第十二話 おやすみしちゃうか

 土曜に広瀬川の河原のグラウンドに行くと、まだあどけない高い声が聞こえてきて驚いた。いたのは少年野球チームで、ベンチには白髪交じりの老人が背筋を伸ばし、両足をがっつり開いて座っていた。


「みづきくんか。あの時ぶりだね。大分大きくなって」

「嶋さんもお元気そうで。会社の方は?」

「おかげさまで好調だよ。ただもう専務に譲ってね。老いぼれは早期リタイアして、ご覧の通り自由にやらせてもらっているよ」

「長い間お疲れ様でした。今度は、随分と若手社員ばかり集めているんですね」

「がっはっは、ありがとう。そうだね。随分と生意気で可愛げがある社員たちだよ」

 随分と豪胆に笑い、凄みがある。


「何あのやり取り」

 早瀬さんが身を寄せてきた。対等に話をしている六反田の得体が知れない。


「こちらが話をしていた佐藤塁くんです」

 六反田はきりのいいところで俺を紹介した。

「君か。難儀だね。社会人相手がよかっただろうが、良かったら少し見てやってくれないかね」

「はい! お願いします!」

 教えてもらう側でなく教える側と知り、今の俺で大丈夫かと不安は拭えなかった。


「集合! 今日から少しの間、北高の佐藤さんが教えてくれます。失礼のないように」

 軽く挨拶をした後、休憩に入り俺の周りに子どもたちが集まってきた。


「北高すげえ」

「ピッチャーでしょ?」

「ねえねえ、投げてよ」

 勢いに圧倒される。

「ああうん。ピッチャーだよ。でも今は投げられないんだ」

「一球でいいから!」


 今の情けない投球を見せたくない。かつて俺も抱いていた憧れや夢を壊したくなかった。


「やめなよ。嫌がってるじゃん!」

 女の子の甲高い声が聞こえた。全員同じように焼けていて分からなかったが、女の子も一人交じっていた。その後嶋監督も制してくれて、俺は無邪気な攻撃から逃れることができた。


「佳奈ちゃん? だよね。さっきはありがとう」

 俺は女の子に声をかけた。


「やりたくないことをやらせるのは、よくないと思います」

 短く切り揃えられたその前髪のようにきっぱり言った。学級委員でもしていそうな規範的な子。他の子と遜色なく練習していたが、常に焦っているようなプレイで気になった。



「ロク、『ミテイ』って知ってる?」


 次の週も二人は駅で待っていて、当然のように一緒に河原まで向かった。


「ミテイ?」

 六反田は聞き覚えがないようで、早瀬さんに説明を促す。


「昨日突然現れたシンガーソングライターなんだけど、一夜で百曲リリースして、それで全部やばくてバズってんの! まじで頭おかしい!」

「百曲? すごいね」

 六反田は素直に感心している。


「『百曲一夜物語アラビアンナイト』のミテイだろ? 俺の弟も今朝騒いでたな」

 昨日の今日で再生数が数十万を超えているらしく、千夜一夜物語アラビアンナイトから取って呼ばれているらしい。昨日のうちに知った弟は「絶対くると思っていた」と一日で古参ぶっていた。


「今日のサマーウィーク予選に合わせたんじゃないかって。東西南北どこかで出るんじゃないかって言われてるの。あー気になる。やばくない? どの曲も奇抜で、本当天才って感じ」

 百曲ってすごいな。帰りに聴いてみるか。



 練習後、俺は土手に座って佳奈ちゃんのお母さんのパート終わりを待っていた。


「私、やっぱりみんなと野球しない方がいいのかな」

 ぽつりと独り言のようだった。

「どういうこと?」

「おじいちゃんもお母さんも、女の子なのにいつまでやるんだって」

 佳奈ちゃんは真剣に取り組んでいるが、反対意見もあるのだろう。


「佳奈ちゃんは野球が好き?」

「はい!」

 その目は輝いている。俺も昔はその目を携えていた。


「兄ちゃんな、昔は野球が楽しかったのに、もう今は分からないんだ」

「楽しくないならおやすみしちゃえばいいじゃないですか」

「そうだね。おやすみしちゃうか」

 休部をおやすみと言ってしまえばつきまとう劣等感が薄まった。


 佳奈ちゃんのお母さんが迎えにきて挨拶をした。

「佳奈、今度の試合が最後なんです。よければ見てやってください」

 佳奈ちゃんはふてくされた顔をしていた。熱心で野球が好きなのに辞めちゃうのか。



 翌週の練習終わり、佳奈ちゃんはまたお母さんの迎えを待っていた。


「佳奈ちゃん、次の試合が最後だったんだね」

「はい。うちの家厳しくて、四年生までって決まってるんです」

 俺は野球から逃げているのに、佳奈ちゃんは続けたくても続けられない。皮肉な話だ。


「……俺がボール投げるところ、見てみたい?」

「え! いいんですか!? 私受けたいです!」


 佳奈ちゃんはミットを手に立ち上がる。不完全な自分を見せるなんて昔は考えられなかったが、六反田たちのおかげでそのハードルは下がったと思う。大丈夫、そんなに距離は離れていない。


 俺はグローブの中でボールの縫い目を何度も指でなぞる。呼吸を整え、投げた。……ボールは、佳奈ちゃんの左上にすっ飛んで行った。佳奈ちゃんはジャンプしたが、取れるはずもなく。走ってボールを取りに行き、手渡してくれた。


「大丈夫ですか?」

 俺を心配そうに見上げている。純粋なだけの心配に、申し訳なくなってくる。


「どれだけ力を込めても、ボールに指がひっかからないんだ。力が抜けて暴投する」

「いつからなんですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る