四話

 紗世が捻挫をして数日後。彰吾にまた「紗世、何かあっただろ」と言われたから、彼女は彰吾を連れて部屋に向かった。

 ベッドに腰掛けてクッションを抱きしめる紗世の前で、彰吾が学習椅子に座る。そうしてポツポツと、捻挫をしてオーウェンが病院に連れて行ってくれたあと、人の間で起こった一連の出来事について紗世は語った。

 彰吾は前のめりになって耳を傾けていたけれど、全部を聞き終えるとちょっとポカンとして、それから心底理解できない、と顔をしかめた。

「えっ、それで付き合ってないって、どういう事? 両思いじゃないの、それは?」

 強くそう尋ねられて、紗世はクッションを抱える手に力を込める。

「両思いじゃ、ないよ……。だって私の告白は断られてるもん。2回も」

「えーっ、でもソイツ、紗世のこと抱きしめたんでしょ」

「それは私が先に抱きしめちゃった、から」

「先に抱きしめられたからってなんだよ。断るなら最後までちゃんと拒めよ、男なら!」

 彰吾は珍しく語気を荒げた。

「ソイツは紗世の気持ちに応えられないって言ったんだよね? しかも2回も告白を断ったんだろ? なのに紗世を引き留めたり、抱きしめたりするのは狡くない?」

「わ、私だって狡いよ……。断られてるのに何回も告白したり、相手が今いる状況が分かってて、傍にいたいって言った」

「それはそうかもしれないけどさぁ」

 彰吾は学習椅子に座り直すと、腕を組んだ。

 紗世は弱りきって眉を下げる。彰吾は今まで、紗世の動向に否定的な言動をしたことがない。彼はいつも紗世の背中を押してくれる存在だった。それなのに今回は雲行きが怪しい。

 彰吾はうーんと唸って、それからこちらを見た。

「あのね、紗世。俺は男だから分かる。だから言うけど、ちゃんと『好き』とか『付き合おう』とか言ってくれない男はロクでもないよ」

「……」

「ソイツは紗世の気持ちを利用して、自分の都合のいい女の子として紗世を扱うよ。きっと紗世は大切にされない。ソイツが紗世のことを本当に好きになることは絶対に、ない」

 彰吾はキッパリと言い切った。一瞬ののち、紗世はぶわっと目に涙を浮かべた。

「どうしてそんな事を言うの、お兄ちゃん」

「その男はやめておいた方が良いって俺は思うから」

「……」

「紗世には、紗世のことをちゃんと『好きだ』って言ってくれる人と付き合ってほしい。もっと他に良い人がいるはずだよ。だからソイツはやめておきな」

 クッションを力一杯抱きしめながら、紗世はぶんぶんと頭を振った。

「それは無理。他の人なんていない」

「でもさ、紗世……」

「だってあの人は、私にとって運命の人だもん!」

「んんん? ちょっと待って。運命の人って、どういうこと?」

 べそべそに泣いている紗世はテッシュ箱を引き寄せながら、「……あれ? 言ってなかった?」と首を傾げた。

「聞いてないと思う。運命の人って、何?」

「運命の番ってことだよ」

「エッ?」

 紗世は改めて説明した。オーウェンと初めて出会ったとき、彼から香ってくるフェロモンが特別に感じていたこと。『運命』だと確信したこと。時折目には見えない糸で、オーウェンと自分が結びつけられているような心地になることを。

 彰吾は再度ポカンとした。

「俺には分からない感覚だな……、運命といるとそんな感じになるんだ……? っていうか、運命とか、現実にあるんだ。……あれ? でも、運命の番って絶対結ばれる相手じゃなかったっけ。俺、ドラマの観すぎ? 現実はそうでもないの?」

「ううん、その人の運命の番は亡くなった女の子なの。私のことはスペアだって言ってた」

「新しい用語が出てきた。スペアって何?」

 紗世は彼女なりに調べた「スペア」について彰吾に説明した。

 スペアという存在は世間一般にはあまり知られていなかったし、調べても資料自体少なかった。

 でも、それは当たり前かもしれない。普通ならば運命と番えたαとΩは2人の間で関係が完結する。番った後は周囲にフェロモンを振りまくことは少なくなるし、他者も番った状態の2人のフェロモンに惑わされることはなくなる。だから「運命」と結ばれたαとΩの傍に仮に「スペア」がいても、本来ならば互いに感じ取ることはできないだろう。

 そもそもスペアと出会える確率は、運命の番と出会える確率と同じくらい低いのだ。むしろ運命とスペアに違いはない、ほぼ同一だ、と断言する論文さえあった。つまりその人が誰を「運命」と判じて、誰を「スペア」と定めるかに全てがかかっている。

 そう説明されても彰吾は、男性特有の現実的な視点からこの話を聞いて、思う。「でもソイツは紗世のことを運命の番じゃないって言ったんだろ? じゃあ、どれだけ紗世がソイツのことを運命だと言っても、やっぱソイツは紗世の運命の番じゃないし、紗世にとってもソイツは運命じゃないんじゃないの?」

 彰吾が「紗世」と呼びかけると、彼女は怯えた顔をした。その男との関係をこれ以上否定されることを心の底から恐れているようだった。だから彰吾はう〜ん、とかなり深くまで悩んで、それから顔を上げた。

「……分かった。紗世がそんなに好きだっていうなら、俺は紗世を応援する」

「お兄ちゃん……」

「でも一つだけお願いがあるんだ。その人のことで三回泣いたら、考え直してくれる?」

「三回泣く?」

「うん。三回っていう数字に深い意味はないけど。……一緒にいるのに、悲しくて泣いてしまう関係って、結局は正しくないんだと俺は思うよ。だから紗世がその人といて傷ついたり、辛くなって三回涙が出たら、関係を考え直してくれる? その人の他にも、良い人はいるかもしれないって思ってくれる?」

 彰吾が紗世を大切に思うからこそそう提案したのだと、彼女には分かった。だから「うん」と頷いて、紗世はまた涙ぐんでしまった。


 オーウェンの運命の番であるティター二アは亡くなった。

 もうこの世にいないからこそ、その子の存在は完璧な星のようにぴかぴかと輝いて、オーウェンの底のない寂しさを一条の光のように照らしているのだろう。

『きっと紗世は大切にされない。ソイツが紗世のことを本当に好きになることは絶対に、ない』

 彰吾が自室に帰って、一人布団に横になった紗世は兄の言葉を思い出していた。

 できるならオーウェンの一番近くにいたい。寂しそうなオーウェンのことを放っておけない。……それだけじゃダメなのだろうか?

