二話
クッションを抱きしめたままぼんやりとテレビを見つめる紗世の横顔を見た彰吾は「また何かあったな」と思った。だから携帯のゲーム画面を閉じて彼女の傍に寄る。
「紗世、そんな顔をしていたら母さんにどうしたの? って聞かれるぞ。それで紗世は隠し事が下手だから全部喋ってしまう。俺はそう思うよ」
彰吾を見返して、紗世はサァと顔色を無くした。
「お、お母さんには何も聞かれたくない」
「だよね。父さんが転勤になるかならないかでピリピリしてるし、穏便にすまそう。俺の部屋に来る?」
「行くっ」
そうして紗世と彰吾は夕食の支度をする母親の後ろをこそこそ通って、2階へ上がった。
「それで、何があったの」
「……お兄ちゃん。あのね」
「ん?」
「長くなるんだけど」
「いいよ」
「重い話だと思う」
「全然オッケー」
彰吾が片腕でガッツポーズをしてくれたから、紗世はポツポツと言葉を重ねた。
......今後彰吾とオーウェンが関わり合いをもつことはきっとこないだろうし、オーウェンはティターニアのことは秘密のことではない、と言っていた。
紗世が1人で抱えるには少し辛い話でもあったから、双子の彰吾にだけには喋っちゃうね、ごめんねオーウェン。と心の中で謝りながら、事の顛末を話した。
と、思っていたのだが、実は紗世はαやΩや運命の番のことを説明することを忘れていた。それでも、オーウェンとティターニアの話を聞いた彰吾はしばらくスペースキャットみたいな顔をして固まってしまい、たっぷり一分間沈黙を続けてから口を開いた。
「......えっと、それは現実の話? ドラマの話じゃなくて?」
「現実だよ」
「そっか......、ごめん、それはちょっと、どうアドバイスしてあげたらいいかわからない」
「うん......」
「うーん」と唸って彰吾は片腕を組み、右手を顎に当てた。
「何も言ってやれないけどさ......俺、紗世と一緒に買い物に出かけて、気晴らしに付き合うくらいはできるよ」
「え?」
「亡くなったその人のことを考えても、仕方がないことだよ。だって俺たちはその女の子のことを知らないんだもん。紗世は今まで通り友人として接してくれって言われたんだろ?じゃあ、それでいいんじゃん。紗世がすべき事は、その人に今、笑って貰うことなんじゃないのかな?それなのに紗世が暗い顔をしてどうするんだよ」
紗世は目から鱗が落ちる心地がした。
「そっか......、そう、だね?」
「まぁ最近紗世はテスト勉強とか、ボランティア募集の面接対策とかで忙しかったんだし、気分転換でもしたらどうかな? 母さんの誕生日がもうすぐだし、明日一緒にプレゼントを買いに出かけない?」
「行く。行きたい! ......あのね、ありがとう。お兄ちゃんの言う通りだと思う」
彰吾が双子で本当に良かった、と紗世は心の底から思った。彼も彼女の表情が少しは明るくなったのを見て安心したように微笑む。
ちょうどその時階下から「ご飯よー!」と母親の声がかかったので、2人は顔を見合わせて立ち上がり、「はーい!」と応えながら部屋を出た。
翌日、紗世と彰吾はモール内のスキンケアショップにきていた。丸缶に入った保湿クリームの試供品を手に取った彼の横で、紗世はハンドクリームを選んでいた。
「お兄ちゃんはさ」と紗世は声をかける。
「テスト対策、大丈夫? そっちの学校も月曜日から期末テストが始まるよね?」
「大丈夫か大丈夫じゃないかを聞かれたら、大丈夫ではないよね。紗世はいいよなぁ、今回余裕がありそうで」
「えへっ、うん。実は今回結構自信がある」
「そこまで言うならよっぽどなんだね。......あれ? でもボランティア募集の面接も直近であるんじゃなかった?」
「そう、金曜日にあるの。でも大丈夫、そっちの対策もちゃんとしてるから」
「......俺の妹って出来る子だったんだ、いつの間にそんな風になっちゃったの? お兄ちゃん、置いてかれて少し寂しい......あ、母さんこの匂い好きそう」
「どれ?」
「ん」
彰吾は保湿クリームを塗った自身の手の甲を紗世に向けた。紗世はそちらに身を寄せて匂いを嗅いだ......のだけれど、ラベンダーのような花の香りがするなと思った次の瞬間には、清々しい木々の香りと甘い果実の香りに上書きされていった。同時に、うなじのあたりがチリチリと痺れる。
ちょっとだけ、威圧されている?
紗世はある青年のことを頭の中で思い浮かべる。そして後ろを振り返った。果たしてそこにはオーウェンと、そしてアリスがいた。
「オーウェン、アリス!」
彰吾も紗世と同様に2人を見て、たじろいだ。オーウェンたちの見目の良さに度肝を抜かれたのだ。半歩後ろに下がった彼は紗世の服の裾を掴むと戦々恐々と尋ねた。
「だ、誰? モデル? YouTuber?」
「学校の友達だよ」
「えぇっ、同い年? 嘘でしょ」
オーウェンが威圧している対象は彰吾だと思う。紗世は困惑しつつも兄を庇うようにして立った。すると、こちらも戸惑っている様子のアリスが尋ねてきた。
「こ、こんにちは紗世。こんなところで会えてビックリだね。それからえーっと、その......、紗世と一緒にいる人って、もしかして紗世の彼氏?」
「えっ? ううん」
目を見開いて慌てて頭を振る。彼氏かなんて、そんなことを聞かれたのは初めてだった。
「お兄ちゃんだよ。あ、そういえば結局お兄ちゃんの写真をアリス達には見せてなかったね」
「えーっと。初めまして、兄の彰吾で~す。妹がお世話になってます。へへっ」
彰吾はめちゃくちゃ照れていた。彼はβだから、オーウェンから受ける威圧をただのイケメン&美少女が放つオーラだと勘違いしているらしかった。
気がつけばオーウェンの圧もなくなっている。
2人がショップの中へ入ってきたから、オーウェンの事を気にしつつも紗世は兄に2人のことを紹介した。
「同じクラスのオーウェンと、アリスだよ。テスト勉強を一緒にしてるっていう友達が、この2人なの」
「そうなんだ、賢そうだもんね」
「2人とも理系でね、数学と理科を分かりやすく教えてくれるんだよ。だからいつも助かってる」
「いえいえ私こそ、紗世が世界史を解説してくれたお陰で今回のテストではいい点が採れそうです」
「ね、皆いい点採れたらいいよね」
紗世はそう言ってハンドクリームを棚に戻した。
「私たちはお母さんの誕生日プレゼントを買いに来たんだけど......、オーウェンたちも買い物?」
「そう。日用品を買いに。アリスは付き添い」
そう言って、オーウェンはじっと紗世を見た。彼女の様子を伺うようにしてから、彼は言った。
「......具合は悪くなってないかい?」
「え?」
「少し威圧してしまった、という自覚はある。すまなかったね。当てられて気分が悪くなったりしていない?」
オーウェンは紗世の顔の横に落ちた髪を撫でて、耳にかけてくれた。最近彼からの接触が増えている気がする。紗世は顔を赤らめた。
「大丈夫、だよ、.....だけどどうしたの?オーウェンが感情を揺らすなんて珍しいね」
「さぁ」
「......私たち、オーウェンの気に障ることをした?」
「それは違う」
「でも.....」
オーウェンは確かに彰吾に敵意を向けていた。何故なのかと聞きたいのに、オーウェンの指が未だ紗世の髪を弄んだままでいるから、彼女は恥ずかしくなって次の言葉が出てこなくなった。
彰吾は、顔を赤らめている今の紗世を見てどう思うだろう。彼女は戦々恐々とした面持ちで兄の方を振り返った。しかし当の彰吾も、美少女のアリスを前にしたために顔を真っ赤にさせて商品棚と向き合っていた。
「りょ、両親に贈るプレゼントは、毎年一緒に選んでるんだ」
「兄妹で仲がいいんですね。私は1人っ子だから、憧れます」
「そうなんだ。逆に俺は1人っ子に憧れる時があるよ。......あ、じゃあ一緒にいた人は彼氏?」
「いとこです! オーウェンが彼氏だなんて、本気で絶対に嫌です」
「いとこなの? すごい。一族全員美形そう......」
彰吾が鈍すぎて、紗世は気が抜けた。
ちょうどオーウェンの指も離れていく。紗世はちょっとホッとしながらオーウェンを見上げた。
どうして威圧したのか云々の話は、ひとまず横に置いておくしかない。オーウェンの様子を見るに、これ以上詳しく尋ねても多分はぐらかされてしまう。きっと、虫の居所でも悪かったのだろう。
紗世は昨日の彰吾の言葉を思い出していた。オーウェンが今までの通り〝友人〟の関係を望んでいるのなら、紗世はその通りに振る舞えばいいのだ。一番大切なことはオーウェンが心安い気持ちでいてくれることなんだから。
紗世は前髪を少し手で整えて、それから改めてオーウェンに向き直った。
「オーウェンたちは、買いたいものは全部買えた?」
「あぁ」
「じゃあ私たちがプレゼントを買い終わったら、良かったら一緒にお昼ご飯を食べに行かない?」
オーウェンは少し黙って、それから目元を緩めた。
「あぁ、そうしよう」
彼の表情の変化を見て、「あ。オーウェンちょっと嬉しそうだな」と紗世は感じた。だから彼女も嬉しくなってより笑顔を深める。
「何を買うか決めるね。だからちょっと待ってね」
「急がなくていい。大切なものだし、ゆっくり考えなよ」
「ありがとう」
省吾とアリスにもお昼ご飯を食べに行こう、と言ったら快諾してくれた。だからその後は紗世と彰吾の母親の誕生日プレゼントについて4人であれでもない、これでもない、と話し合った。
オーウェンとアリスは初対面の相手には一線を引いて距離を取るタイプであったが、彰吾はかなり社交的な青年で、尚且つ人の懐に入り込む不思議な魅力があったから、店を出て、近くのカフェに入る頃にはだいぶん打ち解けており、昼食を食べ終わる頃には俺たちは最初から友達でした、みたいな雰囲気になっていた。
さて、カフェの真向かいにあるバス・タクシーのロータリーには献血バスが停まっていた。それを見た紗世は彰吾と顔を見合わせて、それからオーウェンとアリスに向き直った。
「私たち、献血をして行こうと思う。月曜日からテストも始まるし、オーウェンたちももう帰るよね? 今日はここでお別れする?」
「献血?」
オーウェンとアリスがきょとんとしたので、紗世は言葉を続けた。
「献血バスを見つけたら私、献血をすることに決めてるんだ」
「それまたどうして?」
「恩返し、かな。私たちが生まれたとき、お母さんは大量に出血しちゃったらしくて輸血で助かったんだ。だからできるだけ献血をしなさいって昔から言われてきたし、私たちもそうしようって決めてるの」
ね、と紗世が水を向けると彰吾もうんうんと頷く。
オーウェンは嘆息した。
「なるほどね。きみのお人好しな性格はそうやって形成されていったってわけか」
彰吾がからりと笑った。
「オーウェンって王子様みたいな見た目をしてるけど結構毒舌家だよね。......いや、皮肉屋?」
「......」
「あはは、せっかく猫被りしてたのにバレてるね、オーウェン。あと彰吾は惜しいよ。この王様は皮肉屋どころか性格が捻くれてて、......いたたた!」
「余計な事ばっかり言うのはこの口かなぁアリス」
「ほら見て ?女の子のほっぺたを容赦なく引っ張るんだよ、ひどい!」
アリスはオーウェンの手をはたき落とすと紗世のところへ逃げていった。紗世は彼女を保護するように抱きすくめる。
オーウェンはため息をついて藤丸を見た。
「献血にかかる時間ってどのくらい?」
「うーん、20分くらいかな」
「じゃあ俺とアリスも献血をするよ」
「えっ?」
紗世とアリスが同時に声をあげたけれど、オーウェンはそれに構わず「献血ってした事ないんだけど、やっぱり痛むのかい?」「んー、その時その時で違うけど、あんまり痛くないよ」と彰吾と会話しながら献血バスへ向かっていった。
「オーウェン、はじめての献血どうだった?」
献血ののち、待機室で紗世がそう尋ねるとオーウェンは肩をすくめた。
