箱庭の蓋が開く‐2
「さぁ、こちらですよ」
防寒着として渡された分厚く重たい布で作られた外套。そのフードを脱げば、目に飛び込んでくるのは鮮やかで豊かな色彩と、視界に収まらないほどのひとの群れだった。
呆けたアレクシアの前を歩くジルドが、振り返って先を示す。けれど、アレクシアはあまりにも多くの情報を処理するので精一杯だった。
路の左右にずらりと並ぶ露店を彩る日除けの布。焦げた甘辛いタレの、鼻を擽るにおい。そこら中から聞こえるひとの声に、彼らが身に着ける耳飾りが陽光を反射してちかちかと瞬く。視界は煩く、混ざりあった匂いが脳裏を焼きつく。氾濫する音が耳の中で反射していつまでも小さくならない。
目が、耳が、鼻が。アレクシアの許容量を遥かに超えた刺激に、ふわりと体の制御が利かなくなる。
「大丈夫ですか? アリィ」
目が眩み、倒れかけた体が支えられる。
細く頼りないジルドの腕が、けれどしっかりとアレクシアを支えていた。
慣れた暖かな体温が頭の中で渦巻く情報を落ち着かせてくれる。
「ごめんなさい。ちょっと、ふらついただけよ」
「フードは被っていた方がよろしいかもしれませんね」
彼の助言に、こくりと頷いてフードをもう一度被る。
視界は半分ほどに狭くなり、厚手の布は些細な音を遮断する。匂いは防げないけれど、それだけでもアレクシアを襲っていた鈍い頭痛は軽くなった。いつの間にか詰めていた息を吐き出して、二、三度呼吸をしてしまえば、きっと元通りだ。
何度も空気を取り入れていると、アレクシアを誘う香ばしい匂いに気づいた。
「これから協会に向かいます。市井に降りるのなら、彼らに紛れるのが一番ですから」
「協会……。狩人たちの?」
正解だと教師のように笑むジルドに安堵して、いつの日か読んだ歴史書を脳裏に開く。
アレクシアが王女として生まれたデュウォル王国。
かつて大国に追われ、逃げ延びたひとびとが作ったとされる王国は、カデンステラ山地にぽつりと存在している。生命力に優れ他の獣よりも狂暴な魔物が数多く巣食う、魔の山岳地帯。ひとが住むにはあまりにも険しい環境。
ゆえにこそ、デュウォルの民は魔物らを狩って、日々の糧にせんとした。
狂暴な魔物がなんだというのか。
喰ってしまえば数も減り、食料にもなる。
そのように考えたひとたちが国の始まりに多くおり、今も尚その精神は受け継がれている。
そう。
今、アレクシアの傍で焼かれている肉も狩人たちの成果であるに違いない。
拳ほどの大きさに切り分けられ、串に刺され、くるりくるりと回されながら、揺らめく炎に翳される肉。
滴り落ちる油に炎の勢いが増し、燃え上がる炎がより一層表面を焦がす。
ごくりと唾を飲む音がした。
茶色く、湯気の上がる姿から目が離せない。
「店主。串をふたつ、いやひとつ」
「まいど」
串が炎の上から引き上げられ、店主の手元で串がくるりと反転する。硬貨と引き換えに串を受け取ったジルドが、大きく口を開け串肉に齧りついた。二つ刺さったうちの一つが抜き取られる。口いっぱいに頬張りながら、ジルドが串をアレクシアに差し向けた。
粗暴、と言ってしまえるほどに豪快に肉を食らったジルドに面食らっていたアレクシアは、彼の持つ串の意味が分からずに手を胸の前でまごつかせる。
「食べたかったのでは?」
「あ、いえ、頂きます」
眉を潜めた彼の発した言葉に、漸く意図を掴んでアレクシアは差し出された串を受け取った。
細く削られた木で出来た串。そこに刺しこまれた拳ほどの塊肉。
表面は浮き出た脂で艶めき、ところどころに黒い焦げが焼きついている。ひっくり返して、裏も表も、日に透かして矯めつ眇めつ観察していれば、冷めちまう前に食ってくれと苦言を呈された。
冷める前、ということは温かいうちに食べるものなのか。
アレクシアにとって食事とは冷え切ったものであったが、店主が言うのなら間違いはないはず。現にジルドも冷やさずに食べていた。
彼の食べ方を思い出し、けれど彼のように口を開け広げることはできずに、串肉に齧りつく。
途端、熱が口内を襲う。吐き出しかけたそれを噛み千切り、咀嚼する。
溢れ出る肉汁に溺れかける。噛む度に旨味が口に広がり満たす。
見開いた目をそのままに、ジルドと店主を交互に、何度も見てしまう。
こんなにも美味しいものがあったなんて。
「いい反応する嬢ちゃんだなぁ。王都は初めてか?」
「えぇ。今日初めて連れてきまして。一番初めですから、美味しいものを食べさせてやりたかったんです」
「いい兄ちゃんじゃねぇか! ほれ、こいつも食ってけ!」
もぐもぐと美味を堪能していると、ジルドが店主から小さな黄色の果実を受け取っていた。小さな、それこそ親指の先ほどしかない大きさの、ころんと丸みを帯びた果実だ。四つ五つと落とされた果実が、アレクシアの手の内の串と交換に渡される。
先ほどまで口の中を占領していた肉の代わりに、果実を放った。
表面に味はない。わずかに弾力のある実を、ぷちと噛むとぱちぱちと弾けて、柔らかな酸味が広がった。脂がさっぱりと洗い流され、もう一度串肉を、と思ってジルドを見れば、すでに彼の腹の中に収まっていた。
