第2話 如月
今日は節分だから給食に炒り豆の小袋がついてきたので、風邪で休んでた奴や食べなかった奴の余りを五袋ばかりもらってきた。兄貴は喜んで、最近納屋から引っ張り出してきた火鉢に火をくべて、半紙に豆を載せるとぱらぱら炒り始めた。
外では鋭い風音が響いているけれど、火鉢に当たっているとぬくぬくとそこだけ暖かい。ガラス戸ががたがた鳴っているのも愛嬌だ。
「もったいないなあ、こんな美味いのに余ったんだろ」
うん、と頷いて、兄貴が片手で転がしながら渡してくれる豆を口に運ぶ。炒りたての熱々の豆は、また格別だった。
「だって節分の豆って、歳の数だけ食べるじゃない。こんなに入ってたら余っちゃう」
小袋の中には小粒の大豆が三十粒くらい入ってる。小学生が食べるのは高学年になっても十粒そこそこだから、どうしても多すぎるのだ。余らせるのが嫌な子とかは班で一袋を開けたりしてて、風邪で休む奴も多い時節柄、結構な数が余っちゃっていた。それなら、うちで豆撒きするときに使わせてもらったらちょうどいいと思ってもらってきたのだった。
兄貴はかしゃかしゃと豆を載せた紙を揺すった。いつも着物姿の兄貴は、今日も真冬らしく丹前に綿入り半纏を着込んでぬくぬくと背中を丸めている。着物って面倒じゃないのかなあと見ていて思うのだけど、まあ兄貴はいつもだらっと着こなしていて楽そうだし、今の季節だと下手にダウンとか着るより暖かそうだった。
「それ、ホントは数え年プラス一個だからな。今のガキは、満年齢しか馴染みがないもんなあ」
「ふうん」
「まだ年が明けたばかりで、お前もまだ誕生日来てないから、実年齢プラス二歳。それにプラス一個だな」
それなら安心して三粒は余計に食べられるってことだろう。学校で食べた分はもう勘定から外して、もう一度最初から食べ直してやろうと思う。
そうする間にも、兄貴は豆の皮がはじける傍からひょいと指先で摘んでぱくっと口に運ぶ。かりかりと噛み砕く音も美味しそうだ。でも、兄貴は一体何歳なんだか、無造作にぱくぱくと食べてしまうので豆撒きの分が足りるのか心配になってきた。
「ねえ兄貴、豆撒きの豆買ってないよね」
兄貴が最後の袋を半紙の上にあけてしまったときに、さすがに思い余って声をかけた。兄貴は怪訝そうに首を傾げる。
「お前、豆撒きするつもりだったのか?」
「そういうもんじゃないの?」
新聞の地方欄には、どこの神社にどんな有名人が豆撒きにやってくるとか、どんなイベントが予定されているとか、そんな情報がいっぱいだ。羽振りのよいお稲荷さんとかは一面ぶち抜きのチラシを載せていたりする。さすがにそこまで派手にすることもないだろうけど、今夜はどこの家でも豆撒きをしているんじゃないだろうか。
ぱちぱちと豆を弾いて口に放り込みながら、兄貴は美味しそうに噛み砕く。
「別にそんなの義務でもねえだろ」
「まあそうなんだけど、行事だし」
「行事ってのは生活に根付いているから成り立つもんだ。まあ伝統文化を大事にするのを悪いとは言わんが、全国的に画一化されるのは何か不自然でおれは好まん」
兄貴の言っていることはよくわからないけど、要するに「みんなやってるからやるってのはあまりよくない」ってことだろうか。確かに、お雑煮とか盆棚の設えとかは地方ごとに差もあるし、どれか一つが正しいと断言できるものではない。こっちの方が自分の家だと大事だから、とか、この方がやりやすいから、とか人それぞれ事情は違うんだろうし、それを型にはめてしまうってのは乱暴かもしれない。
そうは言っても、何だか少し残念だった。行事って、つまりは季節のイベントで、節分はクリスマスやお正月みたいに派手じゃないけど、寒くて長い真冬の夜にちょっとした楽しみじゃないか。執念く兄貴に詰め寄ってみる。
「それじゃ、やらないんだ豆撒き」
「そうは言っても、季節の変わり目だしなあ。何もしないってのも味気ない」
