第五話 アトリエと黒猫
全部話した。ハヤトにもしてない話。喉が潮風でべたつくのに、カラカラに乾く。
「あああああああ」
声にならない怒り、悲しみが全部ぐちゃぐちゃに混ざって、がなり声になって吐き出される。
乾いたローファーを脱ぎ、靴下を脱ぎ捨て、海に走る。砂浜に足は沈み込む。どこまでいけるんだろう。初めてロクの歌声を聞いた日、海の中に立っていたロクは、どこまでいけると思っていたんだろう。このまま、同じところまで行かせて。
突然、痛いくらいに手を掴まれた。
「それ以上は危ない」
「え?」
気づいたら膝上まで浸かっていた。急に怖くなって、寒くなって体が震え始める。
「律、曲を作ってみませんか?」
「作る?」
「うん。律に今必要なのは、自信……だと思う。律を救ってくれた音楽を作り出す側になれば、自信になると思います」
「でも作ったことなんかないし」
「みんな、一曲目を作る前はそうです」
「ウチなんかには無理」
「もう何度か、少しだけど、一緒に作りました」
いつも何を映しているのか分かんない黒い瞳に、ウチが映っていた。
「でも……」
ロクはウチの手を掴んだまま離さない。血が止まるんじゃないかってくらいに腕を掴まれているのに、その冷たい手に安心してくる。温かすぎるより、落ち着く。
「絶対大丈夫」
耳に響いた。ロクの歌であればウチの音楽が綺麗になる。それにすがりつきたくなった。
「……やってみたい。お願いします」
「僕も初めてなので、一緒に頑張りましょう」
ウチは泣いているのにロクは笑った。ロクの笑顔は普段真っ直ぐの口角がちょっと上がるくらいのものだが、人を安心させるすごい力があるみたいだった。
夕空は日が沈んで三十分くらい経った時が一番綺麗って初めて知った。
ロクに手を引かれて、海のそばにぽつんと建つ家の扉を叩く。『喫茶 くじら』と書かれた木の札の前で二人、壊れた蛇口みたいに水を滴らせていた。
「田中さん、夜分にすみません」
「ほお、濡れネズミかと思ったら、まぁたみづきくんかいな」
田中さんは八十歳くらいのおじいちゃんで、このカフェの店主だった。先にシャワーを貸してもらった。流れるお湯の隣の鏡、そこに映る自分を見る。メイクでぐちゃぐちゃだけど、ハヤトの家の洗面台の鏡に映った自分と重なる。あれから何も変わってない。貸してもらったTシャツとステテコを着ると、本物の石鹸の匂いがした。
「律、コーヒーは飲める?」
「……甘ければ」
田中さんはカフェオレを作ってくれた。白い泡がふわふわ乗っていて、松ぼっくりみたいな棒ではちみつを垂らすと細い線が泡に沈みこむ。優しい甘さで、飲んだ瞬間に体に火が灯されたように感じた。
周りを見ると照明は少し落とされ、優しいオレンジ色のランプに青いガラスのカバーが被せられたものがぶら下がっていて、本棚にはたくさんの本が並んでいて、隠れ家みたい。
「田中さん、絵の方はどうですか?」
「アトリエを見ていくかい?」
「ええ、お願いします」
田中さんがゆっくり階段を上るのについてくと、懐かしい油絵具の匂いがしてきた。アトリエには書きかけの絵が一杯並んでいて、海の絵が多い。急に影が動き出したかと思うと、絵が置かれたイーゼルの脚の間を黒猫が縫うように歩いていた。
「田中さんは画家なんだ」
「合間に始めた喫茶店の方が、今は本業になってしまっているけどね」
「すごい……上手」
「ありがとさん、ここは私が人生をかけて選んだ場所だからね。一等地だよ。私はここにいさせてもらう代わりに、この場所から見える景色を描き続けているんだ」
「素敵な関係ですね」
景色との関係、そんなこと考えたこともなかったが、確かに素敵だと思った。
「はは、ありがとう。ところで律さん、それはギターかい?」
「あ、はい。そうです」
「どれ、弾いてみてくれないか」
有名な映画の曲をアコースティックバージョンで弾いた。天井は高く、木組みが見えていて音が響く。天井には星型の蛍光パネルではない、本物の星を見るための小窓がついていた。
「うん。クロも気に入ったみたいだね」
黒猫は絵描き椅子に座るおじいさんの足にすり寄って、甘えるように鳴いていた。
「今度は日が高いうちにおいで。海開きまで毎日ここに来てくれても構わないよ」
「いいんですか?」
「ばあさんがいなくなってから、この景色をクロとひとり占めするのも忍びないのさ」
田中さんは窓際のピアノに目を向けた。クロはピアノの椅子の上に跳び乗り丸くなる。脇には上品に笑っているおばあさんの絵があった。
練習場所に困っていたウチらは、二階のアトリエを貸してもらうことにした。
そこから毎日アトリエに集まって曲作りをした。田中さんはチーズがたっぷり入ったホットサンドを作ってくれる。茶色い紙にくるまれたまま切られた半分を口に運んでふと止まったロクは、突然ピアノを弾く。ウチも伴奏を乗せる。降って湧いたメロディー。
あーでもないこーでもないと、水の中から掬い上げるように音を探す。スマホのボイスメモや動画は気づいたら百を超え、自分たちが何かを生み出している感覚は、ここにいていいと認められている感じがして安心できた。
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