episode.35 言い訳

 唇をゆっくりと離す。


 リラが唇を付けていた箇所がうっすらと鬱血していた。まだ微かに息を乱しながら、リラはノアに寄りかかる。身体が熱く火照っていた。リラを抱きしめる腕の中から、動くことが出来ない。


「……ごめんなさい」

 びくびくしながら顔を上げたリラは紫紺の瞳に射抜かれる。初めて見る、仄暗い虚ろな目にリラはどきりとする。彼が怒っている様子は一切なかった。リラの顔にすっと手を差し伸べた彼は、顎に手を添え、口角を指でさらりと擦った。


「血が付いてる」


 いつになく大人びた色気がある声が心臓の音を速めていく。一秒たりとも目を離すことが許されないような視線をリラに送りながら、ノアは指に付いた血を妖しく舐め取る。

「もう良いのか?」

 陰がある笑みを浮かべ、彼は尋ねる。人を惑わす暗い表情が本当によく似合っていた。リラが頷くと、彼は噛み痕を確かめるように血で汚れた首筋を妖艶な手付きで撫でる。


「残念だな。


 ――もっと、私で汚れてしまえばいいのに」


 リラは靄がかかったような頭で、言われた事を反芻していた。意味を理解し始めるにつれ、体が内側から熱くなる。熱に浮かされているリラは彼の首の裏に腕を回す。彼の薄い唇に自身の唇を寄せた。寸前の所で、唇に硬い感触のものが触れる。


「あまり煽ってくれるな」


 リラの唇に人差し指で当てている彼は、幼子に言い聞かせるようにゆっくり言う。リラは思わず彼にねだるような視線を送る。


「潤んだ目で見るのもやめてくれ」


 彼は噛み痕を撫でた手でリラの頬に触れる。ぬるりとした感触と共に、指に付いていた血が白雪のような頬に赤黒い色を付ける。



「――益々汚してやりたくなる」



 ノアはすぐにリラの体を引き剥がそうとした。

「待って……」

 無意識に口が言葉を発していく。

「痛いでしょう? 首のそれ、治させて。今の私なら治せる気がするの」

 ノアは信じられないものを見る目をしている。


「治す? どうやって……」

「こうやって」


 リラが噛み痕にそっと唇を重ねると、すぐに体が押し返された。

「やめろ」

 顔を上げたリラは彼に問う。

「まだ痛みますか?」

「……なに?」

 彼の首筋を見たリラは晴れやかに言う。

「ほら。治ってる」

「冗談はよせ」

「本当です」

 噛み痕があった箇所に触れたノアは意表を突かれた様子である。納得がいっていない顔のまま立ち上がる。


 リラが元いた部屋に引き返したノアはキャビネットの上に置かれていた手鏡に自分を写した。彼は痕をつけられた場所を探して首筋に触れていたが、傷も鬱血の痕も何処にも残っていない事を理解したらしい。

「本当に……治っている」

 後ろで腕を組み、リラも彼の側から小さな鏡を覗き込む。

「ね。そうでしょう」


 ノアはギョッとした顔ですぐ近くにいたリラを見る。

「……動けるのか?」

 リラは首を傾げる。

「え? はい」

「つい先程までひどく気分が優れなそうだったというのに?」

「もう何ともありません。むしろ調子が良いくらいです」

 リラはその場で軽く体を動かしてみる。枷が外れた体はすっかり快調だった。


「……そうか」

 彼は悩ましげに、額に手を当てた。目を閉じたまま、言葉を発さなくなった彼の様子にリラは不安になる。

「……ノア様?」

 リラが声を掛けたのとほぼ同じタイミングで、彼は弾かれたように目を開けた。突然腰を折った彼はぐっと顔を寄せ、真正面からリラを射抜く。混じり気がない真っ直ぐな視線にリラは見惚れてしまう。


「――許せ」


「え? きゃっ……!」

 

 耳の横で囁かれるとすぐに、足が床から離れる。ふわりとした浮遊感と共に目線が高くなる。リラは驚き彼の顔を見上げる。彼を問い詰めようとしたが、手で口を塞がれる。

「んん……!」

「説明は後だ。私が良いと言うまで大人しくしておけ」

 耳に直接流しこまれる声は柔らかく、大人しく従ってしまう力があった。リラが眠っていた寝台へと足早に移動し、腰を下ろす。血がついたままになっていたリラの頬を、彼は自身の胸にぴたりと密着させた。

「目を閉じろ」

 瞼を下ろすと、表情が見えにくいように銀色の髪を緩やかに顔の側に流される。



 間も無く硬い靴音が聞こえてくる。近づいてくるその音は部屋の前でぴたりと止まった。


「ノア?」


 緊張感に欠ける間延びした声が彼の名を呼ぶ。ノアは普段と何一つ変わらぬ落ち着いた声を返す。

「どうかなさいましたか?」

「なかなか戻ってこないから、何かあったんじゃないかと思って……」

「お気遣いありがとうございます。ですが、特に問題はありません」

「そう。なら良かっ……。えっと……、なんかごめん」

 部屋の中に入って来たルージュは二人の様子を見て気まずさを顔に浮かべる。

「いえ。身体への負担が大きかったのでしょう、起きてすぐにまた眠ってしまいまして。リオンにもう少しだけ休んでから行くとお伝え頂けませんか」

「うん、了解。呪いを身に引き受けなさったのだから、無理もないよ。あと、これ。落ちてた」

 解いた後、廊下に落ちたままになっていたクラバットをノアに手渡す。

「ああ。ありがとうございます」

「……というか、これ落ちることある?」

 ルージュは訝しげな顔をしていた。

「今朝は様々な手配の関係があり、身支度に十分な時間が取れず適当に結んでしまったもので。恥ずかしい限りです」

「もう。そんなに大変だったんなら、言ってくれれば良かったのに。まあ、事情は分かった。リオンに伝えとくね」

「はい。お手数をおかけします」



 扉が閉められ靴音が遠のいていく。音が完全に聞こえなくなってから、ノアはリラに声を掛けた。

「もう目を開けて良い」

 目を開けたリラはおずおずと口を開いた。


「……あの、ノア様。一つ言いたいことがあります」

「うん?」


 気が抜けたのかノアは息をつき、脱力している。

「クラバットは適当に結んでもなかなか落ちないと思います」

 彼は前を向いたまま応じる。

「うるさい。落としたことを二人とも失念していた時点で詰んでいた。相手がルージュ様で幸いだった。もしも他の人だった場合、この程度で済まずに問い詰められていただろう」

 不満げに言いながら、ノアはハンカチでリラの頬に付いたままになっている血痕をゴシゴシと拭った。膝の上に乗せていたリラを寝台に下ろす。

 服装が乱れている彼と、頬に血を付けているリラ。何も事情を知らない人が見れば、此方が意図していない勘違いをさせかねないだろう。深く追求されなかった事に、今更ながら安堵した。

「それは……、仰る通りです」


 リラは隣に座っている彼を見る。首元のボタンを外したせいで、シャツがはだけ形の良い鎖骨が覗いている。あの時は無我夢中だったので特に何も思わなかったが、今改めて見ると、とびきり艶めかしく映った。

「は……わわ……」

「まだ体調が悪そうだな。言葉が話せていないぞ?」

「ボタン、留めましょう、今すぐ。私の体調のためにも」

 単語を継ぐリラを怪訝そうに見ている彼の顔には一体何の話だ、と書かれているようだった。リラは自分の首を辺りを指差す。ようやく意味を察したノアは、すぐにシャツのボタンを留め直し始める。

「気分を害するようなものでも見せたか?」

 深刻な声で問うた彼に、リラは真剣な顔で告げる。

「そうではありませんが、色々と良くないので」

「…………何を言っているんだか」

 彼は溜息を吐きながら、リラが解いたクラバットを首の裏に通し、鏡も見ずに括り直していた。

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