第4話 卯月
桜の木の下には死体が埋まっている、と嘯いたら、兄貴に「ガキが梶井としゃれ込むんじゃない」と小突かれた。
庭では満開の
「だって、女子が見たって騒いでた」
「何を」
「幽霊」
兄貴はこれ見よがしに溜息を吐く。くたびれて折り目の取れた羽織の肩をそびやかし、顔に垂れた前髪の下でこちらをちらりと見遣った。
「語彙が貧相なガキどもだ。幽霊って言うのは死者の霊のことだ、よしんば何かこの世ならざるものを見たところで、そいつが死者だとどうやって断定する」
「さあ」
確かに幽霊と怨霊と悪霊と生霊と、他にもいろいろありそうだけど、どう違うのかはよくわからないし、わかってる人もそんなに多くはないだろう。でも兄貴の言い草はまるで八つ当たりみたいだった。そんな風に適当にやり過ごしていると、ふと兄貴は片目を眇めた。
「んで、どこで、どんなのを見たって言うんだ」
これはつまり、兄貴が興味を示したっていうことだ。普段家の中で無気力そうにだらだらしている兄貴だけど、本当にたまにこんな風に外のことに関心を持つことがある。こういうときに、説明をしないという選択肢はなくなる。
去年、小学校の通学路に緑道公園ができた。要するに少し大きな用水路の周りを広めに舗装して、二百メートルくらいの区間にあれこれ木を植えたりあずまやを設えたりという感じのものだ。そこの彩りとして植えられたのが、ずらりと並ぶ桜並木だった。まだ添え木も取れない細い幼木ばかりで、なかなか暖かくならない今年は花をつけないかと思っていたら、四月になった途端に一斉に花をつけた。大体五メートル間隔で、用水路の両脇に植えられているから、大体百本くらいになるだろうか、それが今はまさしく満開の見頃だった。
もちろん公園だから街灯はある。それでも夕暮れ時の花霞はぼんやりと薄暗く、幽霊が出てもなるほどおかしくはなさそうな雰囲気の場所だ。見た、というのも、習い事の帰りにそこを通りかかった子ばかりだ。
「そりゃあますますおかしかろうよ。できたてほやほやの公園に死体ってのはうまくねえ。何だ、工事中にそれらしい事故でもあったっけな?」
「ううん、知らない」
頭を振ると、さもありなんと兄貴は鼻を鳴らして庭を見遣った。
「ここらへんの用水路はつまり、田圃への引水用だ。墓地からも寺からも遠いし、むしろそういう意味だと学校周りの方が墓地なんてのは多いもんだしな」
「そうなの?」
「住宅地に適当に近くてでかい土地を確保しようとしたら、寺か祠か墓地が引っ掛かるってのはむしろ定石だ」
「へえ」
「あとは古墳とかもあるけどな、あの手合いは古すぎて幽霊とか呼べるようなシロモノじゃねえから、ここでは除外だな」
「要するに、幽霊だとしたらもっといい立地の場所が近くにあるのに、わざわざ真新しいところに出るのは不自然ってことだね」
そんな風に答えたら兄貴にもう一度小突かれた。
「ガキが知った風に言うんじゃねえ」
「だったら何」
「そういう災いを為すのが出てこないために、地鎮祭ってのをするんだよ。地が鎮まれば、そこに依るものも封じられるからな。公園を作るときにもやってただろう」
思い返せば、そう言えば狩衣姿の神主さんと作業服姿のおじさんが神妙な顔をして儀式をしていたのを、だいぶ前に見かけた気がする。
「つまり、土地に依るものはちゃあんと鎮められているし、そもそも土地に依るもの自体がほとんどいない場所だってことだ」
「それじゃ、あの子たちの見間違いかな」
その割には何人も見たって子がいたけど。それに、それからしばらくして寝込んじゃった子もいて、中には「祟りだ」なんていってる奴もいる。
「同級生を疑ってかかるのもうまくはねえ。染井吉野には妙なのが湧くからな」
兄貴は両袖を合わせてその中に腕を収めると、渋い顔をする。兄貴にしては珍しい、真面目な顔だ。
ふと、兄貴は眉根を寄せて呟いた。
