きみは運命の人じゃない

藍あいな

第一話


1.

 小学生のときのバース診断で自分がΩだと分かったとき、紗世はそりゃあショックだった。

 昔の頃よりバース性の差別はなくなったと聞くけれど、やっぱりΩは生活していく中でいろいろと不便だ。双子の彰吾はβだったのに。というか、家族みんなはβの中で、紗世だけがΩだなんて。仲間外れみたいだ、と泣いたら彰吾が慌てて慰めてきた。

「泣かないでよ、紗世。仲間外れじゃないって。それにΩだったらさ、運命の出会いがあるかもしれないじゃん」

「運命……?」

「そうそう、紗世、そういうの好きだろ。きっと紗世がΩなのは運命のαがこの世のどこかに居るからだよ」

「居る、のかな」

 紗世は自信がなさそうに首を傾げたけれど、内心ではその運命とやらにちょっと心惹かれた。彰吾の言う通り、紗世はそういう類が好きなので。

「運命の人……、もしいたとしたら、どんな人だろう」

 Ω性という事実は取り消せないので、せめてその夢物語に想いを馳せる。

 もし運命のαがいたとしたら、できれば優しい人がいい。穏やかで格好よくて、そして永遠に紗世に愛を誓ってくれるような、そんな人だったらいいな。


 月日が流れて、紗世は高校二年生になった。

 いつもべったりと一緒だった彰吾とは違う高校だけれど、彼女なりに楽しい学生生活を送っている。

 そして命運を分けたその日。登校した紗世は、校門をくぐった瞬間から特別なフェロモンに気がついた。森の中のような深い木々の香りと、果実のようにみずみずしい甘い香り。この二つが入り混じった心惹かれる匂いが校舎内に漂っている。

 そのフェロモンを嗅いだ紗世はしばしぽぉ〜、と顔を赤くして惚けていたけれど、肩にかけた鞄がずり落ちたことでハッと我にかえった。次の瞬間、心臓が早鐘を打つ。

 この学校に通い始めて一年経った。けれど、こんな香りがする人はいなかったのに。

 ただし紗世の本能が、これは運命だと告げている。待ち侘びたその人だと教えてくれる。だから彼女は走り出した。まるで線が引かれたように、そのフェロモンが漂ってくる場所が分かった。はやく、はやく! この魂の片割れと出会うことに心が歓喜している……!

 紗世は、校舎裏へ入り込む。息を弾ませて顔を上げた。

 そして、そこで行われる凄惨な喧嘩を見た。

「死ね!」

「殺す!」

 罵詈雑言を吐きながら二人の男子生徒が本気で取っ組み合っている。

 思わず紗世はぽかんと口を開けた。

 よく見れば殴り合っている男の子たちの他に、もう一人いた。しかし彼は地面に倒れ込んだまま動かない。

 えっ、し、死んでる?

 紗世が仰天している間に、片方が相手を殴り倒した。ただ1人立っているその人は肩まで伸びた艶やかな薄墨色の髪を持つ、端正な顔立ちをした青年だった。伏せられた目元は寂しげで、まさかこんな殴り合いの乱闘をするタイプには見えない。

 地面に尻餅をついた男子生徒が「死ね!」と叫ぶ。それを受けて、薄墨色の髪の青年がクッと顔を歪めて笑った。

「あぁ、死んでやりたいとも! こんなクソッたれな世界、本当に吐き気がする。死んでやりたい。死んでやりたいね!」

 彼は男子生徒の上に馬乗りになった。腕を振り上げて相手を殴る。数発をもろに顔に喰らった男子生徒が意識を飛ばしたが、彼の追撃は止まらない。

 男子生徒の手がダランと伸びたのを見て、紗世は考えるより先に駆け出していた。

「す、ストップ、ストップ、ストップ!やりすぎだよ!」

 紗世が青年の腕に縋り付いて止めると、彼が振り返って紗世を睨めつけた。

 青年がα性だと瞬時に分かった。αの威圧をモロに受けてしまい、紗世は腰が抜けて立てなくなる。それでも最後の意地でもその手は離さなかった。

「それ以上はダメだよ。落ち着いて」

 その時ふと青年の青い瞳から怒気が消えた。鼻をスンとひくつかせる。紗世が纏うフェロモンに反応したのだ。その匂いを嗅ぎつけて、……次の瞬間彼は驚愕し、顔色を白くした。

「君……っ。どうしてっ……?」

 青年が言葉を続けるより先に、その時、一人の少女が校舎側から走ってきた。

「あーっ! オーウェン、やっと見つけたぞこのヤロー!」

 金髪の長いおさげ髪の少女を見て、同じクラスのアリス・アヴァロンさんだ、と紗世は思った。今年初めて一緒のクラスになったから、話したことはあるけれど親しくはない。

 駆けつけたアリスは目の前に広がる惨状に目を剥いた。

「えっ、え? いやちょっと待って。何この状況?」

 オーウェンと呼ばれた青年はフーッ、と深い息をついて座った。気絶した男子生徒の腹の上に。

「やっと来た。遅かったなぁ、アリス」

「いやいや、突然どこかに行ったのはオーウェンでしょ? あと、この現状は何?」

「アリスが俺を置いていくからさ、そこら辺のαに絡まれたんだよ。新顔なのに生意気だってさ。この学校、治安悪くない?」

「悪くないよ! っていうか喧嘩なんてできたの。筋力ないくせに」

「今日初めて人を殴ったけど、結構できるもんだね。でも手も痛いし疲れたから、多分もうしない」

「いや、貴方の今の気持ちは分かってるつもりだけど、これはやりすぎ!」

「もういいじゃないか。終わったことだし、静かになった」

「静かにさせたんでしょ!」

 オーウェンはアリスの声を振り払おうとするかのように、うざったそう頭を振った。それから、冷たい眼差しで紗世を見下ろす。

「……君さ、いつまで俺の手を触ってるの? 気持ち悪いんだけど。離してくれない?」

 そう言って緩く紗世の手を振り払った。

 アリスもようやく紗世の存在が目に入ったようだ。

「あっ、藤丸さん……」

「何。君たち知り合い?」

「クラスメイトだよ」

 白い校舎に、チャイムの音が反響した。アリスが慌て出す。

「オーウェン、不味いよ! 職員室に行かないと」

「えー、面倒くさいな」

「つべこべ言うな!」

「というかさ、ここの状況放っておくの? 俺が言うのも何だけど、彼らを放置するのは人間としてどうかと思うよ?」

「それが分かってたら始めから喧嘩するなー! ……でも仕方がない。彼らには犠牲になってもらいましょう」

「流石、俺のいとこだよね。そのろくでなし具合、血の繋がりを感じるよ」

「いや、私なにも悪いことしてないよね?」

 アリスはその後もいろいろ文句を言いながらオーウェンを引きずるようにして校舎裏から出て行った。あの甘やかな香りも同時に遠ざかっていく。

 ……やっぱり。どう考えても、私の運命の人はあのオーウェンと呼ばれていた男の子ですよね?

 紗世は呆然とした。

 何にショックを受けたのか分からなかった。運命の出会いだと思ったのに、乱闘騒ぎが行われていたから? 彼が人を簡単に殴り倒していたから? 彼に威圧されたから?彼に冷たく「離してくれ、気持ち悪い」と言われたから? いや、全部だ。全部衝撃的すぎた。

 それから紗世はハッとして周りを見た。

 二人の男子生徒は気絶したままだ。

「え……、どうしよう……」

 紗世は腰が抜けたまま動けない。だからポツンと心細げに呟いた。


 結果から言おう。

 殴り合いの喧嘩を起こしたオーウェン・エヴァンズと他二名は、学校から一週間の謹慎処分を下された。

 ちなみにオーウェンは紗世のクラスの転入生だった(しかも席は紗世の隣である)。しかし彼は教室に入る前に謹慎を食らったのだ、そりゃあクラスでは彼の話題で持ちきりになった。

 そんな中、アリスが紗世に話しかけてきた。

「藤丸さん。さっきは放ったらかしにしてごめんなさい。先生から聞きました。オーウェンに殴られて伸びていた二人の男子生徒を藤丸さんが介抱してくれたって」

「介抱ってほどじゃないよ。ただ保健室の先生を呼んで、二人のクラスの担任の先生に事情を話しに行っただけ」

「本当にすみません。本来なら私が……っていうか、オーウェンがやるべきだったんですけど、職員室で手続きがあって……」

「うん、いいよ。それよりその、オーウェン君、も、大丈夫だった? だいぶ彼も顔とか殴られてたけど」

「さぁどうでしょう。どうでもいいです」

 アリスは本当にどうでも良さそうだった。紗世はオーウェンの顔がとても綺麗だと思ったから、傷の具合がちょっと気になるけれども。

 アリスはおずおずといった様子で紗世を上目遣いで見た。

「それより藤丸さんの方が大丈夫ですか? オーウェンの威圧を受けてましたよね?」

「あぁ。うん、まぁ平気だよ」

「本当に……? あの、不躾だと思うんですけど藤丸さんって」

「うん、Ωだよ」

 基本バース性は公開しないが、学校という狭い空間の中では自ずと誰が何のバースか知られるものだ。

 紗世も、アリスがαであることを知っている。

「正直しばらく立てなかったけど、それだけ。体調にまで影響してないよ」

「それは良かった。でもごめんなさい。オーウェンが登校したら彼にも謝らせますから」

「うん……」

 紗世はオーウェンの席に目を向けた。彼は結局この教室に来ていないから、その中身は空っぽのままだ。


 世界には、二種類の性別がある。

 一つは「男性」「女性 」の性。そしてもう一つは「α」「β」「Ω」という三種類のバース性だ。

 この三種類の性の特徴と人口の割合は以下の通りである。

 まずは、人口の70%を占めるのがβ性。βはいわゆる"普通の人"で、これといった特徴はない。

 次に、人口の15%を占めるα性。αは〝優れた人〟として社会に認知されていて、実際に容姿や才能が際立ち、社会的な成功をおさめている人が多い。

 最後は、同じく人口の15%を占めるといわれるΩ性。Ωの特徴は、なにより「発情期(ヒート)」があることだ。約3ヶ月に1度の周期で現れるこの発情期のとき、Ωは当人の意思に関係なく、1週間ほど強い発情フェロモンを撒き散らして周囲の人を誘惑してしまう。

 もちろんΩ自身も発情期にはαやβに欲情してしまっていて、その間は発情と繁殖以外に何も考えられなくなるほどの脱力感や性欲の増進などに悩まされてしまう。

 ただし、今はその発情を抑制する薬も進歩しており、紗世もそれを服用することで発情期を抑え、休まず学校に通うことができている。

 また、αとΩには「番」という特別な関係を結ぶことができる。

 「番」が成立すると、αは番以外のΩの発情フェロモンに惹かれにくくなり、Ωは番以外に発情フェロモンを出さなくなる。

 そしてよくドラマや映画で扱われる題材だか、「番」には「運命の番」などと呼ばれるものがあるらしい。

 「運命」で結ばれるαとΩは顔を見た瞬間に稲妻に打たれたような衝撃を覚え、恋をする。お互いのフェロモンが心地良いと感じ、離れがたくなる。理性などを飛び越えて、本能のままに愛し合うという。

 都市伝説のうえに眉唾ものだが、この「運命」こそが、昔藤丸が紗世に言って聞かせたものだし、紗世が内心心惹かれている関係だった。

 ……けれど。

 ベッドでうつ伏せで寝転んでいた紗世は、オメガバース性について調べていた携帯を置いた。

「あのオーウェン・エヴァンズって人が私の運命の相手? 本当に?」

 特別なフェロモンを感じたか? →それは感じた。

 出会った瞬間に稲妻のような衝撃が走ったか? →たしかに稲妻のような衝撃は受けた。けれどそれはオーウェンと出会ったから衝撃を受けたのか、それとも取っ組み合いの喧嘩に立ち会ったからショックだったのかが分からない。

 一瞬で恋に落ちたか。 →恋に落ちる以前に、オーウェンが馬乗りになって人を殴っていたことが驚きすぎて何も考えられない。確かにあれ以来ずっと彼のことは考えているが……これは恋なのか?