 ぶぶ、とその時携帯が震えた。紗世とオーウェン、アリスのグループLINEで、アリスからメッセージが届いたのだ。この前彼らが家に来た時から、ずっとだらだらとやり取りが続いていた。

 紗世の捻挫のことも話題に上げている。左足に痛みはあるけれど幸いにも歩行はできる。それでもアリスが心配して様子を見に来たいと言い、それから都合が合えばまた紗世の家で遊びたいと連絡をしてきた。

 次の土曜日以外なら空いているよ、と紗世は返す。

『土曜日何かあるの?』と、アリス。

『うん。海外協力支援機構が主催する、ワークショップが昼の三時まであるんだ』  

 紗世はメッセージを返す。

 オーウェンは携帯を見ていないのか、既読もついていなかった。

『ソイツは紗世の気持ちを利用して、自分の都合のいい女の子として紗世を扱うよ』

 彰吾はあぁ言ったけど、紗世だって同じだ。

 紗世とて、オーウェンの寂しさを利用して傍にいることを選んだ。

 ……だけど彰吾が懸念している通り、紗世はいつかは『その先』を考えなければならないのかもしれなかった。

 つまり紗世は最終的にオーウェンとどうなりたいのか、オーウェンに何を望んでいるのか、それをちゃんと見定めておかないと、いつか悪い結果を招く。そんな気が、彼女はした。


 土曜日、紗世は海外支援協力機構が主催するワークショップに参加していた。そこでは発展途上国が抱える問題について、実際に働いている人から説明をされたり、紗世たち学生がグループとなって、それぞれ与えられた議題について話し合い、発表できるようになるまで議論をした。

 参加している学生たちの士気はとても高くて、紗世も大いに刺激されながら活発に意見交換をし、楽しんだ。だけどただ一つ心に引っかかったことがあるとすれば、この場に『あの』女性面接官がいたことだ。

 以前紗世に『発情期はもう来たのか』と不躾に尋ねた人……多分『紗世』というよりも『Ω』という性を嫌っているらしいその人が、主催者側として立っている。

 紗世は努めてそちらを気にしないようにしたし、彼女と視線を合わせることも避けていた。

 のだが、ワークショップの間に挟まれる小休憩で、お手洗いから帰ってきた紗世は、廊下で彼女と鉢合わせになってしまった。

 口元をキュッと結んだ紗世が会釈をして黙って通り過ぎようとしたけれど「あなた」とその人に呼び止められてしまった。

「今回もこういった活動に参加していらっしゃるんですね。あれから親御さんと、こういう活動についてちゃんと話し合いましたか?」

 まさか話しかけられるとは思わず、紗世は視線を泳がせた。

「い、いいえ……」

「いい加減なのは困りますよ」

 彼女はこれ見よがしにため息をつき、「以前私が他国で活動していたときも、自分勝手なΩ性の方がいました」と話し出した。

「発情期やら体調不良やら勝手なことを言い出して計画を狂わせて。……本当に迷惑したんですよ。自分のことなのに管理ができないのかと呆れました」

 紗世は少し前に、自分の身に起こったことを思い返していた。本物の発情期ではなかったけれどフェロモンに振り回されて、彼女も周囲に……オーウェンに、迷惑をかけた。

 自分のことなのに管理ができないのか、と責められると言い返せない。けれどあれは、自身ではどうしようもできないものなのだ。

 紗世は視線を下に落としそうになって、ふと空色の瞳を持つ青年の姿を脳裏に思い浮かべた。オーウェンが紗世に言ってくれた言葉を、思い出す。

「……私も最近、周りの人に迷惑をかけました。抑制剤を飲んでいたけど、効かなくて。みんなに申し訳なかったし、自分が嫌になりました」

 だけど、と紗世は言葉を続ける。

「そんな私のことを、恥ずかしいと思わなくても良いって言ってくれた人がいるんです。……だから頑張ろうと思って、今日もここへ来ました。Ωだから、迷惑をかけるからって私は夢を諦めたくない。それでは駄目ですか。私は、諦めないといけないんでしょうか」

 紗世のまっすぐな眼差しに見つめられて、女性は少し口籠った。

「わ、私が言っているのは、貴女が言っていること以前の問題です。可哀想な話ですがΩ性の方は能力的に他の性よりも劣っています。だから私は……」

「失礼。少し待ってください」

 と、突然一人の男性が紗世たちの話に入ってきた。

「Ω性の方が他の性より能力的に劣っているという主張は正しくありません。それは遺伝子学的にも科学的にも立証されていない。確かにαやΩには固有のフェロモンが存在し、それが人間社会の中で有利不利に働くことはあります。けれどそれと個人の能力は別物です」

 歳は三十歳くらいだろうか。ただその横顔は甘く、未だ青年のような瑞々しい面影を残している。

 人が良さそうな男だ。困ったように頼りなく眉を下げて、彼は女性を見た。

「どうしました、いつも冷静で公平な貴女らしくない。……それにボクはこの学生がディスカッションをしている様子を見ていましたが、協調性があって、相反する意見の中でもきちんと落とし所を見出せる、非常に優秀な子だと思いました。それこそ第の性なんて関係ない。そんな物差しで測ることは失礼です」

 口をつぐんだ女を見返したあと、彼は優しげな瞳を紗世に向けて、胸元にあるネームプレートを見た。

「えーっと、藤丸さん、だね。休憩しているところ悪いけど、少しいいかな。午後の部で使う資料を持ってきたいんだ。ちょっと手伝ってくれるかい?」

 男の名前は、北川雄大といった。国境なき医師団で数年間活動をした後、今は海外支援協力機構の医療部に所属していると、ワークショップ午前の部で自己紹介していた。

 手伝って欲しい、というのは名目で、雄大が紗世を呼び出した理由は彼女に謝り倒すためだった。彼は両手を合わせて、拝むようにして紗世に頭を下げた。

「本当にさっきはごめんね! きみの性について差別的な発言をして、さらに不快な態度で接してしまったことは本当に恥ずべきことだと思っている。ボクもまさか同じ主催者側の人間にあぁいった者がいるとは……いや、キミにそんな言い訳をすることは許されないな。本当の本当に申し訳なかった」

 もしここにオーウェンがいたのなら、これ幸いにと雄大を足がかりにしてあの女性の性差別発言を糾弾して責任問題に発展させたに違いなかった。だけどオーウェンはここにいなかったし、紗世は典型的な日本人だった。逆に彼女は恐縮していた。

「だ、大丈夫です、私」

「いや、大丈夫じゃないよ。酷い誹りを与えてしまった。少し待っててくれるかい、今から上に掛け合うから。今日はワークショップが終わった後、時間はあるかな?改めてボクから謝罪を……」

「そこまでしなくてもいいです」

「いやいや。もしこれと同じことを海外でしてみろ。あっという間に裁判沙汰になるぞぅ」

「私、訴えません! 本当に平気です、雄大さんが庇ってくれましたし」

 雄大は不思議な人だった。初対面で、さらに年上の男の人なのに、紗世は彼といると自然体でいられると思った。柔らかで温かな彼のオリーブ色の瞳を見返しながら、紗世は「ただ……」と言葉を続けた。