「……かといって俺にもどうしようもないんだが、まあやむをえん」
「兄貴?」
真意を聞き返す前に、兄貴はふと裾を蹴り上げて後ろ向きにごろんと寝そべった。
「どうしたの」
「寝ておけ、今日は夜更かしするぞ」
そう言い置くと同時に、兄貴は高いびきをかきはじめた。
そしてその夜。春とは名ばかりの寒さが頬を刺す。
兄貴に手を引かれて辿る夜道は、いかにも暗く寒々しかった。
「何でついていかなきゃいけないの?」
「一人だと怖いだろうが」
裏地のある羽織を着込んで兄貴は背中を丸め、早足に草履を捌く。ダウンジャケットを着込んで、厚手の靴下を穿いていても寒いから、足袋一枚の兄貴はもっと寒いだろう。
「怖いの?」
「俺は、ホントは染井吉野が苦手なんだよ」
兄貴がぼやくようにそう言った途端、生ぬるい風がふっと吹き抜けた。その先に目をやると、街灯に照らされた桜並木がぼんやりと浮かび上がっている。貧相な枝中に花をつけた、いかにも頼りなげな桜の木は、実のところおどろおどろしさとはまるで無縁だった。百本という数で並んでも、少しも威圧感というものがない。むしろ清楚というか、人工的な電灯にあばかれて心細げな気配だ。
だが、ふと兄貴は足を止めた。
「ほれ見たことか」
兄貴を見上げ、それから桜の方を見て、思わず息を呑んだ。
街灯に仄白く咲く花の、一つ一つからまるで湯気のように、何かゆらゆらと揺らめいていた。霞か何かと思ったけれど、それは花そのものから滲み出るように揺れていて、しいて例えるならドライアイスの煙に似ている。よく目を凝らすと、次第にそれは人の姿らしきものを結び始めた。
ふと風が吹いたのか花弁がはらはらと散り、その煙みたいな姿はぱっと辺りに散った。すぐに見えなくなったそれは、それでも見ていて気分のよいものではない。幽霊と見間違えた子の気持ちがよくわかった。
「何、あれ」
「疫神。はしかとインフルエンザとノロウイルスと花粉症の神だ」
何それ、と言い返しそうになるのを兄貴の言葉が遮った。
「八百万も神がいれば、そんなのがいてもおかしくはねえだろ」
「八百万の中でも結構おかしい方に入ると思う」
兄貴は少し後退るようににじりながら声をひそめた。
「春先のちょっと暖かくなった時期に罹るタチの悪い病気って言えばそのへんだろうが。元々、花の散る頃に流行る疫病を、昔はまとめて春瘟っつったんだよ。昔は天然痘も含んだが、絶滅したからそれは抜きだな。で、それが神格化して疫神」
要するに、先に疫神の司る春瘟があってそれが後から別々の病気だったとわかったってことだろうか。だとすれば結構いい加減なもんだ。
そうは言っても、花が散るごとに湯気のような疫神がどこかへ飛んでゆくのはたいそう不気味だった。咲いている桜は綺麗だけれど、あんなのがまとわりついていると思うとどことなく薄気味悪い。
「……春瘟は、桜から湧いてくるの?」
「別に桜に限っちゃいねえ。疫神は春に咲いて散る花なら何にでも憑り依くが、染井吉野だと特に湧きやすいな」
兄貴の口振りだとまるでそれは害虫みたいだ。けれど、確かに霞のように揺らめくそれは、ユスリカやウンカの群れにも少し似ていた。
「疫神の目的は人間に憑り依くことだが、染井吉野はそのためには都合がいいんだ。何でだかわかるか?」
少し考えて、すぐに閃いた答えを口にした。
「あ、花見で人が寄ってくるから?」
「それもある。春先に悪い病気を拾うのに花見の席が多いのは事実だ」
ただ、それだけではないのだろう。兄貴の横顔を見上げると、兄貴は街灯に照らされた桜をしっかと睨んでいた。
「それから、桜は山の神の依代だとかいう説もないわけじゃない。山の神は疱瘡神とも縁が深いから、元々依りつきやすいというのはあるんだろう。神と妖は紙一重のところがあるから、神の宿りやすい木はそれだけ妙なものも憑り依きやすい」
