episode.8 冷酷な伯爵様


「元気そうで何よりだ」

 

 少年は弾かれたように椅子から立ち上がる。足がぶつかった反動で木でできた丸椅子が、音を立てて床に転がった。

「と……、当主様!?」

 リラは驚き、規則正しい靴音が近づいてくる方を振り返る。深く頭を下げた少年の前でノアは足を止める。

「頭を上げろ」

 怯えたように固まった少年は頭を下げたまま動かない。動く気配がない少年の様子にノアは小さく息を吐いた。そしてシェフの方を振り返る。

「彼は? 初めて見る顔だが」

「つい最近雇ったばかりの新人だ。わしの手伝いをさせている。ほら。挨拶ぐらいしとけ」

 シェフは少年の襟首を引っ張り、顔を上げさせた。恐怖に支配されている彼は視線をあちこちに彷徨わせている。

「ご……、ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。シェフのもとで見習いをしております、パトリック……です」

 ノアは目をスッと細めた。意志の強さが感じられる目には迫力があり、相手に畏怖を与える。

「そんなに怯えずとも何もしないが」

「あ……。もうしわけございません!」

 少年は慌てて地面にひれ伏しそうな勢いで頭を下げる。少年から興味を失ったらしいノアは再びシェフに向き直る。


「まあ良い。それで? 随分と賑やかな様子だったな。お前があんな風に笑うのは久々に聞いた。楽しいことでも?」

「そうかい? 言われてみれば笑ったのは久方ぶりかもしれんなあ」

 シェフは眉間に刻み込まれた深い皺を指で伸ばしながら言った。

「一先ずこれを見てくれ」

 自慢げに下処理が終わった食材の山を指差す。

「これは?」

 ノアは食材に目をやると、少し首を横に傾けた。

「この量を二人でやるといつも日が暮れるまでかかるんだがな。今日はこのお嬢さんが手伝ってくれたおかげで普段よりもずっと早くに終わってなあ」

「ほう?」

「いやあ、驚いたよ。ご令嬢になぞ何も出来ないだろうと思っていたが、わしの勝手な思い込みは間違ってたみたいだ。そのお嬢さんはこいつよりもよっぽど良く出来る」

 シェフの隣にいた見習いの彼がまた小突かれている。その衝撃で体の軸がぶれている彼は緊張気味に答える。

「恥ずかしながらその通りです」

 少年とは異なり、シェフは豪快に笑っている。

「そうなのか?」

 部屋に入ってから一度もリラの方を見向きもしていなかったノアが初めて此方に目を向けた。吸い込まれそうな紫の瞳で見つめられると、どうしても身体に力が入ってしまう。

「私は少しお手伝いをさせて頂いただけです。大したことはしておりません」

「謙遜をする必要はない。シェフがここまで人を褒めることは滅多にないからな。大した手際なのだろう」

「皆様に色々と良くして頂いてばかりなので、私も少しぐらいお役に立てないかと思いまして」

「別に気にすることではない。それに無理に気を使って手伝いをする必要もない」

 リラは紫の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「それは違います。私は嫌々お手伝いしていた訳ではないです。ずっとお部屋でゆっくりさせて頂いているのも退屈になってきていたので。何より楽しかったですし」

 それを聞いたノアは僅かに眉を上げた。

「そうか」

 

 話が一区切りついたのを見て、シェフがノアに声をかける。

「お前も何か飲むかい? まあ大したものは出してやれないがな」

「気持ちだけ受け取っておく。元より長居をするつもりはなかったからな」

「相変わらずお前は忙しいな。今日のわしは気分がとても良い。折角時間も出来たことだし、いつも以上に腕によりをかけて晩飯の準備をしよう。楽しみにしておけ」

「ほう。期待しておこう」


 ノアが立ち去った後、リラは一気に脱力する。身体中の筋肉が力んでいた。リラ以上に緊張していた少年が息を吐きながら机に突っ伏した。

「はあ……、緊張した。僕こんな間近で当主様を見たの初めてだ。それよりシェフ、当主様によくあんなに馴れ馴れしく話せますね。巷の噂、知らないんですか? 命知らずにも程がある」

「まあわしはあいつが生まれる前から此処で働いてるからな」

「ところであの、噂って何ですか?」

 リラは二人に関心の目を向ける。少年が驚きの声を上げる。


「ご存じないんですか? 当主様が冷酷無慙な方だ、ってことを知らない人なんてこの国にいませんよ。世間では、実は人間じゃないとか、青い血が流れているんじゃないか、とかいう話もあります。


 ――なにせ……、実の両親を殺した人ですからね」


 耳を疑いたくなる発言に、一瞬にして全身の血の気が引いていく。


「え……?」


 両親を殺すなどということは、正気の人間に成せる事とは到底思えない。それがもし事実だとしたら、この屋敷に止まることはリラにとって最善の選択だといえるだろうか。


 固まったままのリラには構わず、少年は続ける。

「当主様が出征された折には、必ず帝国側が勝利を収めます。当主様は人の命を奪う事に最も長けた方。たとえどれだけ懇願されようとも容赦無く斬り捨てられる。自らの手で積み上げられた屍の数は数えきれないほどです。戦場での当主様のお姿を見た人は皆、口を揃えて言います。あの人は死神だ、って。勝利を収めて戦場から帰還された時のお姿を、僕も以前離れた所から見た事があります。真っ白な騎士服は血の雨を浴びた後みたいに悍ましい色をしていたのに、平然としていらっしゃった。全身血だらけなのに、ご自身は擦り傷一つ負っておられないように見えました。あの方は絶対人間じゃな……、ぎゃあ!」

 少年の頭を叩いたシェフが口を開く。

「おい。言葉に気を付けろ」

 涙目になった少年は痛そうに頭を摩っている。シェフはマグカップの中身を一息に飲み干すと、少年の話に聞き入り動けなくなっているリラに声をかける。

「……さ、お嬢さんも疲れたろう。そろそろ部屋に戻りな。休憩は終わりだ。晩飯の準備をするぞ、パトリック!」

「……そうですね。私はお部屋に戻らせて頂きます」

 シェフが折角作ってくれたタイミングを逃すと、じわじわと湧いてくる恐怖で動けなくなる気がしたリラは椅子から重い腰を上げる。そして、一つ肝心な事を言い忘れていたのを思い出した。

「そうだ、シェフ。また此処に来てもいいですか?」

「勿論さ! いつでも歓迎するよ」

 豪快な笑顔とともに快諾を得る。リラは二人に礼を言い厨房を出た。



 リラは部屋に戻って、ノアの恐ろしい噂について考えていた。まだ出会ってから間もないが、彼が冷酷無慙な人間と呼ばれていることに対して心の中で引っ掛かりを感じていた。

 しかし、火のないところに煙は立たない。噂の全てが間違いだとも思えない。両親を殺したという話も――。


 ドアが二回軽くノックされる音で、リラは我に返る。

「失礼致します、リラ様。お茶をお持ちしました」

「少しお待ち下さい」

 椅子から腰を上げ、いそいそとドアへむかう。リラがドアを開けると、リオンが目を見開いた。

「わざわざ開けて下さったのですか。お気遣いありがとうございます」

「いいえ。こちらこそ」

「次からは足を運んで頂かずとも、声を返して頂ければ大丈夫ですよ」

 リラが生半可な返事を返すと、リオンは苦笑した。彼はリラに椅子をすすめる。そして手首に載せていた銀色のトレーを机の上に置き、お茶を淹れた。飴色の液体がガラスのティーカップに満たされ、甘く華やかな香りが部屋中に広がる。

「わあ、良い香り! お花みたいな匂いがします。今日、朝食の時に頂いたお茶もすごく美味しかったのですが、お茶はリオン様が選ばれているんですか?」

「いいえ、茶葉の選別はノア様が自ら行なわれております。私はこういう類のことは得意ではないので」

「あら、そうなんですか。てっきりリオン様が選ばれているんだと思っていたので意外です」

 リラはティーカップに口を付けた。爽やかな香りが鼻を抜けていく。喉越しも丸く、非常に美味しい。リオンはトレーからお茶菓子を下ろしながら言う。赤やオレンジのジャムが入った、色とりどりのロシアンクッキーが載っている。皿の上に仲良く並ぶ小さなクッキー達は食べるのが勿体無いくらい可愛らしい。

「ああ、厨房を手伝って頂いたそうですね。ありがとうございます」

「情報が早い。よくご存知ですね?」

「先程ノア様から伺いました。リラ様を労うように仰せ付かりまして、お部屋に参りました」

「そうなんですね。お忙しいでしょうに、閣下は私を気遣って下さるんですね」

 リラは小さな水面に映る自分自身の顔を眺めた。水面の中の少女はひどく不安げな顔をしている。ソーサーにティーカップを置いたリラはリオンに探るような目を向ける。

「……無礼を承知で一つお聞きしても良いですか」

「ええ」

 心の中に浮かぶ疑惑を言葉にする。


「伯爵様の噂を聞きました。閣下は……冷酷で無慈悲なお方だというのは本当ですか?」


 眉を上げたリオンは手に持っていたものを全て机の上に置く。恭しくリラの前に膝を付いた彼は、いつになく重々しい顔をしていた。

「私は十年以上に渡ってノア様にお仕えして参りました。ノア様のことは他人よりも分かっているつもりです。リラ様が実際にご自身の目でご覧になったことが、人から聞いた事よりもご自身が実際に私の主と接して感じられたことが事実です。リラ様自身で判断なさって下さい。私から言える事はそれだけです」

 彼の真摯な眼差しに、リラは自分の質問の愚かさが恥ずかしくなった。

「こんな失礼な質問に答えてくださってありがとうございます。……気を悪くされましたよね」

「いいえ。リラ様が不安に思われるのは当然のことだと思います。ですが、ここに滞在されている間に貴女を蔑ろに扱うようなことはノア様や私を含め、決してしないと誓います。これだけはどうか信じてください」

 彼らはこれまでに幾度となく理不尽な目に遭ってきたのかもしれない。懇願するような声で付け足された言葉に、その片鱗が垣間見えたようで、胸がきゅっと強く締め付けられた。

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