第6話 水無月

 学校からの帰り道は降り続いた雨でゆるくぬかるみ、水たまりが梅雨の晴れ間を青く映し出している。

 濡れた土の匂いと草いきれが混じって、空気がやけに濃い。二日続いた雨は昼過ぎに止んで、久方ぶりの晴れ間だというのに、庭の物干し台で緑の竹竿が所在なさげにくすぶっているのが通学路からでもよく見えた。

 家に帰るなり、ただいまの前に思わず愚痴が口をついた。

 「晴れたら洗濯物干しといてって言ったのに」

 どうせ縁側の方にいる、と高を括って庭先に回り込んでみれば、案の定兄貴は庭に面した居間で高いびきをかいていた。例によっていつものような着物姿で、しかも片肌脱いで左肩の襦袢を晒したものすごいだらしない格好だった。

 「起きてよ兄貴、いい加減にしなよ」

 「んあー……しょーがないだろ梅雨だし」

 兄貴は寝返りを打ちながら寝惚けた声で言い訳を漏らす。運動靴を踏み石の上に脱ぎ捨てて、持って帰ってきた給食当番の白衣の袋を兄貴の顔めがけて振り下ろした。軽くて柔らかいものだからそんなに痛くはないだろうけど、思いっきり勢いをつけておいたので、もろに喰らった兄貴はぶほっと変な声を上げた。

 さすがの兄貴も顔を擦りながら半身を起こす。

 「帰る早々アグレッシブな奴だな」

 「晴れてる間に干しといてくれないと、ハンガー足りなくなるんだよ」

 着物ばかり着てる兄貴は洗濯物も少ないからいいけど、週末になると体操着や給食当番の服も洗濯しなきゃいけなくなるし、ただでさえ雨が続いて干せない洗濯物がたまってるから、このままじゃハンガーも洗濯バサミもピンチもたこのあしも足りなくなってしまう。こっちは降り続く雨に危機感を募らせているというのに、せっかくの晴れ間を寝て過ごすだなんていい気にも程がある。今から干したって乾くはずもないから、どうせ部屋干しになって臭くなってしまうのだ。

 こっちの憤りなんか素知らぬふりで、兄貴は眠そうに目を瞬かせた。

 「だってさあ。洗濯物って庭に出ねえといけねえし」

 「そのくらいいいじゃないか」

 梅雨に入ってからというもの、兄貴の出不精はますます酷くなる一方で留まるところを知らない。確かに雨も湿気も鬱陶しくておまけに蒸し暑いし、外に出たら地面をカエルやミミズやナメクジが跋扈してて気味も悪いけど、でもだから一歩も家を出ないままだらだら過ごしていいという理由にはならない。

 かりかりしながら給食当番の白衣を押し付けると、言い訳がましく兄貴は嘯いた。

 「あー、あのさあ、あのなあ。梅雨時って地べたの上を色んなもんがうねってるだろ。それ間違って踏むと可哀想だろ。だから無益な殺生を防ぐために雨季には托鉢僧も庵を結んで精進潔斎をするわけよ。それが安居あんご、これも立派な修行なんだからそう邪険に扱うなって」

 「アンゴでもアンコでも何でもいいけど、要するに兄貴はだらだらしてたいんだろ」

 兄貴の屁理屈には一気呵成に攻め入るに限る。案の定、びしっと人差し指を突きつけると見る見るうちに兄貴は悄然と萎んだ。

 「だってえ、雨上がりって一番色んなもんが這いまわってるしー」

 「そこの竹薮の先、ミミズの川ができてたよ」

 「うへえ」

 顎を突き出して兄貴は変な声を上げる。

 そんな、想像だけでうんざりしそうなものを目の当たりにしたのはこっちだ。雨が降ると何でかミミズは土の中から地面に這い出してくるけど、それが自転車の轍にはまり込んで折り重なってうねっている様は、それはそれは壮観だった。そんなのを見てしまった後で、アンゴだ何だとごねている兄貴を見ると余計に鬱陶しく思えるのは人情だろう。こんなの修行とか言ってる兄貴は坊さんにぶっ飛ばされればいいのに。