兄貴がこんな風に遠回りな口の利き方をするのは、つまりそれが兄貴にとって面白くない事実ということだ。急かしてもろくなことがないので押し黙って待っていると、ようやく兄貴は口を開いた。
「……疫神は人間に憑り依きたがっていると言っただろう。染井吉野はそういう意味で都合がいいんだ。ほれ、インフルエンザも鳥から直接人間には伝染らんが豚が仲介に入ると伝染りやすくなるだろう。あれみたいなもんだ」
わかったようなわからないような説明だ。要するに中間宿主とかいう奴なんだろうけど、豚と一緒にされたら桜が何だか気の毒だった。
「桜って人間に似てるの?」
「桜じゃねえ。染井吉野が殊更に似ているんだ。木にしてはやけに寿命が短いところとか、賑やかしばかりであんまり世の役に立たないところや、野に戻ると馴染めないところなんかよく似てる。園芸種だから仕方ないといえば仕方ないんだが、人の手に拠ってしか育つことも増えることもできないってのは、生物として決定的な欠陥だ」
何て言うか、ソメイヨシノに対しても人間に対してもひどい言い様だ。というか、その特徴は今ひとつ人間全般に言えるのかぴんと来ない。
「……そもそもが馬鹿だ。元が弱いくせにマトモな手入れもしてもらえないんだから、拗ねてみせればよかろうに、律儀に毎年花をつけるから却って寿命を縮めるんだ。己の身の程をわかっていない」
兄貴は一頻り毒づいた。要するに、これはいつもの捻くれた兄貴の言い草ということだ。ソメイヨシノはそういえば、人と同じくらいの寿命だとか聞いたことがある。戦後に植えられた並木の桜が一斉に寿命で枯れて困っているとか、今年もどこかのニュースでやっていた。
「それじゃ、あの疫神はどうしたらいいの?」
そうしている間にも桜の花にはもやもやとした疫神が絡み付いて、それ自体がぼやっと光っているようだった。不気味だしおまけに有害だとくれば、何とかしたいのが人情だ。
兄貴は羽織の袖に腕を隠しながら呟いた。
「地に依るものは地鎮祭をすれば鎮まる。それじゃあ花に依るものは、花鎮祭をすれば鎮まるってのが道理だが……」
地鎮祭は知っているけど、花鎮祭ははじめてきいた。神社に頼めばやってもらえるのかと思ったけど、兄貴は首を竦めた。
「ありゃあイマドキやってる神社は多くないし、有職故実に組み込まれた優雅なだけの年中行事だ。だいたいが、今時舞い手なんかいねえよ」
「兄貴が舞えばいいじゃない」
何気なくそう言うと拳骨が落ちてきた。
「稚児舞でもいいんだぞ」
「やだ、あんなのの傍に寄りたくない」
率直にそう言うと、兄貴はやれやれと羽織の肩をそびやかした。
と、見上げている先で兄貴がはっきりと顔をしかめた。袖を握りながら目を向けると、風が凪いだのかソメイヨシノの花から滲み出した疫神が人の形を取っていく。ひらひらと緒を引く袖は長く、振袖を着た七五三みたいな姿をしていた。一瞬、桜の妖精かとも思ったけれど、周りに薄煙のような白い気配をまとったそれははっきり言って禍々しい。
その女の子の姿をした疫神がふとこちらを向いた。にぃっと口の端を上げて笑うと、ぞっと背筋が寒くなる。
「まあ待て。そろそろ頃合だ」
ふと瞬いて兄貴を見上げる。兄貴は面を上げてどこか遠くを見遣っている。その視線を追いかけて、首を傾げた。
少し離れた丘の斜面に、何かちらちらと光っている。あれも春瘟かと目を凝らすと同時に、向かい風がそよそよと吹いてきた。と、不意にそれが突風に変わる。丘の斜面で光っていた何かが、粉のように吹き散らされてこちらへ迫ってくるのが見え、思わず顔を覆って目を瞑った。
「あーあ、せっかくの瞬間を見逃したな」
一瞬の突風は緩んだが、まだひゅうひゅうと耳の傍で風が哭いている。恐る恐る顔を上げると、羽織の袖を風に遊ばせながら兄貴がこちらを見て笑っていた。
袖口から覗く手が、何かを握っている。袖から手先を見て、そしてその先にあるソメイヨシノの若木に目をやって、思わず声が漏れた。