 オーウェンも紗世と同様に恋に落ちていたか? →いや、絶対に落ちていない。触るなキモい(意訳)と言われた。

「あれ……、あの人、私の運命の人じゃないのかな」

 あの時、本能では運命だと確信したつもりだったけれどその自信がなくなってきた。

 紗世はボスン、と枕に顔を埋めた。まぁいいや。オーウェンが謹慎を受けてから1週間が経つ。明日、彼が登校してくる。

 その時きっとはっきりするだろう。


 さて、オーウェンはどんな顔をして教室に入ってくるのかと思ったが、彼は相当面の皮が厚かった。殴られた青あざが右頬に残っていたけれどそれを隠そうともしない。そして多少の傷があっても、彼の白磁の美貌は全く揺らがなかった。

「初めまして、オーウェン・エヴァンズです。イギリスから来ました。このクラスにいるアリス・アヴァロンとはいとこの関係です。これからよろしく」

 若干投げやりで棒読みな感じを受ける自己紹介であったが、オーウェンがにっこりと綺麗に微笑むと、クラスのほとんどの人間が彼に魅了された。

 「転入前に謹慎を受けたヤバい奴だ」という前評判がクルーッと手のひらを返され、「さすがα。俺たちのできないことを容易くやってのける。そこに痺れる憧れる」と判断を下されてしまった。

 そして彼は登校初日にただ席に座っているだけで、あっという間にクラスの中心になってしまったのだった。

 例えば紙パックで飲み物を飲んでる生徒を見て、「メロンオレ?へぇ。どんな味がするんだろう?」とオーウェンが首を傾げると、次の休み時間には何本ものメロンオレが献上されたし、授業終わりに宿題のノートが返却され、その分配をオーウェンが先生に頼まれた時(転入したばかりのオーウェンに頼む先生も先生だが)、オーウェンが「どうしよう。このクラスの人の顔と名前を覚える気がないんだ」と途方に暮れたように呟くと、周りの人が代わりにノートの配布を行った。

 周囲の人間をせこせこ働かせて、自分は席に座ってメロンオレを飲みながら興味も無さそうに眺めている。

 そんなオーウェンを見て、「こ、この人すごく性格悪そう!」と紗世は戦慄した。

 そして昼休み。アリスがオーウェンを引きずって紗世のところへやって来た。

「さぁオーウェン。藤丸さんにこの前の謝罪と感謝の意を示して。それぐらい貴方にもできるよね?」

「えー? ……あぁ、はいはい。α同士の諍いの中に無闇に突っ込んできたあの女の子ね。そうだったね、確か藤丸さんっていうんだった」

 オーウェンは冷めた青い瞳を紗世に向けた。

「俺の後始末をしたせいで君、遅刻扱いになったんだって? 他人のことなんて放っておけば良かったのに。君って見上げるほどお人好しなんだなぁ」

「オーウェン!」

「先日はありがとう。そしてごめんね?」

 一欠片も感情が篭ってない、棘のある言葉だった。紗世はもちろんムカッとした。

 オーウェンからは新緑と果実の特別な香りがする。けれどきっと、彼は運命の人じゃない。

「別にいいよ、エヴァンズ君。きみに殴られた2人が可哀想だったからあぁしただけ。全然、きみのために動いたわけじゃないから」

 普段の紗世らしからぬ言葉を吐いた。彼女は本当は、オーウェンの人形のように美しい顔に痛々しい傷がついたことにも、もちろん心を痛めていたのに。

 オーウェンは僅かに目を見開いて、「へぇ、そんな事言っちゃうんだ」と歪んだ笑顔を浮かべた。

「俺たちあんまり相性が良く無さそうだね。君に近づくのはよしておくよ」

「うん。そうして」

「なんで謝りにきたのに喧嘩してるの、オーウェン! 日本に来てから好き放題しすぎだよ、はぁ。……じゃあね藤丸さん。こんな奴だから本当、近づくのはよした方がいいかも。じゃ!」

「うん」

 アリスは今度はオーウェンの背中を押して紗世から離れていく。紗世はオーウェンを見つめて、そして顔を背けた。

 彼は、きっと私の運命の人じゃない。

 同じクラスだから毎日顔を合わせてしまうけど、きっともう関わらない。

 そう思っていた。


 紗世の通う高校には『耐寒登山』という珍しい行事があった。寒さに耐えながら冬の雪山に登ることで、その心身を鍛えるのだとか。その理念を生徒たちは全然理解できないのだけど、学校行事には逆らえないので、結局みんな不満を言いながら登山をすることになる。

 当日は、3人〜6人の班になって、決まったコースを回るのだ。

 HRの時間に班決めの時間が設けられたのだが、すでに班を決めた紗世は友人と「毎年登山なんて大変だよね〜」とまったりしていた。しかしお隣のオーウェンの席は大変そうだった。

 多くの生徒がオーウェンを自分の班に引き入れようとやいのやいの騒いでいるのだ。

 オーウェンはしばらく王子様のような澄まし顔で事の成り行きを見守っていたが、最後の最後にこう言った。

「ごめんね。僕、そういえばアリスと藤丸さんと一緒の班になるって、約束をしていたんだった」

 そんな約束、初耳です。

 隣で爆弾発言を落とされた紗世は数秒固まった。オーウェンの周りにいる生徒たちもしばし沈黙していた。

 最初に我にかえった誰かが「えっ、でも!」と口を開いたが、オーウェンは彼を冷たく見返した。

「文句あるのかな?」

 絶対的に強者なαの前では、結局誰も何も文句を言えなくなってしまったのだった。


 昼休み、紗世は中庭へオーウェンとアリスに呼び出された。

 オーウェンの世話役としてすっかり板についてしまったアリスがまた紗世に謝罪する。

「ごめんなさい、ごめんなさい。この横暴な王様がまた貴方を巻き込んでしまって。本当にごめんなさい」

「うーん。今回は正直……戸惑ってる」

「うぅ、そうですよね。友人関係に亀裂とか入ってませんか?」

「今のところは大丈夫だけど、次回からはやめてほしいかな」

 友人たちは紗世が班から離れることをこころよく快諾した。というかオーウェンの望む通りにしろ、と逆に説得された。学校社会でもバース性のカーストは存在するのだ。

 紗世はチラリとオーウェンを見た。

「というか、どうして私なのかな。エヴァンズ君の方から、私に近づかないって宣言したよね? 私だってそのつもりでいたんだけど」

「そう。その距離感がいいんだよ。アリスもいとこで俺の性格を知ってるから、俺に過度の期待をしない。俺にたかってくる人間が気持ち悪いんだ」

「何それ」

 オーウェンの周りにいる人たちは彼の気を引きたくて懸命なのに。その気持ちがオーウェンに否定されるのを見ると、紗世の心は痛くなった。

「それならみんなに良い顔をしなければいいのに。転入初日に喧嘩をするのも不味かったんじゃないのかな。きみは目立って仕方がないよ」

 まさか言い返されるとは思わなかったのかオーウェンは片眉を上げた。それから口の端を上げて微笑む。

「いや、まいったよ。君って結構正論をついてくるんだな。……そうだね。あの乱闘騒ぎはやり過ぎたよ。むしゃくしゃしてて、誰かに八つ当たりしたい気分だったんだ」

「それも……酷いと思うよ」

「そうだね。言い逃れはできないな」

 少し伏せられたオーウェンの眼差しは悲しげで、それを見た紗世は胸が突かれる思いがした。

 オーウェンが顔を上げて、紗世を見る。そしてにこりとまた笑った。

「もちろん彼らにも悪いことをしたと思っているよ? ……うん。でも、ほらぁ、自業自得だしね。最初にあっちから殴ってきたんだし、俺は正当防衛だったんじゃない?」

「つまり喧嘩したこと自体は反省してないってこと?」

「そうだねぇ、これっぽっちも」

 ドン引きしている紗世に構わず、オーウェンは続けた。

「そもそも、俺の態度と俺への注目度は実はそれほど関係がない。俺がどんなことをしても結局は人目を引いてしまうのさ。へっぽこなアリスと違って、俺のαのフェロモンの力は強いみたいだから」

「はぁ? どうしていきなり私を引き合いに出したの、オーウェン! しかも悪口かこのやろー!」

 殴りかかるアリスの手を笑いながら掴んで止めて、オーウェンは紗世に言った。

「とにかく俺に興味津々な輩に囲まれて登山をするのは勘弁願いたいんだ。申し訳ないけど1日だけ付き合ってよ、藤丸さん。お願い」

 下手に出られると紗世は弱い。そもそも班のメンバーは確定してしまったから、今更オーウェンたちと離れたいと思っても紗世はどこにもいけないのだ。

「分かった。とりあえず当日はよろしくね、アリスさん。エヴァンズ君。私、次の授業の準備あるから教室に戻ってる」

「はい。じゃあまた後で」

「うん」

 中庭を去っていく紗世を見送って、アリスは拳を下ろすとオーウェンと向き合った。

「私もオーウェンに聞きたいんだけど」

「何?」

「どういうつもり? どうして藤丸さんを巻き込んだの?」

「さっき説明しただろ。本当はきみと2人きりの班が俺にとっては最善だった。だけど班のメンバーは3人からだっていうしさ、人数合わせさ」

「だからってどうしてあの娘なの? 藤丸さんはΩなんだよ?」

「へぇ。アリスがバース性の差別をするとは思わなかったな」

「違うよ! Ωの藤丸さんがオーウェンの傍にいたら周りからどう思われると思う?  自分が人気者だって分かってるでしょ、オーウェン。傍に置くならあの娘をちゃんと守らないと! でも貴方、何もしてあげない気でしょ」

