箱庭の蓋が開く‐3
「そこで何をしている? オリス」
恐怖に苛まれた思考は、弓矢のごとき声によって引き裂かれた。
「いだだだだだ!?!?」
アレクシアの腕を抑え込んでいた痛みが、瞬きの間に消えさった。傍では男の悲鳴が聞こえる。
全てを拒絶するように固く閉じた瞼を、恐る恐る持ち開ける。
光にぼやけた視界に映るのは、アレクシアを引きまわした男――オリスが狩人の少女に腕を捩じりあげられている姿だった。
「何をするヘデ!」
「それはこっちの台詞だ」
どこまでも見通すかのごとき光を宿した翠の瞳がオリスを睨みつけ、ゆらゆらと揺れる炎のような赤毛がオリスの視界に影を落とす。
少女に腕を掴まれた瞬間には罵倒を投げていたオリス。しかし、静かに声を荒げることなく、しかし確実に重圧をかける少女に、徐々に覇気を失っていく。
骨の軋む音すら聞こえるほどに絞りあげられている。歯を食いしばり顔を歪め、しばし抵抗を続けていたけれど、諦めたように力を抜いていた。手間をかける、なんてヘデが呟いた言葉が耳に入ってくる。
「なんで泣いて嫌がる子供の腕を無理矢理引っ張っていた?」
拘束を解かれても、オリスは地面に横たわっている。荒々しい息を零して、顔だけをヘデに向けていた。それを、じっと正面からヘデが見据えている。瞳を合わせ、逸らすことを許さない威圧に、オリスが舌打ちを一つ吐き捨てる。
「助手なんだよ。
昨日から俺のところに配属になったらしい。素晴らしいことだよな、人員の増加は。雑務を任せられるし、手がいる実験にも使える」
身を起こし、オリスは土の上で胡坐をかいている。
大仰に両腕を広げた。役者のようにわざとらしく溜息を落として、失意を露わにする。
「それが、どうだ。昨日一日、待てど暮らせど姿を見せねぇ。
一日でどれだけのことができたか、お前に分かるか?」
元より鋭い眼をさらに細めて、眉間に皺を寄せる。ぴくぴくと痙攣する瞼が、決壊寸前の堤防を思わせた。
「わざわざ向かいに来てやったってのに」
ぎっと、ヘデに向いていた視線がアレクシアに向けられた。怒りだけを宿した瞳に射抜かれて、ひゅっと息を呑んだ。
呼吸が、ままならなくなる。今までに向けられたことのない、苛烈な敵意。
不規則になっていく呼気と吸気の割合が、空気を求めて喘ぐ喉が、思考に靄をかけていく。喉の奥が閉まっていくような心地がする。弁解をしたくて声帯を振るわせようとして、けれど、そんなことよりも、目の端から雫が落ちるほうが早かった。
「なんで邪魔をする! なんでお前が泣く!!」
泣きたいのはこっちだ! なんて声がぼやけた脳に響いた。
黙り込んで、嵐が過ぎ去るのを待っていたかった。
けれど、敵意から守ってくれるひとがいた。
砂に汚れた外套が、アレクシアの前に広がる。
迷彩色の、何本も縫い合わされた線の走る、狩人のための外套。
それに遮られて、オリスの厳しく険しい瞳は見えなくなった。
「だから、落ち着けと……。全く、埒が明かないな。
君はそんな約束をしていたのか?」
背中越しに、振り向いた緑色が静かに自分を見つめている。
只一人助けてくれたひと。言葉はなくとも、大丈夫だと言われているようで。
だから、アレクシアは懸命に喉を震わせた。
「わ、たし、そんな約束していません。協会には、今日、初めて行ったの」
はぁ!?と吠えたてられ身が竦んで、思わずぎゅっと瞼を瞑ってしまったけれど。アレクシアはオリスから顔を逸らさずにそう言い切った。
「なぁ、オリス。助手の名前はなんだ?」
「アリー。ザロモ・アリーだ。それがなんだ」
不意に、ヘデが言葉を落とした。
水面に広がる波紋のように、認識が揺れる。
「ザロモ。ザロモ、ね。
――そいつ商家の次男坊じゃなかったか?」
一度ミネテさんに連れられているのを見た気がする。
顎に手を添え、記憶を掘り返すように空に視線を投げていたヘデが、ぽつりと呟いた。
その言葉に、ぽかんと口を開けてしまう。
だって、アレクシアはどこからどう見ても男ではない。
確かに体の大部分は外套に隠れてはいるが、袖から伸びる手はほっそりと長く、筋は目立たない。骨は浮き出ず皮下に隠れ、どこもかしこも丸みを帯びている。
性別さえ超えて誰かと間違われていたという事態を飲み込めないでいるアレクシアとは対照に、オリスは唇を掌で覆い隠しぶつぶつと呟いたかと思えば、がしがしと頭を掻いた。
そして、アレクシアに頭頂を向ける。
「悪かったな。話も聞かずに連れ出して」
謝られた。
アレクシアが理解した時には、オリスはもう通りの向こうに姿を消していた。
嵐が通り過ぎて行った。渦中は鮮烈でありながら、抜けてしまえば名残など一つもなく空を晴らす嵐のように、男は去っていった。
それをアレクシアは茫然と見送るしかなかった。
「災難だったね。立てるかい?」
間抜けに口を開けたまま座り込むアレクシアに、ヘデが手を差し伸べていた。
柔らかな、自分とよく似た丸みを帯びた指先。けれどいくつもの傷が刻まれた狩人の手。そこから腕へと、目を滑らせる。
使い込まれ、色に深みと光沢を増した革篭手が手背を覆っている。腰に巻きつく帯革には、短剣や小物入れが縫いつけられていた。
窮地を助けてくれた恩人の姿を、アレクシアはようやく視界に収めた。
「今日、初めて協会に行ったって言ってたね。じゃあ、王都に来るのも初めて?」
静寂を宿した瞳が、柔く細められる。
恐怖から解放された身にその視線はひどく甘やかで、つい身を捩り顔を逸らしてしまう。
はい。羽音のように微かな返事は届いただろうか。
「うん、初めてがこれじゃあ碌な思い出にならないね。だから、ちょっと私の気晴らしに付き合ってくれない?」
曇った空の隙間から、光が刺しこんでくる。
今度こそと、了承を確かに声に乗せた。
罅入る心臓 速水ひかた @sekkei
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