 「いい加減にしてよ。もう一週間も外出てないんじゃない? 草履が腐ってるよ」

 「お、それならそろそろ下駄を出すかな」

 「いい加減に怒るよ兄貴」

 むくれて見せると、ようやく兄貴は肩を竦めて機嫌を取るようににじり寄ってきた。片方だけ脱いだ単の片袖を背中に垂らして、頭をぐりぐりと撫でてくる。

 「はいはい。これから怒るよってことは、今のうちなら勘弁してくれるってことだな」

 もう知らない、と言いたかったけど、何か毒気を抜かれてしまった。結局うちの兄貴は、得な性分をしている。



 もう夕方にも近かったけれど、溜め込んでいた洗濯物を洗濯機に洗剤と一緒に突っ込んでがらんがらんと回す。タオルやシーツもあるからどうせもう一回は回さなきゃいけないし、今夜からまた雨だと天気予報で言っているので、それなら部屋干しでも早めにしてしまうのが得策だ。

 居間に戻ると兄貴は相変わらず単の片袖を背中に絡げたまま身を起こして頭を掻いていた。そんな着方をしてると変な皺がよるんじゃないかと思ったけど、よく考えたら兄貴の着物はいつもよれよれのくしゃくしゃだから対して変わりはない。足を無造作に胡座に組んで、寝惚けた顔で軒の方を眺めていた。

 雨上がりの庭先には大きな水たまりができていて、リュウノヒゲとかシャガとかの細い葉っぱが水面に貼り付いている。雨上がりの土の匂いが湿気と一緒に忍び込んできて、耳を凝らすと微かにじーと低い音が響いていた。この季節、気づけばずっと響いている自然のノイズだ。

 「これ、ミミズの鳴き声なんだってね」

 「ホントはケラの鳴き声だけどな」

 学校で誰かが言ってた受け売りを披露すると、兄貴はさらっと却下した。へえ、とは思ったけど何か面白くない。

 「ミミズに声を出すような部位はねえ。あいつらは動物としてはシンプル極まりない形をしてるからな」

 眠そうに目を瞬かせて、兄貴は一つ欠伸をした。

 「智慧の眼も信の手も戒めの足もない。あるのは何でも飲み込むための口だけだ」

 「兄貴みたいなもんだね」

 減らず口ばかりを叩く兄貴に、ちょっと皮肉を言ってやった。そしたら兄貴がちょっと目を細めた。

 「いいや、無駄口を利かない分だけあいつらの方がよほど上品だ」

 何だ、自分でもわかってるんじゃないか。そう思いながら兄貴と背中あわせに座り込んだ。投げ出してある兄貴の背中の片袖を手慰みに玩ぶ。

 「ミミズのことをキモいとか下等とか馬鹿にする奴もいるが、あいつらはあれでなかなか高尚なもんなんだぞ」

 「知ってるよ。ミミズは土を耕してくれるんだろ?」

 学校の花壇とか菜園も、黒々とした柔らかい土ほど掘ればすぐにあいつらが覗いてくる。先生も、ミミズはいい土を作るんだぞとか言って、スコップで細切れにして遊んでいる奴らを嗜めている。

 ただ、見た目が気持ち悪いのはどうしようもないし、雨上がりになるとなぜか土の中から表に湧いて出てきて干乾びちゃったりしてるのを見ると、馬鹿だなあと思ったりするのは否めない。多分地面が水を吸って息苦しくなって出てきちゃうんだろうけど、馬鹿というか、物事を判断することができないのだろう。それはちょっと哀れな気がする。

 そんなことを考えていると、兄貴はふと背中を預けて圧し掛かってきた。

 「あいつらは何でも食って肥料にするからな。汚染土壌の浄化までできるんだから大したもんだぞ。普通の動物なら生きていけない量の毒でも平気なんだから」

 「……その毒ってどこに行くの」

 「全部溜め込んで毒ミミズになるだけさ」

 想像したらうげえ、という気分になった。兄貴は調子に乗ってどんどん体重をかけてくる。暑苦しい上に背中が重い。

 「そんでな、ミミズには女王がいるんだぞ」

 「ミミズって雌雄同体じゃなかったっけ」

 他愛ないことを言い出す兄貴に思わず突っ込んだら、兄貴はこっちをちょいと振り向いた。兄貴の肩甲骨がぶつかってきて痛い。

 「そうなんだよ。だからかな、女王はその旦那と一緒くたになってることも結構あるみたいだ」

 それなら別に女王じゃなくて王様でもいいような気がするんだけど、兄貴はお構いなしだった。

 「女王は野槌神っつー名前でな、要するにツチノコの親玉だな、大体一メートルくらいのサイズらしい」

 ノヅチの子がツチノコ。安直だけど説得力はある。

 けど、ツチノコって蛇だと思ってた。

 「うん、野槌神は夫の大山祇神ともども蛇型の神として扱われてる。が、目も鼻もなき物也といわれてるんだし、そりゃ蛇というよりはミミズだろう。そもそも、一メートルくらいの蛇って正直普通じゃないか」