「両腕に注射をされたことに、驚いたかな」
献血では血液濃度の測定と採血のために、両腕を差し出さなければならない。片腕だけでいいと思っていたので、正直なところオーウェンは2回注射をされてびっくりしていた。
紗世は「先に説明しておけば良かったね」とちょっと笑う。穏やかな少女を、オーウェンは見返した。
「出産時に輸血が必要だったということは、きみの母親はよほど危険な状態だったのかな」
紗世はうん、と頷く。
「今は双子だったら帝王切開が勧められるらしいんだけど、お母さんの時は自然分娩が普通だったらしくてね......、お母さん、出血が止まらないタイプだったんだって。だからお兄ちゃんを産んだ時にすでに出血多量で、輸血をしないと、その時お腹にいた私も、お母さん自身も危なかったって」
「そうか。輸血のおかげできみも助かったんだね」
「うん」
と頷いてから紗世はハッとした。
命が助かる、助からないの話はオーウェンにとって良くなかったんじゃないか。その言葉は、どうしてもティターニアのことを連想させる。
背中にひやりとしたものを感じながらオーウェンを見やると、彼は外の景色を見ていた。飲み物を一口飲んで、オーウェンは尋ねる。
「今日俺たちから採血された血は、いつか誰かの血潮となるんだよね。......紗世はさ、その誰かのものになった血液の中に俺たちは生き続けると思うかい?」
「どういうこと?」
「たとえば俺が死んでも、俺が渡した血の中に、俺は生き続けると思う?」
紗世は息を止めた。誰かに殴られたかと思うほどの衝撃を覚えた。思い出されるのは、雪の降る日にたった独りで佇む、オーウェンの姿だった。
紗世は震えながらオーウェンと向き合った。
「......死んじゃうの、オーウェン?」
一瞬にして血の気を失った紗世を見返して、オーウェンは急くように言った。
「ごめん。俺は死なない。そう約束しているからね。例えが良くなかったな、悪かったよ」
約束。オーウェンがその約束を、誰と交わしたかなんて明白だった。先程とは違う意味で紗世の心がずん、と重くなった。
オーウェンと彼の運命の番との間に紗世が立ち入る隙なんてないように思われた。でもそれは当たり前のことだ。
オーウェンにとって紗世が特別になれる日なんて来ない。
頭の奥が痺れたように痛んだけれど、紗世は気づかないふりをした。その気持ちから目を逸らすために口を開く。
「生き続けると思うよ」
落ち着くために、手元の飲み物を一口飲んだ。
「その人がいなくなっても、その人の中に生き続けることはできるんじゃないかな」
「そうか。......ありがとう、答えてくれて」
その時の紗世は、オーウェンが望んでいるだろう言葉を言った。だから本当のところは彼が何故その質問をしてきたのかを深くは考えていなかったし、わざと考えないようにしていた。
間もなく彰吾とアリスも献血を終えて合流してきた。月曜日からは期末テストが始まる。だからその日はすぐにお開きとなった。
帰り道、電車に揺られながら彰吾は言う。
「紗世の友達、良い人たちだったね」
「うん、そうでしょ」
「俺、安心しちゃったよ」
「?」
「紗世はまだ好きな人のことを引きずってるだろ? でも学校にあんな友達がいたら大丈夫だなって」
「......うん?」
「オーウェンとかさ、本物の王子様みたいじゃない? ちょっと性格に癖ありそうだけど。でも紗世に優しかったし、紗世もオーウェンのことを好きになっちゃったりして」
「んんんん?」
好きになっちゃう以前に、紗世が失恋した相手こそオーウェンなのだけど。
紗世は目を丸くして兄を見返した。けれど彰吾は純度百パーセントの優しい微笑みで「どうかした?」と首を傾げた。
そういえば紗世は、耐寒登山の日に泣いて帰ったときも、ティターニアの話をした際も、彼らの名前を出さなかった。だけどそれでも、彰吾は鈍すぎない?
(ううん。でもこれはもしかして、私がオーウェンの友人として、ちゃんと接することができてるってこと? だからお兄ちゃんは気づかなかったのかも)
彰吾と同様に紗世も大概恋愛方面の事柄は苦手だった。それに、わざと鈍感になろうとしているきらいもある。だから紗世は下手くそな笑顔を浮かべた。
「えーっと、えへへ、好きになっちゃう、かも」
「いいじゃん! 俺、応援するから」
「うん、えっと、ありがとう......」
紗世は彰吾から視線を逸らした。
その時ふいに「たとえば俺が死んでも、俺が渡した血の中に、俺は生き続けると思う?」と言ったオーウェンを思い出した。あれはとても不穏な感じがした。
そして、紗世がその言葉の本当の意味を知ることになるのは、もう少し先の話になる。
定期テスト1日目の朝。
オーウェンと勝負をしているんだ、とアリスが言った。
「数学二教科と理科二教科、それから副教科を含む全教科の合計点がどっちが高いかを競うんだ」
オーウェンは地理の教科書を片手に持って麗しく微笑んだ。
「まぁ、ボロい勝負だよね。アリスが負け面を引っさげて俺にメロンオレを進呈する日が待ち遠しいよ」
「そっくりそのままその言葉をオーウェンに返すから。あー、楽しみだなぁ。アリス様、本日の紅茶で御座いますって言って跪くオーウェンの姿を見るの」
「跪く約束なんてしたっけ?」
どうやらこの勝負、点数が低かった方が1週間飲み物を奢ることになるらしい。ただ、お遊びにしては2人の目は真剣(マジ)だったし、場外ですでに煽り合戦が始まっていた。
しかしながら弁舌でオーウェンに勝てるはずがない。言い負かされたアリスが悔しそうに地団駄を踏んだ。
「オーウェン、本っ当に腹立つなぁ! ......そうだ、紗世も勝負に参加しようよ。文系科目でオーウェンと点数を競うの」
紗世は日本史の教科書から顔をあげた。
「え? だけど、オーウェンは理系だよ? 文系科目で勝負するのはダメじゃないかな」
「俺は別に構わないよ。文系科目なんて、所詮暗記ものだし」
オーウェンの発言に紗世はちょっとカチンときた。確かに文系のテストの大半は暗記ものだけども!
「……勝負する。悪いけど私、オーウェンが理系でも手を抜かないよ」
「もちろん。全力でやってもらわないと面白くない。負けた方が、3日間ご飯奢りね」
「……アリスとの勝負より景品が豪華じゃないかな?」
「当たり前だろう? きみの得意分野で競うんだから、それなりに旨みがないと。……あ、現代文のテストは勝負の対象外ね」
「暗記科目じゃないから逃げた」
「オーウェン、さすが汚い」
敵の敵は味方。紗世とアリスが一緒になってコソコソ話すと、オーウェンが美麗な顔を悲しげに歪ませた。
「ああ、僕はこれでも紗世のためを思って言っているのに。本当に残念だよ。文系科目といえば英語があるよね。現代文と英語は勝負をしないでおこうと思ったけれど、英語も勝負科目に入れようかな」
「私は日本人だし、オーウェンはイギリス人だもんね。うん!現代文と英語のテストは対象外にしよっか」
「古典で叩きのめしちゃえ! 頑張れ紗世!」
と、いうわけで3人の闘志に火がついた。3人とも根が真面目なので副教科さえ手を抜かない。
チャイムが鳴った。
テスト用紙を配布するために、先生が教科書類を仕舞うよう指示を出すギリギリまで全員が教科書と睨めっこをした。初日の試験科目は地理/日本史、情報、数学IIだ。
勢いでオーウェンと勝負をすることになったけれど、実のところ紗世は、文系分野でオーウェンが彼女と競うことは不利だろうな、と同情していた。けれど試験終了後、3人で集まって自己採点をした結果、オーウェンは3教科ともかなりの高得点を叩き出したことが分かった。
紗世は戦慄した。これは文系として、古典や社会科をオーウェンに教えた身として、……17年間日本人として生きてきた者として、絶対に負けてはいけない勝負ではないか?
ゆえに帰宅後、夕食を食べ終わるや否や紗世は家族にこう宣言した。
「ごちそう様でした。私、さっそくテスト勉強してくるね!」
テレビを見ながらダラダラとエビフライを食べていた彰吾がびっくりした顔で振り返る。
「えっ。紗世、もう勉強するの?」
「オーウェンたちとどっちがテストで点数を採れるか勝負をしてるの。負けられない戦いがここにあるんだ!」
「わー、凄いな。俺、毎回友達とどっちが点数が低いか勝負をしてるのに」
彰吾は母親に怒られていた。
紗世は猛然と二階へ上がり、さっそく勉強に取りかかった。
そして夜も更けて、勉強に一区切りついた彼女はオーウェンやアリスと連絡を取り合ってみる。彼らもまだ勉強をしているらしい。
私ももう一踏ん張り頑張ろう、と紗世が姿勢を正した時、ドアをノックされた。
彰吾だった。彼は教科書類を持って紗世の部屋にやってきた。
「一緒に勉強していい? やる気がある人と勉強したら集中できる気がするんだよね。……それともし俺が寝てたら、起こして」
へへっ、と彰吾が笑う。憎めないところが彼の人徳だった。紗世も一緒に取り組める相手がいるのは嬉しいので、2人は仲良くテスト勉強に励んだ。
テストのために意気揚々と登校した紗世はしかし、下足室で出鼻を挫かれた。下駄箱を開けると紗世の上靴が無かったのだ。昨日の下校時には、確かにそこにあったのに。
仕方なく紗世は、現在使われていない予備の下駄箱を順々に調べていった。すると一番隅の、最下段に紗世の上靴が隠されていた。
最近、こういった小さな嫌がらせを受けることが多い。そして彼女は、何故それを自分がされるのかなんとなく察しがついていた。
「紗世、おはよう」
後ろから声をかけられて、上靴を持ち上げていた紗世はビクッとなった。登校してきたオーウェンがそこにいたのだ。
上靴の中に何も入っていない事をすばやく確認した紗世は(例えば画鋲とか)、それを履いてオーウェンに笑いかけた。
「おはよう、オーウェン」
紗世の顔をじぃ、とオーウェンが見つめる。
「えっと……どうしたの?」
「それは俺のセリフだ。何かあった?」
紗世は少し黙った。
紗世が嫌がらせを受ける理由は、きっとオーウェンに起因する。
今でもオーウェンは立っているだけで登校してくる生徒たちの視線を集めていた。以前ビリーが言ったように、彼はいつの間にかこの学校の王子様になっていたのだ。
なのに傍にいるのが紗世みたいな凡庸なΩの娘だから、それが嫌だ、と思う人がいるのだと思う。
……だけど。オーウェンや他の人に言われずとも、己が役不足である事は紗世が一番理解している。
彼女は前髪を手で整えて、また笑ってみせた。
「ちょっと頭が痛い、かも? 昨日の夜、勉強のために少し夜更かししちゃったの」
「はあ?何時に寝たわけ?」
「1時過ぎには布団に入ったと思うんだけど」
「やめろよ。きみ、いつもは寝るのが早いだろう。なのに夜遅いって……」
「だってテストの点数でオーウェンに勝ちたいんだもん」
「……。勝ちたいんだもん、とか。きみさぁ」
オーウェンが紗世から視線を逸らして、己の下駄箱を開けた。
「何?」
「……いやー、ぶりっ子だなあーって」
「ぶ、ぶりっ子じゃないよっ」
「じゃあ可愛こぶってる」
「違うもん!」
「あはははっ」
笑いながら、オーウェンは上履きに履き替えた。それからややあって再び紗世を振り返るとニヤッと意地悪く笑った。
「テストで俺に勝ちたいんだ?」
「……うん」
「どうして?」
「だって……オーウェンはイギリス人で、私は日本人でしょ。それなのに日本語のテストで負けちゃったら……、私は今後、勝負事でオーウェンに勝てない気がする」
「ふぅん」
オーウェンの機嫌は、今すぐにでも鼻唄を歌い出しそうなほど良かった。
「俄然やる気が湧いてきたなァ。きみの悔しがる顔を見るの、楽しみだ」
圧倒的に紗世が有利な勝負のはずなのに、オーウェンを見ていると不安になってきた。これがαの放つオーラというものなのだろうか?
