第二話 ロクタンダの歌、好きなんだけど!
四月二十日。あのカラオケ終わり。二次会の話で盛り上がる中、ロクタンダはすぐに部屋から抜け出した。ウチはロクタンダに話しかけたくてついていった。
二人でいるとこを見られると面倒だからもうちょい先でと思いつつ、なんか声をかけられないまま、仙台駅から同じ電車に乗りこんだ。ロクタンダはぶかぶかな学ランを着ているけど、その上からでも分かるくらい体を緊張させていて、今声をかけたら野良猫みたく逃げられそうな気がした。リュックを膝の上に抱え込んでいて、顔はよく見えなかった。
終点で降りてバスに乗り換え、バスも降りた。行き先が気になって後を追いかける。ストーカーみたいで嫌だったけど仕方ない。あの声は絶対どこかから声がかかる。唇を噛み、慎重になれと自分に言いきかせる。
堤防の壁を越えると海だった。越えるまで全然潮の匂いがしなくて、目の前に現れた突然の海に驚いた。
ロクタンダは奥まで行き、曇りの空の下で足を止めるなり歌い始めた。ロクタンダにとってもカラオケは窮屈だったみたいで、歌い始めるとやっと息ができたように肩の力が抜けていった。そしてカラオケで聴いた歌は、全然本気じゃなかったと思い知った。
ひたすらに心地いい声。ガラスペンを深い青色のインク壺に静かに入れて、その細い溝にインクを吸い上げ、少し目の粗いケント紙に走らせたような優しい音。でもただ優しいだけじゃなくて、紙にひっかかる音がある。エッジボイスかこれ。
ひっかかる度に、こっちまで眉をひそめてしまうほど悲しくなる。多分オリジナルの曲で歌詞がない。ずっと聞いていたくなる音。ウチが抱えていた刺々しい毒気が抜かれてしまったようで、カラオケでのイライラが目の前の波のようにすうっと引いていく。
ほっぺに何かが伝うのを感じた。耳に集中しすぎていて、いつの間にか目に涙が溜まっていたことに気づかなかった。うそ、ウチ泣いてる。今流している涙は赤ちゃんの時以来の綺麗な涙だ。ぼろぼろの自分のガワの中に、疑うことを知らない心が小さく隠れていたとして、それが優しい手つきで暴かれ、目に入れても痛くない水で包まれているような感覚。
涙を拭いて顔を上げると、歌い終えたロクタンダは先ほどまでの場所にいなかった。波に濡れた鉛色の砂と、濡れていない亜麻色の砂の境目にスニーカーが行儀よく並んでいた。
ロクタンダは海に入っていた。ズボンのすそをロールアップし、枝みたいなほっそい脚が海面から生えている。もしかして死ぬ気? なわけ。でもさっきの悲しい声を思うと、勘違いでもない気がしてきた。嫌な予感は、絵の具の上に水を垂らしたように、じわりと滲んで広がっていく。
「ロ、クタンダ!」
気づいたら追いかけて腕を掴んでいた。ロクタンダは驚いたようにこちらを見た。先ほどまで長い髪で隠れていた瞳は、水浴びをしたカラスみたいに黒く濡れていた。ウチは初めて黒色の絵の具を知った時のように、この色に吸い込まれそうになる。
「早瀬さん?」
ウチの名前、知ってるんだ。とにかく今は死なせたくない。
「ロクタンダの歌、好きなんだけど!」
「え?」ロクタンダは瞳を揺らした。
「歌ってよ」
「と、とりあえず、上がりましょうか?」
……ほんと何してんだ。ウチはずっと冷静じゃなかった。鞄を持ったまま、靴も脱がずに海に飛び込んでいた。砂浜に上がると、ローファーの中に溜まった水と砂で足が重かった。
「よかったら使ってください」
ロクタンダが鞄から出して貸してくれたタオルは、ふかふかで太陽の匂いがした。
「さっきの、聴いていたんですね」
ロクタンダは気まずそうにウチを覗き込んできた。
「うん。めっちゃよかった。もっかい歌ってよ」
「人前では歌いません」
「なんで、もったいないよ」
ウチが言うと、ロクタンダは微妙な顔をしていた。
「早瀬さんはこの近くに住んでるんですか?」
「いや。さっきの、カラオケでロクタンダの声聴いて、なんかぐわーってなっちゃって」
ロクタンダはなんも言わない。
「……それで追いかけてきた。ごめん勝手についてきて」
ロクタンダは無言で首を横に振り、こっちを見ている。謎の間。ん? まだウチの番?
「ロクタンダの声にすごい惹かれた。え、ウチのバンドに入ってよ」
「ありがとう。でも僕は歌えませんし、多分僕には合わないです」
「そんなこと、……そうかも」
確かに合わない。今だってロクタンダはウチの言葉を待って最後まで聞いていた。つい、話すつもりじゃなかった本音まで話してる。ハヤトとセキなら、もっとぽんぽんと話が続き、それが心地よくもあるけど、自分の本音を考えるにはもう少し時間がかかるって今知った。この声を今のバンドに閉じ込めたら、ロクタンダの良さ、なんてか、世の中とか流行とかの外側にいる感じの魅力が消えちゃうと思う。
「はーあ、もっと音楽が好きって顔しといてよ」
どんな顔? とでも言いたそうな変な顔をしている。なんか面白いかも。
「ねえ、ロクタンダって長いから、ロクでいい?」
「はい」
「あっはは。ウチのことは律でいいよ」
「わかった。律」
無表情で暗いし、名前で呼ぶとか恥ずかしがると思っていたのに、少し目を逸らしただけで声色は堂々としていた。結構やるじゃん。ロクは下宿生活をしていて、最寄り駅は高校に近いらしい。帰り道もずっとふわふわして、現実じゃないみたいだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます