episode.36 近くて、遠いあなた

 ゆっくりと身形を整え直した後、迎えの馬車へと向かう。

 二人で横に並んで廊下をスタスタと歩いていたが、外に出る直前でリラは今にも玄関のドアノブを引こうとしていたノアの袖を引いた。

「待って下さい。『私は呪いの影響で弱っている』という設定なので、こんなに普通に歩いてると不自然なのでは?」

「ああ……。もっともな指摘だ。そこまで気が回らなかった。少々思考が鈍っていてな。何か案はあるか?」

「うーん、そうですね……。私の体を支えておいて頂いてもよろしいですか?」

「分かった」


 ノアに肩を支えてもらい、おぼつかない足取りを演じながら外へ出る。馬車の横で待っていたリオンと目があった。心配そうな顔をしながら、彼はリラに深く礼をする。久々の再会のような気分だった。

「ノアの命を助けて頂いて、誠にありがとうございます。なんと感謝申し上げれば良いものか……」

「お顔を上げて下さい。リオン様も大きなお怪我がなさそうで良かったです。討伐ご苦労様でした」

「リラ様のご尽力に比べれば、大した事ではありません。お身体の具合はいかがですか?」

「心配して頂きありがとうございます。だいぶ良くなりました」

 リオンが馬車の扉を開ける。

「それは何よりです。道中長いので、もし気分が優れなくなればいつでも仰って下さい。すぐに馬車を停めて、休息を取れるように致しますので」

 リラは礼を言うと、先に乗り込んだノアが差し出してくれた手を支えにして、馬車に乗り込んだ。向かい合うように席に着くと、扉が閉められた。



 ゆっくりと馬車が動き始める。規則正しく車輪が回る音が二人きりの静かな車内に響いていた。頬杖を付いて外を眺めながらノアは徐に口を開く。


「あれは一体どういうつもりだ?」


 そう言われてリラはハッと気付く。自分の醜態が一気に頭の中に蘇ってくる。

「あ……。お叱りなら幾らでもお受けします」

「いや。私は怒っているわけではないし、貴女を責めるつもりも微塵もない。ただ、理由が知りたいんだ。吸血人種なのか?」

 彼はぼんやりとした様子で、右手で髪を弄りながらリラの返答を待っている。リラは一つ一つ言葉を探しながら答えていく。


「それは違うと思います。日光に弱くも無いですし、人間の血を主食にしているわけでもありません。よく一緒にご飯も食べてるじゃないですか。


 ええと……。どう説明をすれば良いものか……。ノア様の体の内側から、甘い香りがして。貴方の中にある、甘い香りがするものが欲しくて欲しくて堪らなくなって。貴方を見ていると、貴方に触れられていると、段々と情動が抑えられなくなっていって。そのせいであんな野蛮な事を……」


「甘い香り?」

 窓から目を外し、リラと向き直ったノアは露骨に顔を顰める。

「……今日は香水の類はつけていないが」

 不審そうに自身の体の香りを嗅ぎ始めた彼にリラは言う。

「違うんです。体の外側じゃなくて、体の内側から、です。特に血から濃く香っていました。解毒を行なった時までは、あんな香り感じなかったのに」

「解毒前と今の違い……か」

 彼は顎に指を当て物思いに耽っていたが、暫くすると深刻な顔になった。

「何かお気付きに?」

「……いや。何でもない」


 心当たりがあるらしいが、彼はそれをリラに話してくれるつもりはないらしい。再び窓枠に頬杖を付く。先程から節目がちな彼にリラは問う。

「今、私から甘い匂いがしたりしていませんか? ノア様の血を……頂戴したので、私からも同じ香りがするかもしれません」

「この距離では感じないな。少し寄っても良いか?」

 おっとりとした口調で彼は問う。リラが頷くと正面に相対している彼はリラにぐっと身を寄せた。リラがしていたのと同じように、首筋の辺りに鼻を近づける。あまりにも近い距離に、リラは息ができなくなりそうだった。