「オーウェンの意地悪……。あのね、手加減してくれても、いいよ?」
紗世を見返して、彼はふふっ、と王子様のように笑い、言った。
「仮に明日世界が白紙化すると言われても、絶対に手加減なんてするもんか」
上機嫌な様子でオーウェンは歩いて行く。一瞬呆気にとられていた紗世は、その後胸がドキドキして、ふわふわして、たまらない気持ちになりながらも、彼の背を追いかけた。
試験二日目に実施された科目は英語、物理/生物、芸術選択だった。それらを無事終えて、彼女たちはオーウェンの家へ場所を移した。
いつものように勉強を始める前に、分かる範囲で自己採点をしてみる。
紗世の英語は今まで受けたテストの中でも高得点が出せそうであったが、(当然ながら)オーウェンとアリスの方が点数が高そうだ(英語を勝負の対象科目から退けていて本当に良かった)。
オーウェンとアリスの物理の点数は拮抗しているらしく、お互いの回答を見せ合っては「絶対きみのここの回答は間違っている」「ううん、オーウェンが違う」「いや、教科書を見てみろ。ほら、俺の回答が正解だ!」「でもオーウェンだってここは間違ってるからね!」と叫びあっていた。
その間紗世は古典の単語帳に改めて向き合っている。明日、いよいよ古典のテストがある。オーウェンには絶対に勝ちたい教科だ。
古典のテスト範囲を一通り見返した紗世は次に、同じく明日試験を控えている世界史の勉強に取り掛かろうとした。世界史はいつも最後に一問だけ記述式問題が出題される。その問題はなんと7点も配点されているから、絶対に間違えたくない。
そうして3人で黙って勉強をしていると、ふいにオーウェンの携帯電話が振動した。彼は古典の教科書を静かに置いて、その画面を見ると、ややあって立ち上がった。
「少し電話してくる」
何故かその時、紗世は電話の内容がティターニアに関わるものだ、と直感的に感じた。その瞬間心臓がドッと大きな音を立てて、静かになってくれない。
何の根拠もないのに、何故紗世はそう思ったのだろうか? ……分からない。それに、ティターニアに関連する事って何だろう。
だってもう彼女は亡くなっているのに。
そこまで考えて、紗世は背筋が冷たくなった。「オーウェンの運命の番」を「過去のもの」にしたがっている自分に気がついてしまったからだ。
それは、……それはあまりにも身勝手ではないか?
世界史の教科書を読み込もうとするのに、目が滑って頭に入ってこない。何度試してもダメなので彼女は諦めてそれを閉じた。代わりに化学の問題集を開いて、計算問題を解き始める。
無心になるために何度もテスト範囲内の問題を解く。するとある時、視界の端に手のひらが現れて、ひらひらとそれが揺れた。
紗世は顔を上げる。いつの間にかオーウェンが戻ってきていて、テーブルに頬杖をついてこちらを見ていた。
「もう帰る時間だ。19時前だよ」
「えっ……?」
部屋の壁時計を見る。確かにその時刻を指していた。アリスも帰る準備を始めている。
「凄い集中力だったね、紗世」
「……うん。自分でも少しびっくりしてる」
オーウェンは紗世の手元のものを見た。
「ふーん。古典や世界史を勉強してたんじゃないんだ」
「え? うん……」
「俺に勝つために文系科目を頑張るんじゃなかったんだ?」
オーウェンの拗ねたような声音を聞いて、紗世は詰めていた息を吐いた。思わず笑ってしまう。
「文系科目の勉強は家でしようと思ってるんだよ」
「そう?」
「うん。それに私、古典はオーウェンに勝てると思う」
オーウェンは紗世を見た。それからニヤリ、といつもの笑みを口元に浮かべる。
「いいね。そう来なくっちゃ面白くない」
その後は普段通りオーウェンとアリスが紗世の最寄りのバス停まで送ってくれた。
家に帰った後、紗世は夕食を食べるとすぐに2階へ上がって、世界史のテスト範囲を見返した。ややあって彰吾が部屋を訪ねてくる。
「紗世ー。今日も一緒に勉強しよー」
紗世は椅子に座ったまま兄を振り返った。
「うん。だけど私、今から面接の練習をするつもりなんだ。声を出すけど、お兄ちゃんは大丈夫?」
「面接の練習? ……あぁ、ボランティア活動の!」
「そうなの。明日が本番なんだ」
「頑張れ、紗世! それと俺は、音楽聴きながら勉強してるから、声出されても全然平気。逆に紗世こそ俺がいるの迷惑じゃない?」
「迷惑じゃないよ」
「やった! じゃ、ここで勉強しよ」
彰吾が卓上机に授業プリントを広げ始めた。
それを見守ったあと、紗世は志望理由などが書かれた志願用紙のコピーを机に置いた。すらすらとその内容を口にできるように練習をする。
するとオーウェンからLINEがきた。「今日は夜更かしするなよ」という短い文章が送られていた。
「……」
たったそれだけなのに、思考が乱されて仕方がない。
どう返信すればいいのだろうと紗世は顔を赤くして、……今日、電話をするために部屋を出て行ったオーウェンの背中を思い出してしまった。舞い上がりかけた心臓が少しだけ冷たくなる。
電話の相手は誰だったのだろう。結局紗世は、オーウェンに聞くことはできなかった。
古典のテストでは、テストが終了する20分前には、紗世は全て問題を解き終わっていた。つまりそれぐらいテストが簡単に感じられた。それ以外の科目のテストもこなし、HRも終わって、紗世は早々に鞄を背負った。
お昼ご飯を一緒に食べようと誘いに来たアリスが、オーウェンの横で驚いた顔をする。
「紗世、今日はお昼も食べないで行っちゃうの?」
「ごめんね。担任の先生が今から面接の練習をしてくれるっていうから。今日はそっちに行ってもいい?」
「全然いいよ! でもそっかぁ。紗世とオーウェン、どっちの方が古典の点数が高そうか気になってたんだけどな」
オーウェンは肩をすくめた。
「まぁ自己採点なんて不確かなものだし、そもそも配点の具合も分からないからね。別にいいんじゃない、どうせ来週には勝敗が着くんだし」
そう言ってからオーウェンは紗世に微笑んだ。
「行ってらっしゃい。がんばっておいでよ」
「応援してるね、紗世!」
「2人とも、ありがとう。行ってきます!」
オーウェンとアリスに手を振って紗世は教室を出た。
面接の練習に付き合ってくれた担任の先生からは「よく出来ている」とお墨付きをもらった。紗世も、今回はしっかりと準備ができたと自負していた。
だから本番の面接で、パイプ椅子に座って3人の面接官を前にしたときも紗世はしっかりと顔を上げていられたし、「国際協力に興味をもったきっかけは何ですか?」と聞かれた時も、堂々とこう答えることができた。
「私が国際協力に興味を持ったきっかけは中学生の時です。父がアメリカに単身赴任をしたとき、アメリカのボランティア活動に参加する機会がありました。それには色んな人種の人が参加していて、たくさんの信念がそこにありました。私はその時英語が分からなかったので、一緒にいた兄と見ていることしかできませんでした。けれどその時、いつか私もそこにいた人たちのように、いろんな国の人と協力し合って、一つの問題に取り組み、解決できるような人になりたいと思いましたし、国際協力について興味を持つことができました」
面接官の1人が紗世の志願書を手に取って頷いた。
「良い機会を持たれたんですね。それがあったから、今の高校に進学されたんですか?」
「はい。私が通っている高校は留学生を多く受け入れています。私のクラスにも留学生の子たちが何人かいて、その子達からは、毎日沢山いい刺激を受けています。充実した学生生活を送れていると思っています」
「将来はどんな仕事をしたいですか?」
「復興支援の活動をしたいです。世界にはまだ生命の危機にさらされて、辛い思いをしている人が沢山います。私はそれを悲しく思います。だからこそ学校を作ったり、水や道路の設備を整える手助けをして、その人たちと一緒に笑い合える未来を私はつくっていきたいと思います」
ふと、机の端に座っていた女性の面接官が顔を上げた。
「志願書を拝見しましたが……あなたの第二の性はΩなんですね?」
突然質問の趣向が変わった。
紗世は面くらい、少しドギマギしつつも頷いた。
「えっと……はい。Ωです」
「復興支援が必要な国は、Ωの貴方にとって危険な所も多いと思いますが、その辺りをどう思っていますか?」
「え? えっと……?危険な所……?」
「言葉の通りの意味です」
「あの……、そこがどんな所であっても、私自身がいろいろと気をつけていれば、大丈夫だと思い、ます」
「いろいろ気をつけるとは?」
「よ、抑制剤を飲んだりして」
「抑制剤ね……。貴方、もうヒートは迎えていらっしゃるんですか?」
「えっ?」
紗世は羞恥で顔を赤くした。それはとても個人的な事柄だが、答えなくちゃいけない質問だろうか? ややパニックになった紗世は、頭の中が散らかったまま答えた。
「まだ、です、……薬で、抑えているので」
「それでは、初めてのヒートがいつ来てもおかしくない状態なんですね。今回貴方が志望した活動は早朝から夕方まで動いてもらうことになりますが、危険ではないでしょうか。体調が崩れるかもしれないのに、貴方はこちらに応募してきたんですか?」
「こ、高校でも、朝から夜まで活動しなくちゃいけない学校行事があります。その時大丈夫だったから、だから……」
「慣れた学校行事とこの活動は違います。それをΩである貴方はちゃんと理解していますか?初めてのヒートが来ないと確証することができますか?」
今までもΩというだけで揶揄われたり、嫌な思いをしたことはあった。だけど、こんな風にあからさまに責め立てられたことが紗世にはなかった。
皆から向けられる視線を感じて、背中は汗をかいて冷えているのに、羞恥で顔に血が集まって熱い。思わず俯いてしまってから、紗世は顔を上げられなくなった。
「か、確証は……でき、ない、です」
「ご両親は貴方がこの活動をすることに何と言っていますか?」
「特に、何も……私のことは、いつも応援してくれていて」
「応援と言ってもですね……、まぁ良いでしょう。ただ貴方は、自身の性のこともちゃんと扱えないのに、他人の、それも他国の人たちに支援の手を差し伸べられると、本気で思っているんですか?」
「それは、……えっと」
しどろもどろの返答になっている、これじゃあダメだ。
そう思うのに言葉が喉につまって、紗世はさらに何も言えなくなってしまった。
みんなの視線が痛い。
恥ずかしい。
あんなに練習したのに。
紗世は泣き出さないようにするのが精一杯だった。
突き刺すような面接官のまなざしで分かる。きっとこの人はΩが嫌いなんだ。でも、でも私だって、と紗世は思った。
私だって昔から、Ωの自分のことなんか大嫌いだ……!
その後は散々だった。紗世はすっかり萎縮してしまって、用意していた返答も頭の中から吹き飛んでしまい、それでさらにパニックになった。
他の学生たちから向けられる視線も痛い。なるべく誰とも目を合わせないように、懸命に下を向いて耐えていた紗世は、面接が終わり、帰宅許可が出た瞬間逃げるようにその会場を後にした。そのくせ、自宅へ続く帰路を歩むペースは遅い。
両親や彰吾にどんな顔を向ければいいか分からなかった。
きっと心配をかけちゃう、と紗世はまず思った。紗世が落ち込んでいる様子を見れば、絶対に家族の皆は何があったのかを聞いてくれる。そして先程紗世がされた仕打ちを知れば悲しむだろう。
両親や彰吾を悲しませたくなかった。彼らを悲しませてしまう自分が情けなかった。
紗世は俯いて、自分の靴先を見つめた。
親戚の中でも、性別がΩなのは紗世しかいない。だから父親と母親が紗世をΩに産んでしまって申し訳ないと思っていることを、実は紗世は知っている。紗世も言ったことはないけれど、Ωに生まれてきてしまってごめんなさい、と両親に思っている。
ゆっくりゆっくり歩いたけれど、とうとう紗世は自宅に着いてしまった。灯りがともった自分の家を見上げる。
紗世は嘘が下手だ。だから、今日のことを隠そうとしてもきっと上手くいかないだろう。それなら最初から面接で何があったかを正直に話すべきだろうか?
……ううん。やっぱり本当のことは言いたくない。心配をかけたくない。Ωに産んじゃってごめんねって言われたくない。……両親や彰吾に幻滅されたくない。
ドアの前で深呼吸を繰り返した紗世は、やがてぎゅっと手を握った。それから何とか気持ちを落ち着かせて、意を決して玄関の扉を開き、家の中へ入った。
その後彼女は、両親と彰吾にほんのちょっとの本当と嘘を混ぜることにした。「面接はどうだった?」と彰吾に聞かれたとき、彼女はこう応えた。
「上手くいかなかった。ちゃんと準備したつもりだったけど、難しい質問をされた時に言葉に詰まって、パニックになっちゃったの。考えてたことも全部飛んじゃって、泣きそうだった。すごく恥ずかしかった」
彰吾は眉を下げて、共感するように頷いてくれた。
「恥ずかしいと思う気持ち、分かる気がするよ。俺はまだ面接とかしたことないけど研究発表とか嫌いだもん。紗世は偉いよ。大丈夫?」
「……。ちょっとだけ、落ち込んでるかも」
「そうだよね。俺、後でコンビニ行ってアイスでも買ってくるよ。何食べたい?」
「……お兄ちゃんと買いに行きたい。私も一緒に行ってもいい?」
「もちろんだよ! 父さんと母さんの分も買おうよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「うん」
紗世が気落ちしているのが分かっているからか、皆はそれ以上深くは聞かないでくれた。それにホッとしつつ、紗世は取り繕った態度のまま過ごした。兄とコンビニでアイスを買ってそれを食べたのち、自室に戻ってテスト勉強をする。後は嫌なことを思い出す前に、早めに寝た。
昨日の面接のことを引きずらないように努めたから、その甲斐あって最終日のテスト科目もいい出来で終われたと思う。
勉強からも解放されたので、早速オーウェン達と今から何をして遊ぶか、という話になった。カラオケに行く、という方向でまとまりつつある中、オーウェンが言った。
「俺はあんまりカラオケに行ったことがない」
イギリスにもカラオケボックスはあるらしい。けれどもあちらのカラオケは、パブやホールなどと併設されていることが多く、歌を歌う場合も、知らない人たちの前で歌うことが主流のようで、日本のように知り合いだけで集まって個室で熱唱する、ということは少ないという。
そしてオーウェンの話を聞くに、どうやら彼は紗世やアリスの前で歌うのは少し恥ずかしいらしく、嫌らしい(もちろん『恥ずかしい』なんて弱みになりそうなことをオーウェンが言うはずがない。しかし何重にもオブラートに包んだ言葉を解した結果、そうなった)。
恥ずかしがるオーウェン! それは、絶対に見たくないか?
紗世とアリスが目配せした。何としてでも彼をカラオケに連れて行くよう誘導しようと意思疎通を図ったとき、オーウェンが嘆息した。
「きみたちさ、分かりやすいから。カラオケに行けばいいんだろ。行くよ」
「どうしたの。素直だね、オーウェン?」
「どうせいつかは連れて行かれる。こういうことは、早めに済ませた方がいい」
流石、オーウェンは合理的だ。
ただ、紗世は下校する前に借りていた図書の本を返却する必要があった。図書室は下足室からは反対方向にあるし、急いで行ってくる、と言って紗世は本を抱えて小走りで教室を出た。
そんな彼女の後を何故だかオーウェンがついてくる。
「オーウェン、何か本を借りるの?」
「んー」
「?」
図書室につき、紗世がカウンターで本を返却している間もオーウェンは傍に立っていた。図書委員の生徒が本を受け取って奥に下がったとき、オーウェンがやっと口を開いた。
「ねぇ、きみ。昨日、何かあったろう」
オーウェンの声音は優しかったが、断定的な言い方だった。
紗世はドキッとして、空色の澄んだ瞳を見つめ返すことができずに視線を彷徨わせた。
「……私、そんなに分かりやすい、かな?」
「……」
「別段大したことじゃないの」
図書委員の生徒が戻ってきたので、紗世たちはカウンターから離れて、出口へ向かう。その間もオーウェンから視線を受けていたので、紗世は追求から逃げられないと悟った。
「昨日の面接、上手くいかなかったんだ」
「……」
「ちゃんと準備したつもりだったけど、途中で言葉が出てこなくなっちゃって。面接を受けるのは初めてじゃなかったし、慣れてたつもりだったんだけどね」
「……」
「えっと、……それだけ」
「それは嘘だ」
と、オーウェンは紗世の目を見てゆっくりと言った。
「その面接で、きみの第二の性のことを、何か言われたのか?」
放課後の校舎は、喧騒から離れて嫌に静かだった。遠くの方から学生たちの声は聞こえてくるけれど、まるでここだけが世界から隔絶されているように感じる。
キンと冷えた学校の廊下でオーウェンと相対した紗世は、目を見開いた。
「どうして……分かるの?」
「ボランティアの応募用紙を前に担任から貰った際、紗世は第二の性のことを気にしていた。……それに何故だか分かる時がある、きみの事。きみが何を考えているのか、言葉にされていないのに感じてしまうんだ」
紗世もオーウェンが言葉にしなくても、彼は嬉しそうだとか、楽しそうだとか、……寂しそうだとかが、直感的に分かることがある。感じてしまうことがある。それと同じなのだろうか?
オーウェンは続けた。
「昨日、何があったんだ。どんな言葉がきみを傷つけた? 教えてくれ」
清々しい木々の香りと、果実の甘い香りがする。それは強制力のあるものではなく、紗世を優しく包み込むものだった。
だから紗世は一度は口をつぐんだけれど、最後は話すことにした。両親や藤丸にも話せなかった、昨日のことを。
面接官に、皆の前でΩであることを確認されたこと、初めてのヒートがすでに来ているかどうかを聞かれたこと、もし初めてのヒートが来た場合、紗世に責任が持てるのかと問われたこと、両親は紗世がΩなのにこういった活動をすることに何も思わないのかと聞かれたこと、自分の性さえちゃんと扱えないのだから、他者のために尽くすことはできないと、婉曲的に言われてしまったことを。
オーウェンは紗世を急かさず聞き役に徹してくれていたが、最後、彼女が「Ωである自分が恥ずかしくて、情けなくて、何も言えなくなってしまった」と言ったとき、彼の纏うフェロモンが荒く乱れた。
紗世が驚いて顔を上げると、いつもは穏やかな彼の瞳が激情で揺れているのが見えた。
「お、オーウェン……?」
「きみが昨日面接を受けたという、活動団体の詳細を教えろ」
「どうして?」
「面接官の女がきみにした侮辱について、その信念のほどを直接問うてやる」
「直接問うって、どういうこと?」
「今の時代、Ω性を差別するなんてナンセンスだ。しかも奉仕活動に従事している人間が、他者もいる前で、きみを辱めたことが許せない。……あぁ、許すことなんて到底できやしない。そいつは訓告されるべきだ。訴えてやる……!」
「訴える?!」
オーウェンが苛烈すぎて、紗世は呆気にとられてしまった。
「当たり前だ。面接という、学生側が抗えない状況下でセクシャルな質問を持ち出すこと自体許されるべきじゃない。さらにΩ性というバイアスをかけて、その女はきみという人間をちゃんと見なかったし、評価を下さなかった。ふざけている。きみに失礼だ。だから真偽のほどを問いただして、そいつのお綺麗な信念とやらを叩き潰してやる! ……。……おい、紗世。何? 俺は今、こんなにムカついて気分が悪くなってるのに、どうしてきみは笑っているわけ?」
紗世は口元に手を当てて笑みを零していた。
「ごめんね、だってなんだか……、オーウェンが本気で怒ってるんだもん」
「怒るのは当たり前だ! イギリスでそれをやったら一発で懲戒対象ものだぞ。日本はそういう所、遅れている。きみも笑ってるなんて、能天気がすぎる」
「だって。……だって、なんだか、う、嬉しくて」
ボロッと、その時紗世の目から涙が溢れた。笑みの形を作っていた口元が歪み、嗚咽がもれる。
「オーウェンが、私よりも怒ってくれたことが、なんだか分からないけど、嬉しくてっ……」
ボロボロと泣き出した紗世を前にして、オーウェンは一瞬途方にくれたような顔をした。それから彼らしくなく落ち着きなさげに辺りを見回して、物陰の方へ紗世を押しやった。人目を気にしてくれたのだ。
オーウェンが言った。
「嬉しいって、なんだ。理解できない。どうしてそこで泣くんだ? ……なぁ紗世、泣くなよ」
「うん。ごめん、ごめんね。ちょっと待って。頑張るから」
すんすん鼻を啜る紗世を見つめ、オーウェンが自身の髪をかき上げた。紗世よりもオーウェンの方が弱ったような顔をしていたから、紗世はまた微笑んでしまった。
「オーウェン、ありがとう」
「……」
「お父さんやお母さんや……お兄ちゃんに、昨日のことは言えなかったの。誰にも言えなかった。だからオーウェンに聞いてもらえて、怒ってくれて、嬉しい」
「……嬉しがる意味がわからないんだけど」
「嬉しいもん」
泣いているくせにニコニコ笑う紗世を見て、オーウェンはため息をついた。
「……あのさ、本気で海外協力支援機構の仕事につきたいと思うなら、国外に出て、海外のそういった活動に参加するという手もあると思うよ。少なくとも日本よりは第二の性について寛容な部分がある」
「そうなの?」
「……昔、病院で奉仕活動をしている団体と接したことがある。そこにはΩの人がたくさん従事していた。むしろΩの患者のために、意図的に専門家を集めているようだった。発展途上国の国だってそうだ。どこの国にもΩの人はいるはずだから、紗世のような存在は必要とされているはずだよ。……だから、無理解な人間の、心ない言葉で、きみは自分のことを恥ずかしいと思わなくたっていいんだ」
「……」
その時、紗世とオーウェンの携帯が震えた。見れば、アリスからLINEが来ていた。2人の帰りが遅いから心配しているようだ。
「アリスを待たせちゃってるね。早く教室に帰らなきゃ」
「でもきみ、目が腫れてるけど?」
「アリスにも昨日のことを言おうと思う」
「それはいいね。アリスもきみを心配していた。面接であったことを聞けば、多分あの子も俺と同じくらいその面接官に対して怒ると思うよ」
紗世は笑って、オーウェンと一緒に歩き出す。
「あのねオーウェン、……私、頑張る。ボランティア活動を応募してる所は他にもあるから。だから私、やってみるね。海外に行くのも一つの方法だって言ってくれてありがとう。話を聞いてくれて嬉しかった」
「そう」
オーウェンの返事はそっけないものだった。けれどそれは、紗世に衒いのない感謝の言葉を言われて気恥ずかったからだ。オーウェンの気持ちが、紗世には何故だか分かった。
好きだよ、と思う。
好き。オーウェンのことが、好きだよ。知れば知るほどオーウェンに惹かれていってしまう。その想いを捨てようと思うのに、ちゃんと友達になりたいと思うのに、本当にできるのかな。だってこんなに好きだっていう気持ちが、心のうちから溢れてしまうのに。
紗世の目からころり、とまた涙が落ちた。オーウェンはこちらに背を向けていたから気づかなかったし、紗世も気づかないでくれと、小さく願っていた。
オーウェンに面接の話をした日の夜、紗世は熱を出した。一度は39度近くまで上がったけれど、翌日には平熱に下がっていた。喉が痛いとか、あたまが怠いとかそういったこともないので、テスト勉強や面接準備の疲れが出ただけかな、と紗世は思った。
ゆえに月曜日には普通に学校に登校した。定期テストの解答用紙がどんどん返ってくる週だった。木曜日には全てのテストの結果が出揃ったため、紗世とオーウェンとアリスは顔を付き合わせて点数を開示した。
そして得点数を競うこの度の勝負を制したのはオーウェンだった。勝敗の内訳はこうだ、オーウェンに対し紗世が1勝2敗、アリスが2勝3負。敗北した彼女たちは絶望した顔で手を取り合って「嘘でしょ!」とニコニコ顔のオーウェンを見返した。
この男、化け物なのか? なぜ0の状態から、たった1ヶ月でここまで巻き返すことができるのだ。
食堂にて、紗世とアリスの顔を見たオーウェンは、今にも手を叩いて笑いだしそうな顔で(いや、実際手を叩いて笑って)言った。
「よく頑張ったよな、お互い。本当にお疲れ様。それぞれの健闘を称え合うために乾杯しよう。だから紗世はミートパスタ、アリスはメロンオレを買ってきてくれ。俺はこの席を温めておいてあげる」
紗世は今日はお弁当の日だったけれど、オーウェンのために食堂の券売機でミートパスタの券を発券し、麺類購入カウンターの列に並んだ。
そして並びながら、「どうしてオーウェンはあんなに勉強できるの?!」と心の中で頭を抱える。紗世とて、今回のテストの点数は悪くなかったのだ、……というかかなり良かった。それなのに彼はその上をいく。
改めてオーウェンのスペックはおかしいと思う。αで、見目が良くて、頭も良くて、運動もそれなりにできて、努力家である。隙がなさすぎるのではないか。あんなのズルい。
前にいた生徒が列を詰めた。だから紗世も思考を止めて進もうとして、……たたらを踏んだ。
「……?」
目眩がしたのだ。もう完全に体調は戻ったと思ったのだけれど、どうしたんだろう。額に手を当てたが熱はなさそうだ。
そうしている間に給食のおばちゃんがどんどんと生徒の列を捌いていったため、紗世の順番になった。食券を出すと、間もなく出来立てのパスタが差し出される。
それをトレーに載せて、スプーンとフォークも用意した紗世が戻ると、席にはメロンオレを飲むオーウェンだけがいた。
「おかえり、紗世」
「アリスは?」
「あっちに並んでる」
オーウェンが指さした方向、親子丼の列にアリスがいた。
紗世はトレーをオーウェンに手渡す。
「はい。お待たせ、オーウェン」
「どうもありがとう。美味しそうだ」
紗世から受け取ったそれをテーブルに置くと、オーウェンは頬杖をついて彼女を見つめ、ニヤニヤと笑った。
オーウェンの向かいの席に腰掛けながら、紗世も居心地悪そうに見つめ返す。
「なに、オーウェン」
「前に宣言したとおり、悔しがるきみを見ようと思って」
「……」
「日本語のテストでイギリス人の俺に負けてしまったな、紗世。悔しい?」
「……悔しいよ」
「ククッ」
ケタケタとオーウェンが笑う。
「存外素直に悔しいって言ってくれるんだな」
「……そりゃあ素直に言うよ、だって悔しいんだもん。私、今回本気で頑張ったんだけどな。絶対オーウェンに勝てると思ったのに」
「それは残念だったねえ、俺も本気で頑張ったんだ」
「でもオーウェン、テスト期間中も寝るのが早くなかった?」
「体が資本だから、睡眠は大切にしないとね」
「それでも暗記科目を覚えられるんだ。凄いなぁ、どんな勉強法をしてるの?」
「言ってなかった? 俺、カメラアイなんだ。見た風景を映像記憶として記憶できる。だから教科書の内容なんて、一目見たらある程度そのままの映像として覚えられるんだよ」
紗世は目を見張ってオーウェンを見返した。
「それ本当?」
「いや、嘘」
「……。オーベーローン。意味のないその嘘、つく必要あった?」
「ないね。まぁ、教科書の内容を丸暗記するぐらいの気概をもって勉強したと言いたかったのさ。それと、きみもアリスも詰めが甘い。ケアレスミスを無くさないと、次に同じ勝負をしても勝てないだろう」
オーウェンはずっと意地悪な笑みを浮かべている。だけどそんな顔でさえ、紗世をたまらない気分にさせるのだ。
「……次の勝負なんてあるのかな?」
「あるだろ。3年になっても定期テストはあるんだし」
「文系と理系で別れちゃうかもしれないよ」
「別れるかもしれない。だけど少なくとも古典と世界史は共通問題だろ」
「そっかぁ」
来年度もし紗世とクラスが分かれることになっても、オーウェンは友人でいてくれるつもりなのだ。そう思うと紗世の心は暖かくなる。そんな彼女の心情を知ってか知らずかオーウェンは言葉を続けた。
「次の勝負では3日間と言わず、勝った方が1週間、お昼を奢ってもらうことにしようかな」
「いいよ。でも多分、オーウェンが私にお昼を奢ることになると思うけど」
「へぇ、俺に勝つ気でいるんだ?」
「うん、次はもっと頑張るから」
アリスが親子丼を持ってテーブルに帰ってきた。来年度のことを話すと彼女もやる気になって、次回の勝負では紗世とともに対オーウェン共同戦線を張ることを約束した。
そうしてお昼休みいっぱいまで他愛無い会話を彼女たちは楽しんだ。
今回テストの点数が負けたアリスはオーウェンにジュースを奢る必要があった。そしてオーウェンはアリスをからかうのが好きだから(きっと。いや絶対)、時には「これから移動教室があるから忙しいんだけど?!」というタイミングでメロンオレを買いに行かせたりした。
その日は、ぷりぷりと怒りながらも食堂前の自販機へ行ったアリスに紗世も付き合ったため、2人して体育の授業に遅れそうになった。
しかもこういう時に限って体操服の上のトレーナーを家に忘れたりするのだ。他クラスの友達に借りに行く時間はもう無い。だから紗世は仕方なくTシャツの上から制服のセーターを着た。授業が始まれば脱がなければならないが、せめて移動する間は温まっていたい。
アリスは更衣室を出る前から紗世に謝り倒していた。
「ごめんねごめんね。大丈夫、紗世? 今日の体育はバレーボールだから体育館だけど、寒いよね」
「大丈夫だよ、多分いけると思う」
「私がメロンオレを買うのに紗世を付き合わせちゃったから……。やっぱり悪いよ、私のトレーナーを貸すよ」
「ううん、そしたらアリスが寒い思いしちゃうから」
「う゛〜。……これは全部、オーウェンが悪い! あんなタイミングでメロンオレが飲みたいとか言うから」
「確かにそうかも」
「なに、俺がいないところで、俺の悪口?」
2人が振り返ると、そこに体操服を着たオーウェンがいた。彼は紗世を見て首を傾げる。
「どうして紗世は体操服の上に制服のセーターなんか着てるんだ? その格好で体育の授業を受けるの、許されたっけ」
「ううん、トレーナーを持ってくるのを忘れたから、今着てるだけ」
「他のクラスの友人から借りてこようとは思わなかったわけ?」
「オーウェンが私を購買に使いっ走りにしたからだよ! 紗世はそれに付き合ってくれたから、借りに行く時間が無かったの」
「……あー、はいはい。だから俺のせいって事ね。でもそれって、付き合わせたアリスが悪いんじゃないの?」
「うぐぐぐっ」
「まぁまぁ2人とも、忘れちゃった私が1番悪いから……へぐちっ!」
紗世は2人から顔を逸らして小さくクシャミをした。それを見たオーウェンがため息をつく。そして自身のトレーナーを脱ぎ、紗世の肩にかけた。
「はい。これでも着ておけ」
「え? でも、オーウェンが……」
「大丈夫。男子は今からマラソンなんだ。馬みたいにぐるぐるぐるぐる面白くもない校庭を走らされてさ、本当に嫌になる。……で、どうせその途中で脱ぐから、今にも風邪をひきそうなきみに貸してあげる」
肩からずり落ちそうになったトレーナーを紗世が慌てて手元にたぐり寄せている間に、オーウェンは先に行こうとした。
「オ、オーウェン、ありがとうっ」
「ん」
短くそう頷き返して、彼は下足室へ行ってしまった。
壁時計を見上げたアリスが早足になる。
「紗世、チャイムが鳴っちゃうよ。私たちも急ごう」
「う、うんっ」
オーウェンの上のトレーナーを抱きしめたまま紗世はアリスの背中を追いかけた。
体操服は男女とも同じデザインだったから、オーウェンのものを紗世が着ても違和感はない。ただ、紗世は準備体操をしている時から顔を赤くしていた。だって今、彼女はオーウェンの服を着ている。
彼のトレーナーは紗世には大きかった。腕まくりをして調整しても、肩線がどうしても二の腕あたりに来てしまう。それを感じる度に、オーウェンは細身に見えるけれど男の子で、やっぱり自分よりも体が大きいんだなぁと実感した。
また、紗世が寒そうであったから、自身も寒いだろうにトレーナーを貸してくれたオーウェンの優しさが分かってしまう。
そして何より……体操着から香るオーウェンのαの匂いに紗世はクラクラと酩酊しつつあった。
紗世は今、好きな人の香りに包まれている。木々と果実の香りがするαの匂いに覆われている。まるでそれがオーウェン自身に守られているように感じて……、それがあまりにも幸せで、紗世はうっとりとしてしまった。
その間も体育の授業は淡々と進み、紗世は同クラスの女子生徒と2人1組になってレシーブの練習をした。その後は体育の先生のもとにチーム分けがなされ、簡単なゲームを行うことになった。
最初の試合では見学をすることになったので、紗世が三角座りになってぼんやりとしていると、アリスが側に来て彼女の袖を引いた。
「紗世、こっち来て」
「? ……どうしたの?」
手を引かれるまま紗世は他の生徒たちから離れた。体育館の隅に寄ったアリスが心配そうに紗世を覗き込んできた。
「紗世、大丈夫?」
「なにが?」
「あのね……、言いにくいんだけど、フェロモンが」
「ふぇろもん?」
「あ、分からないか……。そうだよね。うーん、オーウェン、私の匂いだったら、ギリギリ怒らないかな」
「あるとりあ?」
「うん。ちょっとごめんね、紗世」
「?」
「すぐ終わるよ」
首を傾げた紗世の肩口にアリスが頬を預けた。その一瞬の触れ合いで、紗世はオーウェンとは別のαの香りに包まれる。
木々と果実の匂いが遠のいて、夢心地だった頭の中がシャッキリとした。正気に戻った紗世は目を瞬いた。
「あれ……? なんだか私、ぼんやりしてた?」
「うん。してた」
「もしかして私……フェロモン、出ちゃってた?」
「少しだけ」
「嘘っ」
紗世は顔を赤くして、慌ててアリスから離れる。
