第十一話 俺は別に笑いたくなかった

 三日後、納得のいく出来ではなかったけど、今書いた精一杯を渡すことにした。二人になら自分の未完成な部分を見せてもいいと思えた。


 学校近くのコンビニでコピーし公園に向かう。この時、あろうことか、ノートをコピー機に挟んだまま忘れてきてしまった。野球部に知られたらやばいと思って急いで戻るももぬけの殻。スマホに通知がきて嫌な予感がした。


『何した? 監督激怒。早くグラウンド来い』

 野球部のやつからのメッセージ。六反田に連絡を入れて学校に向かう。



 グラウンドでは監督が腕を組んでおり、足元には俺のノートが落ちている。

「お前よお、何も言わないでやったのに。遊んでる暇があんなら一球でも多く投げろよ!」

「はい、すみません」

 監督は激昂しており、俺は条件反射で謝る。


「特待生のお前の価値は野球しかないんだよ。野球から逃げたら何が残る。今逃げたら、お前は一生逃げ続ける人生になるぞ。そういうもんだ。なんだ? 俺が間違ってるか?」

「いえ、間違ってないです。すみません」

「野球辞めろ。他のやつらは泥水すすってるんだよ。それができないお前なんて無価値だろ?」


 無価値という言葉が脳震盪のうしんとうのように頭に響く。なんだか手に力が入らず、自分が手を閉じているのか開いているのか分からない。


「すみません」謝ろうと思った時、いきなり金属バッドを地面にぶつける鈍い音が聞こえた。六反田と、バッドを引きずる早瀬さんがいた。


「黙って聞いてればよ。あんた神様か何か?」

「あーお前らか。もういい、こいつは退部するから連れていけ」

「佐藤君、退部したいの?」


 六反田がこちらを見つめる。黒い目には憂いの色が浮かんでいる。そういえば六反田は俺を見る時にいつもこの目をする。俺がつらそうな顔をしているからだと今更ながら気づく。


「……したくないです」

 俺は首を横に振った。

「退部だ」

「すみません」

 俺の自我がつつかれたヤドカリのように引っ込んだ。


「僕は野球のことを知りません。ですが佐藤君が朝早くから夜遅くまで練習しているのは知っています。佐藤君がこんな形で辞めるのは、今までの努力に見合わないので反対です。休部はどうでしょうか」


「なめてんのか」

 ドスの利いた声が飛んでくる。

「休部と退部はそんなに大きく違うんですか?」

「はっ、休部なんて格好がつかないから、退部させてやったって名分が欲しいんでしょ」


 六反田の純粋な疑問と早瀬さんの煽りにハラハラとする。監督に意見を言える部員なんていないから、ひやかしていた取り巻きも、今は無言で様子を見守っている。


「分かった。休部でもなんでも勝手にしろ。でも一軍に復帰できると思うなよ。一度抜けたやつが戻る場所があるほど社会は甘くないんだよ」

「実力があれば佐藤君を起用するしかない。それが社会だと思います。それと、佐藤君に無価値って言ったことを撤回してください」


 六反田の声は震えていた。手も震えていた。本当は六反田も怖いんだ。でも怖がって何も言えない俺とは大違いだ。


「口だけなら何とでもいえる。価値があるってんなら行動で示せ」

 普段の監督を知る俺からしたら、これは最大限の譲歩だった。

「すみません! 休部を認めていただきありがとうございます!」

 周りの視線を浴びる中、俺は早瀬さんと六反田を連れ帰った。グラウンドを出て礼をする。


「頭を下げる相手なんていないよ、みんなるいるいのこと守らなかったんだから」


 早瀬さんは呟いた。部室から荷物を引き上げる。特待生が休部なんて前代未聞だ。親になんて言えばいいかも考えられなかった。



 居場所を失い公園に行った。早瀬さんはストレスを発散するようにベースを演奏し、かなり荒っぽい。


「あーもうむかつく。なんなのアレ。あんなパワハラ野郎の下でよくやってたよ」

「佐藤君ごめんね……」


 あんなに堂々と意見をしておいて、今更顔を青くする六反田を見たら笑えてきた。


「ははっ、早瀬さんもだけど、六反田、あの監督によくかましたね」

「何笑ってんの。るいるいが一番怒りなよ」

「いや、二人が俺の代わりに怒ってくれたからすっきりしたよ」


 俺を取り巻くり固まった環境に、新しい風が舞い込んだ気がする。そこが突破口になり、淀んだ空気が入れ替わることを期待してしまう。隠していたことを、二人になら見せられる。


「俺さ、イップスでボール投げられないんだ。六反田、知ってる?」

「今までできていたことが突然できなくなる現象って聞いたことある」

「ああ。原因とかも調べて、メンタルトレーニングとかも試したんだけどな。うまくいかなくて、もう嫌になるよ。休部したらますます下手になってくし」


 俺は情けなく笑ってみせる。六反田は笑わない。それを見て、自分がなんで笑っているのか分からなくなって、顔の筋肉の緊張が緩んでいくのを感じた。俺は別に笑いたくなかった。


「僕の知り合いに社会人チームの監督がいるんだ。少し話をしてみてもいいかな」


 俺がお願いすると六反田はあの本を鞄から取り出し、ぱらぱらとめくって電話をかけ始めた。


「次の土曜に練習にこないか、だって」


 これからどうなるんだろう。何も分からないままわらにすがった。

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