「……特に、なにも、感じないが…………」

 言葉が次第に途絶えていき、肩にトンと軽い重みがかかった。さらさらの黒髪が首筋を掠めてこそばゆい。リラは黒曜石のような色をした髪に遠慮がちに触れる。

「ちょっと、髪が……」

 しかし、彼からは返事の一つも返ってこない。

「何か言ってください……よ……。え?」

 首を捻り、彼を見たリラは困惑する。彼はリラの肩に頭を預けたまま、穏やかな表情で目を閉じていた。


「ノア様?」


 肩を揺すってみるが、反応が無い。



 驚きのあまりどうすれば良いのか分からなくなったリラは、馬に乗って隣を並走しているリオンに窓から助けを求めた。

「リオン様……!」

 リラの切迫した声で、リオンは即時に異常を察したらしい。

「ノア様が突然……。私どうしたら……?」

 御者台の後ろに付いている小窓から中を覗き込んだリオンの深い溜息が、空気に溶け込んでいく。

「あー……。嫌な予感はしていたんです。疲れ切っている時に、突然寝落ちるのがノアの悪い癖でして。ノアに代わって謝罪をさせて頂きます。ご迷惑をお掛けし、大変申し訳ございません」

「全然良いのですけれど……。そんなにお疲れだったのですか?」

「リラ様が意識を失われてから今に至るまで、おそらく一睡もしていませんでした。いくら解毒が済んだといっても体が弱っているでしょうから、休めと何度も言ったんですが」

 リラは驚愕する。

「一睡も? 無理をなさっていたことに、私全然気付いて差し上げられなかった……」

「体調が優れない事を周りに悟られないよう上手く隠しますから。ノアは昔から人に些細な弱みの一つすら見せる事を非常に嫌うんです。それにしても……」

 リオンはふっ、と小さく息を溢す。彼はそれ以上、言葉の続きを発することはしなかった。

「どうかなさいましたか?」

「いや……。珍しいこともあるものだと思っただけです。その様子だと当分目を覚ますこともないでしょう。重いと思うので、適当にそこの壁にでも持たれ掛からせておいてやってください」

「……いいえ。このままで大丈夫です」



  リラは彼の体を極力動かさないように配慮しつつ、気を失ったかのように深い眠りについている彼の隣へ席を移動する。側に身を寄せると、リラは自身の肩の上に彼の頭を乗せた。体に触れても彼が目を覚ますことはなかった。



 半刻ほど経った頃だっただろうか。

 次々に流れていく窓の景色を眺めながらぼんやりとしていたリラは、肩の重みを感じつつノアを見た。彼は一度も体勢を変えることなく眠っている。


(かなり無理をなさっていたのね)


 軽く脇腹を突いてみてもやはり、全く起きる気配がない。


(よく眠っていらっしゃる)

 

 リラはチラリと彼の顔を覗き込んでみる。


(………え?)


 驚きの余り、体が動かなくなる。



 ――きつく閉じられた彼の目から滲み出した涙が、長い睫毛を濡らしていた。



 見間違いかと思ったリラは、目を擦りもう一度見てみる。しかし、リラの見間違いではなく、彼の眦まなじりには朝露のような水滴がきらついている。



(どうして……? 穏やかにお眠りになっていた筈なのに。悪い夢でもご覧になっているの?)



 リラは水滴を人差し指で拭う。どうすることもできないリラは彼の手を握る。指先がガラスのように冷たくなっていた。少しでも温もりを分けられないかと、両手で彼の左手を包み込んだ。



「大丈夫です。一人で苦しまないで」



 静かに涙を流す彼の手を、握りしめ続けた。




「リラ」 

 毛布で包むような温かで柔らかな声が微睡からリラを引き戻す。いつの間にか自分自身も眠ってしまっていたらしい。

「もうすぐ屋敷に着く」

 細く小さな手は、いつの間にか彼の手に包み込まれていた。リラが分けた温もりも虚しく、彼の手は無機質なまでに冷え切っているままだった。


「あ……。ありがとうございます」

「……何故そんなに悲しげな顔をする?」


 彼は困った様子で首を傾げる。先刻見た光景は幻だったのではないかと思わせるほどに、彼は普段と寸分違わない調子で振る舞うのだ。

「そんな風に見えましたか?」

「ああ」


(他人の事は本当によく見えていらっしゃるのに。貴方自身の事も、もっとよくご覧になって――)


 リラは彼の胸にそっと手を置く。彼は僅かに目を見開いた。


「どうしようもなく心が痛む時はありませんか? 苦しい事は人と分け合った方が楽になれますよ」

「何故そう思ったのかは知らないが……」


 彼はリラが胸に置いた手を冷たい指先で絡め取り、離させる。


「心配には及ばない」


 これ以上は踏み込むなと、自ら一線を引く暗い笑みを浮かべる。リラにはその表情はどこか寂しそうに見えた。



 ――すぐ近くにいるのに、どうしてこんなにも貴方は遠いの? 

 

   貴方のことを、私はまだ何も知らない。

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