「ご、ごめんねアリス。抑制剤は毎日ちゃんと飲んでるんだけど。どうしたんだろう」
「大丈夫だよ。今ここにいるのはβの子たちだけだし、紗世のフェロモンもちょっとしか出てないよ。オーウェンの服に当てられただけじゃないかな」
「そう、かな」とアリスの言葉に頷きかけた紗世はしかし、ちょっと待ってと心臓を冷やした。
オーウェンのαの香りに紗世が当てられたことが分かっているということは……、紗世がオーウェンに恋心を抱いていることを、アリスは気づいていたりするのだろうか。
バレーボールの試合がちょうど終わった。次は紗世たちのグループが対戦することになる。アリスは先に行ってしまったから、紗世は彼女にそれを確認する事ができなかった。
体育の授業後、更衣室へ向かっている途中で紗世は担任の先生に呼び止められた。いわく、国際協力機構のワークショップが近日開かれるらしくて、先生は紗世のためにその要項を手に入れてくれたらしい。要項を渡したいと言われたから、紗世は素早く制服に着替えて、職員室へ取りに向かった。
だけど先生は居なかった。入れ違いになっちゃったのかなと思い、紗世は職員室の前で先生を待つことにした。その間は何もすることがないから、紗世は手の内にあるオーウェンの服を丁寧にたたみ直すことにした。
体育の授業は今週はもうないし、ちゃんと洗濯をしてから彼に返そう。だから……、だからもう少し服を借りていてもいいはずだ。
トレーナーをそっと右手で撫でた紗世はまた、クラクラと頭の中が熱くなるのを感じた。そして思う、先週から続くこの体調の不調は、もしかしたら紗世のΩ性に関係があるのかもしれない。
小学生のときからずっと同じ抑制剤を使ってきたけれど、先程体育の授業でアリスに紗世のフェロモンを感じ取られてしまった事を鑑みるに、どうもちゃんと抑えられていない。思春期に抑制剤を変える人もいると聞いたことがあるから、一度自分も病院に受診した方が良いかもしれない。
面接官の女の人の「貴方は、自身の性のこともちゃんと扱えないのに、他人の、それも他国の人たちに支援の手を差し伸べられると、本気で思っているんですか?」という言葉が思い出される。あれは紗世の心を傷つけた。だけど、真理もついているとも思うのだ。Ωであるからこそ、紗世自身もちゃんと気をつけないといけない。
紗世の中の冷静な部分はそう考えていた。しかしその一方で、彼女の恋心はずっとオーウェンのことを想っていた。
オーウェンに優しくされたことが嬉しい。意地悪を言われるのも構わない。
だけど、同時に切ない。
だってどれだけオーウェンを想っても彼は手に入らない。……だからせめて、今だけは彼の香りを腕の中で感じていたい。
熱に浮かされていた。木々と果実の香りに満たされている心地がした。だから紗世はトレーナーを持ち直してギュッとそれを抱きしめる。
……オーウェン、オーウェン。彼のあの綺麗な髪に触れることができたら、どんなに嬉しいことだろう。その肩は? その手は? ちょっとだけでいい、触れることを許してもらえたら、……ううん、許してもらえなくたっていい。傍にいられなくても構わない。今みたいに、彼のものをそばに感じられるだけで。それだけで、私は……。
紗世はその時幸せだったから、……オーウェンの香りで心が満たされた気になっていたから、気づくのが遅れた。
オーウェンが廊下の向こうからやって来ていたことに。彼は男子更衣室の鍵を手に持ち、職員室に返しに来るところだった。そして紗世を見て、彼は立ち尽くした。
オーウェンが言葉もなく呆然と立ち止まっていることに気がついて、……その時浮かんでいた彼の表情を見てしまって、紗世はようやく夢心地から目覚めた。
「……オーウェン?」
一瞬幻かと思った。でも、オーウェンは実際にそこに立っている。
紗世は彼のトレーナーを抱きしめていたが、それが傍目からどう見えるのかを悟った瞬間、痺れるような冷たさに頭のてっぺんから足の先まで貫かれる心地がした。
「……」
オーウェンに、見られた。
そう思うと息ができなくなって、顔色を無くす。だけど意外にも、そんな彼女に対してオーウェンは何も言わなかった。むしろ彼は紗世から視線を逸らした。そしてそのまま声もかけずに鍵を持って職員室へ入ってしまう。
紗世はしばらく床に縫い留められたように動けず震えていたが、突然ハッと我にかえり、オーウェンが職員室から出てくる前にそこから逃げ出した。
「どうしよう!」と階段を駆け降りながら紗世は心の中で悲鳴を上げた。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。見られた。見られてしまった。自分のあの姿は、彼が求める〝友人〟の姿じゃない!
担任の先生が下の階から上がってくるのが見えた。先生を待つために職員室にいたのに、紗世は踵を返して彼からも逃げた。だって泣きそうになっている今の自分の顔なんて、誰にも見せることができない。
オーウェンは聡い人だからきっと気づいた、と紗世は思う。紗世の想いを知られてしまった。その恋心を気づかれてしまった。
だからまた彼に言われてしまう。あの冷たい瞳で『運命の番以外はもう誰も要らない』と、……紗世の恋心など要らないと、その想いは迷惑なだけだと、きっと言われてしまう……!
「どうしよう……」
オーウェンがいる職員室から十分に離れたところで立ち止まり、紗世は途方にくれた。両手で顔を覆う。
どうしてあんな行動を取ってしまったんだろう。どうして気を抜いてしまったのか。せめて〝友人〟でいようと思ったのに。そうすれば傍にいることだけは許してもらえると分かっていたのに。
オーウェンに気持ちを知られてしまったから、もう元に戻れない。きっと私はオーウェンに拒絶されてしまうだろう。
結局ギリギリまで紗世は教室に入る事ができなかった。廊下の向こうから次の授業を受け持つ英語の先生がやってきたから、やっと重い足を動かして教室に入る。
オーウェンはすでに自席に戻っていた。英語の教科書を面白くもなさそうにパラパラとめくっているのを紗世は見た。
間もなくチャイムが鳴る。学級委員が先生の到着を待って、挨拶の号令をかけた。
入り乱れるクラスメイトに紛れて、紗世もオーウェンの隣の席へ行く。その時紗世はオーウェンを見なかったし、彼も同様だった。
授業時間は早いようにも、遅いようにも感じられた。ただ教材の内容が全く頭の中に入ってこないまま、英語の授業は終わってしまう。残すはHRだ。
流石にこのまま無言でいることはできないと思って、帰り支度にざわつく教室の中、紗世はオーウェンに話しかけた。
「あ、……あのね、オーウェン」
オーウェンがゆっくりと目を瞬かせて紗世を見た。だけど紗世は視線を合わせることができず、俯きがちに言葉を続けた。
「今日貸してくれたトレーナー、洗濯してから返して、いい?」
「そこまでする必要はないけど」
「……私が持って帰るの、気持ち悪い?」
「そんな事は一言も言っていない」
「じゃあ……、洗濯してから返す」
「分かった」
オーウェンの返答はいつも通りだった。その声音も冷たいものではない。
間もなく担任の先生がやってきてHRを始めた。それが終わった後も、紗世は先生に呼ばれて海外協力支援のワークショップについて説明を受けたし、要項を手に入れた後もオーウェンが(珍しく)クラスメイトと話していたから、その日はもう彼とは関わらずに紗世は家に帰った。
帰宅後、紗世は病院に行った。医師からはΩのフェロモンが乱れ気味ですね、と言われた。
「初めてのヒートが近いのかもしれません。新しい抑制剤を出しておきますが、あなたに合うかは試してみなければ分からないので、精神的にも肉体的にもあまり無理をしないように」
Ωのフェロモンが乱れると、Ω性の人はいつもよりナイーブに、ネガティブな気持ちになってしまうらしい。でも今の紗世にとって、ネガティブになるなという方が難しい話だ。家で夕食を食べている時も、お風呂に入っている時も、LINE等でいつオーウェンから拒絶の言葉が送られてくるだろうと思って、怖かった。
紗世はそのまま眠れない夜を過ごして、洗濯をして乾燥機にかけたオーウェンのトレーナーを抱えて、翌日登校した。
教室に行くとオーウェンとアリスは既に来ていた。朝一番にメロンオレを買いに行かされたらしく、アリスが文句を言った。
「私が『おはよう』って言ったら、オーウェン、『メロンオレ』って返してきたんだよ。挨拶はちゃんとするべきだって、紗世からも怒ってやって」
「誤解しないでくれ、間違えたんだ。最近アリスの顔が、メロンオレに見える時があって……」
「いや、その嘘は流石に雑すぎる!」
両手をグーにして怒りだしたアリスを、オーウェンがさらにからかう。紗世はアリスを宥めながら仲裁に入り、そのままの流れでオーウェンにトレーナーが入った包みを手渡した。
「昨日はありがとう、オーウェン」
「あぁ」
「それは何、紗世?」
「体操服のトレーナー。洗濯をするために持って帰ってたの」
「えーっ! 汗なんてかいてなかったのに。洗って返すなんて偉いね」
オーウェンは紗世に普通に接した。アリスがいるからだろうかと思ったけれど、その後も彼の態度は変わらなかった。移動教室で会話を交わす際も、化学の実験をする時も、授業と授業の合間に挟まれる短い休みの間だって、彼はいつも通りだった。
それで紗世はようやく理解した。あぁ、オーウェンの中で昨日のことは無かった事になったんだな、と。
彼の香りに包まれるだけで紗世は幸せになれた。だけどそれはオーウェンにとっては要らないものだったから、黙殺されてしまうんだ。拾うことも捨てることもされず、そのままずっと置き去りにされてしまうんだろう。ただの友人のままでいることを、自分は望まれているんだ。
紗世だって、オーウェンの友人でいようと思っていた。でも……、でも、この気持ちを知られてしまった、今は……。
2時間目は現代文だった。
先生から指名されて、1人の女子生徒が教科書に載っている、夏目漱石の「こころ」の一部分を朗読し始める。
「先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。『君は恋をした事がありますか』、私はないと答えた。 『恋をしたくはありませんか』、私は答えなかった。 『したくない事はないでしょう』『ええ』『君は今あの男と女を見て、冷評しましたね。あの冷評のうちには君が恋を求めながら、相手を得られないという不快の声が交じっていましょう』」
紗世は、読み上げられる文章にドキリと胸を跳ねさせた。
「『そんなふうに聞こえましたか』 『聞こえました。恋の満足を味わっている人は、もっと暖かい声を出すものです』」
女子生徒によって朗読された箇所は、物語の中でも序盤も序盤。「先生」と「私」が会話をしている場面だ。「私」に対して「先生」は、「君は恋をする相手を得られていない。なぜなら恋の満足を味わっている人はそんな冷たい声を出さないからだ」、と指摘している。
恋の満足。
私はきっと、それを得られる日は来ない。
彼女は教科書の文章から視線を外した。
……結局、兄の彰吾が正しかったのだ。不器用な紗世に、気持ちを押し隠して友人のフリを続けることは不可能だったのだ。無理をしたために想いがバレて、今、こんなに胸が苦しい。
紗世は口元を手で押さえた。
だって……、だって本当は、今でもやっぱり心のどこかでオーウェンのことを特別だと感じている。オーウェンを運命と思っている! それなのに彼に運命の番が居たなんて信じられない。……信じたくない!
