第5話 皐月
GWが明けた。
久々の小学校ではUFOの話題で持ちきりだったので、家に帰って兄貴に報告してみると「宵の明星と見間違えたんだろう」とか素気無い。
外では初夏の長い日がようやく傾いて、縁側にも黄色っぽい夕日が差し込んでいた。遠く寺の晩鐘が響いているが、まだ明るいせいかどこか間が抜けた響きだった。
気付けばすっかり日が長くなった。しばらくぶりに顔をあわせる学校の奴らとは積もる話もあるし、いつまでも日が暮れないからつい油断するし、おまけに旅行に行ってた連中の土産話は面白くて、今日の放課後は久しぶりにだらだら長居してしまった。
とりわけ、よしなしごとを喋っていた一人が「休み中にUFO見た」とか言い出して、「実は自分も」とか便乗するのが何人か出てきたら、あとはお決まりの流れだった。話を擦り合わせてみると、どうも同じような時間帯によく似た見え方だったらしく、半信半疑だった奴らもだんだんその気になってきて、すっかり盛り上がってしまった。
先生に早く帰れと追い出された後も道端で延々立ち話に花が咲き、役場のスピーカーから流れてくる定時放送でようやく我に返り、慌てて学校近くから家までずっと小走りに帰ってきたものだから、ランドセルを下ろすと背中がしっとり湿っていた。暑くて堪らないので、冷凍庫からアイスクリームを出してしゃりしゃりと齧る。それを見た兄貴が羨ましがってきたので、一口だけと差し向けたら根元まで一口で食べられた。
「イマドキのガキはそもそも夜空を見慣れてねえからなあ。UFOなんて言ったところで、大体は星か飛行機か宇宙ステーションの見間違いだ。大方連休で行楽地に行った連中が、テンション上げすぎて見分けつかなくなったんだな」
アイスをぺろりと平らげた兄貴は、袖を絡げてひょいと腕枕を突いて寝そべった。いつもぞろりと着物を着流している兄貴は、衣替えまで二週間もあるというのにもう単なんか引っ張り出して着ていたりする。まあ、この陽気だと仕方がないかもしれない。すっかりアイスのおいしい季節だから。
「そもそもが金星の誤認率は凄まじいからな。プロでも見間違えることがザラにある。UFOは高圧線の近くに出やすいとか、日没直後に地平線すれすれを飛んでるとか言う奴もいるが、そりゃどう見ても金星の特徴だ。日によって満ち欠けもあるし高度も変わるし遮るものが多い低空にしか出なくて見失いやすいから、まあ紛らわしいのは事実だな」
訊いてもいないのに好き勝手に自分の話したいことを話すのは兄貴のいつもの癖だ。こちらにも言いたいことがあるのに、とじっとり眺めていたら兄貴は眉根を寄せた。
「夢がないとか拗ねるなよ。別にUFOの存在を否定するわけじゃねえが、他のもんとの見間違いをホンモノだとごり押しするわけにもいかんだろ」
機嫌を取るように兄貴はこっちを覗き込んでくる。が、そもそも問題はそこじゃない。
「アイス」
「あ?」
「最後の一個だったのに」
箱で買って冷凍庫に入れておいたアイスが、いつの間にかすっかり少なくなっていて、今のが最後の一個だった。風呂上りに食べることもあるけど、この前買ってきて一週間も経ってないのにもう一箱なくなっているのはちょっとおかしい。どうせそれも兄貴の仕業だろうに、人の食べようとしてるのまで横取りするのはちょっといただけない。
ようやく兄貴は、自分がやってしまったということに気付いたらしい。むくりと半身を起こしてばりばりと頭を掻き毟る。
「あー……お前、食いたかったか」
「食べたいから出したんじゃないか」
「買い置きは……」
「だから、これが最後の一個だったんだよ」
兄貴の顔の前にアイスの棒を突き出すと、兄貴はしばらく俯いて頭を掻いた。
「…………んじゃ、買いに行くか」
「兄貴が奢ってよ」
しょんぼりと兄貴は頷いた。肩を竦めながら兄貴から目を反らし、こっそりぺろりと舌を出した。
外に出るとさすがにそろそろ日が傾く頃合だった。黄砂が落ち着いた時期の夕空は、うっすらラベンダー色になっている。夜風に青草の匂いが立ち込めて、もうすっかり初夏の趣だ。びぢゃぐぢゃじゅぢゃでゅでゃって喧しい鳥の鳴き声が聞こえて、見上げると空を切り裂くような速さでツバメが飛び去るところだった。
