第7話 矛盾した安らぎ
呪いを受けてからの記憶は曖昧だった。
一度希望を見出してからの絶望が思ったより
希望があるから絶望がある、とはよく言ったものだ。
俺は失意の中、気を失うように眠りについた。
意識は唐突に朝に繋がった。
じんわりと暖かな差し日を閉じた瞼越しに感じて、薄く目を開く。風で揺れた窓のカーテンから、チラチラと日が差し込み、俺の額に落ちていた。
身体を起こそうとして、それができないことに気がつく。
俺は魔王アリスの胸の中にいた。
アリスの部屋の無駄に豪華なベッドの上で、アリスは俺の頭を抱えるようにしてスースーと寝息を立てている。
モコモコのパジャマが頬に当たって温かい。いや、温かいのはアリスの体温か。
魔王アリスは巨悪の根源。それなのに——それでも、誰かに包まれるというのはそれだけで心地良いものだった。
魔王アリスが何故かは不明だが、俺に執着していることは分かった。どうやら殺される心配はないことも。
だが、それは『一瞬の死』から『一生の飼い殺し』に変わっただけだ。拷問を受けない保証もない。
何故アリスが俺に執着しているのかが分からない以上、今日急に『もう飽きたからいらない』と処分されたっておかしくはないわけだ。
そう思うと俺は、今感じていた安らぎが急に恐ろしくなった。体がガタガタと震える。怖い。死にたくない。一度生き残る道を見出してしまったら、再び命を諦めることはもはや不可能だった。
アリスから離れようとすると、俺を抱えるアリスの力がぎゅっと強まった。
「だめ」
アリスの胸の中でおそるおそるアリスを見上げると、微笑んだアリスが俺を見つめていた。
赤い瞳が俺を写している。アリスの
俺が震えているのに気付いたアリスは、俺の頭に手を置いて、ゆっくりと撫でた。
「大丈夫。怖くないよ。もう何にも痛いことはないよ。ウチが守ってあげる。大丈夫」
頬を熱い何かが伝うのを感じて、自分が泣いているのだと気がついた。一度気付いてしまえば、もう止まらなかった。うっ、うっ、と嗚咽が漏れる。
恐怖の対象に慰められることの情けなさを感じながらも俺は魔王アリスの胸の中で泣き続けた。
♦︎
「アリス様、何か苦手なものはありますか?」
俺がエプロンを付けながら訊ねると、魔王アリスは「人間」と答えた。
それは人間との付き合いが苦手なのか、あるいは食材として苦手なのか。判然としない中、「あ、でもダーちゃんは別だよ?」とアリスが付け加えるものだから、俺の恐怖は一層高まった。まるまる太ったらいずれ食われるかもしれない。
とりあえずサンドイッチにするか、と俺はフライパンを熱する間、パンの耳を落とし三角形に切った。
何故、俺が料理などしているのか、と言えば魔王アリスが「魔王様、朝食の準備が整いました」と呼びに来た配下を追い返して「今日はダーちゃんとテンアゲもーにんぐもぐもぐタイムやで」とテンアゲもーにんぐもぐもぐタイムの開会を宣言したからである。
俺とアリスは朝食を自分らで作るべく、調理室に移動したのだ。
「ウチが
「それを言うなら、腕によりをかけて、です。アリス様」
「それな」
「アリス様、海苔の袋開けるのおやめ下さい。かけなくて大丈夫です。手に味海苔かけなくて大丈夫です」
魔王アリスは味海苔をパリパリ齧りながら「てゆうか、朝食って食パンか納豆ご飯の2択じゃね?」と極論を放つ。明らかに料理をしそうもないアリスに任せておけば、調理場が大爆発を起こして、料理長の恨みを何故か俺がかうことになるだろう。俺にはその未来がありありと見える。
だから俺が包丁を握ることにしたのだ。
仮にも敵である人間の俺が刃物を持っているというのに、魔王アリスは全く気にした様子もなく「家事メン、激アチュ❤︎」と何故か喜んでいる。相変わらず訳の分からない魔王である。
簡単な卵サンドとツナサンドを作って、皿に盛り付け、魔王アリスの前に置くと、毒味役を呼ぶこともなく、かぷりと齧り付いた。一国の王がそれで良いのか。
「ぅんっまァァアア! ◎△$♪×¥●&%#?!」
「ちょっと何言ってんのか分かりません。飲み込んでから喋ってください」
アリスは、んぐっ、と飲み込んでから「K点越えあざます! 完成度エグち!」と叫び、またサンドイッチに齧り付いた。飲み込んで喋ってんのにまだ何言ってるのか分からない。
「料理長は料理の専門家でしょう? それよりも美味いなんてことあり得ないです」と苦笑する。少し照れ臭かったのもあるし、料理長に恨まれたくないのもある。
アリスは口端にスクランブルエッグをくっつけて、俺の方を向くと「ダーちゃんの手料理だから、だよ」と笑った。
その笑顔にドキッと胸が鼓動を強めた。そして、俺はその反応を無理矢理に押し込める。
こいつは人類の敵。
いくら可愛くても。
いくら優しくても。
こいつは人間を殺したんだ。何人も、何千人も、何万人も。
俺は、カチャカチャと食器を洗う音を聞きながら、何故か切ない気持ちに浸っていた。
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