第四話 橙色の光が灯っている家
ハヤト、中原先輩との出会いは、中学二年の冬、冷たい雨が降り続ける夜だった。家でなければどこでもよかったウチは、駅前のコンビニで時間を潰していた。雑誌類はテープで閉じられているので、興味もない占いの本を開き、イヤホンから流れる音楽に集中していた。
「お嬢さん今一人?」
声をかけてきたのは女性警官で、ウチはイヤホンを外した。でも奥に男性警官が不機嫌そうに立っているのが目に入り、外したイヤホンを再び耳に持っていった。
ウチにとって音楽は、一瞬でも自分の意識をこの場所以外に持っていける防衛手段だった。でもイヤホンを片方落としてしまった。女性警官はイヤホンを拾ってくれたけど、何も言わないウチを変に思って交番に連れていこうとした。
「あーりっちゃん、探したよ。南口のコンビニじゃなかったっけ?」
そこで手を掴んできたのが中原先輩だった。突然現れたヒーローは、ぶかぶかのTシャツにだるだるのバスケのズボン姿。バスケ部の三年の先輩で、喋ったことはなかった。
「友達?」と女性警官に聞かれて目を逸らしてしまった。
「すみません。僕の妹とこの子が友達で、僕は会うのは初めてなんです。れいかも待ってるから、アイス買っていこうか。荷物持つよ」
中原先輩は何事もなかったようにウチの鞄に手を伸ばしてきたので、とりあえず鞄を渡した。アイスコーナーで「好きなの選んでいいよ」と言われたから、とりあえず先輩が手にした大福アイスと同じものを手に取った。
コンビニを出てしばらくすると「家どこ?」と小声で訊いてきた。「帰りたくない」と伝えると、先輩は「じゃあうち来て本当に妹の友達になってよ」と笑った。小学三年生の妹のことを教えてもらううちに、親しみを覚えていた。ウチが小三だった時のことを思い出す。母親が再婚し、色々変わった時。
「お兄ちゃん、お帰り! ……この人は?」
階段の上からスリッパの音とともに女の子が下りて来た。髪の毛は左右対称のツインテールで、結んでくれる人がいないウチの伸ばしっぱなしの髪がみじめに思えた。
「俺の友達。怜夏の話をしたら友達になりたいっていうから連れてきた」
「ほんと? お名前は?」
「律です。近藤、律」
「りっちゃんね。あたしはれーか」
アイスを片づける中原先輩に代わり、怜夏ちゃんは雨で濡れたウチの手を引いて洗面所を教えてくれた。そのままトイレに行ってしまったので電気のスイッチが分からず、薄暗い中で洗面台の鏡の前に立つ。疲れた自分を見ると、これは全部妄想で、自分の家が知らない家に見えているんじゃないかと思えてきた。水を流そう。冷たいはずだ。でも冷たくなかったら……。
ふわっと視界が明るくなった。橙色の灯りは温度なんてないのに温かい。
「手洗いうがい、できないの? こうだよ」
流しっぱなしの水を前に突っ立っているウチに、怜夏ちゃんは手本を見せてくれた。ウチも手を伸ばす。冷たいと思っていた水は温かった。手を洗うだけの水が温められた家は、自分の家ではない。リビングに行くと、中原先輩の両親がいた。
「律ちゃん、初めまして。隼人と怜夏の父です」
「夕飯はもう食べた?」
出してもらったご飯と煮物は温かく、なんだか泣けてきて鼻水も出てきた。大福アイスを重ねてチョコで顔を描いていた怜夏ちゃんは、アイロンのかかった綺麗なハンカチを渡してくれた。
「りっちゃん、あたしの部屋で一緒に寝よ」
怜夏ちゃんは年も背も上のウチを妹みたいに扱った。大きなベッドに並んで照明を常夜灯に絞ると、天井には星型のパネルが黄緑色にぼんやりと光っていた。それらをぼんやりと見る。
「家、ないの?」
家はある。でもこんなに橙色の光が灯っている温かい家はない。
「言えないの?」
絵に描いたような幸せな家庭。でもウチはこの絵を描けない。そう思うと胸がきゅっとして、そう、辛かった。毎日少しずつ削れていって、小さくなった心でも充分に痛かった。
ドアが開き廊下の橙色の灯りが部屋に伸びてきて、その先に中原先輩がいた。寝ている怜夏ちゃんを起こさないように一階に降りると、中原先輩のお母さんが温かいお茶を用意していた。
「怜夏に付き合ってくれてありがとう。親御さんに挨拶したいから、電話番号教えてくれる?」
「固定電話はなくて、ママ、母親は基本留守電なので大丈夫です」
「そうなの、お父さんも?」
「母親の再婚相手ならいます」
「そう。じゃあ、お母さんに留守電入れさせてもらうわね」
温かい家を持つ中原先輩にウチの家がどう思われたか怖くて、先輩の方を見られなかった。
翌朝早く、怜夏ちゃんの踵落としで起きて一階に行くと、中原先輩のお母さんがもう起きてご飯を作っていた。ママと会話して「いつでも泊まっていい」と伝えたらしく、この日から中原家に出入りした。最初は緊張していたけど、すぐにくつろぎ始めた。途中でママが離婚したけど、誰もいない家より「ただいま」と温かい明かりがついている家の方がよかった。
「りっちゃん、音楽好きでしょ。弾いてみない?」
ある日、ハヤトはギターを持ってきた。それは茶色のグラデーションで、すごく重かった。初めてピックを掴んで、弦を押さえないまま音を鳴らした時の感動は覚えている。その振動が、変な音が、面白かった。そしてはまっていった。
もう一人のバンドメンバーのセキは、ハヤトのバスケ部の友達だった。中原家に通うようになってウチは明るくなった。妹扱いする怜夏とハヤトを見返したくて金髪にした。
ハヤトの家に出入りしてるせいで嫌なことも言われたけど、ピアスをたくさん開けただけで遠巻きに見られるだけになった。ちゃらい男子から声がかかり始め、セキはその一人。ウチは全部断ってたけど、セキはしつこかった。
「俺もギター始めるから、上手くなったら隼人と一緒にバンド組んでくれん?」
「今回はバンドの誘い?」
「下心はなくはない。けど、本気で練習するから!」
ふざけてると思ったけど、ハヤトから真面目に練習していると聞いて、犬みたいだなと思った。「待て」ばかりしていたら高校生になったらと押し切られ、高校生になりバンドに入った。
ハヤトとセキとのバンドは面白かった。話していると、やっぱり楽しかったことを思い出す。三人で一つの曲を弾く楽しさなんかは絶対と思えるものだった。
ウチは音楽が好きだ。でも同時に嫌なことも思い出す。殴られている時、自分の心を引きはがして音楽の世界にこもっていた。ハヤトもセキも好きだけど、あの二人がたまにウチに向ける視線が嫌い。それは例えば練習終わりのハイタッチだし、例えば歌の途中のアイコンタクトだった。怖くて、それで自分が嫌いになって。
音楽が好きなはずなのに。
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