黒々と伸びた長い影を背後に引きずりながら、兄貴と二人で国道までの道を辿っていった。兄貴は角帯の端にちょいと信玄袋を捩じ込んで、雪駄を突っかけてひょいひょいとついてくる。
と、しばらく行ったところで目の前の山影にちらりと何か光るのが見えた。
「あれ?」
目を凝らすと梢の影に消える。けれど数歩の間にまた現れる。山の鉄塔の辺りに引っ掛かるように、ぎらぎらと輝く独特の光だった。
「お、リベリオンのおでましだ」
「……UFOなの?」
兄貴が陽気に眉庇をしながら見上げるので、思わず足踏みして兄貴の隣に並ぶ。今日散々小学校で盛り上がってきたばかりなので、つい連想したことを口にしたら、兄貴はぽんと頭に手を載せてきた。
「いや、あれが宵の明星だ」
「あんなに明るかったっけ、金星って」
あんまり自信はなかったけれど、空がこれだけ明るいうちから見えてくるってのは尋常ではないと思う。ピンク色に染まりながら飛行機雲が伸びていくけれど、飛行機のランプよりよっぽど明るいように見える。
「金星は満ち欠けするからな。今はちょうど一番明るい時期だ。金星は他の星と違って、地球よりも太陽に近いところを回ってるから、他の星とは見え方が違うんだ。出てくる場所も時間も、明るささえ一定しない。まあ月の満ち欠けでも想像してみろ」
そう言えば、理科の時間に聞いたことがあるかもしれない。ただ、そんなことよりもさっきの兄貴の不穏な台詞の方が気に懸かった。
「リベリオンって何?」
友だちと映画かゲームかの話をしてたときに聞いた覚えのある単語だ。反逆者とか、そのくらいの意味だったかな。
兄貴はんーと声を上げて、それから首を傾げた。
「金星ってのは古今東西ちょっとした曲者と相場が決まっててな、どうも太陽に喧嘩ばかり売っているってイメージで共通している。特にワルなのは明けの明星だ」
あけのみょうじょう、と口の中で復唱すると、兄貴はひょっと肩を窄めた。
「こんな風に日没前後に見えるのが宵の明星、逆に日の出間際に見えるのが明けの明星。金星の会合周期は584日だから、大体一年半ちょっとで空の同じ位置に戻ってくるんだが、全然見えない時期もあるからな。そのせいで昔はそれぞれ別の星と思われてたんだ」
それはまあ、無理もないだろう。普通、日の出直前に見える星と日の入り直後に見える星を同じものだとは思わないだろう。兄貴はちらっと空を見上げて、それからこちらを見遣った。
「ウガリット……っつってもピンとこねえよな。地中海の端っこあたりの神話だと、明けの明星と宵の明星はシャヘルとシャレムって双子ってことになってる。特にやんちゃなシャヘルは後に聖書の中でルシフェルという名前を与えられて、そこから派生してキリスト教世界だと悪魔の親玉みたいな扱いを受けることになる」
その名前は聞いたことある。堕天使の代表みたいな感じで、漫画や小説でもおなじみだ。
「それと、バビロニアの女神イシュタールも明けの明星を指すとか言われるが、こいつもトラブルメイカーだな。美と豊穣と戦争の女神って触れ込みはさすがに伊達じゃねえ。まあ惑星ってのは恒星と違って変な動きをするし規則性も見つけにくいし、勝手気ままな性格に見えたんだろうな」
何か中東ばっかりだなあと思って兄貴に言ってみたら、少し頷いた。
「あの辺は天体観測が趣味というか本業だからな」
確かに砂漠と海と大河ばかりのところだと、見渡す限り星ばかりかもしれない。そう言えば昔は方位を知るのに北極星を使ったというし、目立った目印のないところでは星を見ながら道を探すのも普通のことだったのだろう。
「星見は中南米でも活発だぜ。太陽神が生贄寄越せとか言ったときに槍投げて逆らったのはトラウィスカルパンテクートリっつー長い名前のやつだが、こいつも明けの明星だ。アステカだと金星は作物に霜を降らせる災いの元とか言われてたから、すげー真剣に軌道計算とかして、途中で明けの明星と宵の明星が同じ星だと気付いたらしい。まあその頃にはトラウィスカルパンテクートリはケツァルコアトルに吸収されてたっぽいけどな」
それは凄い。まず、そんな凄い名前をつけようと思った人たちが凄い。あとそれをそらで言える兄貴も地味にやばい。