それにたとえオーウェンにティターニアがいたとしても、それは過去のことだ。彼女はもうこの世にいない。だから、……だから、彼女の近しい場所に紗世が立ってもいいじゃないか。
女子生徒が朗読を続けている。
「『しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ』」
「こころ」では「先生」が「私」に言う。恋は罪悪です。わかっていますか、と。
でも紗世にとってこの恋は罪悪と呼べるほど仰々しいものじゃない。ただ、自分の愚かしさが浮き彫りになるだけ。物分かりのいい〝友人〟のフリをして、心の内では醜いことを考えている、自分で思っていたより「私は嫌な子なんだ」ということを思い知って、うちひしがれている。それがこの恋だ。
「……気持ち悪い」
薬で抑制できていないΩのフェロモンがグルグル体の中でのたうち回るから、吐きそう。それなのに苦痛を声に出せなかったから、紗世は心の中でそう呟いた。
現代文の授業が終わった時、オーウェンがわざわざ席を立って、紗世の元へ来た。
「紗世、大丈夫か」
現代文の教科書を、教室の後ろにあるロッカーに仕舞うためにやってきたアリスも、彼女を見て驚いた顔をする。
「顔色がすごく悪いよ」
紗世は頭を支えるようにして「酔っちゃったみたい」と弱々しく言った。
「最近体調が悪くて、昨日、薬を変えたの。あんまり合ってないのかもしれない、気分が悪くて……」
オーウェンとアリスはαだから、「抑制剤を変えた」とは明言しにくかった。けれどオーウェンは鋭くそれを察したらしい。
「一応その薬も持って、保健室へ行け。次の授業では、先生にきみが保健室で休んでいることを伝えておく」
「……大丈夫、だよ」
「駄目だ。フェロモンの不調は体調に直結するし、転じやすい」
オーウェンはΩのフェロモンが体調に及ぼす影響を知っているようだ。……それも当然か、彼には運命の番がいたんだから。
オーウェンの優しさをそう受け取ってしまうなんて。紗世はそんな自分にまた吐き気がした。辛そうに瞬きを重ねる紗世を見つめて、オーウェンはアリスに顔を向けた。
「アリス」
彼女はオーウェンの言わんとすることを悟って、紗世の肩に手を置く。
「紗世、本当に顔色が悪いよ。横になって休んだ方がいいと思う」
授業を休むことに気がひけた紗世だったけれど、オーウェンとアリスに何度も促されたので席を立った。
教室を出て、廊下を歩く。そして人通りの少ない校舎奥にある階段を降りている時、アリスが意を結したような顔で言った。
「紗世、最近何か悩んでること、ある?」
「え?……ううん」
「本当に?」
「うん……」
「……」
紗世の体を支えるアリスの手に、そっと力が込められる。
「……あのね、紗世。こんな時に言うのはアレだけど。私ね、日本に来てから今まで、紗世ほど仲良くなれた子って居なかったんだ」
アリスの小さな声は反響せず、冬の冷たい床の上へ沈んでいく。
「中学の時日本に来て、私、すごく戸惑った。親戚が日本人だったからもともと日本語は喋れたけど、日常的に使ってはこなかったし。……それに私、こんなんでもαで、しかも外国人だったからさ、周りからの『こうあるべき』っていう無言の圧力を感じちゃってた。自分でも柄じゃないなぁ、キツいなぁ、って思いながら優等生を演じたり」
でも今は違うよ、とアリスは言った。
「一生懸命勉強を頑張ったり、勝負をしたり、楽しいって思えることが沢山増えた。……紗世と友達になれたから。私、紗世のことを大切な友達だと思ってる。だから、……だからもし私が力になれることがあれば、相談、して欲しい、というか」
緊張して顔を硬らせているアリスの横顔を紗世は見た。彼女が心からそれを言ってくれることが分かって、紗世は微笑む。
「ありがとう。心配してくれて」
「……うん」
「私もアリスのことを友達だと思ってるよ。アリスのことが大切だよ。……だから、うん。相談させて」
紗世は足元に視線を落とした。
「もうちょっと自分の中で考えがまとまったら、アリスに言うね」
「うん、待ってるね」
オーウェンとアリスはいとこだったから、オーウェンのことを相談することは遠慮していた。でもそのせいでアリスにさっきみたいな寂しそうな顔をさせてしまうなら、それはいけないことだ。
保健室のベッドで横になっているだけのつもりだったが、紗世は眠っていたらしい。3時間目の授業が終わる前に彼女は先生に起こされた。
紗世の様子を見て先生は問うた。
「藤丸さん、調子はどう?」
「寝れたので、だいぶん良さそうです」
「うん、顔色も戻ってるわね。それならどうしようか、保健室で休めるのは基本的に1時間だけなの。あとは早退するか、授業に戻るかなんだけど……」
「私、授業に戻ります」
そうして紗世は、保健室利用の確認カードを先生からもらって保健室を出た。
4時間目の授業は美術だった。
紗世は保健の先生にもらったカードを職員室に提出しに行っていたから、美術の授業で使う画材を教室へ取りに行った時には、既にオーウェンとアリスの姿は無かった。
時間に余裕はあるけれど、急ぎ足で美術室がある別棟へ向かおうとする。けれどその際、紗世は3人の女子生徒に声をかけられた。顔は知っている、ぐらいの他クラスの子達だった。
「ヴォーティガーン君のことで、話したいことがあるんだけど」
紗世はふと、最近自身の靴が隠されたり、靴の中に画鋲が入っていたりすることと、この子達には関係があるんじゃないかと思った。
真っ直ぐな髪が綺麗な女の子が言った。
「藤丸さんさ、Ωだからって色目を使ってないかな。友達ですってフリしてαの子たちに擦り寄っているのを見るの、すごく不愉快なんだ」
やはり、その話になるのか。紗世は思わず視線を下に落とした。それに〝友達のフリ〟という言葉は、今の紗世には効く。
紗世が怖気付いたのを見て、その子は言葉を続けた。
「オーウェン君やアリスさんだけじゃなくて、最近はビリー君にも良い顔してるよね。恥ずかしくないの?」
「えっ、ビリー君?」
紗世は目を見開いて彼女らを見返した。
確かにビリーとは美術で一緒になっている。だけどそれ以外の交流はない。それなのにまさかここでビリーが出てくるとは。
と、ちょうどその時、紗世たちから少し離れたところにある渡り廊下を、噂のビリーが歩いているのを紗世は見た。そして彼女はビリーとかっちり目があった。
紗世の様子を見て、ビリーは何かを感じ取ったらしい。首を傾げて少女たちの様子を観察し、「あ、なるほど!」というように一度大きく頷くと、紗世に向かってグッと親指を立てた。それから彼は駆けて行った。
えぇっ! と紗世は仰天する。助けてくれとは言わないが……いや、助けてくれるととても嬉しい状況だけど、まさか走って行っちゃうなんて。親指を立てた意味は「頑張れ」という応援だろうか。
紗世の注意が逸れたからか、女子生徒の責める声が強まった。
「ねぇ、無視するのやめてくれる?Ωだから、近くにいればオーウェン君に好きになってもらえると思ってるんでしょう」
違うよ、と紗世は思った。私はΩだからこそ、オーウェンには好きになって貰えないんだよ。
紗世は改めて女の子たちに向き合った。
「無視はしてないよ。貴方達がオーウェンと親しい私のことが嫌いだということは分かった。特に私がΩだから、αのオーウェンやアリスやビリー君に何かをしてるんじゃないかって、不安に思うんだよね」
紗世は彼女たちの心を傷つけるような言葉を使わないように気をつけながら言った。
「でもね、私はΩだからって、アリス達に特別何かをしてるわけじゃないよ。アリス達も、私がΩだから友達でいてくれてる訳じゃない。だから貴方たちにそう言われても困る。私のことが嫌いだということは分かるけど、強い言葉でそうやって責められると私は傷つく。だから、こんなことはやめて欲しい」
今までだってΩのことで友人間でトラブルになったことがある。だから紗世は処世術を知っていた。
強い口調ではないがキッパリと紗世に言い返されて、女子生徒たちはたじろい だ。
紗世は教材を抱え直す。
「もうこの話はやめにしよう。授業も始まるよ。だから私は行くね」
紗世はそのまま身を翻そうとした。だけど1人の少女に肩を掴まれ、バランスを崩す。
「待ってよ。話はまだ終わってな……」
「やめろ」
その時、突然投げ込まれた地を這うような低い声音に場が制された。怒りを内包したそれに、紗世を含む少女たちがビクリと身をすくめる。
オーウェンがいた。彼はこちらに歩いて来ながら、紗世の肩を掴む少女を睨む。圧倒的な強者を前にして、βである彼女は震えながら身をひいた。
完全に怯えた様子の女子生徒らを見回してオーウェンがクッと顔を歪ませて嗤う。
それを見た瞬間、あぁそれは駄目だよ、オーウェン。と紗世は思う。
彼は口を開いた。
「お前たちさ、そういう行為が一番軽蔑される行いだってこと、分かってる? 俺の知らない所で、俺の周りにいる人間に牽制を仕掛けるの、愉しいかい? そいつは羨ましいなぁ」
ビリビリと痺れるような威圧を受けて、彼女たちは既に逃げ腰であった。その顔も真っ青だったけれど、オーウェンはここで完膚なきまでに叩き潰すことに決めたらしい。
「お前たちの顔は覚えた。だからもう今後は下手な行動に出ない方がいい。何かをする度に俺の嫌悪感が募っていくだけだろうから。……まぁ既に、十分気持ち悪いって思っているけどね?じゃ、さようなら。俺の目が届かないところへ帰ってくれ」
それきりオーウェンは少女たちに目を向けてもやらなかった。紗世の手を引いて歩き始める。「まず確認したいんだけど」とオーウェンは言った。
「俺の知らないところで、今までもこういう事はあった?」
紗世は頭を振った。
「今回が、初めて」
靴を隠されるといった事柄はオーウェンには黙っておこうと思った。紗世の返答を聞いて彼は目を細めたから、どこまで隠し通せるかは分からないけれど。
「そう。……で、体調は?休んでなくて大丈夫なのか」
「だいぶマシになったよ。……保健室で休めるのは基本的に1時間だけなんだって。もしそれでも体調が良くならないなら早退になるらしいんだけど、私、そこまでじゃなかったから」
「この学校の保健室利用って、そんなルールがあるのか」
オーウェンは納得ができなさそうに眉をしかめた。
紗世はオーウェンの掌に包まれた自分の手を見る。熱い……でも、同時に冷たい。
「オーウェン、さっきは助けてくれてありがとう。嬉しかったよ。……でもね、少し、言葉がキツすぎたと思う」
「俺はそうは思わない。あぁいう輩はハッキリ言わないと伝わらない」
「その通りかもしれない。ただね……、私、あの子たちと何も変わらない」
彼女達はオーウェンが好きなのだろう。その「好き」をオーウェン自身にあんな風にへし折られて、拒絶されてしまうなんて。
「私を助けてくれるためにオーウェンがあんな風に言ってくれたことは分かってる。だけど……」
紗世だって彼女たちと同じようにオーウェンが「好き」なのだ。そしてオーウェンもそれを知っている。
