んで、猿や鶏や、ちょっと変わったところだと魚なんかが伝わっている。人間の女をものにしようとしたり、道具を使ったり、武装したり、妙に人間臭い行動が特徴だな」

 ふと飼育小屋の金網に、大型のインコがぶつかるようにして止まった。

 四本の指を金網に絡めて、啄木鳥のような姿勢で格子越しにこちらを見ているのは、南国出身らしい原色の羽毛をまとった鳥だった。頭の先から尾の先まで、ゆうに一メートルは越える身体を持ち、ヘーゼル色の目の奥にある小さな瞳孔は驚くほど深い。懐いた飼育当番にすぐキスをねだる嘴は、鉤のように鋭く曲がっていて、改めて意識すると猛禽にも似ていた。

 ――と、そんなことを考えたところで、目の前にいるのはどう見てもインコだった。普通と呼ぶには大きすぎるし鮮やかすぎて、そしてあんまりにも人懐こいけれど、元々そういうものだと思ってしまえば不思議の入り込む余地はない。普通の犬や猫でもやけに人間臭い仕草をするのはいるし、人間の傍で生きているペットなんだからよくあることだろう。

 兄貴はひょいと腰を屈めて、団扇で日陰を作った。インコはその日陰に頭を入れて、閃くように目を細める。

 「大体の生き物にとって、生きていくってことはそう容易いことじゃない。これといって取り得もないくせに訳のわからない搦手を使って自分の身を脅かす、平均的に五十年を越える寿命を持つ敵が身近にいれば、その行動を模倣するのも長生きのコツってことだろうよ」

 なあ、と兄貴が首を傾げると、つられたようにインコも首をひょいと傾げて見せた。

 つまり、長生きをするから人に似るのではなく、人の真似を覚えた結果長生きしたということだろうか。そんなことを言ったところで、やっぱり目の前にいるインコは、とても妖怪には見えなかった。

 怪訝な顔をして兄貴とインコを見比べていると、ふと兄貴がこちらを見て笑った。

 「お前は何の不思議もないみたいな顔してるがな、生きていくってのは結構大変なんだぞ。お前なんかよりずっと長い間そんな大変なことを続けているんだから、ちょっとは尊敬してみたらどうだ」

 確かに、このインコがいつからここで飼われているのか正確に知っている人は誰もいない。もしそれを突き止めても、その前に別の飼い主がいて、それが何度か繰り返されてしまえば、インコの年齢を探る手掛かりは尽きてしまう。ちょっと前、いつ亡くなったかわからないまま戸籍だけが残っている「消えた高齢者」とかがニュースになっていたけれど、このインコの場合は逆にいつから生きているかわからないのだ。

 それを兄貴に言ってみると、兄貴はちょっと首を傾げた。

 「むしろ、いつから生きてるかわからないということに、誰も気付かないという点が要だろう。八百比丘尼なんかもそうだが、誰にも気付かれずに生き続けるのは結構難しい。流転するのが一番易しいが、逆にそれだと生き辛くなる。そう言う意味では、学校はまさに盲点だ」

 インコは口の中でくぐもった鳴声を上げる。まるで口止めを求めているかのようだ。

 「名乗らないのもそういうことだろう。一度名前が定まると、口伝えにそれが世代を越えて伝わってしまう。名前がなければ、途中で世代交代でもあったんだろうと勝手に向こうが思ってくれるからな。自分の存在を時間の中に固定させないってのは長寿者の鉄則だ」

 金網に止まったインコは、ばさりと翼を翻して兄貴の顔の前に顔を寄せる。そして兄貴のかざす団扇に目を向け、不意にその端を嘴で縫い止めた。

 ん、と兄貴はインコを見遣る。インコは団扇の端をもたげるようにして、それからふと掠れた声で言った。

 『――百年はもう来ていたんだな』

 誰の声に似ているわけでもない、インコらしいしわがれた声だったけれど、なぜかその言葉には意思が感じられた。

 兄貴はひらりと団扇を翻す。そこに描かれていたのは、夏らしい白い百合の花だった。

 唇の端で笑いながら、兄貴はインコに向かって話し掛けた。

 「明日にでも、うちの庭のを切ってこいつに持たせようか」

 兄貴が麦藁帽子の上に手を載せたので、ずれそうになった帽子のつばに手をかける。庭の端で盛りを迎えた百合の群れをふと思い出した。

 ところがインコはぐいと頭を大きく振ると、再び金網の隙間から嘴を差し出して、団扇の端を咥えた。心得たとばかりに兄貴は団扇の柄を格子の隙間に差し込んで、金網にそれを固定する。その面に描かれた百合の絵に、インコは緋色の顔を擦り付けた。

 その仕草は確かにもう、子どもの目でもはっきりとわかるほど、普通のインコのものではなかった。

 一頻りそれを眺めた兄貴は、ざりと真砂土を踏んで一歩下がる。団扇に顔を寄せるインコを慮りながら葦簾を引いていると、その向こうからしわがれた声が低く響いた。

 『蕗の葉を持っておゆき。今日も暑くなる』



 ますます太陽が勢いを増す帰り道。兄貴は中庭の畑から拝借した蕗の葉を日傘の代わりにさしかけて、下駄をからころ鳴らしている。その横顔を見上げながら、ずっと気になっていたことを訊ねた。