「……」

「ねぇ。こんなことは言いたくないけど、今の貴方は本当にめちゃくちゃだよ、オーウェン。ティターニアさんのことは、私も今でもすごく悲しい。だから私は付き合うけど、他の人は巻き込んじゃダメだよ」

 オーウェンは黙った。その暗い目は心を閉ざしていて、誰の言葉も受け付けないように思われた。


 耐寒登山当日の朝、リビングで荷物の最終チェックを紗世が行っていると、朝食のシリアルを食べる彰吾が声をかけてきた。

「今日登山なんだ」

「うん」

「いいなぁ。俺も勉強より山登りがいいな」

「でも結構きついんだよー」

「友達とわいわいできるからいいじゃん。今年もまなちゃんと一緒の班なんだろ?」

 まなちゃんとは紗世が小学生のときから友達の女の子の名前だ。確かに本来なら彼女と一緒の班のはずだった。

 紗世は視線を所在なげに彷徨わせてから、それを手元に落とす。

「うん……、そうなの」

 オーウェンのことは何となく藤丸には話せていない。どう説明していいか分からなかったから。


 行きのバスでは、アリスと隣同士で座った。彼女らはもともと気さくな少女だったから、すぐにお互い打ち解けた。

「毎年の行事だけど、耐寒登山って嫌だよね」

「雪が降ってるか降ってないかで難易度違いますしね」

「今日はどっちだろ」

「今朝ネットで確認したんですけど雪、結構積もってるみたいですよ」

「うわー」

 紗世は天を仰いだ。でもそうか、ネットで天候を調べる術があるんだ、と気がついて、今の山の様子を確認しようと鞄からスマートフォンを取り出そうとしたとき、手に菓子箱があたった。

「あ。私、お菓子持ってきたんだ。アリスさん、食べる?」

「わー、食べたい! 私もチョコレートあるんで交換しましょう」

 それからアリスは中腰になって、前の席に1人で座るオーウェンの方へ身を寄せた。

「オーウェン。オーウェンもチョコレート食べる?」

「んー?」

 オーウェンはバスに揺られて微睡んでいたようだ。あどけない表情で、アリスに促されるまま手を伸ばしてくる。

 それを見て、菓子袋を見下ろした紗世も恐る恐る言ってみた。

「えーっと、このお菓子もいる……?」

「んー、うん」

 うん。って言った!

 いつものトゲトゲしい雰囲気が無い。ドキドキしながら紗世が渡したお菓子を、彼は素直に受け取ってサクサクと齧り始めた。

「……っていうかさ、まだ山にも着いてないのにお菓子パーティー始めていいのかい? そんなんでお昼ご飯お腹に入る?」

「お菓子は別腹だから良いんだよー」

「いいねぇ、女の子は胃袋がいくつもあって」

 それからオーウェンは欠伸をして、少し寝るよ。と言って目を閉じた。


 山は、アリスがバスの中で言った通り雪が積もっていた。山の斜面は途中の道から凍っているらしく、氷化した土の上を歩く時に滑り止めとして靴底に装着する、アイゼンが配布される。

 防寒はしているが、外はかなり冷え込んでいた。

「とうとう来たね、紗世」

「うん。それとすごく寒いね。私カイロ持ってきたんだけど、アリスもいる?」

「1つ持ってるけど、もう1つあるならいる!」

「……なんだか君たち、バスに乗ってた間に随分仲良くなってない?」

「なってるよ」

「女の子はコミュ力あるよねぇ」

 オーウェンはすかした顔をしていたが、やはり寒そうではあった。白い息を吐き、コートについた首周りのファーに口元をうずめている。

 貼らないカイロを取り出した紗世は、まずアリスに一つ渡して、それからオーウェンにも差し出した。

「はい、エヴァンズ君」

「は?」

「あれ。いらない?」

 バスの中では柔らかい雰囲気だったけど、あれはやはり眠かったからのようだ。

 冷たく見返されて紗世はしおしおと視線を下に落とした。

「……、君って本当、お人好し」

 オーウェンはため息をついて紗世からカイロを受け取った。

「ありがとう」

 それから登山コースの地図を広げているアリスの方へ彼は寄って行った。紗世はオーウェンの方をチラと見つめて、リュックを背負い直した。


 オーウェンとアリスは仲がいいから、最悪紗世は仲間外れにされて山を登ることになるかもしれない、と覚悟をしていた。

 けれどそれは杞憂だったようだ。アリスは紗世の隣を歩いた。少し前に進んだところにオーウェンもいたし、普通に会話に入ってくる。道中では彼が持ってきた飴玉をそれぞれが舐め(オーウェンが1人で食べようとしたところをアリスが咎め、こちらに分けさせた)、和やかな会話を続けた。

「山って言うより、丘だな。森の景色も俺が知っているものとだいぶん違う」

「まぁイギリスは色々尖ってるもんねぇ」

 紗世は山中を見返した。かなり高低差がある気がするけれど、これが丘なのだろうか?

 滑らないように慎重に歩を進めながら、紗世はアリスに尋ねた。

「イギリスは尖ってるの?」

「イギリスに限らず、ヨーロッパの山の方が日本の山より高くて険しいと思うよ」

「アリスもイギリスにいたんだっけ?」

「親の転勤で日本に来るまではイギリスにいたよ。オーウェンの隣の家に住んでた」

「へぇ。イギリスに帰りたくならない?」

「長期休暇のとき結構帰ってるから大丈夫。日本も嫌いじゃないし。日本食、大好きなんだ」

「そっかぁ。でもいいな、私、イギリスって憧れちゃう」

「……どうかな。俺からこんな話をし出したとこ悪いけれど、良いもんじゃないよ、あんな国」

 オーウェンが振り返りもせずに言った。

「よく雨が降って陰鬱だ。一日の中で寒暖差があるから振り回される。冬の期間が長くて春が短い。良い思い出なんてあまりないね」

 アリスが若干顔を曇らせた。しかしそれを振り払うようにすぐに笑顔になる。

「確かにフランスの方が気候は落ち着いてるよね。ドイツもイギリスの気候よりか穏やかかも。まぁ、どの国も日本より冬は平均的に寒いんだけど」

「そうなんだ。ヨーロッパの国って全部一緒くたに考えてたけど違うんだね」

 微妙な空気の変化に紗世は気づかないフリをする。紗世が触れて良い話題ではないと思ったから。

 アリスと当たり障りのない会話を続けながら彼女は足を動かすことにとにかく集中した。去年は友達と喋りながらダラダラ登っていたけれど、オーウェンとアリスのペースは早い。実は少し息が上がっている。それでも紗世は頑張れた。……オーウェンから時折、木々と果実の香りがするから。その香りが漂ってきたときは、紗世は2人にバレないようにそっと呼吸を深くする。

 紗世はオーウェンの背中を見つめた。

 きっとこの人は、母国のイギリスだけじゃなくて自分自身のこともあまり好きではないのだろう。紗世はそう思って、なぜか寂しくなった。


 ちょうど昼時に山中の休憩所にたどりついた。休憩所では班のリーダーが集められたので、リーダーであるアリスが行ってしまい、紗世はオーウェンと2人きりになった。

 無言のままだと気まずいので紗世はレジャーシートを広げて昼食の準備をする。レジャーシートの上ではアイゼンはつけられないからそれを外そうとした。

 横にいたオーウェンは身近の適当な岩を選んで積もった雪を払い、そこに座った。頬杖をついて紗世を見る。

「君さ、大丈夫かい?」

「え?」

「顔色が悪い気がする。疲れた?」

「えっと、少しだけ……」

「気づかなくて悪かったよ。午後はもう少しペースを落とそう」

 紗世は顔を赤くした。

「あ、ありがとう」

 オーウェンに見つめられるのが気恥ずかしくて、紗世はアイゼンを外す手を早めようとした。けれど焦っているせいか絡まって訳がわからなくなっている。

 するとオーウェンがため息をついて立ち上がり、紗世の前にかがんだ。

「貸して」

 ふわりとあの香りがする。

 オーウェンの、男にしては綺麗な手が迷わずアイゼンのベルトを外していく。

「これ、外してしまっても後で自分でつけられるの?」

「た、多分」

「その答え、不安になるなぁ。……ほら、外れたよ」

「ありがとう」

 紗世はオーウェンを見た。オーウェンも紗世を見ていた。その瞬間、目には見えない糸が繋がったと思った。疑いようがない。2人の間にはやはり、確かに特別な空気がある。

 紗世だけじゃない、オーウェンもそれに気が付いているはずだ。

 彼は言った。

「藤丸さんは、運命の番って信じる?」

 紗世の心臓が大きな音を立てた。その後も早鐘を打って、頭の中の血を沸騰させる。

 どうしてその言葉を今出したの。どうしてそれを紗世に聞くの。その質問を投げかけた、彼の意図は何?