「私はオーウェンとは、友人でいられないかもしれない」
「……そう」
チャイムが鳴った。
急ぎ足の2人は、そのまま顔を見合わせることなく美術室へ入った。
美術の授業の課題は肖像画だった。2人1組になって、相手の顔を描かなければならない。例に倣って、背景は校舎内のどこでも良く、美術室を出ても良いらしい。
紗世はオーウェンとは顔を合わせづらかった。アリスと組むことが1番いいと思ったけれど、そうするとオーウェンとビリーが組むことになる。
オーウェンはビリーに良い感情は持ってなさそうだ。だから紗世はビリーに声をかけた。
「ビリー君、私と組んでくれないかな」
彼は一瞬キョトンとした顔になった。しかしすぐに「いいよ」と笑って、請け負ってくれた。
校舎の外に出るのは寒いので、紗世とビリーは昇降口近くの廊下でスケッチをすることにした。オーウェンとアリスも近くにいるようだけど視界には入らない。
ビリーと改めて向き合って、そういえばこんな風に気安く自分も近づくから、目をつけられてしまうのかもしれないと紗世は思った。
ビリーの肖像画なんて描いて大丈夫だろうか。不安に思ったけれど今更もう遅い。スケッチを取り始めたビリーが話しかけてきた。
「さっきは災難だったね。あんな漫画みたいな状況は初めて見たな。王子様の傍にいるのも大変だね」
他人事のように言われて(実際に他人事だけど)、紗世はちょっと口を尖らせた。
「オーウェンのことだけじゃないよ。アリスやビリー君のことも話に入ってたよ」
「え、僕?」
「うん」
「そっか〜、じゃあ僕が君を助けたことも、あながち大きなお世話じゃなかったってことか」
「助けた?」
「うん。僕はちゃんと、君の王子様を呼んできてあげただろう」
オーウェンがあの場に来たのは、ビリーが教えてくれたからだとその時紗世は知った。
「αの僕が、他のαのΩを助けたら後々面倒なことになるんだ。だからあの時すぐに仲裁に入れなくてごめんね」
「ううん。ビリー君、私を心配してくれたんだね。ありがとう。……それとね、前々から言いたかったんだけど、私はオーウェンのΩじゃないよ」
ビリーは紗世を描いているはずだけど、顔も上げずに好き勝手にキャンパスに線を走らせていた。口元が緩く孤を描く。
「……今日君たちを見て思ったけど、なんだか面白いことになってるよね。僕は割と下世話な話って好きだけど、あの王子様はおっかないから、何があったかは聞かないでおこうかな」
ビリーという青年は、人との距離を取ることに長けているようだった。そっと寄り添うように居てくれるのに、必要以上にこちらへ踏み込んでこない事が心地よい。
紗世はしばらく黙って、彼の丸みのある髪をキャンパスに描いた。そしてややあってそっと尋ねる。
「……ビリー君は、運命の番って信じる?」
パチクリと目を瞬いて、ビリーが紗世を見た。
「もしかしてきみ達、運命の番なのかい?」
「違う。私とオーウェンとの間には何もない。さっきもそう言ったでしょう」
「なんだ」
ビリーはまた独自の感性で絵を描き始めた。
「運命ね……、あってもいいけど、僕は別にそういうのはいいかな。縛られるのって嫌いなんだ。好きにやればいいと思うけどね、恋愛なんて」
ビリーは簡単にそう言ってのけた。
紗世は少し押し黙る。
「好きに、やるの?」
「うん。むしろ誰に許可を取る必要があるのかな?アーメン、神様、僕があの娘を好きになり、あの娘も僕を好きになることをお赦しください、っていちいち祈る? ……あっははは、まぁそれもそれで面白いけどね」
「……」
「真面目なのもいいけど、思い悩むのは僕の性に合わない。恋ってのは気軽に楽しめるくらいが丁度いいよ。ま、これはただの自論だから押しつけるつもりはないけどね」
思い悩まなくていい。気軽に楽しめるくらいが丁度いい。
その通りかもしれない、と紗世は思った。
今の恋は辛いだけだ。重くなるばかりで身動きがとれない。それだったらもう捨ててしまってもいいんじゃないの。どうせオーウェンからも置き去りにされた恋心だ。
それに紗世がオーウェン以外の人を好きになれたら、今度こそ彼が望む〝友人〟になれるかもしれない。
じゃあもう、誰でもいいじゃない。誰を好きになっても同じだ。……そう例えば、目の前の男の子だって。
そう紗世が思った時、治っていたはずの体の中のフェロモンが動いた。
ビリーが紗世を見る。銀細工のような彼の瞳がキラリと煌めいた。
アリスとオーウェンは向き合って互いの絵を描いていた。オーウェンの美麗な顔を描きながら彼女はこう考えていた。
オーウェンは昔から頭の良い人だった、と。
だからティターニアが病気になったとき、彼は運命の番にとって何が最善かを真っ先に考え、行動に移した。そして病床にいるティターニアの笑顔が絶えないように、オーウェンは時には剽軽に、時にはキザっぽく振る舞って彼女を励まし続けた。
ティターニアの3年間の闘病生活は、オーウェンにとっても闘いだったのだとアリスは思う。あの時の彼は、運命の番のためだけに全てを注力していた。
彼はそれぐらいあの女の子に尽くした。だからもう、解放されたっていいんじゃないの。
「あのね、オーウェン」
「何」
「……紗世に話したらどうかな。ティターニアさんの心臓のこととか、モルガンのこととか、全部」
「何をいきなり」
「いきなりじゃないよ。ずっと考えてたことだった。私は運命の番に会ったことがないから、オーウェンの本当の気持ちはわからない。だけどね、……だけどオーウェンは、紗世のことを……」
その時、ふいに甘い香りがアリスの鼻腔をくすぐった。一瞬クラリとなって、この心地よいΩの匂いは誰のものだろうと思う。
その瞬間、目の前のオーウェンが音をたてて立ち上がった。
「オ、オーウェ……」
アリスはそれきり二の句が継げなかった。それぐらい、たった今彼の瞳に宿った獰猛な光が恐ろしかった。
オーウェンが怒っている。
同じαであるアリスが萎縮してしまうほどだ。だから彼女は黙って、去っていくオーウェンを見送ることしかできなかった。
「えっ……」
紗世を見返したビリーが驚いている。しかしその瞳がゆらゆらと不安定に揺れているのを見て紗世は微笑んだ。
男の子に、そういう顔をさせられる事が嬉しかった。そんな風に熱っぽい目で〝誰か〟に見て欲しかった。
「ビリー君……」
熱に犯された紗世は身を乗り出して、ビリーの手に触れようとする。その時だった。
「何をしている?」
木々と果実の香りに体がまとわりつかれる。底冷えのする声にビシリと体が固まった。紗世が視線を上げた先に、オーウェンがいた。
オーウェンと目があった瞬間、紗世はどっと冷や汗をかいた。先程少女たちへ向けた感情とは比べ物にならないくらい、オーウェンが怒っている。オーウェンはもう一度、「何をしている?」と尋ねて、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
紗世と同じようにビリビリと震えがくるほどオーウェンの威圧を受けているのに、ビリーはため息をついた。そして両手を挙げて無抵抗の意を示す。
「僕を責めるのはお門違いだ。君の手落ちだよ、王子様。ちゃんと自分のものくらい捕まえておいてくれないと」
「……紗世」
オーウェンが紗世の目の前まで来た。
紗世が何も答えられないで震えていると、手を掴まれて、立ち上がらされた。そのまま手を引かれて歩かされる。彼女の膝の上に置かれていた画材道具が派手な音をたてて廊下に散らばったけれど、見向きもされなかった。
蒼白になった紗世を連れ去っていくオーウェンに向かって、ビリーが言った。
「親切心で教えておくよ。あと15分で授業は終わるからね」
オーウェンが、人気のない校舎の奥へ向かっていることが分かる。紗世は彼に手を引かれながらカタカタと震えていた。足が絡れて転びそうになるのに、オーウェンは止まってくれない。
「オーウェン……、離して」
と、やっとの事で紗世は言った。
「離して、オーウェン。……熱い、熱いの」
今もオーウェンは紗世を威圧している。最初、それが怖かった。だけど今は熱い。自分の中のΩのフェロモンがオーウェンのそれに誘発されていることが分かる。
その時、オーウェンに空き教室に入れられた。そのまま教室の壁に強く押し付けられる。
「ぅ、痛いっ……」
紗世が痛みに顔を歪めたけれど、彼女の肩を掴むオーウェンの手の力は緩なかった。彼はギラギラと剣呑に光る青い瞳で紗世を見下ろし、そして言った。
「俺以外のαを、誘ったな?」
底冷えがするような恐ろしい声音だった。紗世はまた震えて、目に涙を浮かべた。
「……ごめんなさい」
「……」
「ごめんなさい、オーウェン。お、怒らないで……」
顔を隠そうと体ごと捻ろうとしたのに、やはり許されなかった。紗世は泣いた。頭の中が熱い。クラクラする。
「でも……、どうしてオーウェンが怒るの。私の気持ち、オーウェンは気づいているんでしょ。……そんなに私のことが目障り?」
嗚咽をもらしながら紗世は捲し立てた。
「お願い、私のことを拒絶しないで。……分かったから。ちゃんと分かってるから。……私、〝友人〟をやめる。きみから離れる。もうオーウェンには話しかけない。もう関わろうとしない。だから離して。……もう、許して」
紗世はオーウェンから逃れようと、彼の体を押した。すると逆に手首を掴まれ、壁に縫い留められた。気づけば彼の青い瞳が目の前にあった。そのまま噛み付くようなキスをされる。
「……ぁっ」
貪るようなキスだった。優しさなんて一欠片もない、紗世から全てを奪おうとするかのような口付けだった。
息ができなくて、足に力が入らなくなる。そのまま壁伝いに床に座りこんでしまった紗世の体を、それでもオーウェンは離さなかった。
やっと唇を解放される。紗世はオーウェンを見上げ、泣きながら頭を振った。
「だめ。やめて、オーウェン。熱い……っ」
オーウェンは紗世の襟元をくつろげた。そして彼女のオレンジの髪を掻き上げ、晒されたうなじに唇を寄せた。
「ぇ? ……ぁ、ああ゛っ!」
Ωはうなじが弱点である。性行をしながらαにそこを噛みつかれると番になってしまう。だからΩは普段、チョーカーなどでそこを保護している。もちろん紗世も制服では見えないように、保護のチョーカーをつけていた。
しかしオーウェンにそこを舐められた。チョーカー越しにうなじを甘噛みされる。
その瞬間紗世の体がビリビリと痺れて、……すぐにくたん、と弛緩した。力が抜けた彼女の体をオーウェンが抱き寄せる。紗世はだめ、とうわ言のように繰り返した。
「だめ。おーうぇん、……だめだよ、これ以上は。溺れちゃう」
「……」
「おねがい、やめて。溺れちゃう、から。……ぁあっ!」
またもうなじを甘噛みされた。紗世は涙を散らしながら体を仰け反らせて悶える。
激情を孕む声音でオーウェンが言った。
「俺から離れる事は許さない。きみは俺のΩだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます