第3話

動物病院の待合室の一角の椅子で、俺はふさぎ込んでいた。


 俺は彼女が苦しんでいる時、声をかけることすらできなかった。俺は、そこにいたのに。声をかけられなくても、彼女の肩を抱いて励ますことだってできたというのに。


 自分は、変わった。彼女へ思いを伝えることができて変わることができた筈だとそう思っていた。


 でも、いざ本当の大事に至って、俺は何も変わっていなかったのだと実感した。


 現在、春先楓は死んでしまったクロの側にいる。

 

 俺の隣には、変わりに慶さんが座っていた。

 

「中山君、いろいろと付き合わせてしまって、悪かったね。」


「こちらこそ、何もできずに全部任せてしまって申し訳ないです……。」


「いや、気にすることは無いさ。高校生なら、それが普通だよ。」


「春先、じゃなくて、か、楓はクロのこと、大好きだったんですね。」


 初めて名前を呼んだため、少し言葉に詰まる。


「そうだな。私が羨ましいぐらいに、クロのことを好いていた。それがより顕著になったのは、二年前からか。」


「二年前?」


「ああ、楓が高校に入学したての頃ぐらいだった。私の妻が亡くなったんだ。」


「……え?」


 俺は衝撃で空いた口が塞がらなくなる。


「高校へ入学仕立てってことは、俺が花屋に通い始める少し前からってことですか?」


「ああ、そうだ。今まで隠していてすまなかったな。春先は、君に変な気を遣わせたくなかったそうだ。」


「そんな、ことが……。でも、なんで今それを……?」

 

 今まで隠していたというのに、クロが死んだタイミングで打ち明けるのは少し不自然だ。


「中山君は、クロが死んだときの動揺ぶりに、少し困惑しているんじゃないかと思ってね。」


「い、いえ、楓は中学生の時からクロのこと大好きでしたし……。」


「君は、知らないかもしれない。妻が死んでから楓が家にいる時は、大抵クロの側にいた。」


「それまでは、違ったということですか?」


「もちろん、それまでもクロにべったりではあったが、今ほどでなかったんだ。楓は妻が死んだことで、クロへ依存するようになった。」


「依存……。」


 彼女はあの時、心の底から振り絞るような声で苦しみながら嗚咽していた。俺はペットも家族の内だと思っており、あの時はほとんど違和感を覚えなかった。だが、確かにあの悲しみ方を振り返ってみれば依存していたと取れなくもない。


「カエデが、私の妻を亡くしてからの悲しみようは、とても言葉では言いあらせないようなものだった。ひどく取り乱して、しばらく学校にすら通えなかったんだ。クロはそんな楓を見かねてか、必ず側について回るようになった。まるで、見守るように、励ますように。とても、優しくて賢い子だ。クロがいてくれたおかげもあってか、楓は何とか立ち直ることができた。しかし、私は一安心すると同時に心配だった。クロは既に年老いていたんだ。もしクロが死んで心の拠り所を失ってしまえば、またカエデはふさぎ込んでしまうのではないかと。やはり、その不安は現実になってしまった。」


 楓にはそんな過去があったのも知ら無いまま、呑気に彼女の元へ通っていた自分が憎らしくなる。

 自分ばかりが、内に抱え込んでいるものだと思っていた。しかし、そんな自分の悩みが軽く思えてしまうほど、彼女は重いものを抱えていたのだ。


「楓は、大丈夫なんですか……?」


「大丈夫にして見せるさ。本来ならばあの時だって、私が励ましてやらなければいけないものを、クロに肩代わりさせてしまった。」


「でも、慶さんだって同じように苦しんでいたから、仕方が無かったんじゃ無いでしょうか……。」


「それは言い訳でしかない。自分の気持ちより子供の事を優先するのが、親の役目だからな。今日は、話を聞いてくれてありがとう。少し、心が軽くなったよ。」


「あ、いえ……。」


「私は、中山君を応援しているよ。楓が元気になったら、また花屋に来てくれ。」

 

 そういって、慶さんは笑いかけてくれた。

 彼は、俺が楓に好意を持っているということに、気が付いているようだ。


 俺は迷っていた。

 自分はこれからどうするべきなのか。このまま彼に託してしまって良いのだろうか。


(ここで挽回しないと……。)


 俺は焦燥感を感じる。彼女の側にいたいなら、それ相応の行為を見せるべきだ。

 

 しかし、俺の足は硬く彼女の元へ向かなかった。さらに彼女を傷付けてしまうのではないかという恐れが足を竦ませたのだ。


 そしてこの時、俺の中に迷いが生まれていた。


 俺は彼女と関係を築く権利はあるのか?


 ここまでヘタレでどうしようもない人間が彼女の側にいても、逆に負担をかけてしまうだけになってしまうかもしれない。


(それに彼女と俺じゃ、釣り合わない)


 変わりたい、彼女の側にいても胸を張っていられるような存在に……。


(俺じゃ、ダメだ……。)


 俺は席を立ちあがった。


 その時だった。空耳だろうか。耳元で猫の鳴き声が聞こえた。


 驚いて周囲を見渡すが、もちろん猫などいない。


「どうしたんだ?」


「い、いえ。もう、行きます。」


 きっと幻聴だ。そんなことはありえない。


「じゃあ、気を付けてな。」


 慶さんにすべてを投げ出すことへの後ろめたさを感じながら、家に向かった。

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