 紗世は早る気持ちを抑えて震える声で言った。

「う、運命なんて、よく都市伝説だって言われてるよね……。でも、私は」

 信じてるよ、と続ける前にオーウェンが口を開いた。

「都市伝説じゃない。現実にそれは存在する。なぜなら俺は、すでに運命の番を得ているから」

 紗世はその時、世界から置き去りにされたと思った。それとも、絶望の海に突き落とされてしまったのか。目の前が真っ暗になって、頭がキンと冷える。遠くの方から、オーウェンの声が聞こえてくる。

「俺にはもう彼女がいる。彼女がいてくれたから、それでいい。だから俺は他には要らない。彼女の他には、もう誰も要らないんだ」

 その後をどうやって終えたのか、紗世はあまり覚えていない。でもなんとか表面上は取り繕って下山をし、バスに乗り、帰路についたのだろう。

 ただその間も紗世はずっと考えていた、オーウェンのことを。

 人に暴力を振るっていた彼のこと。

 その眼差しがとても哀しげだったこと。

 完璧な笑顔を浮かべる彼が本当は、この日常や、周りの人間のことをどうでもいいと思っているだろうこと。

 自分にまとわりついてくる人間を気持ち悪いと言って、冷え冷えとした目で笑ったこと。

 バスの中でまどろんでいた、彼の顔が意外にもあどけなかったこと。

 紗世からお菓子を受け取り、それを素直に食べたこと。

 結局はカイロを受け取ってくれたこと。

 イギリスのことを語る彼の背中が寂しそうだったこと。

 紗世の体調を気にしてくれて、アイゼンを取ってくれた、彼の分かりにくい優しさに触れてしまったこと。

 自分をひたと見返した、冬の空のように澄んだ青い瞳のことを。

 ……あぁ。まだオーウェンに出会ってから間もないのに。彼のことなんて全然知らないのに。いつの間にかこの心は、彼のことでいっぱいになっていた。


 家に帰ると彰吾がソファーの上でゲームをしていた。紗世がリビングに入ってきたので、彼は顔もあげずに言う。

「おかえりー。今日めちゃくちゃ寒かったよね。登山楽しかった?」

 返事がなかったので、彰吾はひょいと視線をあげた。そして紗世を見て、びっくりした様子で身を起こした。

「えっ! どうしたの、紗世?!」

 彰吾は慌てて駆け寄ってきて、昔からそうであるように、紗世を慰めようとあわあわし始める。

 紗世は泣いていた。涙は拭けども拭けども、溢れてくる。「お兄ちゃん」と彼女は震える声で言った。

「私ね、私。......失恋しちゃったぁ」

 この恋は、きっと一世一代の恋だった。

 そして絶対に叶うことがない恋だ。

 紗世がそれを自覚するより前に、オーウェンに先に拒絶されてしまった。紗世が大切にそれを抱える前に、その恋は「要らないものだ」と彼に捨てられてしまったんだ。

 それが酷く悲しかった。悲しくて悲しくて、死んでしまいそうだった。


 彰吾は子供のように泣きじゃくる紗世を慰めていたが、正直に言おう、困惑していた。彼女の頭をよしよしと撫でてやりながら内心では「え〜〜? 紗世、失恋でこんなんになっちゃうの?」と驚愕していた。

 いや失恋は悲しいよ、それは知っている。

 彰吾は紗世に言ってないけど、実は彼女がいたことがある。そしてフラれた。理由は「他に好きな人ができたから」。

 めちゃくちゃショックだったし、しばらくの間、一日中ゲームをして現実逃避をした。でも彰吾は男だったから、今の紗世のように人前で大泣きすることはなかったし、できなかった。

 そういえば紗世は、恋とか愛とかを謳ったドラマや映画が好きなわりに奥手だったな、と彰吾は思った。紗世は顔が可愛い方だし性格も明るかったから、小学校、中学校では割と男子から好意を向けられていたけど、誰とも付き合ったことがないし、そもそも誰かを好きになった、という話も聞かない。

 性別がΩだから、そこら辺も及び腰になってるのかなと思っていたけれど……。

 そんな紗世がとうとう恋をした。つまり、初恋ってことだ。初恋は叶わないっていう話はよく聞くから(実際彰吾も叶わなかった)、仕方がないよ。と彰吾は紗世の頭を撫で続ける。

「今は辛いよね、紗世。でもさ、大丈夫だよ。その人がダメでも、きっと他の人がいる。ちゃんと他の誰かが紗世のことを見つけてくれるって。だから今は悲しくても大丈夫。大丈夫だからね、紗世」

 彰吾と紗世は双子で、ずっとべったりと仲良く過ごしてきた。だけど彼はβだったから、Ωの紗世がαのオーウェンに惹かれる気持ちは分からなかった。そして紗世がオーウェンのことを〝運命〟だと思っていたなんて、つゆほども思わなかったのだ。

「他の誰かが.....いるのかな」

 紗世が泣きながら尋ねる。

 確かに、オーウェンがすでに運命を手に入れているのだとしたらやはりオーウェンは紗世にとっての運命ではなかったのだ。

 ……本当に?今も本能は彼が魂の片割れだと言っているのに。

 紗世の心情など知らない彰吾が力強く頷く。

「いるよ、絶対に。紗世も、いつかその人以外を好きになれるよ」

 オーウェン以外の人を。

 紗世は好きになって、そして、その人に好きになってもらえるのだろうか。

 紗世はぼんやりと考えた。

 いつか本当の運命と、紗世は出会えるのだろうか。


 オーウェンのことを深くは知らないが、彼が先に牽制を仕掛けてきたということは「これ以上俺に関わってくるな」と警告されたのと同義語だと紗世は思っていた。だから紗世は本当の本当の本当にオーウェンに関わるつもりはなかった。

 それなのに翌日学校で、化学を担当する担任の先生がこう言った。

「今日の3時間目の授業から、また化学の実験を複数回やっていくから。班はそうだな……この前の耐寒登山の班メンバーでいいだろう。5人以上だった班は2つに分かれておくように」

 席に座って先生を見上げていた紗世は、ザーッと音を立てて全身から血の気が引いていくのが分かった。

(え? 今の先生の言葉は嘘だよね? うそうそ、うそに決まってる。え......? これ、現実なの?)

 泣きそうになって……いや、実際紗世は半べそになって胸の前で両手を握った。

登山の班のメンバーといえば、もちろんオーウェンがいる。彼に関わりたくないと思ったのに、またもその願いは絶たれるのだろうか?

 彼女は世界に絶望した。隣の席にいるオーウェンの方を見ることができなかった。


 どんなに嫌がっても理科の授業にはなってしまうから、紗世は腹をくくった。オーウェンとは、あくまでも業務的に接するのだ。彼に冷たくされても構うもんか。

実験室に向かうと、オーウェンとアリスはすでにそこにいた。アリスが笑顔で紗世を振り返る。

「紗世、これからよろしくね」

「うん、よろしく。アリス」

 オーウェンの視線も感じたけれど紗世はそちらを見なかった。

実験は有機化合物の性質を調べるために、フェーリング液の還元比率を測る、というものだった。

 アリスが4本の試験管にフェーリング液をスポイトで注いでいると、それを確認していたオーウェンが難しい顔をして言った。

「アリス。フェーリング液は3mlずつ注ぐってことだけど、……俺の目がおかしいのかな? 試験管に入ってる量が均一じゃないんだけど?」

「本当? ちゃんと測ったつもりだけど、まぁもしかしたら違うかも」

「相変わらずこういう所適当だな、きみ? ……まぁいいか。いや良くない。あまりにも揃ってなさすぎて気持ちが悪くなってきた」

 オーウェンがフェーリング液の量を測り直し始めた。彼にスポイトを渡したアリスがやれやれと席について、次の手順を確認している紗世に話しかける。

「オーウェンって昔からこういう所あるんだよね。変に真面目っていうか。細かいところを気にする男の子って、ちょっと嫌だよね」

「悪口を言うならせめて本人のいないところでするのがマナーだよ、アリス」

「悪口じゃなくて、事実だから」

「あぁ。世の中のイジメってのはこうやって発生するんだろうなぁ」

 オーウェンに入れ直された4本の試験管のフェーリング液は、見事なまでに均一だった。紗世はそれらに0.1gのグルコース、フルクトース、スクロース、マルトースをそれぞれ加えていく。

「でも意外。アリスって細かい作業が苦手なんだね」

「えっ! ちちち、違うよ、紗世! 誤解しないで、化学の実験がちょっと細かすぎるから嫌なだけで、物理の実験とかではむしろ私、役に立つから」

「その言い方だと物理選択者はアリスみたいなズボラな人間だって思われそうで嫌だなぁ。それは酷く心外だよ。訴えたら勝訴できるレベル」

「なんだとオーウェン、このヤロー!」

「怒らないでくれ。悪口じゃなくて、事実だから」

 紗世は4本の試験管を、90度に温められたジュワー瓶にいれた。あとは3分待つだけだ。彼女は丸椅子に座った。

「2人とも物理選択なんだね。凄いな。私、一年生の時の等加速度運動で躓いちゃったから選択しなかったよ。等加速度運動の公式がうまく使えなくてさ」

「公式……? でも、物理なんて公式を覚えなくても問題解けるよね?」

「え?」

「私はむしろ暗記ものが苦手で。数学や理科は何も覚えなくていいから、楽だと思う」

「ちょっと話の次元が違うような」

 オーウェンに尋ねても、彼は数学や理科の問題を解く上で公式を特別覚える必要はないと答えた。

「あ、だけど誤解しないで〜? アリスと違って、俺はちゃんと暗記ものの教科も点数をとれるから」

「オーウェン、いちいち腹立つなぁ」

「ただ古典がね。この通り現代の日本語は流暢なんだけど、まさか800年前の言葉も勉強させられると思わなかったから、正直参ってる」

 普通にオーウェンと会話できてるな、と思いながら紗世は頷いた。

「確かにエヴァンズ君にとっては辛いよね。でも定期テストレベルの古典なら、授業のノートを見ればどこが重要で、どうやって問題に出るかなんとなく分かるでしょ?だから大丈夫だよ」

「え?」

「ひぇっ……」

 オーウェンとアリスが真顔で同時に紗世を振り返った。2人はバリバリの理系だったから、古典の授業ノートを見返してもどこがテストに出るのか分からなかった。というかむしろ、ノートをとる必要性を実は感じていなかった。ノートに書き込む作業は、平常点を獲得するための手段だと判断していたのだ。

 紗世を見る2人の目はさながら獲物を捉えた猛禽類のようで。αの圧をもろに受けたΩの紗世は縮こまった。

 ちょうど期末テストが迫る時期でもあった。だから何故かその理科の授業が終わるまでに、紗世はオーウェンとアリスと一緒にテスト勉強をすることを約束させられていた。


 最初、勉強をする場所は近くの喫茶店やファミリーレストランだった。けれどオーウェンが人目が気になると言うので(実際紗世が分かるぐらいに彼は客や店員からの視線を受けていた)、学校近くの図書館で勉強をすることにした。しかし図書館は5時で閉まってしまう。

 早々に図書館を追い出されてしまってから、オーウェンはくれなずむ空を見上げ、言った。

「仕方がない。これからは俺の家で勉強しよう。一人暮らしだから、何の気兼ねもいらないしね」

 え。と紗世とアリスが声を上げる。

 アリスは紗世を気にしながら顔を顰めた。

「それはちょっと……いやかなり不味いと思うよ」

「そうかな? 人目がない、静か、時間制限もない、お金もかからない、いい事尽くめだと思うけどね。食いしん坊のアリスのために、今なら飲み物とお菓子もつけてあげてもいい」

「そういうことじゃなくて。私はいとこだからいいよ。でも紗世がオーウェンの家に行くとなると......それを学校の誰かに見られたら、どう思われると思う?」

「それを気にするのは今更だと思うね」

 そう。実はあの日理科の授業が終わってからこちら、3人は普段から学校生活を共にするようになった。お昼ご飯を一緒に食べるし、移動教室へ連れ立って向かう。勉強をするために時折3人で帰っているから、クラスではこのメンバーでグループが固定しつつある。

 オーウェンの気を惹きたがる生徒たちも、いつの間にか静かになっていた。

 紗世は別段前にいたグループの子たちと剣呑になったわけじゃない。今だってよく話すのだが、彼女たちは「αにはとりあえず盾つくな」というスタンスだったから、会話の途中で紗世がオーウェンに呼ばれても文句を言わなかった。

 紗世は、オーウェンのことを「友達」として見ようと努力していた。

 彼が雪山で「運命の番」の話を突然持ち出した理由は、紗世を牽制しようとしたからだと、今でも思っている。だけどオーウェンはきっと、すでに紗世がオーウェンに恋をしていることには気づいていないのだ。

 そしてオーウェンは、きっと紗世に「友達」の距離感を望んでいる。なぜなら彼はあの日からこちら、オーウェンに近づきすぎないように慎重に距離を測っている紗世に冷たくしたことがない。

 紗世にとっても、オーウェンとアリスと一緒にいる現状は意外と心地よかった。だから紗世は、彼女の恋心をなんとか心の奥にしまい込んで、オーウェンを男友達と思おうと努めていた。

 ただし、オーウェンの家に行くのは話が別だ。

「うーん。私もエヴァンズ君の家に行くのはちょっと……」

 オーウェンもアリスもαなのだ。何も起こらないとは思っているけど(オーウェンにはそんな目で見られていないし)、慎重になるに越したことはないのではないか。

 オーウェンは紗世をじっと見つめ、それから視線を逸らした。

「ふーん。そう」

「拗ねないでよ、エヴァンズ君」

「あっははっ。面白いこと言うね、藤丸さん。俺のどこが拗ねてるって?」

「拗ねてるよ」

 先に行こうと踵を返したオーウェンの制服の裾を、紗世はそっと引いた。

「怒らないで、エヴァンズ君」

「……。じゃあどうしようか。アリスも、せっかく古典や歴史が分かってきたところなのに勉強の機会が失われていいのかい?」

「うっ」

 アリスは痛いところを突かれた、という顔をした。

 そして当然、紗世も勉強する場所がないというのは困ってしまう。3人はうまい具合に得意な教科と苦手な教科が噛み合っている。

 「勉強をしたい」と思えているこの波を逃したくないから、紗世は自分の家に2人を招くのはどうかと検討した。ただ、紗世の家は学校からまぁまぁ遠い。そして彰吾なら紗世が友達を連れてきても文句は言わないと思うけど、……それが頻繁ともなるとやっぱり気を遣わせてしまうだろうな。

「うーん、私の家で勉強するとか? でも村正の家族も一緒に住んでるからな......」

 アリスは親戚の日本人の家族と同じ敷地に住んでいるらしい。だから勉強場所としてそこを使うことが少し憚れるようだ。

 紗世とアリスは顔を見合わせて、それから腕を組んで事の成り行きを見ているオーウェンをチラと振り返った。

「紗世だけじゃなくていとこの私も一緒だから、学校の人に見られても問題ないよね」

「……と、友達の家に行くだけだもん。私、畏まる必要なかったかも」

 だからやっぱり、オーウェンの家で勉強させてもらおうかな。

 2人の少女におずおずとそう言われて、オーウェンは無表情のままスゥッと目を細めたあと、ニッコリと綺麗に笑った。彼は何も言わなかったけれど、その態度は「無駄な躊躇をして、無駄な時間をかけやがって」と明確に苛立ちを表していた。


 オーウェンが勉強場所に自宅を差しだす理由も理解はできるのだ。

 彼は学期終わりに転入してきたのでそもそも授業ノートが全教科揃っていないし、テスト範囲がどの程度あるのかも分かっていない。英語、数学、理科は特に勉強する必要がないというのがせめてもの救いだろうが、それでも負担がありすぎる。

 さっそく翌日から勉強場所をオーウェンの家に移した。

 リビングで紗世の古典ノートのコピーにザッと目を通し、その説明を聞いた後、オーウェンは頷いた。

「なるほどね。なんとなくそうではないかと思ってたけれど、やっぱり語彙と文法が大切だってわけか。ちゃんと理解するにはこの物語が書かれた時代背景も知る必要があるけど。今はそれは切り捨てよう。とりあてず点数をとることを優先する」

 そしてオーウェンは渋い表情をして古典単語と古典文法のテキストを手に取った。これらを暗記しなければならないのか、厄介だな。と忌々しく思ったのだ。

 その時紗世が声を上げた。

「あ、エヴァンズ君。テスト範囲に出てきそうな古典単語と古典文法はリストアップしといたよ」

「は?」

「というかね、古典では定期的に古典単語と古典文法の小テストが行われるんだよ。で、その小テストから試験問題が作られるんだ。だからまずはこれを覚えたらいいよ。はい」

 紗世はクリップで束ねた数枚の紙をオーウェンに手渡した。

「それぞれの単語と文法がどんな意味をもつかテキストで調べられるように、解説が乗ってるテキストのページを書いておいたから、参照してね」

 オーウェンが確認したところ、確かに単語一つ一つに手書きでページ数が書き込まれている。それどころか「最重要」「重要」「できれば覚える」とランクづけまでされていた。

「文法の方は、先生が特に力を入れて解説した文章に星印をつけておいたから、それから覚えたらいいよ。それと印がついてる文章は文法だけじゃなくて現代語訳の問題が出るかもしれないから、その方も丸覚えしといてね」

「……」

「いいなぁ、それ。オーウェンだけ狡い!」

「えへへ、そう言ってくれると思ったからアリスの分も用意してあるよ。はい」

「え、本当? いいの? やったー、わーい! というか凄い! 分かりやすいよ、これ。紗世、ありがとう!」

 はしゃぐアリスと違って、オーウェンは困惑した様子だった。

「藤丸さんさ、テストのたびに毎回こんなことやってるのかい?」

「えっ、ううん。違うけど」

「だよね。確かに俺は勉強を教えてもらおうと思って藤丸さんを家に呼んだけど、ここまでしてくれなくていいんだよ。印刷代もかかってしまうだろう。何より君もテスト前なんだ。こんなことをするより、自分の勉強をやりなよ」

「……家にコピー機があるから印刷代はかかってないんだよ。それにまとめることで、私自身も古典の勉強になったし。……でも、エヴァンズ君はそういう事を言いたいんじゃないよね。ごめんね、押しつけがましかったかな」

「……」

「気にすることないよ、紗世。オーウェンってこういう言い方しかできないんだ。素直に感謝できないって損な性格だよねぇ」

「うるさいよ、アリス」

「せっかくフォローしてあげたのに」

 アリスはため息をついて肩をすくめた。

「性格がひねくれてる王様のことは放っておこうよ、紗世。それよりもここの世界史を教えてくれないかな?」

「えっとね、私も上手く説明できるか分からないんだけど、ちょっと資料集貸してくれる?」

「うん」

 アリスはまた世界史の勉強に没頭しようとした。しかし携帯に電話がかかってきたことに気がつく。

「あっ。村正からだ……」

 携帯を手にとってアリスが躊躇していると、少し不機嫌な顔をしたオーウェンが古典単語のテキストから顔を上げた。

「電話、出てきたら?」

 紗世も頷いたので、アリスは「ごめん。じゃあちょっと電話に出てくるね」と言って、携帯を持ってリビングから出た。

 アリスの背中を見送った紗世は、オーウェンと2人きりはちょっと気まずいなぁ、と思ったので意識して教科書から顔を上げないようにした。

 だけど古典単語のテキストを読んでいたはずのオーウェンが、それを置いて、紗世のことを見ている気がする。

 っていうか、かなりの視線を感じる。

 多分間違いじゃない。

 紗世は知らん顔をしていたけれど、「オーウェンに見られている」と意識してしまったときから、だんだん恥ずかしくなってきた。全身から顔に血が集まってきて頬が熱い。きっと耳まで赤くなっている。

 紗世は観念してオーウェンを見た。

「あの……何かな、エヴァンズ君」

 やっぱりオーウェンは紗世のことを見ていた。

 頬杖をついて目を細める彼の顔は綺麗すぎて、パッと見た感じでは怒っているように思われた。

 でも多分、拗ねているのだ。

「……俺はアリスの言うとおり、ひねくれた男だからね。あいにくとあぁいう言い方しかできない」

「……」

「でも俺は、君が他の有象無象の輩と違って、俺の気を惹きたいがために恩を売ってくる奴じゃないって事を知っている。君は根っからのお人好しだ。君はそういう人間だ」

「えーっと、喧嘩売ってる?」

「分からないならいいよ」

 オーウェンは古典単語のテキストを広げた。

「……エヴァンズ君って、難解な人だね」

「よく分かってるじゃないか、藤丸さん」

「どうかな……。多分私はずっときみのことは分からないままだと思うな」

「そうだね、それでいいよ。ただ、きみはいつまで〝エヴァンズ君〟なんて呼んで、俺を遠巻きにするつもりなのかな」

 紗世はオーウェンを見た。オーウェンも紗世を見ていた。

「こうしてきみを俺の家に招いたことから分かると思うけど、これでも俺はきみを〝友人〟として歓迎しようとは思っているよ。だからきみもそうだったら嬉しいんだけどな、紗世」

 唐突なことで驚いたけれど、ややあって紗世は微笑んだ。

 多くの他人を拒絶するオーウェンが、確かに今、紗世に心を開いた。それが分かったからだ。

 それがとても嬉しくて、そして同時にとても辛かった。


「紗世〜、美術室行こうよ〜!」

 アリスの声に、紗世は顔を上げた。すでにオーウェンとアリスは美術の授業の用意を持って席を立っている。紗世も「うん」と頷いて、机の上に広げていた筆箱やノートを手早く片付けた。

 美術室の場所は遠くて、食堂の前を通って別棟に行かなければならないのが難点といえば難点だ。その道中の話題はもっぱらオーウェンの部屋のことだった。

「高校生で1人暮らしって凄いよね」

「本当は私の家に一緒に住む予定だったんだけど、オーウェンが最後まで我儘を言ったんだ。叔母さん、オーウェンに甘いからさ。結局あのマンションを借りたの。高校生のくせにあの広さは生意気だよねー」

「我儘って言うのはやめてくれるかな、アリス? これは自立っていうんだよ」

「その割に結構な頻度でうちに夕飯を食べに来るくせに」

「よく言うよ。俺が食べに行かなかったら行かなかったで、伯母さんや伯父さんや村正が、夕飯の入った鍋を抱えて俺の家に突撃しにくるくせに」

「みんなオーウェンのことを心配してるんだよ」

「それはそれは。本当にお優しい事で」

 肩をすくめてから、オーウェンは紗世の腕を引いた。

「うん?」

「メロンオレ買うから。待ってて」

 そう言ってオーウェンは食堂前にある自販機に向かった。アリスが彼の後を追いかける。

「私も買う! でもお財布を教室に忘れてきたから、オーウェン、買って」

「新手の恐喝かな?」

「オレンジジュースがいい」

 オーウェンはいろいろ諦めたようで、アリスにオレンジジュースを買ってやった。自分の分のメロンオレも購入し、紗世を振り返る。

「紗世も何かいるかい?」

「奢ってくれるの?」

「ついでだから」

「オーウェン、バイトを始めたって。だから何でも奢ってもらいな」

「こら、アリス。そういう事をほいほい口にしちゃいけません」

 紗世はおずおずと言った。

「えっと、じゃあ私もメロンオレが飲みたいな。いい?」

「いいとも」

 オーウェンはメロンオレをもう一つ買って、紗世にそれを差し出した。

「ありがとう……」

 とても嬉しかった。だから紗世は大切なものを扱うように両手でその紙パックのジュースを受け取り、顔を綻ばせる。

 オーウェンはそんな彼女の顔をじっと見つめた後、視線を逸らした。

 本来ならばジュースを飲みながら廊下を歩くのは禁止されている。だが、この時間は教師に見つからないだろうとたかを括って、3人は歩きながらそれを飲んだ。

 話はまたオーウェンの部屋のことに戻る。

「オーウェンは、1人で住んでいて寂しくならないの?」

「別に。ちっとも」

 肩をすくめるオーウェンを見ながら、紗世は彼の家を思い浮かべる。

 オーウェンが今住んでいるところは広々とした綺麗なオートロック式のマンションだ。部屋は2LDKで、落ち着いた色合いの英国調の家具が揃っている。彼はあまり物を置かないタイプらしく、掃除も行き届いていたから高校生の男の子が住まう部屋とは思えないぐらい落ち着いていた。だけど……。

「オーウェンは大人だね。私だったらきっと寂しくなっちゃうな」

 紗世がそう言葉を零すと、オーウェンがふ、と微笑んだ。

「そうだろうね。きみは暖かな家がお似合いだ」

「確かに紗世が1人暮らしをするってイメージが湧かないかも。紗世って双子のお兄さんがいるんだよね。どんな人? 似てる?」

「外見は全然似てないよ。でも性格は似てるってよく言われる」

 美術室についた。3人で固まって座る。

「今度私の家に来る? 紹介するよ」

「えっ、嬉しい! お兄さん見たい!」

「そう? あ、携帯にお兄ちゃんの写真あるかも」

「見たい見たい!」

 紗世の携帯をオーウェンとアリスが覗き込もうとしたとき、背後でわぁ! と声が上がった。

 思わず視線をやると、1組の男子生徒と女子生徒が向き合っていた。どうやら喧嘩をしているらしい。女子生徒の方が突然「最低!」と叫ぶと男子生徒の横面を叩いた。

 わぁ! と再び歓声が上がる。

 男子生徒は注目の的になったけれど、全く物怖じした様子もなく「いてて...」と言ってマイペースに頬を押さえていた。

 その時始業チャイムが鳴った。鳴り終わる前に先生が教室に入ってくる。そしてただ1人席を立っている男子生徒を見て、先生は言った。

「ビリー君。何故席を立っているんですか?座りなさい」

「はーい」

 ビリーは自分を叩いた女子生徒を見た。が、彼女は自分の隣に彼を座らせないつもりらしい。

 後頭部をがしがしと掻いたビリーはその時、紗世と目があった。彼はニコッと人懐っこい笑顔を浮かべると歩いてきた。

「ねぇ、お邪魔してもいいかい? 見ての通り追い出されちゃったんだ」

 何かを答えるより先にビリーは紗世の隣の席に座った。

 そして授業が始まる。先生が今日の制作課題について説明している間、紗世はビリーを見つめた。彼はなかなか有名人だったから、彼女はその名前を知っていた。

 ビリー・ブライアン。隣のクラスの男子生徒で、性別は多分α性だ。気さくな性格が人気で、華々しい女性関係を持っている。でも、今まで紗世は彼と関わりを持ったことなんてなかったのに。

 先生の説明が終わると、ビリーはすぐに「みんなの分の道具、取ってくるね」と言って席を立ち、あっという間に教卓から4人分の制作課題を取ってきた。

「改めて自己紹介をさせてほしい。僕はビリー・ブライアン。よろしくね」

「あ、私は……」

「知ってるよ。なんたってここの3人はみんな有名人だからね。学校の王子様のオーウェン・エヴァンズ君と、王子様のいとこで高嶺の花のアリス・アヴァロンさん。それからその王子様を独占している藤丸紗世さん、だよね。最近何かと噂のある君のこと、結構興味あったんだ」

「えっ……?」

「くだらない」

 と、オーウェンが冷たく言い捨てた。

「下世話なゴシップネタは間に合っている。そんなものを持ち込んでくるなら、ここから立ち去ることをお願いしたいね」

「おっと、さっそく王子様を怒らせちゃったかな。口は災いの元だってさっき身をもって知ったのにね」

 ビリーは肩の高さまで両手を上げて降参の意を示した。

「もうしないよ、だから僕をしばらくここに置いてほしい」

 オーウェンは目を細めたままビリーを一瞥して、それから視線を逸らした。実のところ全く動じてない様子のビリーはニコッとまた笑って改めて席に座る。

 紗世は「王子様を独占している」という言葉がかなり引っかかったけれど、それより今は、彼の頬の方が心配だ。

「あの、ブライアン君。ほっぺた痛くないの?」

「痛いよ。あ、もしかして痕になってる?」

「うん、手形が……」

「あちゃあ。でもまぁ、男の勲章だからいいかな」

 紗世はビリーのことを「すごい男の子だな」と思って、ちょっと感心してしまった。そして視界の端に映る、オーウェンに買ってもらったメロンオレのことを気にかけた。

 紗世はオーウェンを独占しているつもりなんて微塵もない。これでも〝友人〟の距離感はどんなものかを懸命に探っているつもりなのに。

 ただビリーは気さくで話が面白い男の子だったから、オーウェンはともかくとして、紗世とアリスは快く彼を迎えることにした。


 オーウェンの家にて。

 その日は紗世がオーウェンとアリスに勉強を教えてもらう番だった。紗世がベクトルの問題をいくつか解いたのち、それを見たオーウェンは言った。

「うん。きみは頭は悪くないけど、数学的センスがないね」

 がーん、と紗世はショックを受けた。

 でも、そうか。実は紗世は数学がそこまで嫌いじゃなかったから、できることなら理系に進みたいと思っていた。でもいくら勉強しても数学の問題が解けなかった。それは、センスが無かったからなのか。

 紗世の解答を確認したアリスが慰めてくれる。

「落ち込まないで、紗世。私も歴史を勉強するセンスがないってこと、今回の勉強会で思い知ったから。得意なことを伸ばして行こうよ。それにオーウェンだって古典のセンスがないし」

「それは違うよ、アリス。俺は古典単語と古典文法さえ頭に入ってしまえば、ある程度の問題は解ける」

 紗世は上目遣いでオーウェンを見た。

「じゃあオーウェンはどの教科が苦手なの?」

「特にないかな」

「スペックが高い代わりに、性格がねじ曲がってるんだよ。分かるでしょう、紗世」

「あれ、珍しくお菓子が残ってるいるね。仕方がないから俺が代わりに食べてあげるよう」

「ぎゃーっ、せっかく楽しみに取ってたのに! そういう所だぞ、オーウェン!」

 オーウェンはアリスの目の前にあったチョコを食べた。しかも3個も。彼は上品にそれらを咀嚼して、それから言った。

「紗世の数学の勉強方法は今まで通り、公式を暗記して、問題をいくつも解いて、そのパターンを頭に叩き込むことだな」

「それでも試験では応用問題になるといつも分からなくなるの」

「……それはやっぱり、基本問題がちゃんと頭には入ってないからじゃない?」

 紗世は分厚いチャート式参考書を見つめ、ベクトルの解説文を読み進めてみた。だけどやっぱり途中で文章が頭に入って来なくなる。彼女は両手で顔を覆った。

「えーんっ」

「え、えーん……っ?」

 オーウェンが衝撃を受けた顔をした。引き攣った表情のオーウェンを見て、あれ。と紗世は顔を上げる。

「あ、ただの泣き真似だよ。ベクトルが分からなくて頭を抱えてるって表現したかっただけ」

「いやっ、分かってる。……! 分かってるけどっ、今のはなんだ?」

「えっと、ただの泣き真似……」

 紗世はかぁ、と顔を赤くした。

「変なことをしてごめん。問題を解きます」

 オーウェンはしばらく、あわあわと問題を解いている紗世を見ていたけれど、何故かニヤニヤしているアリスと視線があったので、アリスを睨んだ。彼は何も口を効きたくなかったので、彼女のことは無視をして新しいルーズリーフを取り出す。そして自分のチャート式問題集を見ながらさらさらと文字を書き始めた。

 紗世が解説を見ながらなんとか問題を解き終えたのを確認した後、オーウェンはそれを差し出した。

「チャート式問題集の基本問題のうち、どの問題から解くべきか書き出しておいたから。この順番通りに何度も問題を解いて、パターンを覚えたらまた教えてくれ。その後応用問題に進む。応用問題を解く時は俺も一緒に解くから」

「う、うん……」

 紗世はチラリとオーウェンを見た。

「でもオーウェンも自分の勉強があるでしょ? 私に時間を割いてもいいの」

「きみが古典単語と古典文法をリストアップするために割いた時間と比べたら、どうってことない」

「あはは。そうだよね。ありがとう」

 また彼の分かりにくい優しさに触れたと思ったから、紗世は素直にオーウェンからルーズリーフを受け取った。

 彼の文字を目で辿りながら「オーウェンはきっと分からないだろうな」と紗世は思う。こうして彼から何かを与えられるたびに紗世の心がぽかぽかと暖かくなって、そしてちょっと切なくなることに。


 勉強会はいつも19時前に終わる。オーウェンとアリスは紗世のために最寄りのバス停まで送ってくれた(紗世がバスに乗ったあと、オーウェンはアリスを彼女の家まで送り届けるらしい)。

 オーウェンはすっかり暗くなった空を見上げて白い息を吐きながら尋ねた。

「この街って雪は降るのかい?」

「うん。まぁまぁ降るよ」

「ふーん」

「オーウェン、雪が嫌いなの?」

「そうだね。この時期に降る雪は特に嫌いだ」

「どうして?」

「寒いから」

 当たり前の台詞に紗世は笑った。

 空を見上げる。冬の空は澄んでいて、たくさんの星が煌めいて綺麗だった。

「じゃあ今年はあんまり雪が降りませんようにってお星様にお願いしておくね」

「……あぁ。そうしてくれ」

 オーウェンは星を見上げていたから、彼がどんな表情をしていたのか、その時の紗世には分からなかった。


 しばらく寒い日は続いたけれど雪は降らなかった。しかし今朝の天気予報で確認したところ、とうとう今日、初雪が降るらしい。

 帰り道にしたあんな他愛無い会話、きっとオーウェンは忘れているだろうなぁと思いながら紗世がお天気キャスターのお姉さんを見つめていると、朝食のシリアルを持ってきた彰吾が声をかけてきた。

「どうしたの、ぼんやりして?」

 紗世は彰吾を見た。

「あのね。今日、雪が降るんだって」

「そうなんだ! へぇ」

「嬉しそうだね?」

「初雪ってなんか、テンション上がらない? 2回目以降になると有り難みはなくなるんだけど」

「ちょっと分かる」

 そして彰吾は、シリアルを口にしながらもチラチラと紗世を気にするように見た。

「どうしたの?」

「いやー。紗世、あれから大丈夫かなって」

「何が?」

「例の……好きな人のこと」

「あぁ」

 紗世はちょっと顔を赤らめた。あの日藤丸に慰めてもらったのに、あれから彼にちゃんと報告していなかったのだ。

「あの時はごめんね、お兄ちゃん。話を聞いてくれてありがとう。……あの人のことは、友達だと思おうとしてる。今は友達として接してる」

「うーん。そう?」

「えっと、だめかな?」

「だめじゃないけど。紗世にそんな器用なことできるのかなって」

 さすが彰吾だ。紗世のことを良く分かってる。紗世はしおしおと視線を下に落とした。

「正直難しいとは思ってるよ。……私は友達として、どんな態度でいればいいのかなって悩んでる」

 その悩み自体が深みにハマっている証拠だけどな、と彰吾は苦く思った。だけど紗世は必死だから、それを悪戯に否定できない。

「基本は紗世のしたい通りにすれば良いと思うよ。相手のことを考えて動いたら、きっと紗世の優しさは伝わるよ。たとえ同じ気持ちを相手が紗世に返してくれなくてもさ」

「うん……」

 オーウェンは紗世の運命の人じゃない。なのにどうして恋なんてしてしまったんだろう。恋さえしなければ、紗世はオーウェンが望む通り本当の〝友人〟になれたのに。

 紗世はそう思ったが、彰吾にこれ以上心配をかけたくなかったから微笑んだ。


 終業時のHRから雪が降り始めた。太陽が翳り、外は静かだったから、これは積もる降り方だなと紗世は思った。隣の席のオーウェンを見たけれど彼は普段通りだ。

 そして下校前にアリスが焦ったように謝ってきた。

「ごめん。私、今日用事があるんだった。だから勉強会に参加できないや。ごめんね」

「全然いいよー。気にしないで」

「うぅ、ありがとう」

 アリスがオーウェンを見やる。彼は肩をすくめた。

「今日は勉強会自体を無しにしよう。だからほら、アリスも安心して早く帰るといいよ」

 礼を言ってからアリスは早くに帰った。

 オーウェンも、紗世が友達と話している間に帰ったようだった。そろそろ下校しようと彼女が鞄を取りに席に戻ったときにはオーウェンの姿がなかったから。


 雪が降っている。

 上履きからローファーに履き替えた紗世は折り畳みの傘を広げた。僅かに積もった雪の上を、すでに多くの生徒が踏み荒らした跡がある。校門を出て、紗世は最寄りのバス停まで行く。彼女の他にバスを待つ人はいなかった。たった一人でベンチに座って、紗世は考えた。

 オーウェンの〝友人〟として、紗世はどうすればいいのだろう。

 オーウェンは紗世に、どれぐらい彼に近づくことを許してくれるのだろうか。

「……」

 彰吾は言った。相手のことを考えて動いたら、きっと紗世の優しさは伝わるよ、と。

 オーウェンは言った。この時期に降る雪は特に嫌いだ、と。

 バスが来た。

 バスは紗世の目の前で止まって、その扉を開いた。

 紗世は立ち上がったけれど……それに乗らない事を選んだ。

 何故ならずっと、校舎を出た瞬間から深い木々と果実の香りがしていたから。

 まるで線が引かれているように、紗世は彼のいる場所が分かった。この魂は片割れと出会うことに歓喜しているけれど、それは勘違いなのだと理性で押し留める。

 オーウェンは紗世を見たら、どう思うだろう。嫌がるだろうか。迷惑がるだろうか。鬱陶しいと思うだろうか。

 恐れを抱きながらも紗世は歩を進めて、やがて学校の裏手にある公園までやってきた。

 そこにオーウェンがいた。

 誰もいない、しんしんと寂しく雪が降る公園のベンチに彼は佇んでいる。紗世が近づいてくるのを見ても何の反応もしなかった。

 紗世は静かにオーウェンの元まで行き、その目の前で立ち止まると、折り畳みの傘を彼の方へ傾けた。

「……オーウェン。こんな所にいたら凍えちゃうよ」

 オーウェンは応える気がないのだろうかと思うほどの長い沈黙の末、薄く嗤った。

「きみこそこんな所まで追いかけてきたのか。お人好しめ」

 彼は座ったままでいたから、綺麗な銀糸の髪に絡まる雪がよく見えた。とても寒そうに見えて、紗世は優しくそれを払ってやる。

「オーウェンは雪が降る寒い日が嫌いなんでしょう? それなのにどうしてここに居るの。……ねぇ、どこか暖かい場所へ行こうよ」

「暖かい場所ってどこだ? ……あいにくと、今暮らしてるあの部屋には帰る気になれない」

「……どこでもいいよ。どこに行ってもいいから、自分を粗末にしないで、オーウェン」

 人を殴ったり、顔に青あざがあっても放っておいたり、教室では穏やかな笑顔を貼り付けて適当に物事をやり過ごす。

 オーウェンは自分を粗末に扱っている。

 彼は自分のことが、きっと嫌いなんだ。

 どうして、と紗世は思う。

 だってオーウェンは運命の番がいるのに。紗世と違って、運命を手に入れたオーウェンの心は満たされているはずなのに。

「きみのことが心配だよ、オーウェン。きみのことが心配だから……。……私はきみの〝友人〟だから、そんな風に寂しそうな様子を見てしまうと、放っておけないんだよ。……大丈夫? どうしてそんなに寂しそうなの?」

 ふいに、彼の宝石のような青い目が紗世を見上げた。紗世の背中に彼の手が回されて、ぎゅっと抱き寄せられる。

 「少しだけでいい」と、絞り出すような声でオーウェンは言った。

「……少しの間だけでいいから、どうかこのまま、きみで温めさせてくれ」


 オーウェンに抱きしめられて紗世は驚きに息が止まりそうになったけれど、それ以上に悲しく思った。

 日本は彼の母国ではない。この街に来て間もない彼だから、どこかへ逃げ込みたくても、逃げられる場所がないんじゃないか。

 そして人目を避けて、静かになれる場所を求めた結果行きついた所がこんなに寂しいものだったとしたら、それはとても放って置けないことだと思った。

「オーウェン……」

 紗世はオーウェンを抱きしめ返したかった。自分より大きなこの人の体を抱きしめて、悲しみを分かち合いたかった。

 でもそれは紗世が赦されることなのだろうか? 〝友人〟として、どこまで踏み込んでいいものだろう。

 時間にすると5分にも満たなかった。紗世がどう声をかけるべきか悩んでいる間に、ふいにオーウェンは紗世から離れた。

「……申し訳なかったね。ありがとう。心の整理がついたから、もう大丈夫だ」

 オーウェンは普段通りの顔をしていた。紗世を見上げる青い目も澄んでいる。

「この時期がもともと嫌いだし、雪も降ってくるしで参っていたんだけど、折悪くイギリスから良くない報せがきてね。余計に最悪な気分だったんだ」

「……良くない報せって?」

「聞いてもどうせ嫌な思いをするだけだよ。だから教えるつもりはない。きみをここまで付き合わせてしまったのに、説明ができなくて悪いけれど」

「それは良いよ」

「そう? それなら安心した」

 オーウェンは立ち上がって、近くの自販機に向かった。

「ゔ〜っ、冷えるね。こんなに寒い中で外の公園にいたのはよく考えてみれば馬鹿だったな。暖かい飲み物を買うけど、きみも飲む?」

「……いらない」

「そう言わずに。ココアがあるよ。きみ、好きだろう?」

 オーウェンは紗世の分のココアを買った。柔らかい物腰だったけれど、それは明確な拒絶だった。オーウェンは本心を隠して王子様の役を被ってしまったのだ。

「はい、紗世。俺に付き合ってくれたお礼だ」

 ココアを差し出してきたオーウェンを紗世はひたと見つめ返す。

「私、もうちょっとオーウェンと一緒に居たい。一緒に居てもいい?」

 オーウェンは笑顔を深めた。

「同級生がこんな日に公園にいるのは異様だったよね。頭大丈夫かって心配になる気持ち、分かるよ」

「……私はそんな風に思ってない」

「そう? 俺だったら思ってしまうかもなぁ」

 オーウェンは紗世に強引にココアを渡した。そして公園を出て行く。紗世はどうすることもできないから、彼の後を追った。

「オーウェン。オーウェンは今からどこに行く気なの?」

「家に帰るよ」

「……嘘つき」

「まぁさすがにバレるか。あの部屋には帰る気になれないって言っちゃったもんなぁ。……アリスの家にでも行くよ。どうせ夕飯を誘われていたからね」

「……」

「俺の言葉が信用できないなら、後からアリスに聞いてみればいい」

 オーウェンは紗世の最寄りのバス停まで来ると足を止めた。

 丁度茶色いバスが道路の向こうからやってくるのを、紗世はオーウェンと並んで見つめていた。

 さっきまでは今までにないほど近い距離で触れ合っていた。それなのに、どうして一線の距離を引こうとするんだろう。

 バスがやってきて、彼女たちの前で停車する。その時に吐き出された排気ガスの黒さは、紗世が今抱えている悲しみとよく似ていた。

 彼女は折り畳み傘をオーウェンに差し出す。

「せめて傘をさして帰ってね、オーウェン。オレンジ色だけど、パッと見た感じは変じゃないから」

「イギリスではこれぐらいの雪で傘なんてささなかったけど。……いいよ。それできみが安心するって言うなら」

 ありがとう、と言ってオーウェンは傘を受け取る。

 バスに乗りこんだ紗世は座席に座り、窓の外にいるオーウェンを見る。彼は微笑み、手を振った。

 エンジンがかかったバスがブルンッと震えて発車する。オーウェンが遠ざかっていく。雪景色に映えるオレンジ色の傘が見えなくなるまで紗世はそれを見つめ続けた。


 数日後、紗世は職員室で担任から資料を受け取った。

「藤丸は成績がいいし、最近勉強もよく頑張ってるから先生はいい感じだと思ってるよ」

「ありがとうございます」

 褒められたのが嬉しくなってニコッと笑う。礼を言って先生の机から離れて、紗世は渡された資料に目を走らせた。紗世が一番気になっているのはバース性の項目だ。

 やはり、Ωは不可とされている所が多かった。

 しょんぼりとした紗世はあまり前方を注意していなかったから、その時誰かにぶつかりかけた。

「あ、ごめんなさい……。ってなんだ、オーウェンだったの」

「なんだ、って。お世話様だなぁ」

 オーウェンは目を細める。

 ……あの雪の日以降、紗世とオーウェンはいつも通りの関係か続いている。むしろあれは夢だったんじゃないかと思うほどだ。

 2人は職員室を出た。オーウェンは現代文の教員から過去の小テストをもらっていたらしい。

「浮かない顔をしていたけど、先生から何をもらったんだい?」

「学校や学校法人が紹介してる、ボランティア活動の募集用紙だよ」

「ボランティア……? 日本の学生にはあまりそういう活動は浸透してないって感じてたけど」

「うん、そうなの」

「へぇ。それなのに紗世は奉仕活動に勤しんでるって? 本当お人好しなんだなぁ」

「もう、そんな棘のある言い方をしなくてもいいでしょ。……。私ね、将来は国際協力機構で働きたいの」

 隣で歩いていたオーウェンが紗世をチラと見やる。

「だから今のうちから色々活動して、経歴を作ってるところなんだ。……ただね、バース性で引っかかっちゃうんだ」

 そう言いながら紗世は今一度資料を見つめる。でも、「Ωは不可とする」と書かれた文章はいくら眺めても変わってはくれなかった。

「宿泊の必要があるボランティア活動は、募集要項の時点で、未成年のΩはダメって書かれている事が多い。仕方がないことだと思うんけど、少し凹むなぁって。……あっ、ごめん、愚痴になっちゃった」

「愚痴になったっていいだろう」

 と、オーウェンは言った。

「それを聞かされたって、俺は構わないよ」

 オーウェンの横顔を見て、紗世は好きだなぁ、と思ってしまった。

「……私、Ωじゃなければ良かったのに」

 紗世は視線を下に落とした。

「……」

「Ωじゃなくて、せめてβになりたい」

 そうすればオーウェンから漂ってくるこの優しいフェロモンの香りだって分からなくなって、オーウェンに惹かれる事もなくなるはずだから。

 紗世とオーウェンは、共に美術室に入った。同時に始業チャイムが鳴る。ギリギリ間に合ったようだ。

 その日の美術の授業の課題は模写だった。校内でお気に入りの場所を探して、時間いっぱいまでその場で絵を描いていいらしい。アリスが画材を持って立ち上がる。

「紗世、一緒にどこがいいか探しに行こうよ」

「うんっ」

「えぇ。こんなに寒いのに。どこに行こうっていうんだい?」

「うーん、中庭とか?」

「へぇ」

「オーウェンも行こうよ。この学校で好きなところとかないの?」

「好きな場所はもちろん、美術室さ」

 明らかに嘘だった。寒い中、わざわざ動くことが面倒らしい。

 紗世は一応ビリーにも目を向けた。

「ビリー君はどうする?」

「僕も好きなところは美術室にしようかな。暖かいもんね」

「そっか。じゃあね」

 紗世とアリスは手を振って美術室を出て行った。

 男2人だけになって、一瞬静かになる。しかしすぐにビリーが笑顔を浮かべて身を乗り出した。

「藤丸さんってさ、健気だよね」

 一拍置いて、オーウェンはビリーを睨んだ。

「あんなに懸命に君に向かって、君だけのためにフェロモンを出しているのに。どうして応えてやらないんだい? 何かの縛りプレイ?」

 次の瞬間、ビリーは皮膚が痺れるようなオーウェンの威圧を受けた。しかし彼は好戦的に笑った。ついついスリルを味わいたくなるタイプなのだ。

「あはは。怒らないでよ。ただ興味を持っただけだよ。僕は強いαが囲っているΩを横取りしようとするほど馬鹿じゃない」

「囲っている……?」

「うん。君はあの子をぐるぐるにフェロモンで囲ってるじゃないか。並のαならみんな気づいてる。まさか無自覚かい? それなら傑作だけど」

 オーウェンは口を引き結んでしばし黙った。そして画材道具を持って立ち上がる。

「あれれ。行っちゃうのかい?」

「たった今、ここが一番不愉快な場所だって分かったからね」

 そう言い捨てて離れていくオーウェンに、ビリーは笑顔で手を振った。


 コートを着込んだ紗世とアリスは結局中庭には行かず(寒いから)、食堂から見える花壇を模写の対象に選んだ。

 食堂は片面がガラス張りになっていて、ガラスの向こうは園芸部が育てている花が沢山ある。少し横を見れば校庭も見渡せた。しばらく2人は花を描いていたのだけれど、ふいにアリスが言った。

「あのね、紗世。少し踏み込んだことを聞いていい?」

「なぁに?」

「オーウェンのこと……。……紗世は、オーウェンのことが好きだったりする?」

 心臓が大きく跳ねた。紗世は視線を下げて動揺を悟らせないように努めた。

「えっと……、友達として……」

 アリスも顔を上げずに手元のデッサン用紙を見つめている。

「あのね。本当は私が言っていい事か分からないんだけど……オーウェンにはね、オーウェンには、……運命の番がいたんだ」

「うん。知ってるよ」

「え?」

「耐寒登山の時にオーウェンに教えてもらったから」

 アリスが紗世を見た。見開かれた彼女の目から、次の瞬間ダッと涙が流れた。

紗世は仰天した。

「えっ? え? アリス、どうしたの?」

「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! ごめんね……、だ、だけど私、安心しちゃって……」

「安心?」

 アリスは顔をくしゃくしゃにして涙を拭った。けれど後から後から溢れてきて、止められないようだ。彼女は嗚咽を交えて言葉を重ねた。

「オーウェンは……、オーウェンは、紗世に説明ができたんだね。やっとティターニアさんのことを、誰かに話せるようになったんだね。……良かった。本当に良かった。ティターニアさんが死んじゃってから、オーウェンは抜け殻みたいになっちゃったから、すごく怖かったの。……すごく、怖かった。ティターニアさんのことは勿論悲しかったけど、それ以上に、運命の番を喪ったらαはあんな風になっちゃうんだって、私、……ショックだった。もうオーウェンは元に戻らないんだ、って思ってた」

 紗世は呆然とした。理解が追いつかなかった。

 運命の番を喪った?

 雪が降るあの日、公園のベンチで、独りぼっちで佇んでいたオーウェンを紗世は思い出していた。

 彼が抱えている空洞のような哀しみに触れてしまった気がして、紗世は震える手でアリスの肩に手を置いた。

「待って。待って、アリス。違うの。私、そこまでは教えてもらってない」

「……え?」

「運命の番がいるってことだけしかオーウェンに言われてないの。ごめんね、もっと早く止めるべきだった」

 アリスの顔がさぁ、と青くなった。

「どどど、どうしよう。私、オーウェンの許可なく全部ペロッて喋っちゃったよね」

「えっと、えーっと……一緒にオーウェンに謝りに行く?」

「この話で事後承諾は怖いよぉおっ」

「あ。ここに居たのかよ、紗世、アリス。中庭じゃなかったのかい? 無駄に校内を歩き回るハメになったよ」

「きゃーっ!」

「いや、うるさっ」

 紗世とアリスが飛び上がって驚くのを見て、オーウェンはドン引きした様子だった。しかしアリスを見るとすぐに顔を顰める。

「何。どうしたんだ、アリス?」

「うっ、オーウェン……。その、……ごめん」

「何が」

「……オーウェンに相談せずに、ティターニアさんのことを紗世に喋っちゃった。……喋っちゃいました。ごめん。本当にごめんなさい」

 オーウェンはチラと紗世を見た。

「どこまで話したって?」

「亡くなったってところまで……」

「あっそう」

 オーウェンは息を吐くと、平気そうな顔をして頷いた。

「いいよ。話してしまったのなら仕方がない。別に隠すようなことじゃないし、アリスの口が軽いっていうのも全然意外じゃないしね?」

「うっ……」

「馬鹿、泣くなよ。大丈夫だってば。トイレにでも行って泣き止んでくるといい。ここにいたら他の生徒にその顔を見られるかもしれないよ」

 紗世はアリスの背中をさすった。

「行こう? アリス。泣かないで」

「いや、紗世はここにいて」

「……」

「中途半端な説明だったら気になってしまうだろう? ここまで来たらある程度ちゃんと話しておこう」

 アリスは1人で大丈夫だと言い、紗世とオーウェンにもう一度謝ってトイレへ行った。紗世とオーウェンはアリスを見送ってから隣同士で座り、ガラスの向こうにある花壇を見つめた。

 話さないつもりだったけど、とオーウェンは画材道具をテーブルに置いた。

「もったいぶるほどの事でもないから、一応話しておくよ。俺の運命の番の名前はティターニアという。……12歳のときに、日曜礼拝の教会で出会った。同い歳だった。学校は違ったけど家は近所だったから、アリスと一緒に3人で遊んだこともある。だけど彼女はその年に病気になった。脳の病気だ。初めから、永くないって分かっていた」

 オーウェンは感情を交えず淡々と説明をしてくれたが、逆にそれが紗世の心を凍えさせるような気がした。

「ティターニアは12歳のころからずっと入院していて、15歳の時に亡くなった。冬のことだ。まぁ最期の1年ぐらいは寝たきりになっていたかな。医者に脳死と診断されたから、生前の彼女の意向に従って延命措置は外された。それで終わり」

「……」

「きみにティターニアの話をしなかったのは、かなり重い内容の話だったからだ。別にきみを仲間外れにしようと思ったからじゃない」

 涙が浮かんできた。紗世は耐えようとしたけれど、耐えきれなかった。

「……ごめんなさい」

「謝らなくていいよ、だってきみは何も悪くない。アリスが勝手にゲロっただけだ。それにいつかはきっと話したよ。きみは俺とアリスにとってかけがえのない友人だし」

 オーウェンは紗世を見つめた。泣いているはずの彼女の横顔が髪に隠れて見えなかったから、手を伸ばして、その乱れた髪を耳にかけてやった。

「この話を聞いたからって変に気を遣わなくていい。出来るなら今までの関係で居てくれると嬉しい。アリスだってそう願ってるはずだ」

「うん……、うん。分かった」

「ありがとう」

 オーウェンは、紗世をじっと見た。涙ぐむその横顔を見つめて、それからガラスの向こうの鉛色の空へ目をむけた。






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