「……正直に言えば、不安には思っていて」

「不安? 何の不安だい?」

「Ω性には、実際に発情期やフェロモンの不調もあるから。そんなものを抱えて、人の役に立てるのかなって。……私この前、周りの人に迷惑をかけることがあるって身をもって体験したんです」

 ふむふむ、と雄大は思案するように腕を組んだ。

「そうだね。Ω性特有のヒート状態や体調不良は確かにあるし、たびたび社会でもその話題は問題事として世間に取り上げられることもある」

 だけどボクは、と彼は言葉を続ける。

「そのことはΩ性個人に押し付ける責任ではなく、すべての性の人が考え、解決する必要がある事柄だと思っているよ。なぜならボクたちはみんな、同じ社会を形成する一員だからね。だから人に迷惑をかけるからと言って、キミが肩身の狭い思いをするのは間違っている。……だからこそ先程の彼女の差別的発言は許されるべきじゃないんだ」

 雄大はどう処遇をするべきか、悩んでいるようだった。頭痛を抑えるような仕草で額に手を当てている。

 そんな彼を見上げながら紗世はおずおずと尋ねた。

「……じゃあ雄大さんは、私が頑張れば、私が活躍できる場所は海外協力機構にあると思いますか」

 雄大は一瞬きょとんと紗世を見下ろして、それから顔いっぱいに優しい笑顔を浮かべた。

「勿論。キミはきっと堂々と活躍できる。その将来が来ることをボクは確信しているよ」

 雄大が力強く頷いた瞬間、きらり、と彼が光って見えた。紗世は男の中に自分の未来を見た。まだ手は届かないが、遠くに輝く、目指すべき灯台の温かな灯りだと彼女は感じたのだった。

 わくわくと煌めき出した紗世の目の輝きに、雄大も気が付いた。だからより深く微笑んで彼は言った。

「きみ、医学部や看護学部の生徒だったりしないかな?」

「え?」

「来週、医療現場の環境整備について研究フォーラムがあるんだ。実はボクもその場で紛争地帯において国境なき医師団がどう環境を整えているか、説明する時間があるんだ。もし興味があれば参加してみない?」

 紗世はくすりと笑った。

「興味はすごくあります。だけど私、理系じゃなくて……。あと、まだ高校生です」

「えっ? ……あっ、そうか。今日のワークショップは高校生だけの参加だったな。じゃあ研究フォーラムには参加はできないよね。なら、えーっと、高校生を対象とした、他のワークショップもあったはず。あの日程は……あ、資料はいま持ってないか」

 一人でわたわたし始めた雄大に、紗世がくすくすと笑う。雄大は首裏を掻いて「情けないところを見せてしまったかな」と眉を下げて笑った。本当に親しみやすい人だ。

 休憩が終わり、午後のワークショップが始まっても、雄大がそこにいてくれると思うだけで、紗世はのびのびとしていられた。

 充実した時間はあっという間に過ぎて、午後三時になり、ワークショップは終わった。

 帰りの支度を整えていると、携帯が震えた。紗世は画面を開いて、そのメッセージを読んだ。


「オーウェン!」

 ワークショップがあった建物から出て、すぐ近くにあるガードレールにもたれかかった彼の姿を見つけて、紗世は走った。

 オーウェンは携帯画面から顔を上げる。やや左足を庇いながら駆けてくる紗世を見返して、眉を寄せた。

「走らなくていい」

「だって近くにいるってメッセージもらったから。びっくりして……どうしたの?」

「別に。暇だったから来ただけ」

 アプリゲームをしていたのだろう。それを閉じて、オーウェンは紗世の左足を改めて見た。

「変な走り方だった。まだ足、痛むのか」

「ちょっとだけ、だよ」

「サポーターはつけてないの?」

「今日はいいかなって」

「いや、つけろ」

「うぅ……、はい。でも今日は悪目立ちするかなって思ったんだもん」

 肩を落とした紗世の隣で、オーウェンは息をついた。

「今回のワークショップは楽しめたのかい?」

 オーウェンが今日こうして紗世に会いにきてくれた理由は、前回の面接のことがあったからかもしれない。

 心配してくれたの? とオーウェンに聞いてもはぐらかされてしまうだろうから、紗世は微笑んだ。

「うん。すごく楽しかった!」

「そう、良かったね」

 そのとき、建物から雄大が出てきた。周囲を見渡して紗世を見つけると顔を綻ばせる。

「彰吾さん、まだ居て良かった」

 と言ってこちらに歩いてきた。

「休憩時に言っていた、次回のワークショップの資料だよ。もし興味があるならどうぞ」

「わっ! ありがとうございます」

 笑顔を輝かせて資料を受け取った紗世に、雄大は「応援しているよ」と笑いかけた。それから彼女の隣にいるオーウェンにもオリーブ色の瞳を向けて目礼すると、建物の中に入っていった。

 雄大に向かって頭を下げた紗世の横で、腕を組んで仏頂面になったオーウェンが口を開く。

「何だ、アイツ」

「雄大さん。海外支援隊の医療部で働いてる人なの。前は国境なき医師団に居たんだって。すごいよね」

「へぇえー。そんなにすごい人が、わざわざきみを追ってきて、資料を渡してくれたわけ?」

「それは……ちょっと。いろいろあって」

「ふーん」

「あ、オーウェン。待ってよ」

 先程までは隣に居てくれたのに、彼は踵を返すと先に行ってしまった。「オーウェン」と呼びかけても生返事だ。

 せっかく一緒にいれるのに。

 なんとか彼の傍に寄った紗世はむぅ、と少しだけ口を尖らせて、そして上目遣いでオーウェンを見た。

「ゆっくり歩いて? オーウェン」

「……」

「……。左足、ちょっと痛い、な?」

 オーウェンの歩みが止まる。しばしの沈黙ののち、オーウェンはため息をついて、振り返った。

「最初のころと比べて、割と遠慮なく我儘を言うようになったよね、きみ」

 仕方がなさそうに言ったオーウェンの表情はしかし、優しかった。

 『ソイツは紗世を大切にしない』と彰吾は言った。本当にそうなのかな。でも……。オーウェンが紗世に合わせる。そうして人はゆっくりと歩き始めた。

 紗世とオーウェンの関係性はなんだろう。

 友達以上だけど恋人ではない。傍にいたいと言ったけれどどう傍にいることが正解か分からない、そんな関係だった。


 新学期が始まった。

 登校初日、まず紗世たち学生は一度教室に集められ、それから体育館へ向かい、始業式に参加することになった。だらだらと長い校長式辞を聞いて、生徒指導や教務、進路指導の先生の講話も聞いて、校歌斉唱をし、閉会の宣言がなされてから、一人一枚紙が配布される。その紙に、新三年生のクラスが書かれているのだ。

 ざわざわと周りがざわめく中で、紗世はまず自分のクラスを調べた。——Cクラスだった。それから目を滑らせてアリスのクラスを確認する(アリスは出席番号一番だから見つけやすい)。

 同じCクラスだった。

 やった! と内心飛び上がるほど喜んで、それからオーウェンの名前も探す。オーウェンのクラスは——。

 始業式とクラス発表を終えて、生徒たちは体育館から教室へ戻る。雑多にばらつく人波の中、オーウェンとアリスが入り口付近で紗世を待っていた。紗世を見て、うずうずした顔のアリスが駆け寄ってくる。

「紗世! やったね、今年も同じクラス!」

「うん、すごく嬉しい! 今年もよろしくね、アリス!」

「私こそ!」

 手を取り合ってキャッキャと一通りはしゃいでから、紗世とアリスはおずおずとオーウェンを振り返った。

 腕を組んで紗世たちを眺めていたオーウェンが「何その変な顔」と口元を歪める。紗世はしょんぼりとして言った。

「オーウェンだけ、違うクラスなんだね」

「そうだね」

 オーウェンはDクラスだった。

 紗世はクラスが分かれてとてもがっかりしたのに、オーウェンは特に悲しそうでもない。それがまた物悲しくて紗世は上目遣いで言った。

「……オーウェン。これからも昼食、一緒に食べてくれる?」

「いいけど」

 アリスも憐れんだ目をオーウェンに向ける。

「一人違うクラスだからって、拗ねてちゃダメだよ、オーウェン」

「テスト前になったら一緒にテスト勉強しようね」と、紗世。

「厄介ごとを引き起こしても、もう違うクラスだから私はカバーできないからね!」アリス。

「あのさぁ!」とオーウェンは声を荒げた。

「今生の別れじゃないから。たかが違うクラスになっただけだろ」

 ため息をついて、オーウェンは踵を返した。紗世もアリスと顔を見合わせてその後に続く。

 旧教室に帰ったあとは速やかに荷物をまとめて、新しい教室へ向かわなければならない。三人は会話少なく用意をして廊下に出てから、三年C組と三年D組の境で立ち止まった。「じゃあね、オーウェン」「あぁ」と短い言葉を交わして、名残惜しいがそれぞれが新しいクラスの扉をくぐっていく。

 

 オーウェンは「クラスが違うだけだろう」と言ったけれど、そのオーウェンと一緒にいる機会はめっきりと減ってしまった。

 理科準備室に向かう途中、紗世はふと果実と木々の香りを嗅ぎ取った。彼女が渡り廊下の方を見やるのと、窓の外を見ていたアリスが「あ、オーウェンだ」と言うのは同時だった。

 オーウェンも別校舎で授業があるのか、クラスメイトに囲まれて渡り廊下を歩いていた。

 ふと、オーウェンが糸で引かれるように顔を上げて紗世の姿を見つけた。

 自分へ向けられた澄んだ碧眼に紗世は内心ドキリと心臓を跳ねさせたけど、アリスが手を振っていたから、紗世も内心の心情を抑えてオーウェンに手を振る。オーウェンも手をあげて彼女たちに答えた。でもそれで終わり。向かう先が違うのだ。

 オーウェンを見送って、アリスは改まったように紗世を見た。

「あの、さ。私、紗世の恋を応援して……良いよね……?」

 アリスは年生の終わりに紗世がオーウェンに告白して、玉砕した事を知っている。ただその後、紗世とオーウェンがどういう関係に落ちついたのかオーウェンからある程度は話を聞いているらしい。

 紗世は少し視線を下に逸らした。

「うん……でも友達の延長みたいな感じだと思うから、気を遣わなくてもいいよ、アリス」

 アリスは心情的には紗世を応援したいのかもしれない。けれど彼女自身がオーウェンと同じαであるし、ティターアのことも知っているから、オーウェンの気持ちもわかってしまうのだろう。

「分かった。だけど私は紗世の味方だからね!」

「ふふっ。うん。ありがと、アリス」

 身を寄せ合って少女たちは廊下を歩いていった。


 オーウェンと顔を合わせるのは、美術の時間か昼食時だけになった。天気が良く、日差しも暖かくなっていたから最近はテラス席でご飯を食べることが多い。

お弁当を広げる紗世とアリスの横でオーウェンは惣菜パンを食べている。

 紗世はオーウェンを見た。

「始業式から一週間たったけど、オーウェンは新しいクラスには慣れた?」

「まぁ、普通に」

 ミートボールを食べているアリスがヒヒ、と笑う。

「寂しいんじゃないの、オーウェン?」

「別に」

 オーウェンの返事はそっけない。

 紗世は最近のオーウェンの周りの様子を頭に思い浮かべた。彼が転校した当初にあった情景がここのところ繰り返されている。つまり沢山の人がオーウェンのもとに集まり、彼の気を引きたがっているのだ。

 紗世は小さく、寂しそうに笑みをこぼした。

「大変そうだけど……でも、オーウェンなら大丈夫だよね。そつなくこなすもん」

 傍にいたいと紗世が思っても彼にできる事なんてないのだ。

 オーウェンはパンを食べ終えて、言った。

「紗世、ウインナー頂戴」

「いいよ」

 紗世はピックを指したウインナーをお弁当の蓋に乗せて、オーウェンにあげた。パクリ、と彼は一口でそれを食べる。

「卵焼きも」

「はい、ご飯もちょっといる?」

「うん」

 分けて貰ったそばからむしゃむしゃ食べているオーウェンに、アリスは若干引いていた。

「……いやいや。何してるの、オーウェン」

 引き攣った顔をしているアリスを見て、紗世はハッとする。オーウェンは買ってきた分では足りなくて腹ペコなのかと思ったが、これはもしかして甘えているのだろうか。

 しかしながらそれを指摘されてもオーウェンは全く動じてない顔で「アリスの分も全部食べてあげるよ」と言って、「なんでさ。絶対イヤ」と断られていた。

 そこ後も紗世にばかりオーウェンは昼食をたかっていたが、時計を見てから、ため息をつく。

「俺はそろそろ行くよ」

「え? ……あ、オーウェンのクラス、次の授業が体育なんだっけ?」

「そう。昼食後に体育を持ってくるとか本当、ナンセンスなんだよ」

 紗世とアリスも食べ終わったのでそれぞれ片付けを始める。

 アリスが言った。

「五時間目にHRがあるのもなかなか嫌だよね、眠くなるから」

「確かにちょっと眠いよね」

「ね。次、委員会決めだっけ」

 委員会決め、それを聞いた紗世はそうだ! と閃いた。

「あのね、みんなで文化祭実行委員をやるのはどうかな?」

「文化祭実行委員?」

 きょとんと見返してきたオーウェンとアリスに、紗世は頷く。

「文化祭実行委員は文化祭の企画とか運営を行う委員会のことをいうんだよ。ここの学校って6月に文化祭があるから、そろそろ決めなくちゃいけないの。文化祭が終わるまで仕事がすごく忙しいんだけど、それでも楽しいよ」

 オーウェンはあからさまに嫌そうな顔をした。それからにっこりと微笑む。

「パス」

「そっか……、クラスを超えて一緒にいられる時間が増えると思ったんだけど、オーウェンはそういうの、嫌いそうだもんね」

 眉を下げた紗世に、お弁当箱を包みに入れたアリスが尋ねた。

「確か紗世、去年もその委員会をしてなかった?」

「うん。実は文化祭実行委員の顔ぶれって毎年あんまり変わらないんだ。私は今年も立候補しようと思う。アリスもどうかな? クラスで最低人選ばれるんだけど」

「紗世がやるならやろうかなぁ」

 オーウェンは無言を貫いていた。

 これはオーウェンが委員会をやるかは微妙なところだな、と紗世は思った。


 その次の週、文化祭実行委員の第一回目の会議の席に、オーウェンはいた。

紗世とアリスが顔を見合わせて思わず笑っていると、オーウェンがジロリとこちらを睨んだ。

「なに」

「オーウェン、なんだかんだ言って実行委員をやってくれるんだな、って」

「暇だから」

 オーウェンはこういう所がある、とまた笑って、紗世はオーウェンの隣の席に座る、彼と同クラスの男子生徒にも目を向けた。

「浜くん、今年もよろしくね」

「あぁ。よろしく、紗世」

 そう爽やかに笑った男子生徒の名前は浜明人と言った。とても大柄な青年で、一見すると威圧的に見えるが、思いの外顔は童顔でコッと笑うと優しげなのだ。

 オーウェンは紗世と浜を見比べた。

「知り合いなんだ?」

「うん。前も言ったけど、文化祭実行委員のメンバーってあんまり変わらないんだよ。浜くんとは去年、一昨年ってこの委員会で一緒だったの」

 その時、新たに人の女子生徒が会議室に入ってきた。桃色の長髪を靡かせる、勝気な表情をした少女と、紅色の髪をつに縛った、楚々とした雰囲気を纏う少女だ。彼女たちは紗世に気がつくと、にこりとそれぞれ魅力的な笑顔を浮かべた。

「貴女は今年もいると思ったわ。紗世、久しぶりね!」

「うん。佳乃、シータ、久しぶり」

 佳乃と呼ばれた少女がふふふ、と笑う。

「浜も、シータも揃っているし。これで今年の文化祭が上手くいくこと間違いなしね」

 さて、そうしているうちに会議が始まった。早々に佳乃が文化祭実行委員長に、浜が文化祭実行副委員長に立候補し、その他書紀、会計とトントン拍子に役職が決まっていく。佳乃ほどαのカリスマ性を存分に発揮する人もいないのではないかと思われた。

 会議が終わった後、「本部、各班の班長・副班長には今後のことで少し話があります。ここに集まりなさい」と佳乃が言ったから、紗世や浜、シータたちは教壇前に集まった。今後のすり合わせと言いつつも、彼らは気心が知れた仲であったし、全体の流れも承知していたから、そのほとんどは談笑だった。

 そんな紗世を、オーウェンとアリスは距離をとって見つめていた。

「……知ってたけど、紗世って社交的だよね」

 アリスがポツリと言う。

 αとしてチヤホヤされがちだけど、実際のところオーウェンもアリスも人と一線を引くタイプだから友人は少なかった。対して紗世は分け隔てなく、誰とでも仲良くなって、あっという間に輪の中心になっているのである。

 ちょっと寂しいな、と言ってアリスがいじいじと鞄をベルトを弄ぶから、オーウェンはため息をついた。

「まだいいだろ、きみは。同じクラスなんだし」

 アリスはオーウェンを見上げた。

 オーウェンは腕を組んで、紗世を見つめていた。


 紗世が使うバス停まで送った後、アリスが「今日は先に帰るね」と言ったから、オーウェンと人きりでバスを待つことになった。

 オーウェンは紗世と同じ機材管理班になったので、並んでベンチに腰掛けて、紗世は詳しくそれについて説明した。

「機材管理班の仕事は、文化祭の後片付けの時が一番忙しいんだ。その前は備品を管理したり、ちょくちょく来る貸出申請を受理したり、マイクが不足したり、無くなりやすいからそのクレーム対応をしたりね。何も仕事がない時は他の班の応援に行ってることが多いかな」

「ふーん」

「オーウェン、ちゃんと聞いてる?」

「あんまり。始まってみないと想像がつかないしね」

「イギリスに文化祭ってあるの?」

「ない。プロムはあるけれど」

「プロム……、海外の映画で見たことがあるけど、ダンスとかするお祭り?」

「お祭りというか……。まぁ、そうだね」

 映画では、プロムでドレスコードを身にまとった学生たちがダンスに興じる様子が描かれていた。

 オーウェンのスーツ姿は似合うだろうな、と紗世は思う。彼はどんな服を着て女の子と踊ったんだろう……でも、ティターアの事もあるから、オーウェンはもしかしたらそれに参加しなかったのかもしれない。

 ……私、オーウェンのことを何も知らないな、と紗世は改めて思う。

 ふいに、その時オーウェンは紗世を見た。久しぶりに空色の瞳を近くで見て、紗世はドギマギしてしまった。

「文化祭が初めてなんだったら、文化祭実行委員でオーウェンを縛るのは良くなかったね。ごめんね、文化祭を楽しみたかったよね」

 そう言いながら紗世はオーウェンから顔を背けて、そっと彼から距離をとる。

「……。別に。そういった行事を楽しむタイプじゃないし。構わない」

 空間を埋めるように、オーウェンがそこに手を置く。さらにドキリと追い詰められた気がして、紗世は身をに捩ってオーウェンから離れた。

「なら、良かった」

 バスが来ている。紗世がホッと息を吐いた時、オーウェンに「紗世」と名前を呼ばれた。

「どうしてきみは、そっちばかり見てるわけ?」

 オーウェンのそれは拗ねたような、乞うような声音だった。だから紗世は思わず振り返る。

「……は?」

 と、オーウェンが虚をつかれた表情になった。

 オーウェンが驚いて目を丸くしたことが分かっても、紗世は赤面してしまう自分を止められなかった。……だって、こうしてゆっくりと人きりでオーウェンと話すのは新学期が始まってからとんとなかったのだ。

 紗世はオーウェンが好きで、それを彼には知られていて、しかも彼も紗世を憎からず思っている……。友達以上だけど恋人ではない。どうすればいいか分からなかった。

 目の前にバスが停まり、これ幸いと紗世は立ち上がった。

「ま、また明日ね、オーウェン!」

 オーウェンの返事を待たずバスに乗り込んで、彼女は後ろを振り返った。

 桜吹雪の中に、少し顔を赤らめたオーウェンがいた。その光景があまりにも綺麗で、紗世はまたオーウェンに恋に堕ちたと思った。

 前は、雪景色だった。あの冬の、雪が降る冷たい日、オーウェンとの距離がここまで縮まるとは思っていなかった。

 どんなに無理だと思っても、抗っても、紗世やオーウェンは変わっていく。それが人という生き物なのかもしれなかった。

 冬が去って春の季節が来たんだ。

 紗世はそう思った。


 学校の準備室にて、機材管理表を共に確認していたシータが「少しだけ、込み入った事を聞いてもいいでしょうか」と言った。楚々とした彼女には珍しく、興味津々といった様子の光がそこに宿っていた。

「紗世。紗世はとうとう運命の相手を見つけられたの?」

「え……?」

 紗世は一瞬呆け、そして次にシータの言葉の意味を理解した。とたんに顔を真っ赤にさせて、慌ててこの教室に自分たち以外に誰もいないことを改めて確認する。

 くすくすとシータが微笑ましそうに笑った。

「な、ななななに、突然!」

「運命を見つけたらお互いに教え合おうねって約束したでしょう。だからわたし、待つつもりだったの。だけど一向に教えてくれないから……」

「ち、違うの。オーウェンは、だって……っ」

「やっぱりお相手はヴォーティガーン君ね」

「あ、あぅ……」

 紗世がさらに真っ赤になっての句を告げなくなっているのを見て、シータは優しく笑んだ。シータは紗世と同じΩだった。一年生のとき文化祭実行委員で知り合ったあとはすぐに仲良くなった。

 第の性が違う友達には言えないこともお互いに話して、運命の人と出会えたら教え合おうねと顔を見合わせて約束したことがある。

「からかってるわけではないのよ、紗世」

「うん、分かってるよ、シータがそんな子じゃないってこと……」

「良かった」

 と、シータが花のように笑う。

「わたし、紗世とヴォーティガーン君を見ていると自然と心が暖かくなるの」

「どういう意味?」

「お人が共有しているフェロモンが優しくて。お互いを想いあっている様子が感じられて、見ていたら幸せになれる」

 紗世は目を瞬かせた。

「シータには、そう見えるの?」

「ええ。違う?」

「わからない……」

 紗世の答えは、林檎のように赤くなった彼女の顔も踏まえて、シータには照れているように見えたらしかった。シータはふふ、とまた可憐に笑って資料を手に取った。

「またお話を教えてね。じゃあ、三階の準備室の備品を確認してきます」

「うん……」

 管理表を持ったシータと入れ違いで、今度は浜が準備室に入ってきた。「紗世、申し訳ないけど聞いていいかな」と彼は言った。

「どうしたの、浜?」

「生徒会が開会式の予行をするために、校庭に音楽を流したいそうだ。その時の機材の動かし方と、校庭用マイクがどこにあるか、紗世は知っているかい?」

 紗世は手にしていた管理表をひとまずテーブルに置いた。

「マイクの場所も、機材の動かし方も知ってるよ。でも初めて使う時は先生の立ち合いが必要だと思う。去年はそうだった」

「やっぱりそうか」

「先生を呼んでこようか?」

 浜はうーん、と少し考えて「いや」と頭を振った。

「それは生徒会メンバーにしてもらおう。文化祭実行委員と生徒会では、監督する先生も違うからね」

「そうだね。確かに生徒会に全部任せたほうがいいかもしれない」

「うん。開会式の予行には私が付き添うから、紗世は機材管理班の作業をしたままで良いよ。手を止めさせてしまってすまなかったね。……それより、どうしたんだい」

「え?」

「顔が赤い。体調が悪いのかな。お昼はちゃんとしっかり食べた?」

 浜に指摘されて紗世がドギマギしていると、浜はさらに心配そうな顔をして長身な身を屈めた。

「平気かい?」

「ち、違うの……。これはただ、ちょっと……」

「機材管理で何かトラブルがあった?」

「ううん。さっきまでシータと話してた内容が、ちょっと……」

「悩みがあるのかな」

 浜が本気で気遣ってくれているから居た堪れない。上手い説明が思いつかず、紗世があうあうと言葉にならぬ声をあげていると、浜がふいに顔をあげた。

「失礼。どうやら、俺は退散した方がいいようだ」

「……え?」

「生徒会はこちらで対応するから紗世は気にしないように。邪魔をしたね」

 浜が離れていく。

 見れば、いつの間にかオーウェンが準備室に来ていた。感情が読み取れない表情で腕を組んでいるオーウェンに浜は挨拶を交わし、準備室を出ていった。

 浜を静かに見送り、オーウェンがつと紗世を振り返った。

「お、おーうぇん……」

 青い瞳に見つめられて、紗世はドキリとした。思わず熱い顔に片手を当てて隠すように下を向くが、オーウェンが近くまで来たから、彼女は彼の上靴を見つめることになった。

「えっ……と、オーウェンは階の準備室の機材確認、終わったの?」

「終わった」

「早いね?」

「普通だろ」

「そうかな、早いと思うけど……」

 こうして会話をしているだけでも、オーウェンの元からフェロモンが漂ってくる。紗世が気づいていないだけで、紗世のものをオーウェンも感じたりしているんだろうか。そしてシータはそんな紗世たちを見て、お互いを想いやっている優しい雰囲気と評したのだろうか。

 木々と果実の香りに紗世が少しとろん、となっていると、オーウェンに顔の横にある髪を掬われた。

「で? どうしてきみはまた俺から視線を逸らしてるわけ」

「……」

「浜とは普通に話してたよね」

「……」

「紗世?」

 観念したように、紗世はちらりとオーウェンを見上げた。オーウェンは口をへの字に曲げて不機嫌そうにしていたけれど、その実、目が嗤っている。彼は紗世が余裕がなくなっている理由を直感的に理解しているのだ。

 紗世はかあ、とさらに顔を赤くして、オーウェンを睨みつけた。

「ひ、ひどいっ」

「何が」

「私をからかってるでしょ」

「俺は何もしてないけど?」

「でも目が笑ってる!」

「酷い言い草だな。俺はきみが最近俺を避けているみたいだから、どうなってるのかと思っているだけだよ。四月から他人のフリをするってのを、きみはやめたんじゃなかったっけ?」

「それは、だって……。分かってるでしょ、オーウェン」

「分からないね」

 オーウェンがぐい、とより近づいてこようとしたから、紗世はその体を押しのけるようにして手をつっぱった。「だって」と焦った声を出す。

「傍にいるって言っても、具体的にどうすればいいか分からなくなっちゃって」

「……」

「ずっと片想いだったから。それにクラスが違って一緒にいる時間も減っちゃったし、改めてどう距離を取るべきか、分からないの」

 そう言ったまま視線を合わさない紗世を見下ろして、オーウェンが何かを言おうと口を開いた。けれど、その時。

「すみません、今、クラスの行事決めが終わりました! 仕事やります」

 と後輩たちがゾロゾロと準備室に入ってきた。だから紗世とオーウェンの話はそこで打ち切りとなり、彼らは後輩に向き合った。


 彰吾はその日、部活がなかった。だから家に遊びに来た蓮と共に宿題をしている。蓮は学年でも5本の指に入るぐらい頭が良くて、分からない問題があれば丁寧に教えてくれる。

 彰吾はどうにかこうにか英語の宿題を終えて、それから蓮を見た。

「突然なんだけど。蓮はさ、運命の番って信じてる?」

 蓮は数学の問題集から顔を上げた。

「なんだ、藪から棒に」

「ちょっとね……、ほら、俺の妹ってΩだから。そういうの気になって」

「なるほど」

 蓮は少し考えたのち、律儀にシャーペンを置いて「信じている」と頷いた。

「えっ、信じてるんだ?!」

「何もおかしなことはあるまい。運命の番の存在は世間一般に信じられているのだから、僕の運命がいても可笑しくないだろう」

「運命に会ったことはある?」

「ないな」

「運命の番に会いたい、って思う?」

「あぁ勿論。しかしそれは僕だけではなく、α性やΩ性の人間なら誰しも一度くらいは思ったことがあるのではないか?」

 そう言って蓮は、難しい顔をしている彰吾を改めて見やった。

「どうした。妹に何かあったのか」

「うん……実はさ、紗世、運命の番と出会えたらしいんだ」

「そうなのか! めでたいではないか」

「いや。それがちょっと込み入ってるらしくてさ。……紗世の運命の人には、別の運命の番がいたらしいんだよね」

「は?」

「蓮はスペアって存在を知ってる?」

「いや、知らん」

 彰吾は蓮にスペアについて説明した。

 ちなみに、紗世の話を聞いてから彼自身も独自にスペアについて調べたけれど、紗世から教えてもらった以上の情報は見当たらなかった。

 説明を聞いて、蓮はうーむ、と腕を組んだ。

「確かに妹のことならば、それは心配よな」

「うん。蓮の運命の番、紗世だったりしない?」

「それはない」

「そんなにはっきり分かるものなの?」

「あぁ、分かるな」

「そっかあ。……はぁ。紗世の運命の相手が蓮だったら俺、めちゃくちゃ安心できたのに」

「それは光栄だが」

 と苦笑してから、蓮はまた真剣な面持ちになった。

「そんなにダメな男なのか、妹の相手というヤツは」

「うん、俺はダメな奴だと思う。多分、めちゃくちゃ面倒くさい男だよ」

「ほう」

「冷静ぶってるけど余裕がないっていうか。でも多分イケメン。自分の顔の良さをわかってるくせに、顔面を褒められたら、褒めてくれたその人のことバカにしそう」

「ヤな奴だな」

「だろ。でも頭も良さそうだから、素直な紗世なんて簡単に転がせると思ってるんだ。……うわ。なんだか俺、また紗世が心配になってきた」

「確かにそれは心配だ」

 人して腕を組んでうーん、と唸っていると、噂の紗世が帰ってきた。話し声も聞こえているから友達も一緒らしい。

 ややあって紗世がオーウェンとアリスを連れてリビングに入ってきた。

「お兄ちゃん、ただいま〜。あ、蓮くん、久しぶり」

「お邪魔している」

「おかえり、紗世。オーウェンとアリスも、やっほー!」

「お邪魔します」

 手を振る彰吾にオーウェンとアリスは応えて、学生鞄をソファーの端に置いた。

 DVDレンタルショップの袋を腕に提げた紗世か彰吾を伺う。

「お兄ちゃんたち、勉強してるの?」

「うん、宿題してるー」

「そっかあ。……じゃあ私たちが映画を見始めたら、やっぱり邪魔だよね」

「別にいいよ。ちなみになんの映画見るの?」

「ホラー映画」

「ホラー映画?」

「私のクラス、文化祭でお化け屋敷をすることになったんだ。どんな雰囲気のお化け屋敷にするか、ホラー映画を見てから意見を持ち寄って決めようってことになったの」

「へー! いいね、楽しそう」

 紗世たちにテレビの前にある机やソファを譲った彰吾は、蓮とともに普段は食事をするテーブルへ移動して宿題を広げた。

 の、だが。紗世たちがホラー映画を付けたとたんに彰吾は気がそぞろになった。ノートに一文字書く度に手を止める彰吾を見て、蓮がため息をついた。

「その調子で宿題を進めても身に付かぬ。ここは諦めて、しっかりと映画を観れば良かろう」

 ということで、オーウェン、紗世、アリス、彰吾、蓮の順で並んで一緒に映画鑑賞をすることになった。

 紗世が借りてきたものは和物ホラーだった。

 どうやらアリスと彰吾の怖がるツボは一緒のようで、怪異が起こる度に「ひゃーっ!」と絞め殺されたような悲鳴をあげて、隣にいる紗世や蓮に抱きついた。

それを見て蓮は「映画より彰吾の悲鳴に驚くのだが」と困惑していたし、オーウェンは「アリスと彰吾を隣同士にするのはいけなかったんじゃない。お互いがお互いを怖がらせてるように見えるんだけど」と呆れたように言った。

 しかしアリスと彰吾は絶対にこの配列を変えることを嫌がった。なぜなら両隣に誰かがいてくれる今が良いからだ。これで端っこに行かされたら、守ってくれる壁(人)がなくて怖いではないか。

 ラストに近づくにつれ顔色を悪くする人にため息をついて、オーウェンは隣にいる紗世を見た。

「きみ、意外と大丈夫なんだね? もっと怖がるかと思った」

 紗世は微笑んだ。

「怖いよ。でもお兄ちゃんがいっつも凄く怖がるから、なんだか平気なんだよね。オーウェンは和物ホラー、怖くないの?」

「不気味だとは思うね。ただ思ったけど、日本のホラーはイギリスのものと似てる。後味悪い感じが。だから慣れてる」

 という感じで見終わったのだが、紗世が「じゃあ次はこれね」と洋物ホラーのDVDを取り出したから、彰吾が「それはちょっと鬼畜じゃないかな?」と涙目で言った。

「本も借りてきたの? 紗世、正気?」

「和物と洋物、どっちのお化け屋敷にするか意見が分かれてるんだ。お兄ちゃんは観なくていいんだよ?」

「いや、観るけど」

「観るんかい」と蓮が突っ込んだ。

 映画を本観ると夜遅くなるよね、という事で台所からお菓子を引っ張り出してきたのだが、映画が始まると、案の定お菓子を食べる所ではなくなった。

 映画の内容は街で子供ばかり狙って死なせる怪人の話で、シンプルに怖かった。アリスと彰吾は怪人が現れるたびに「ぎゃーっ!」と今度はしっかり悲鳴を上げた。オーウェンと蓮は「またか……」と呆れたが、話の中盤になると人の間で明確な差がつき始めた。

 彰吾は相変わらず騒いでいたが、アリスがスーパー・アリス・タイムとなり、逆に静かになったのである。

 そしてなんと、紗世にも変化があった。和物ホラーのゾッとした怖さはまだ耐えられても、洋物ホラーの特徴的な演出(効果音、猟奇的な犯人像)は苦手だったらしい。バン! と大きな音をたてて怪人が現れる度に紗世はビクッと震えた。

 オーウェンからすれば「ここで絶対何か起きる」と先読みできる場面でも紗世が丁寧に驚くから、彼は段々と面白くなってきた。

 しばらく静観していたのだが、耐えきれなくなって、オーウェンは体を折り曲げて紗世の耳元に唇を寄せた。

「……怖いの?」

 うっそりと嗤った声音に、紗世が振り返った。と同時に、映画の中で子供が怪人に襲われた。

「っぎゃーっ、後ろっ、後ろを見てェー!うぎー、捕まったー!」

「わぁああ!」

 彰吾の絶叫を受けて、とうとう紗世がビクーッと飛び上がった。そのまま悲鳴を上げてオーウェンに抱きつく。紗世の身体を抱きとめながらオーウェンがは、は、はと肩を揺らして笑い、空いた片手で自身の膝を打った。おもしれー!

 その後も彰吾は相変わらず蓮の腕をとってワーワー騒いでいたし、アリスはむっつりと黙って怖がっていたし、オーウェンはタガが外れてビビりまくる紗世をからかっていた。

 映画の中の怪人は、後半で実は悪魔であったことが明言され、結局除霊されることなく多くの犠牲者を出して闇の中へ消えていった。「洋物ホラー、こういうとこある。犠牲になった子供たち可哀想」というのは彰吾の台詞である。

 本見終わった頃には夜遅くなった。紗世はオーウェンとアリスを駅まで見送りに行き、ついでにDVDも返してくる、と言って家を出た。

 結局全然進まなかった宿題を片付けながら、蓮が言った。

「オーウェンとかいう男、彰吾が言うほど悪い輩ではないのではないか?お前の妹のことをからかってばかりだったが、大切にはしているようだ。αとして、最初に僕に対して牽制をしかけてきたところを見るに、紗世にも随分執着しているようだ」

「何の話?」

 きょとんと彰吾が聞き返したから、蓮も首を傾げた。

「オーウェンだろう、お前の妹の番というのは」

「あははっ、オーウェンは紗世の友達だよ?」

「は? 友達でアレはないだろう」

「……うん。まぁ、実はここだけの話なんだけど」

 と彰吾は、リビングには蓮しかいないのに声を小さくした。

「俺、オーウェンは紗世のことが好きなんじゃないかと思ってるんだ。だって、色々距離が近くない?紗世も、いつかオーウェンのことを好きになっちゃうんじゃないかな。オーウェン、顔がいいし。捻くれてるけど実は優しいしさ。蓮はどう思う?」

 蓮は難しい顔をした。何か彰吾は勘違いしてるんじゃないかな?と思ったけれど、友達の妹の色恋沙汰に口を出すのも野暮なので、納得できない思いを抱えつつも、彰吾の言葉に曖昧な返事をした。


「今日は絶対に悪夢を見ると思う。眠るのが怖いよ」

 と言ったアリスを最寄駅まで送った後、「レンタルショップでDVDを返すまで付き合うよ」とオーウェンが言ったから、紗世は彼と夜道を並んで歩いた。

「今日の時点でクラスで人気が高かったのは和物ホラーなんだ。だけど文化祭のおばやけ屋敷として再現するなら、洋物ホラーの方がやり易いって思わない?お化け役も、洋物ホラーの幽霊の方が分かりやすい気がするんだけど、オーウェンはどう思う?」

「いいんじゃない。洋モノの方がきみの反応も良かったしね?」

 からかいが混じった声を聞いて、紗世はじとっとオーウェンを睨んだ。

「意地悪だね、オーウェン」

「そんな事ないさ。ほら、見てごらんよ紗世。あの建物と建物の間の暗がり。今にも映画に出てきた悪魔が現れそうじゃない?」

「ねぇ、やめて! 私、帰りもこの道を通るのに」

「一人じゃ怖いっていうのなら俺が家まで送ってあげるから大丈夫」

 ふふふっ、とオーウェンが上機嫌に笑う。その横顔を見ながら、仕方がない人だなと紗世は息をついた。

「オーウェンのクラスは文化祭、何をするの?」

「まだ揉めてる。けど、多分縁日系」

「縁日、いいね。射的とかやってみたいな」

「できるの? 全部外しそうだけど」

「もー! 今日は本当に意地悪だね?」

 頬を膨らませた紗世はふんっと顔を背けた。そして前を見てハッとした面持ちになり、突然オーウェンと距離を取った。

 オーウェンは怪訝な顔をすると足を止めて、紗世を振り返る。

「どうしたんだ?」

「あっち。同じ学校の人がいる」

 オーウェンは振り仰いで見たけれど、紗世が言っている人物を見分けられなかった。

 直前までの気安い雰囲気を取り去って、紗世が静かに言った。

「DVDは一人で返しにいくよ。遅くなっちゃったし、オーウェンはもう帰っていいよ」

 先に行こうとした紗世の手をオーウェンが黙って掴む。

 見ると、彼も先程までのからかいを含んだ表情はなくなって、真剣な面持ちで紗世を見つめ返していた。

「どうして態度が硬化するんだ」

「だって……」

 紗世とオーウェンは、付き合っているわけではない。それなのに恋人のように接するのは……。俯いた紗世を見つめて、オーウェンが口を開いた。

「俺が勝手な事を言っているっていうのは、自覚している」

 と、彼は言う。

「だけど……きみに距離を取られるのは、堪える」

 オーウェンが歩き出した。紗世と手を繋いだまま。

 触れ合ったところから熱が伝わってくる。すぐに離れてしまいそうで、儚くて、でも確かに今はお互いの体温を感じている。紗世もオーウェンを離したくなかった。だから自分より大きくて骨ばったその手を、紗世はギュッと握り返した。

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きみは運命の人じゃない 藍あいな @aiaina08

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