episode.34 初めての感覚

 翌日の朝。

 

 ドアがノックされ、返事を返すとノアが部屋に入ってきた。

「屋敷に帰る支度が整った。今から此処を出よう」

「はい」

 寝台の上に座っているリラを抱き上げようとした彼を止める。

「大丈夫です。自分で歩かせて下さい。……恥ずかしいので」

 それを聞いた彼は小さく息を漏らす。

「そうか。気持ちはよく分かる。動けるか?」

 リラが頷くと、彼は一度引いた手を再び差し出してくれた。その手を支えに、ベッドから降りる。


 大丈夫とは言ったものの、長らくベッドから動いていなかったせいか、体の倦怠感がすごい。肩にかかる空気の圧力さえ重く感じる。体にどこか痛むところがあるわけではない。動けないこともない。しかし、枷を嵌められているかのごとく足取りは重い。

 体を引き摺るように歩いていると彼は心配そうに尋ねる。

「大丈夫か?」

「はい」


 少し動くだけで、体力がどんどん奪われていく。何とか扉のところまで辿り着き、部屋から廊下に一歩出ると、一気に体を押さえつける圧が増したように感じる。

「ううっ……」

 すぐに異変に気付いた彼はリラに問う。

「どうした」

 気分の悪さに耐えきれなくなり、リラはその場に蹲った。

「体がすごく重くて……」

 息が詰まり、まるで体が自分のものでなくなったようだった。たった数日動かなかっただけで、体はここまで鈍るのだろうか。それとも、呪いを引き受けた影響だろうか。

 動けば動くほど、息をすればするほど、体が重くなっていく。重力に負けたリラは空気に押し潰されたように床に這いつくばる。


「リラ?」


 声をかけられたリラは視線だけを彼の方に向けた。


「…………ぁ」


 ぼんやりとした視界の中で彼と目が合った途端、リラは自分の中に燻る強烈な飢餓感を自覚した。リラの体の不調の原因はこの飢餓感から来ている事を直感的に理解する。



 ――足りない。全く足りない。『何か』が欲しい。欲しくてたまらない。



 飢餓に耐えきれず、理性を失いそうになったリラは唇を強く噛み締める。

 

「やめろ」

 目を瞠り短く言ったノアは、唇を噛むのを止めさせるために自身の指をリラの唇の間に挟む。

「……い、や。やめて」

 彼の指を噛むことなどしたくはなかった。飢餓感を紛らわせる手段を奪われたリラは恨めしい目で彼を睨む。

「今、私に構わないで」

 ノアは首を横に振る。

「出来ない」


 段々と理性が働かなくなってきているリラは、感情の昂りを抑えることができなかった。リラは彼の手首を掴む。

「私の体をどうしようと、私の勝手でしょう。……ねえ。手を退けて」

「悪いがそれは聞いてやれない」

「じゃあ貴方が私の、この狂いそうな程の飢餓感をどうにかしてくれるの? 身体が何だかおかしいんです。……きっと呪いのせいです。その前まではこんなこと無かったのに。貴方が呪いなんて負ったせいで!」

 表情一つ変えず、黙ってリラの話を聞いている彼に無性に腹が立った。一息に言い終えてから、少し落ち着きを取り戻したリラは脳内で発言を反芻する。全身の血の気が引いた。

「ぁ……、違う。違うの。ごめんなさい。わたし、こんなことが言いたいんじゃない……」

 ノアはリラの手首を引き、自分の方へ身を寄せさせた。

「そうだ。全て私のせいだ。貴女にあのような忌々しい物を引き受けさせた私が悪い」

 自分を責める彼の声に胸が引き絞られる気持ちがする。

「ちがう。貴方は、何も悪くない。わたしが、自分で選んだことなのに……」


 包み込まれるようにリラは腕の中に閉じ込められた。リラの心臓が音を立てて大きく跳ねる。嫌に心臓が騒めいている。


「やめ、て……」


 紫の瞳が不安げにリラを見下ろす。

「今は、いや……。離して」

 距離が無くなったことで、飢餓という動物的な本能が呼び覚まされていた。これ以上彼のそばに居るといけないと、リラの中では耐えず警鐘が鳴っている。残り僅かの理性で必死に訴える。


「……いけません。私からはなれて」

「私に触れられるのが不快か?」

 リラは大きく首を横に振る。

「では何故?」

 冷静な彼の声はリラの心を落ち着かせてくれる。だが、それ以上に。



 ――貴方の体の内側から漂う芳しい香りが、私を狂わせるの。今すぐに……



「――貴方を傷付けたくて仕方がないの」



 リラは彼の手に頬を擦り寄せる。後少しで届くのに届かない、貴方の内側にある『それ』が欲しくて堪らない。



 ノアは慈愛に満ちた眼差しをリラに向けた。


「好きにしろ」

「……後悔しても知りませんよ」

「しない」


 そんな穏やかな目を、今の私に向けないで。


 

(――ああ。堕ちる)



 リラは彼の首回りに几帳面に結ばれたクラバットをするりと解く。シルクで出来た、肌触りが良いそれは滑らかに形を崩していった。そして黒いシャツの第一ボタンに手を掛ける。逸る気持ちで指を擦り合わせるように第二ボタンも外した。黒色の布地が首筋の白さをますます強調している。

 突然のリラの奇妙な行動の意図が理解できないノアは固まったまま、目を丸くしていた。

「何を……」


 リラは戸惑っているノアの首筋に鼻を寄せる。堪らなく甘美な香りがする。柔らかく無防備な肌を、唇でそっと喰む。

「リラ……?」


 ノアが何かを言っていたが、リラの耳にはもう彼の言葉は入っていなかった。



「好きにしていいって、言ったじゃない――」



 熱病に罹ったようにぼんやりとしたまま、薄い皮膚に思い切り歯を突き立てる。ぷつりと白い肌を突き破った。

「…………っ」

 ノアは朧げに息を漏らし、抗うこともせずにリラに首筋を晒したまま深く俯いた。横顔は前髪で隠れており、リラには彼の表情は一切分からなかった。

 

 じんわりと赤い血が滲んだ肌に強く吸い付いた。身体に痺れるような感覚がはしると共に、飢餓感が一気に満たされていく。頭が真っ白になる。初めての感覚だった。


 リラは頬を染め、陶然と息を溢す。

 一滴たりとも溢すまいと溢れてくる鮮血を無我夢中で啜った。優しく後頭部に回されたリラを包み込む手は、全てを許してくれているようだった。彼の血は今まで口にしたものの中で最も甘かった。

 うっとりと夢見心地に浸っていると、いつの間にか息苦しさは感じなくなっている。体を押さえつけていた圧もすっかり消え去っていた。

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