 それはまあ、確かに。アオダイショウなんかは結構普通にそんなサイズだし、何より蛇は頭や目がすごくわかりやすい気がする。そのサイズのを見て驚いて書き残した人がいるってことは、ミミズとかイモムシとかナメクジとか、そんなものの方がしっくりはまるのかもしれない。

 「野槌神は元々、天照とかより前の神産みのときに生まれた原野の女神でな、その夫の大山祇神は山岳の神だ。いわゆる山の神ってのは色々いるが、野槌夫婦はその中でも最古参の物凄い由緒正しい神なんだぞ」

 そのありがたい神様がミミズ。何だろう、確かにありがたい生き物なのに、今ひとつ釈然としないのは。何か、蛇とかの方がまだありがたそうな気がする。

 そんなことを思っている間にも、兄貴はぐりぐりと背中で圧し掛かってくる。しまった、うかうかと兄貴の背もたれになってしまった。

 「野槌神は何せ古いから、山にまつわる諸々の産みの親でもある。霧やら暗闇やら山道で人を惑わす物の気も生んだんだが、そのせいで仏教が入ってからは色々言いがかりをつけられた。まずは妖怪変化の親玉みたいに扱われて、挙句自身までが妖怪扱いされる羽目になった。智慧の眼も信の手も戒めの足もない、口ばかり達者なダメ坊主の慣れの果てとか身勝手な説話をつけられてなあ」

 背中合わせのせいで表情はわからないが、絶対兄貴は面白がってる。そんなに体重かけてくることないじゃないか。

 でも、そう言えば田圃や畑を耕してる人にとってミミズはありがたいだろうけど、仏教の坊さんはあんまり農作業を一生懸命するイメージじゃないから、だとすれば道を歩いてるときにうっかり踏んで殺生しそうになるミミズは修行を妨げる厄介者かもしれない。おまけに、蛇みたいに噛んできたり毒があったり強そうなイメージもないから、ついつい馬鹿にする気持ちはわからなくはないような。

 そんなことを考えていると、兄貴はふとちょっと真面目な声をした。

 「神ってのは畏敬を失うと零落して、その結果、人を驚かせるだけの妖怪になっていく。野槌も時代が下るにつれて、山道で人を襲ってきたり何でも丸呑みにしたり、まあ妖怪らしい行動が目立ってくるんだけど、それでもたまに見かけただけで障りがあるっつってるところもあるな。そこまで強力だと、どこか神さびた感じさえしてくるだろ」

 「そう言えば、ミミズってバチが当たるって言うよね……」

 兄貴に半分潰されながら苦し紛れにそう言うと、兄貴は嬉しそうな声を上げる。

 「そうそう、小便かけると腫れるって言うだろ。ありゃ、ホントにミミズは刺激を感じると噴射液を飛ばしてて、そのせいで腫れるらしい。野槌を見ると障るってのも、案外それと似たようなもんかもな。ただのミミズでさえそれだけ威力があるんだ、野槌ともなれば相当なもんだろうよ」

 多分兄貴はすっかり背中をそっくり返らせてるはずだ。さてはと思ってふと身を攀じると、案の定バランスを崩した兄貴は転げた。やった、と思ったのも束の間、兄貴は凝りもせずに転がりながら人の膝に頭を乗せてくる。

 「そんで、穢れた土を喰えば喰うほど野槌の身の毒は強くなるが、その分だけ土は清められ野山は豊かになる。たとえその穢れが鉱毒でも放射能でも、野山が野山である限りそれを治めるのが野槌のなすべきことだからな、いずれ野槌を犠牲にして野山は豊穣を取り戻すわけだ」

