第十三話 俺の新しいポジション

 いつからだろう。二歳からしていたキャッチボールができなくなったのは。


 中学の東北大会で良い成績を残した俺は、会場に来ていたコーチに呼ばれて甲子園常連校に入学した。その時の俺は、ここから俺の物語が始まると信じて疑わなかった。


 トラウマの原因は夏の甲子園予選。三年のピッチャー陣が不調、二年の先輩もケガをしていた。コーチから「佐藤、投げてみるか」と声をかけられ、「はい!」全力で返事した。


 極度の緊張、炎天下、じりじりと汗が流れてインナーが肌にへばりつく。今でもよく覚えている。ツーストライクスリーボール、ここでタイム。キャッチャーのマサ先輩から「気負うなよ、楽しめばいい」と言われて落ち着いた気になった。


 それで投げた四投目が問題だった。デッドボールでバッターがうずくまった。


 俺は茫然ぼうぜんと立ち尽くし、マサ先輩は謝罪をしていた。ブルペンを見た瞬間、俺をスカウトしたコーチが舌打ちをしているのが見えた。その音が、聞こえるはずのないこの距離で、はっきりと聞こえた。頭が真っ白になって降板した記憶もなかった。


「災難だったな。気にするな。あんな場面でコーチもひどいことするよな」

 マサ先輩は俺を慰めてくれたけれど、本心か分からなかった。


 そこからだった。投げる時に指に力が入らずボールがひっかからず、手からすっぽ抜けるようになった。陰で「ストッパー」と呼ばれ始めた。甲子園連続出場5回目のストップ役。ピッチャーを降ろされた俺の新しいポジション。これを仲間内で話していて、マサ先輩が笑っているのを聞いた時、ぽっきりと気持ちが折れた。グラウンドに行く足取りが重くなり、部活の時間以外は自主練に回した。


 学校から離れた河川敷、橋の下の壁で自主練をしていたら中学の時の仲間に見られた。「強豪校はやっぱり大変なんだな」と声をかけられて「ああ、いや」と歯切れの悪い返事しかできない。当時の仲間は今の仲間たちで繋がっている。


「頑張れよ」と見えない線が引かれた。気づいたら自分の足元には誰とも繋がらない線がたくさん引かれて囲まれていた。自分だけが戻る場所がないつまはじきもの。気まずさから練習場所を変えて今のランニングコースにした。


 そこで六反田達に出会った。二人は線を超え土足で踏み込んでくる存在で、異物だった。



「六反田先輩や早瀬先輩に会えたのはよかったですね?」

 俺が話し終えると、佳奈ちゃんは言った。小学生に気を遣わせてしまった。


「確かにイップスは完全な悪者ってわけでもないかもな」

 隅でバント練をしている二人を見る。


「私、佐藤先輩の分まで頑張るので、最後の試合見に来てください」

 佳奈ちゃんは頑張って何かを返そうとしてくれて、一層こちらが不甲斐なくなる。


 試合当日、佳奈ちゃんは先発ピッチャーだった。一投目から三投目までファール、ここでタイム。あの時と全く一緒の流れにこの後の展開を予感し、手が震え、嫌な汗が噴き出してきて額を伝う。佳奈ちゃんはブルペンまでやってきた。


「まかせてください」

 佳奈ちゃんは力強く言ってにっと笑った。楽しそうに。年下の女の子に対してここまでの信頼を覚えるとは思わなかった。そして佳奈ちゃんは、そのままその回を押さえた。俺は力ない笑いを漏らしてしまい、嶋監督に不思議そうに覗き込まれた。


「いえ、僕がどうしても投げられなかったボールを投げてくれました」

 笑い飛ばしたいのに涙が滲んでくる。佳奈ちゃんは笑顔でチームメンバーに囲まれている。


 ――そうだ。チームで協力して、勝利を勝ち取る瞬間が何よりも嬉しかった。

 観客席の六反田と早瀬さんも手放しに喜んでいる。ありがとう、俺は呟いた。



 この日の夕方、ずっと手が止まっていた歌詞が書けた。ぽつぽつと雨が降り出したようだった。完成した歌詞を渡しに公園に向かうと、二人は屋根付きのベンチにいた。


「これ、めっちゃいいじゃん!」

 早瀬さんが俺の肩をばしばし叩く。六反田はじっと考え込んでいる。最近ずっとこんな感じだ。そして突然姿勢を正し真っ直ぐ俺を見据えた。


「佐藤君。……僕、文化祭で歌おうと思う」


「え? ああ、うん」

 その語気に少し気圧されてしまった。人が大きな覚悟をした顔のように思えた。


「佐藤君が書いた歌、代わりに届けるから」

 俺の書いた歌詞。俺の想い。それを届けてくれると言う。


「ロク、人前で歌っても大丈夫なの?」

 確かに六反田は人前で歌いたがらない。公園でも人の気配を感じると歌を止めていた。だから俺も、最初はこそこそと聞き耳を立てていたのだ。バレていたけど。

「うん。行動で示さないといけない」

 監督に言われた無価値という言葉。今でも表情が浮かぶくらい鮮明に残っている。


「なんで人前で歌えないんだ?」俺は思わず聞いた。

「僕が歌うと傷つく人がいる」

「ウチは元気になるし!」

 六反田は切なく笑うだけ。他人にどうこう言われて解決する問題じゃなさそうだった。

「佐藤君は、絶対大丈夫」


 六反田は力強く言った。六反田はなよっとしているのに、鍛えている俺なんかより頼もしい。風に揺れる後ろの木が、しなやかな強さを表しているようで、その姿を見ているとなんだか大丈夫な気がしてきた。



 今日はサマーウィーク最終日の決勝戦だったらしく、一緒にテレビの生放送を視聴した。


「秋田のラハイナヌーンめっちゃよかったね。次は東京のプリザーブドバランス、略してプリンスって呼ばれてるバンドだよ」

 早瀬さんはベンチに立てかけているスマホを指さす。

「え、これって……」

 地面に座る六反田が画面に顔を近づける。


「知ってる? 東大では二位だったけど、一位のミテイが辞退して本戦に出てて今すごい人気」

「東大って東の大会だっけ?」

「そそ。東西南北だからウチらだったら北大」


 俺が訊くと、間髪入れずに早瀬さんは答えた。


「……多分、幼馴染のみーちゃんだ」

「え! すご、知り合い?」


 六反田は早瀬さんの言葉は耳に入っていないようで、画面にくぎ付けになっている。六反田の幼馴染はなんとそのまま優勝した。


「あー悔しい! 来年こそ絶対出る!」と熱を発散する早瀬さんとは対照的に、「まずは文化祭を成功させよう」と六反田は静かに立ち上がった。

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