「ギリシアだとプラトンが宵の明星と明けの明星を同じ星だと突き止めたんだ。で、金星を受け持つことになったのが女神アプロディーテーだが、こいつは表立っては喧嘩は売らない代わりにあっちこっち色仕掛けで戦争を仕掛けてたっけ。ま、これはイシュタールと混じってるところもあるんだろうが」
アプロディーテーって、ビーナスのことだっけ。美の女神が災いの元になるってのは、まあ何かわからないでもない。そんでもって、金星が美の女神ってのもわかるような気がするし、でも何か喧嘩っ早い男の神ってのも納得いくような気がする。あれだけぎんぎん光ってると、男でも女でも、とりあえず自己主張強そうだ。
黄昏の薄明かりの中で、ふと兄貴がにっと笑った。
「日本だと、八百万の神がいるっていう割に星の神ってのはほとんどいないんだが、ほとんど唯一日本書紀に天津甕星ってのがいて、こいつが札付きの曲者だ。太陽もとい天照率いる天津神に最後まで歯向かった挙句、どうも上手いこと逃げ遂せたゲリラみたいなやつだ」
「やっぱり明けの明星?」
これまでの流れでそうかな、と思って訊いてみると、兄貴はしたりとこちらを見た。
「はっきりと明言はされてないし、星辰全般だとも北極星だとも言われてるが、強いて言えば宵の明星ってのが有力だな」
あ、珍しい。そう声に出すと、兄貴はちょっと笑った。
「まあなあ。明けの明星ばっかりが問題児扱いされんのは、まあしょうがないけどな」
「何で?」
一瞬兄貴はしまった、という顔をする。ちょっと言いよどみながら、少し首を傾げてみせた。
「何でって、お前、明けの明星が上がる時間帯なんて、普通よい子は寝てるだろ」
言われてみればそうかもしれない。いや、でも凄く早起きの人だったら夜明け前に起きてるかもしれない。そう思ったけど、兄貴はばつが悪そうに首を竦めた。
「ルシフェルもイシュタールも、ついでにアプロディーテーもそうなんだけどな、あいつらみんな人間を色香で惑わしたり、スキャンダルで堕落させたり、まあそんな朝帰りの人間には後ろめたい感じの性格をしてるんだ」
わかったようなわからないような。要はそういう方向にだらしがない人をカモにしてるってことかな。
「魔物ってのは、畢竟人の心の闇を映す鏡みたいなもんだ。誘惑に唆されたことがない人間なら、疚しい気持ちで明けの明星を眺めることもないってことだろうよ」
ふうん、と何となく納得したような気になって頷く。そしてふと、引っ掛かったところがあったので首を傾げた。
「それじゃ、そのアマツミカホシってのは? 宵の明星なのに悪い神様なんでしょ?」
「別に天津甕星は悪神ってわけじゃねえよ。単に太陽に喧嘩を売っただけだ。別に対等だったら喧嘩もそこまで悪いことじゃねえ」
対等だったら、という言葉が少し引っ掛かる。でも、天照って一番偉い神様だったはずだ。目上の人に逆らうのは、普通は悪いことになっている。
兄貴はふと、少し意地悪っぽく笑った。
「……天津甕星はな、ああ見えて第二次世界大戦中は撃墜王なんだぞ」
「え」
驚いて思わず声が洩れた。神様は神話の中の登場人物だと思っていたから、いきなり具体的な戦争の名前が出てきて驚いた。撃墜っていったら、B29とか零戦とか、そんな飛行機を落とすんだろうか。
その反応がおかしかったのか、兄貴はくすくすと笑った。
「ほれ、宵の明星は時期によったら昼間でも見えるくらい明るいからな、米軍機の中には山影からいきなり現れた明星を敵機と間違える奴もいたらしい。ま、UFOとそう大差ないし、UFOだと思い込んで報告したパイロットもいたらしいからな」
ああ、それだったらちょっとわかる。今も地平線を見上げたところに瞬いている光は、確かに星って呼んでいいようなサイズじゃないし、出し抜けに視野に入ったら絶対ぎょっとする。いきなり物陰から出てきたら、びっくりして操縦を間違える人もいるかもしれない。
でも、別に明るいだけで弾も撃ってこない金星だったら、そう大したこともないんじゃ。そう思ったところで兄貴が言った。
「逆に日本軍の方はな、日没直後に西の空で光るのはもれなく明星だと思い込んで、しょっちゅう敵機に撃墜されてたんだとさ。慣れすぎたがゆえの弊害だな」
思わず瞬いた。え、そんなのってありなの?