「さ、行きましょうか」
差し出された手の、その反対に握られた空の串をどうにか視界から外して、アレクシアはジルドの手を取った。
協会は大通りを抜けた先にあるらしい。
刺激に或る程度慣れたアレクシアは、目に映るものすべてが新鮮で、目を惹かれた。甘い匂いを漂わせる蜂蜜酒に、煌めきを内包した水晶。並べられた魚と芋の揚げ物。それに色鮮やかな羽で作られた髪飾り。
いろいろなものに興味を惹かれて遅くなってしまったアレクシアの足取りに、はじめは合わせてくれていたジルドであったけれど。アレクシアが、髪飾りに吸い寄せられるように手をすり抜けて逸れてしまってからは、余所見厳禁と言わんばかりに歩みを早めてしまった。
そうして、狩人協会本部に辿り着いた。
建物は古く、苔生した石壁に幾重にも蔦が這っている。表面が削れて丸みを帯びた石段を登り、アレクシアは扉を押し開いた。
「わぁ……!」
そこは、大通りなど比べ物にならないほどのひとの熱気に溢れていた。アレクシアよりも頭二つほど高いひとの壁が形成され、協会内を奥まで見渡すことはできない。けれど、二階部分が取り払われているためか、圧迫感は感じない。
ここの一員になるのだと、心が湧きたった。
「それでは私は狩人としての登録をしてまいりますので、アリィはこちらで待っていてください」
「それなら、私も……」
「いえ、たくさん歩いてお疲れでしょう。ここでお待ちください」
着いていこうと思っていたアレクシアであったが、ジルドににっこりとした笑みで封じられる。疲れてはいないつもりであったアレクシアだが、椅子に腰かけた際に思わず深い溜息をついた。自分よりも自分を見ている、と笑みを零して、先ほど買った果汁に口を付ける。
春の花の蜜を集めたものらしい。口の中で散る花のように消える甘さを追いかけて、ちびりちびりと唇を潤した。
協会の中はひとで満ちている。
アレクシアの待っている場所にはいくつもの机と椅子が並べられ、待ち合わせや作戦会議に使われているようだ。反対側には背丈よりも大きな掲示板が飾られている。いくつもの紙が貼り付けられ、三人組が一つを破り取っていった。
ジルドがいるのは入口正面に設けられた受付である。背筋のぴんと伸びた姿勢で、いつものように流麗に筆を走らせているが、どうしてか周りの視線を集めているようだ。
ぼんやりと、アレクシアは待っていた。
唐突に名を呼ばれるまでは。
「貴様、アリーだな」
「? はい」
アレクシアは現在偽名を使っている。
本名など、民にばれてはいけない極秘の任務では使えるはずもない。けれど、反応できない偽名など意味がないから、本名に近い、愛称のような偽名を使っていた。
だからこそ、呼ばれた名に反応できた。反応してしまえた。
「全く、手間をかけさせてくれる」
草臥れた服を来た男が傍に立っていた。
照明を遮るように立ち塞がる男の顔は黒く塗りつぶされたように見えない。見下ろされ、無造作に手が伸びてくる。
引こうとした身は簡単に掴まれ、椅子から転げ落ちそうな勢いで引き寄せられる。片手は捉えられ、もう片方の手は果汁の入った杯で塞がっている。どこにも捕まることもできずに、アレクシアは男によって椅子から立たされ、挙句の果てに協会の出口に向かって引き摺られる。
「朝日がもはや空の天井まで差し掛かった。日の出前に来るというのはなんだったんだ。これでは今日は何もできんではないか。貴様が助手をするというからその算段をつけていたといのに。全く、計画が狂ってしまった。どう責任を取るつもりだ?」
誰のことを言っているのか。何のことを言っているのか。
まるで理解ができない。
拒否も疑念も口に出そうとしたのに、音が鳴るほど握りしめられた腕に、喉が引き攣れた音しか出さない。へばりついたようにしか震えてくれず、口から出るのは掠れた息のみ。
瞬きの間に協会から出て、石段を転げそうになりながら下る。
先程ジルドと通った大通りに出てしまう。
さっき見た景色である。けれど全く違う景色に成り果てた。
心躍らせる品々の並ぶ、楽しさに満ちた場所ではなく。誰も彼もが自分をないものとして扱う恐ろしい場所に。
自分の腕を掴む男が恐ろしい。骨と皮しかないような細い腕なのに、ぎちりと握りこまれて振りほどけない。ぶつぶつと聞き取れない言葉をずっと呟いて、アレクシアの懸命な、けれど細やかな拒絶を見ないでいる。
関わり合いになりたくないと言いたげに遠巻きにされ、誰も助けてはくれない。
冷えた指先がもう上手く動かせなくて、体もアレクシアの言うことを聞かず、ただ男にされるがままになっている。
怖い。怖い。怖い。
怖くて怖くてたまらない。
声なき悲鳴が、零れて落ちる。
あぁけれど、それを拾ったものは確かにいるのだ。
「そこで何をしている? オリス」
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