兄貴は少し考え込むような顔をした。それなら恵方巻でも食べるのかな、とか思いながら豆に手を伸ばそうとしたら、ふと兄貴は半紙を自分の顔の前に掲げた。そして、炙っていた豆をざらざらと一気に口に流し込む。あ、と声を上げる間もなく、兄貴に残りの豆を全部食べられてしまった。
ばりばりと景気よく豆を噛み砕いて、兄貴は悪びれもせず嘯いた。
「そういうことなら、まあ一寝入りしておくか」
半紙をくしゃりと丸めると、火鉢の傍に丸まるように兄貴はごろんと横になった。呆れて眺める間にも、兄貴は高いびきを立てていた。
そんな兄貴とのやり取りをすっかり忘れた夜のこと。
風呂から上がって脱衣所を出たら余りにも寒くて思わずひゃあと変な声が出た。そう長くもない廊下を風が吹き抜けてくるので何事かと思って風上に向かうと、玄関のところに兄貴がいた。
「何してんの」
「ああ、節分だしな」
先に風呂を上がっていた兄貴は、寝間着の上に着込んだ綿入り半纏を掻き合わせながらこっちを見た。兄貴の息が白いのは当たり前で、こともあろうにこの寒いのに玄関の扉を全開にしていたのだった。
「豆撒きならもうちょっと待ってよ、湯冷めするじゃない」
兄貴には豆撒きしないとか昼間に言われたばかり、ということを、言ってから思い出した。兄貴は案の定、ふるふる首を横に振る。
「違う違う、鬼の宿の設えだよ」
見れば、玄関の下駄箱のうえに白布が敷いている。
「おにのやど?」
「そう。今日は節分だろ、豆撒きで追い出された鬼が逃げ込めるように宿の準備をしてるんだ」
兄貴の言っていることの意味が咄嗟に理解できなかった。多分、無意識に凄く変な顔をしたと思う。
「……だって、鬼を追い出すために豆撒きするのに、鬼が来ちゃったら駄目じゃない」
何しろ相手は「鬼」なのだ、何かよくわかんないけど悪いものには違いないだろう。豆を歳の数だけ……じゃなかった、数え年プラス一個余計に食べたらその年は風邪をひかないとか言うところから察するに、鬼ってのはつまり病気とか災いとか、そういうものの比喩なんじゃないだろうか。
まさか考えたこと全部が顔に書いていたわけでもないだろうけど、兄貴は寒そうに袖を掻き抱きながら眉根を寄せて笑った。
「どうも、何だか誤解があるみたいだな。別に鬼自体は、追いやられなきゃいけないようなことはしてないぞ」
ますます兄貴の言うことがよくわからない。とりあえず鬼っていうのは漠然と悪いものを総括したみたいな存在で、だからこそ追い払われなきゃいけないものだと思ってた。
兄貴は白い息を吐きながら尋ねた。
「んじゃ逆に訊くが、鬼って何だ?」
改めてそんなことを言われるとちょっと困る。さっきまで考えていた、漠然とした悪いものの総体、と答えようかと思ったけど、多分それは質問の意図に沿わない。
考え直して咄嗟に思い浮かぶのは、桃太郎とか一寸法師に出てくる鬼だった。酒呑童子とかもそうだったっけ、昔話の主人公に退治される、つまりは敵役の定石だ。頭に角が生えてて、虎柄の腰巻に金棒を持ってて、肌が赤かったり青かったりする。それから東北地方のなまはげも多分鬼の仲間だろうし、要するに人を襲ったり物を奪ったり、力が強くて乱暴な妖怪だ。
素直にそう答えると、兄貴は少し笑った。
「ま、それで概ね間違ってはいねえ。つまりは、強くて害を為す存在ってところが重要だよな」
「うん」
「ついでに言えば、何となく徒党を組んでそうな感じの」
兄貴の指摘に少し考え込んで、なるほどと素直に頷く。そう言えば、なぜだか昔話の鬼は、手下とかいっぱい連れてそうなイメージだ。鬼が住んでるのは山奥だったり鬼が島だったりするけど、そこには文字通り鬼ばかりが固まって暮らしている印象がある。
「それじゃ、鬼は誰にとっての敵だ」
出し抜けに言われて思わず瞬いた。改めてそんなことを言われると、柄にもなくうろたえてしまう。
桃太郎が鬼退治に行ったのは、村人が困ってたからだ。一寸法師は、確か帝の命令とかだった。酒呑童子もよく似た感じだけど、確かあれって鬼の棲家にお寺ができて住むところがなくなったから、みんなで集団生活してたんじゃなかったっけ。そしてなまはげは――確か、悪い子を懲らしめにやってくる。
