第六話 『Crystal Lake』

 その日は、約束の時間より先に一人でアトリエに来た。中学で美術部に入ったので、油絵の具のどろついたにおいは結構好きだ。部員と全然合わなくて一年で辞めたけど。


「この絵、新しい」


 青色だけで描かれた白鳥の絵があった。白鳥が湖の中を覗き込んでいて、湖面に映る白鳥が首をかしげて見える絵。とても神秘的で目離せない。静かな絵なのに、感情が掻き立てられて、心の端を夜の潮風のようにざわざわと吹き抜けていった。


「去年アメリカのサンフランシスコで発見された絵の模写で、さっき教え子から預かってね。元はイブさんという画家が描いた絵だよ」


 右下にペンでサインが書いてある。

「イ、ブ?」

「『Crystal Lake』透明な湖。タイトルさ」

「へえ……」


 にゃーん、足元にクロがすり寄ってきて黄色い目でウチを見上げるので、しゃがんで撫でる。


「律さんはクロに懐かれとるね。みづきくんはあれでしか相手にされとらんよ」

 田中さんはチュール状のおかしが詰め込まれた陶器の入れ物を指す。


「んー同族嫌悪ってやつじゃないですか?」

「はて?」

「ロクとクロって似てます。どこか気まぐれな感じで」


 ロクの静かなところは海のようだし、夜のようだし、黒猫みたいだ。その黒い目が映すもの、見ている先が気になる。隣に並んで、一緒のものを見たくなる。クロは同意してくれたのか短く、ミャ、と鳴いた。



 ハヤトとセキとの約束まで残り一週間になった頃、やっと曲が完成した。決して明るい曲調ではないけれど、希望が隠れていて、とても好きな曲になった。


「てか、ウチが歌うんだよね?」

「うん。僕は人前で歌いたくない」

「ウチの前で歌ってるじゃん」

「律は特別」

 特別。とくべつ。その響きにむずがゆくなって口がもにょもにょする。


「歌詞どうしようか?」

 ロクもウチも感覚的に曲を作っていたから、まだ歌詞はなかった。


「ウチボキャブラリーないし、ムリなんだけど」

「僕もあまり喋るのは得意じゃないし……」

「なんかないの?」

「あ」

「絶対あるじゃん! なに?」


 ロクがのそのそと鞄を漁ると本が出てきた。深い海底、瑠璃るり色の皮のハードカバーに、『出会い帳』というタイトルと細かい模様が金色で印字されていて、かなりセンスがいい。


「何の本?」

「これは本じゃなくて、出会であちょう

「何それ、いかがわしい」

 ウチが言うと、ロクは眉間にしわを寄せ、特に触れずに進めた。


「このノートには、旅先で会った人からのメッセージがある。って言っても、一昨年からで大した量はないんだけど。それ以外にも、ちょっとしたことも書くようにしてる」

「へー見せて見せて」


 適当なページを開いたら、初っ端から汚い英語が書かれていた。見たこともない文字もあり、近くにいるロクが自分よりよっぽど広い世界を見ていることに正直驚いた。


『これからも歌ってね そうすればまた会える』


 目についた。それは、他の汚い字に比べて綺麗だったからかもしれないし、青いインクだったからかもしれないし、唯一名前が書かれてなかったかもしれない。ただ、それだけではない気がして、白鳥の絵を見た時のように、心の端を夜の潮風がざわざわと吹き抜けていった。


「次のページ、僕のメモ」

 はっとしてページをめくると様々なフレーズが書いてあった。


『時が止まる 水面のきらめき 茜色に笑う君が夜を連れてきた』

 これがロクが見ている世界。ウチが見ている色とは随分違う気がした。ページをめくると後ろの数ページが、布の平たいゴムで束ねられて開けなくなっていることに気づいた。


 その時、ロクがロクの手を、ウチの手に触れるか触れないかの位置にかざして止めた。いつも一緒にいるのに、少し大人びたその動作に不意をつかれてどきっとした。


「律、そこは見られたくない」


 人の目を見て話すロクが、少し視線を外して言った。そんな反応をされると逆に興味が湧いてくる。でもロクはウチの嫌がることをしない。だからウチもロクが嫌がることをしたくない。


「分かった。見ない」


 たった一言で、ロクはすっと手を引いた。ただの口約束なのに信頼してくれた。ウチが裏切ることを考えていない。その信頼に応えたかった。


 出会い帳をヒントに、しっくりくるフレーズを探した。二人して初めてのジグソーパズルに苦戦したけど、最後には、もともとこの歌詞がついてたくらいにぴったりハマった。それがなんだか、とても価値のある美術品の修復とか、神聖な作業をしているみたいだった。


 それと、ウチが頑張っているから何かしたくなったとロクはギターを始めた。メジャーコードも分かっていないことが分かって驚いたけど。

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