「疫神は?」
その枝先にあるのは、頼りなげに咲く小さな花の群ればかりだった。街灯の灯りを吸い込んで頼りなく光っているが、あのおどろおどろしい女の子の姿はもうどこにも見えなかった。別の枝先に目を向けても、並木のどれを見ても、もう先ほどまであれほど蔓延っていた春瘟はどこにもない。
「さあ?」
兄貴は意地悪く笑うばかりだ。ふとぐいっと袖の袂を掴んでやると、兄貴は腕を下ろした。握っていた掌を開くと、そこに現れたのは桜の花弁だった。白い掌よりもまだ白い、ふっくらと丸く先に切れ目の入った、ソメイヨシノの花弁に間違いなかった。兄貴の背後では、風に堪えかねた若い桜が花弁をちらちらと舞わせている。
「……それ、手品か何か?」
訝しげにそう言うと兄貴は笑って歩き出した。置いていかれるのが心細くてその後を追い縋る。兄貴の羽織の裾にしがみついていると、兄貴はひらりと腕を延べて腰の辺りに引き寄せてくれた。
「悪い悪い、少し驚かせすぎたな。種明かしを見せてやろう」
緑道沿いを兄貴はすたすた歩く。道の両脇で花をつけている若木は今はもう普通の桜だったけれど、それでも余りいい気分はしなかった。兄貴が向かっているのは風上の方向で、本当はやっぱり不気味だったが、一人で帰る気には到底なれなかった。
「多くの染井吉野の寿命が短いのは事実でな。人気があるからどこにでも植えられて、そこが嫌でも逃げ出すこともできない。自分では繁殖できないから、人の選ぶ場所以外に芽を出すこともない。そもそも始まりの一本にしても、江戸の終わりにできあがったということ以外、人為的に作られたのかどこかでたまたま採取されたのかも実はわからないから、どういう場所が最適地なのかもわからない。花をつければつけたで人が寄ってきて、枝を折られたり根を踏まれたりろくな目に遭わねえし、花も葉も甘いから虫や鳥にもたかられる」
兄貴の羽織の影から少し顔をもたげた。並木の桜は兄貴の背とそう変わらないのに、それでも枝中に花をつけている。もう散り始めの時期だろうか、風の吹くごとにばらばらと花弁が落ちるから、あっという間に花がなくなってしまいそうな気がする。
「こいつらみんな、遊女みたいなもんだ。並木だとさしずね遊郭だな。ほれ、古今東西、変な伝染病の発生源もそんなもんだろう。特に昔の若い連中は病気になったら気合を入れに女を買う悪癖があったからな」
だから疫神にも憑り依かれやすいということなんだろうか。それとも声を出せないソメイヨシノの恨みが春瘟を呼び寄せてしまうのか。わかったようなわからないような説明だ。
兄貴はいつの間にか脇道に反れる。案の定兄貴が目指しているのはあの丘だ。丘というよりほんのなだらかな高台で、かすかな風と共にむっと甘い香りが舞い上がる。そこは満開の花がついた桃畑だった。枝振りが低い上に色が濃い分だけ光を反射しないから、夜闇の中に静かに沈みこんで、まるでそれは赤い珊瑚のようにも見えた。
そしてその紅色の奥に、浮かび上がるように一際白く丈高い樹影があった。空へと広がる枝中に薄紅色の花だけを纏わせたそれの正体は、ソメイヨシノの大木だった。
思わず息を呑むと、兄貴が頭をくすぐるように撫でた。
「人に害をなす神霊の動きを、呼び習わしで
兄貴の指先につられて見上げた先のソメイヨシノは、見るからに堂々とした大木だった。花を枝中に舞わせ、葉を少しも見せていない見事な枝振りには、さっきの並木とは違う意味で息を呑んだ。
そしてその枝には添木がある。はっきりと子どもの目でもわかる手入れの跡が見えた。
「里の神を鎮めるには本来神事は必要ない。しかるべき手入れをして、怠りなく備え、荒ぶらないように宥めていればいい。それを惰り野放しにしていれば荒ぶるのは道理で、疫神もそういう場所に湧く」
「この桜みたいに、ちゃんと手入れしてたら大丈夫なの?」
兄貴は頷いた。
「自分が鎮まるだけじゃなく、周りまで鎮めるだけの力を持ったりする。神気は伝染るからな、こんな古い木は周りにも押しが利くんだ。満開を迎えたこいつなら、疫神も一発で鎮まるさ。鎮められたことのない小桜どもにはてきめんだ」
見上げた木は、もしかしたら一抱えくらいあるかもしれない。人と同じくらいの寿命しかないソメイヨシノが果たしてそんなに大きくなるのだろうか、と怪訝に思ったところで、兄貴の声が降ってきた。
「言っただろう、染井吉野は最適地すらよくわからないって。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿っつって剪定すらろくにしねえところもあるが、結局は桜も梅や桃の仲間には違いねえ。きちんとした知識を持って管理すりゃ、野放しのときよりは寿命だって伸びる。元々が幕末明治の頃に生まれた品種だ、天寿を全うした個体をまだ誰も知らないっていうのが真相だろうよ。繁殖力もないみたいに言われているが、染井吉野同士を掛け合わせても芽は出ないが、雑種だったら交配できるんだぜ」
ふと来た方向を見返した。多分ここは、誰かが管理している桃畑の一角だ。その誰かが、商品とする桃の手入れをするついでに、実を結ばないソメイヨシノも手入れしてきたということだろうか。それでこんな大木に育って、花を咲かせているのだろうか。
「……兄貴、あの緑道公園の桜は?」
心細げにぽつんと野放しにされた並木が、遠く街灯に照らされているのが見えた。あれほどたくさんの疫神にまとわりつかれていた桜は、それでもこれからも花をつけながら大きくなっていき、寿命だからと諦められて枯れてゆくのだろうか。
と、ふと兄貴がぽんと頭に手を載せた。
「夕方、回覧板が来てたの見てないか。五月から緑道公園は町内会で委託管理だとさ。うちの区長はここの桃農園の社長だったろ」
覗き見た兄貴がにっと笑っている。なぜか安堵して、兄貴の羽織の裾に顔をつっこんでやった。
「兄貴、性格悪い」
「悪かったな」
兄貴は羽織の裾を絡げながら、ふと嘯いた。
「――ゆかしさや は(葉/歯)を見せず咲む 吉野太夫、ってか」
葉っぱを出す前に咲くソメイヨシノを、口を噤んで笑う花魁に擬えて詠ったのだろう。下手くそなくせにもっともらしげな言い草が癪だったので、腹立ち紛れに言い返してやった。
「――ずぶとさや はら(葉等/腹)見せず笑う 染五郎」
どうだ、と兄貴を見ると、にやけていた兄貴がむっとした顔をした。
「……お前、上手いこと言いやがって」
ざざ、と風の枝を吹き抜ける音がした。ばらばらとぶちまけたように、桜の花弁が降ってきた。
ソメイヨシノのいかにも豪奢な大木が、頭上で呵呵と笑っているような気がした。
疫神
【分布】
人の多い場所。もしくは山。
季節性が確認されており、3月~9月頃に活発に活動するとされる。
【形態】
赤い衣服(無地またはドット模様)を着た老人または童子。
【生態】
冬季は山に潜んでいるが、桜の開花時期に大量に出現して疫病を蔓延させ、秋口頃まで猛威を振るう。流行時期以前にコントロールに成功すれば伝染病の予防に奏功するとされているが、一度パンデミックを起こした場合は予防効果が少なくなるため、患者の症状軽減を祈願する場合が多くなる。
流行時期の主な対処方法は、疫神と遭遇しないように外部との接触の機会を減らすこと、疫神にあやかった新しい衣服を着用すること、熱湯による払い、小児への予防接種の徹底。明治以降の近代衛生の普及とともに広まった神なので、妙に現代医学と親和性が高い。
なお、伝染病研究で知られる野口英世の銅像が立つ東京恩賜上野公園には、ソメイヨシノの原木と目される大木が今年も花をつけている。
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