あれ、と思った頃に兄貴は目を細めた。
「そう、案外善悪ってのは主観的なもんだ。酒呑童子が首を切られたら、鬼の老人や子どもの中には喰うに困るようになった奴らもいただろうに、その辺りは語られない。桃太郎に鬼退治を依頼した村人たちにしても、こいつらに何の咎もないか昔話は教えてくれないだろう。帝の命令ってのは、それこそ相当胡散臭い。みんなが困ってるから、と多数決を使おうとしたところで、こういう昔話の鬼ってのは大体群れで暮らしている。つまるところ鬼ってのは、裏返してみれば侵略者に立ち向かっていくヒーローであり群像だ」
侵略者、という言葉の剣呑さに少し息を呑む。それは、昔話にこっち側とあっち側があって、その両者が対立していることを前提とした言葉だ。
でも、鬼が集団で暮らしているって言うことは、つまりはそういうことなんだろう。桃太郎の後ろに何人の村人がいて、鬼が島には何人の鬼がいるのかなんて昔話では語られないから、多分そこは数の問題じゃない。桃太郎が正義の味方、という絶対に崩れない条件を前提としている以上は、鬼が島陣営にも譲れない立ち位置というものがあるってことになって、その両者が和解できなかったから、桃太郎と鬼は戦うことになったわけだ。
兄貴はちょいと素足に草履を突っかけて、三和土に下りた。ひょいひょいと無造作に裾を捌きながら、玄関の引き戸に手をかけて外の様子を伺う。
「共同体の外側からやってきた「よそもの」、異なる規範を持っている「ならずもの」、権勢になびかない「まつろわぬもの」――この辺は、まとめて鬼として扱われやすい。要するに人間じゃないってことにしてしまえば、どんな扱いをしてもまあ良心は痛まずに済むからな」
投げ出しておいた運動靴を突っかけて、つい兄貴を追いかける。半纏の裾を掴みながら兄貴の影から外を窺うと、集落の灯りが見えた。うちの家は一軒だけ奥の方に離れているから、その灯火は遠い。
「……それじゃ、鬼って元々は人間なの?」
訊ねてみると、兄貴はんーと少し首を仰向けた。
「まあ、昔話だと鬼は鬼として自明のものとして扱われるからそこらへんは曖昧だが、安達ヶ原の説話なんかだとわかりやすいな。鬼ってのは元々人間だったのが何かの理由で……っつっても深い怨詛や情念とかそんな感情的なものが原因で、荒々しい力を得て成り果てたと解釈されることも少なくない」
安達ヶ原の話は、何かで聞いたことがある。昔、どこかの貴族の乳母になった女の人がいて、ご主人様の病気を治すために人の生肝が必要になったから、通りすがりの旅人を殺して肝を取ってみたら、その旅人が自分の子供だったって話だ。生まれたばかりの子供を養うために働きに出て、一度も顔を見ないまま子供が成人するまで働きとおしたのに、そんなことになってしまった女の人はショックでそのまま鬼になってしまったという。
「何か、怨霊みたい」
率直な感想を述べると、兄貴は頷いた。
「同じようなもんさ。元々鬼ってのは死者の魂や幽霊の類を意味していた文字だ。祖先の霊とかを意味する場合もあるが、十分祀られないまま野に打ち捨てられた鬼は強い力を持ち、人に害をなすようになる。まあ食い詰めたら人を襲うようになるってのは世の中の道理だし、人間なんて生きてても死んでてもそう大差ないだろうから、死んだ後に供え物もなかったら飢えて強盗の真似事したところで無理もなかろう」
兄貴はこともなげにそんなことを言った。いや、生きてるか死んでるかの違いは凄く大きい気がするんだけど、兄貴はそこらへんをつっこませてくれない。
「っつっても、子孫がいれば普通は祀られるから、荒ぶることもない。つまり荒ぶるのは子孫の絶えた連中ってことだが、それはどういうことだかわかるか?」
「……子どもがいなかったってこと?」
「もしくは、一族郎党死に絶えた場合だな」
口元だけで笑う兄貴の横顔に、少しぞっとした。それは、昔話では語られない物語の裏側に住んでいた――文字通り、過去形で存在「した」人たちのことだろうか。
「鬼を仇なす存在として見なすということは、自分たちもまた鬼の仇であったってことだ。だからこそ鬼は脅威にもなるし、排除する必要も出てくる」
ふと、兄貴の手が背中に触れた。そのまま促されるように兄貴と玄関を上がる。そしてふっと廊下の向こうに兄貴は姿を消すと、すぐに盆を掲げて戻ってきた。盆の上には、お茶とおにぎりが二つ載っている。兄貴があらかじめ握っておいたのだろうか、案外綺麗な三角をしていた。
それが何を意味するのかわからずきょとんとしていると、兄貴は下駄箱の上に引いた白布にそれを並べながらのんびりと言った。
「――と、剣呑なことを散々言っておきながら何だけど、一族滅亡とか言いつつ案外生き残りってのはいるもんでな。世の中、鬼の末裔を自称する人間も意外と少なくない。そんで、奈良の天河神社の神事なんかは有名だが、鬼の子孫が多いと伝わる地方じゃ、節分に豆を撒く代わりに鬼をもてなしているところもあるんだ」
兄貴はまるで食卓を設えるように、下駄箱の上におにぎりとお茶をセットした。よく見ると沢庵と梅干まで用意している辺り、結構芸が細かい。
「豆撒きをするにしても、場所によってはわざと「鬼は外」と言わなかったりする。そうすると鬼が福を運んできたりするらしい」
「結構義理堅いんだね」
「まあなあ」
白い息を吐きながら兄貴は言う。
「ま、こんだけ寒い中に追い出されたら、いくら鬼でも辛かろう。ちょっと優しくされたらころっとほだされるってとこじゃねえの?」
「そんなもんかなあ」
そう言いつつ、何となくそんなもんのような気もした。今時分の時期は、一年でも一番寒い。そんなときにわざわざ豆撒きしなくても、とか思ったけど、そんな時期だから効き目もあるのかもしれない。
「そう言えばさ、兄貴」
思いついたことを訊ねてみると、兄貴は、ん、とこちらを向いた。
「節分の次の日って立春だよね。なのに、何で一年で一番寒い時期なの?」
旧暦だから一ヶ月くらいずれたせいかな、と勝手に当て推量していたけど、そういえば立春は二十四節季だから太陽暦と大幅にずれることはない。こんなに寒いのに春だなんて、とずっと不思議だったことを思い出したので訊いてみると、兄貴はちょっとだけ笑った。
「こんだけ寒くなったら、もう寒くなりようはないんだから、あとはもう暖かくなるだけだろうが」
それもそうか、と納得する。開け広げた玄関の向こうには、いつの間にかちらちらと小雪が舞い始めていた。
「玄関、どうするの?」
「盗られるようなもんもねえし、開けとくぞ」
「でも寒いよ」
少し拗ねたように言うと、兄貴はちょっと困ったように眉根を寄せて、徐に脱いだ半纏をこちらへ被せてきた。兄貴が今まで着ていたせいで、掻き寄せると生暖かい。
「湯上りにうろうろするからだ、今日は早く布団に入って寝るか」
そんなことを言いつつ兄貴は一つくしゃみをした。半纏は返さないぞ、と抱え込みつつ、兄貴と一緒に家の奥に戻る。
ひゅうと寒い風が吹き込んできたので思わず振り向き、玄関先に並んだおにぎりとお茶が目に入ると、なぜかちょっとだけほっとした。なるほど、こういうのも案外効き目はあるかもしれない、とか思う。
兄貴でさえ、こんな寒い日だったら、傍にありがたいとか思うくらいなんだから。
鬼
【分布】
全国に生息するが、集住地は局地的。
【形態】
総じて一般的な日本人より大柄。
体毛や肌の色に多様性があり、牛に似た角があるとされる。
【生態】
群集相と孤独相の個体によって大きく生態が異なる。
群集相は山間や島嶼部にコロニーを作り、しばしば人里へ略奪や誘拐の目的で出没するとされる。一方コロニーには多くの財宝が蓄えられているため、人間による襲撃も珍しくなく、現在では絶滅が危惧されている。
孤独相は人里離れた荒野等に生息し、通りかかる人間を襲撃して食料とする。一般の人間との判別が困難なため、生息地を通りかかる場合は注意が必要。
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