「ベテランほどよく騙されたっていうから、なかなかの猛者だろう。自分は一発も撃たずに、フェイントで潰していくんだからタチが悪い。やられた数は、ちょっと洒落にならないレベルだったらしいぜ」
兄貴は人の悪い笑顔を崩さない。
「え、でもだって、一応天津甕星って日本の神様だよね」
「んー、まあ一応はそうだな」
「何で日本の味方じゃないの?」
神の名を与えられているからには、きっとどこかに神社とかもあるに違いない。戦争中にはきっと、戦争に勝つように、とか徴兵された家族が無事でいますように、とかそんな願い事をいっぱい引き受けてきたはずだ。その神様に裏切られるのって結構きつい。いや、まあ事故と言えば事故なんだし、別に金星が故意にやったことってわけではないんだけど、でも釈然としないものがある。
百歩譲って、星の眩しさが原因で撃墜された人がいたとしても、そこに神様の名前を被せてくる兄貴の物言いが腑に落ちない。
夕暮れの薄明かりを顔に受けながら、兄貴は嘯いた。
「日本の神が日本の軍人を応援しなきゃいけないって謂れもねえよ。言ったろ、別に対等だったら対立したって悪いことはねえって。天津甕星だってただの喧嘩好きで天照大神と対立したわけじゃねえだろうし、もし太陽の方が金星を屈服させようと攻め込んできたんだとしたら、そりゃゲリラ戦で最後まで抵抗もするし、後々恨んだって仕方ないだろ」
あ、と思った。気持ちはわからないでもないだけに複雑な気分だ。何か兄貴に丸め込まれてる気がする。
「集団をまとめるには何か一つイデオローグがあると便利なんだけどな、あんまりにもそれが大規模になると逸脱を許さない狭量さと紙一重になってくる。金星みたいな反逆者は、そういうのを戒めるアンチヒーローとして集団には必要なギミックなんだよ」
訳がわかんないので肩を竦めてみせると、兄貴はふと指先を翻して金星を指差した。
「ま、あれだ。金星が零戦以下日本軍の軍用機を片っ端から撃ち落すのは相応の理由があってな」
「何だよ」
金星を指差していた人差し指と、それから親指をくっつけて兄貴は指で丸い形を作った。それを、夕日を遮る山影にすいと向ける。
「第二次大戦中の日本機には必ず、機体に日の丸が描かれてたのさ」
「日の丸」
「つまり太陽」
「……あ」
太陽を背負った飛行機と、それをつけ狙う金星。確かにその構図はすごく様になっていた。
兄貴はふふん、と笑って袖を掻き合わせて腕を突っ込んだ。兄貴の足取りが少し速くなる。
「さあて、宵の明星が沈むまでにはアイスを買って帰るぞ」
「今度は一人で食べないでよ」
気づけば背後に伸びきった影は、すっかり薄くなっている。足元に影を落とすほどではない、それでも眩い一番星の瞬きを追いかけるように、兄貴と二人で道を急いだ。
金星
【分布】
太陽系内惑星。
周期的に、日没後の西の空または日の出前の東の空で確認可能。
【形態】
最大離角約47度。
最大光度-4.87等。最も明るい時期には地上に影ができるほどと言われる。
【生態】
最も明るい時期は、太陽、月に続いて全天で三番目の光度を誇る。
ただし会合周期が583.92日とキリが悪いため、軌道の検証が不十分だった古代においては「気まぐれでワガママ」というレッテル張りをされ、周期計算に成功した後もやっぱり「女王様系美人」と言われ続ける羽目になった。
実は成立過程やスケール感が地球とよく似ている。そして太陽系で唯一自転の方向が逆転している。しかも地球の会合周期と自転速度がシンクロしているせいで、地球から見える方向はいつも同じ面。他の惑星との会合周期は一切スルーしているくせに、そこらへんは抜かりない。
美人はキメ顔以外を見せないポリシーらしい。
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