 「あのインコ、百歳なの?」

 「さあな」

 兄貴の表情は、夏の強い日差しが作る影に遮られて窺えない。それでも足取りは軽かった。

 「……百年、って言ってたよ」

 普段陽気なインコが呟いた、意味ありげな台詞が胸の奥に引っ掛かっていた。思わせぶりというか、何か思惑がありそうな言葉だった。

 ――そう言えば、今年は大正百何年に当たるとかトイレにかかってるカレンダーに書いていた。正直なところ平成生まれにとっては明治時代と大正時代がどう違うのかも見当がつかないけれど、そんな時代にあのインコが鳥篭で飼われている景色というのは、ちょっと想像がつかなかった。百年の間には戦争だってあったし、生きるのが今よりもっと難しい時代も長かったはずだ。

 兄貴の返事を待ちながら俯いていると、ふと麦藁帽子越しに兄貴の声が降ってきた。

 「ありゃあ、物語の台詞だ。今から百年ちょっと前の、今時分の時期に新聞に載った小説だな。人気があるからよく読まれているし、結構よく知られてる」

 読書感想文用に読んでみようかな、と呟いたら兄貴に「ガキには早い」と言われた。作者を訊いたら「漱石」と素っ気無い。夏目漱石ならいいじゃないかと思ったけれど、「子どもには毒気が強すぎる」とか何とか。どうせ兄貴の書架にあるだろうから、寝てる間に探すとしよう。

 「あのインコ、本を読むのかな」

 あいつはそう言えば、前に図書館で本を本棚から引き出して遊んでいたこともあった。もしかしてあのインコなら、文字くらい理解しても不思議ではないかもしれない。

 「さあな。もしかしたら読み聞かせてもらったのかもしれないだろう」

 それもそうか、と納得する。百合の花に顔を擦り付けるインコの仕草が脳裏をちらついた。

 「兄貴、どうだった?」

 兄貴に訊いてみたいことはあったはずなのに、何て訊いたらいいのかわからなくて、敢えて訊いてみたら変な言葉になった。それでも兄貴は袖をひらひらと振りながら答えてくれた。

 「面白いっていうと語弊はあるがな。時間っていうのは目に見えないが、生きるっていうのはそんな目に見えない時間の上に途切れない一本の糸を引いて行くみたいなもんで、ああも長い命はそれだけで壮観だ。長生きと一言でいうのは易しいが、それは文字通り一朝一夕に成ることじゃない。例えば一日を疎かにすると、それは翌日に跳ね返ってきて、行く行く自分の首を締める」

 ちょっとだけ腑に落ちる感じがした。お年寄りは敬いましょう、とかよく言うけれど、長生きで物事をよく知っているから、とか学ぶべきことが多いから、という理由をつけるのはあんまり正しくないような気がしていた。お年寄りに何か教わるのはこっちの都合だ。そういうのじゃなくて、命そのものへの畏敬とか、そういうのがないと、生きていてもそれをありがたいと思えない。

 「それにな、長い糸はそれだけ周りに絡んで厄介なことになりやすい。絡んだ糸は切れやすいし、もしかしたら図らずも他の糸を切るかもしれない。それをあんな瀟洒に自分の命の長さに始末をつけているというのは、いっそ敬服に値する。」

 兄貴の下駄がからんと愉しげに鳴った。そして兄貴の指の長い手が麦藁帽子を掴む。引き摺られるようにたたらを踏むと、兄貴の声が聞こえてきた。

 「まあ、ガキがあんまり深く考えるな。経立にとっても俺たちにとっても夏の日は等しく長い。暑い昼間は昼寝でもするぞ」

 ――そんな兄貴は相変わらずの兄貴だった。

 足元の短い影を見下ろしながら、長寿のインコにとっての一日が果たして長いのか短いのか、そんなことだけを少し考えて、埒のなさに諦めた。

 なるほど十年の一日も百年の一日も、同じ一日に違いない。



経立


【分布】

 報告例は青森県、岩手県。類例は全国で散見される。

【形態】

 動物のうち、通常では考え難い期間を生き延びてきたものを指す。

 サル、キツネ、ネコ、家禽、魚等、極めて多様な動物で事例が確認される。

【生態】

 極端な長生きを重ねたため、その動物本来の特徴から逸脱した行動が多く見られる。例えばサルの場合、松脂で毛皮を固めて防弾チョッキ様にして武装し、投石による攻撃を試みる他、人間の女性を略取する事例が確認されている。また魚類の中には人間に姿を変えて求愛活動をする者もいる。余談だが水生生物が人の姿を取る場合、容姿端麗な男性になる事例が多い。

 種によっては極端に巨大化したり、体毛が退色し白化することもあり、神使と同一視されている事例もあるものと推察される。

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