 兄貴はこっちに手を伸ばして、にやっと笑う。すごく人の悪い笑顔だ。とても性格が悪そうに見える。

 そっぽを向いてやろうと思ったけど、ほっぺを摘まれて仕方なく面白くもない顔を兄貴に向けた。兄貴は人が悪い目で見上げてくる。

 「雨が降ると、ミミズが何で地表に出てくるか知ってるか?」

 「……土の中で溺れそうになるからじゃないの?」

 自分の中で一応結論を出していたところを、わざわざ兄貴が掘り起こしてくる。勝手に人の膝枕を使ってくる兄貴を見下ろすと、兄貴はふふんと笑った。

 「あれ、未だに本当のところはよくわかってねえんだとよ。繁殖のためとか、生息地を拡大するためとかいう話もある」

 日に晒されたアスファルトの道端で、黒いゴムみたいに干乾びているミミズの残骸をふと思い出した。梅雨があければ、きっと家の前の道にも夥しい骸が転がるんだろうけれど、そいつらが地上に出てくるのは何かの間違いによるものだと思っていた。あの生き物が、何か目的を持った行動をするという可能性を考えてみたことはなかった。

 ぼんやりそんなことを思っていると、不意に兄貴は妙に神妙な声を出した。

 「でもなあ、俺はあのミミズたち、女王のところに巡礼に行ってんじゃねえかと思ってるんだ」

 「巡礼?」

 尋ね返すと、兄貴は目で頷いた。

 「地面を潤す恵みの雨が降ってくると、目鼻のないあいつらにも野山を守る女神の弥栄が伝わって、居ても立ってもいられず巡礼に出てしまうんじゃねえかってさ。だってあいつら、ちょうど頃合の雨のときほど、皆同じような方向に這いだしてくるだろ」

 思わず頷いた。何を目指しているのかはわからないけれど、確かにあいつらは開けた道の方を目指して這いだしてくる。もしかしたらそれは、こっちが道側に出てきた奴らしか見つけられないからなのかもしれないけれど――そんなことを言ったら、そもそも雨上がりに道端でうねっていたり、踏まれて半分地面に縫いとめられてもがいていたりするあいつらが、どこを目指しているのかも知らないのだから無理もない。

 物を見分ける目も気配をかぎ分ける鼻も静寂を聞きつける耳も持っているはずの人間が、そんなものを持たないミミズの意図すら理解できていないのだから、考えてみればお粗末な話だろう。

 道端で干乾びているミミズは志半ばに斃れたのか、それともむしろそれは本懐だったのか。からからに乾いて磨り潰されていずれ土に戻ってゆくのだから、もしかしたらそれは山の神の庇護に戻る一番手っ取り早い手段なのかもしれない、とかふと少し思った。

 ふと縁側の向こうでさああっと涼やかな音が響いた。

 振り向けば、半日ぶりの雨が降り注ぎ始めたところだった。とても細かい雨だったけれど、降り始めると同時に濃厚な濡れた土の匂いと昼下がりの熱気が這い上がってきた。ずっと聞こえていたはずの静かなノイズが、雨音に塗り潰されて聞こえなくなってゆく。

 「――と言うわけで、そんな信心なミミズたちを踏むわけにはいかねえからな。俺は安居に身を入れるというわけだ」

 「兄貴」

 人の膝を枕にして、兄貴ときたら頭を押し付けると気持ちよさそうに目を閉じた。だらだらとした日暮を少しも改める気配もないのを見ていると、さっき怒鳴りつけたのが、何だか馬鹿らしくなってきた。仕方がないので、諦めて兄貴に膝を貸したまま響き渡る雨音に耳を傾ける。

 兄貴が起きるのが早いか、こっちが立ち上がるために兄貴を膝から払い落とすのが早いか。

 いっそ早く洗濯機のブザーが鳴ればいいのに、と思いながら、単調に寄せてくる雨音の波にじっと身をゆだねることにした。



野槌


【分布】

 全国の山野。特に近畿地方に多いとされる。

【形態】

 直径15㎝、全長約1m程度、ひも状の形状をしている。

 片方の先端に口がある以外は、目や鼻等の器官は目視できない。

【生態】

 山野に生息する。じめじめとした薄暗い場所を好む。

 小型草食動物を捕食する場面の絵が残されているため、長く肉食と考えられていたが、近年になってその絵が想像で描かれた可能性が高いことが判明した。実際の食性は不明。

 警戒心が強く、人間に遭遇すると襲い掛かることがある。移動の際には蛇のように蛇行するのではなく伸縮しながら動くため、高低差のある場所を苦手とする。低地へは転がり落ちる場合があるため、逃げる場合は高地へ逃げるとよい。

 なお、現在日本で一番大きいと言われるハッタジュズイミミズは全長約60㎝。滋賀県を中心に分布するが、古老によれば、以前より小型化したと言われている。

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