罅入る心臓
速水ひかた
箱庭の蓋が開く‐1
咲きかけた薔薇に手を伸ばす。
棘がすべて切り落とされた、アレクシアのための薔薇。鈍い光沢を有した真紅の花弁。綻びかけた蕾に真白の手を添え、そうしてぐしゃりと握りつぶした。
握りしめた手を開けば、はらはらと力なく花びらが空を舞う。流血を思わせるような赤が、アレクシアの手から零れ落ちた。光を宿さない瞳が、花弁の落ち行くさまをじっと見つめる。掌を開け閉めしても、そこに傷はない。
ふいに吹いた風に、長く垂らした髪が浚われる。ため息を一つ落として、アレクシアは辺りを見渡した。
柔らかなもので敷き詰められた、小さな狭い箱庭。優しさだけが敷き詰められた場所にすこし息苦しさを感じるけれど、息とともに飲み下す。
だって、此処は父からアレクシアへの愛なのだから。
「こちらに居られましたか、殿下」
かけられた言葉に、やおら身を翻す。声変わりを少し前に過ぎたような、掠れた甘い声。砂糖を煮溶かしたような音が耳を擽る。
「ふふ、いつも
怜悧な瞳を冬の空のような白群に染めた男がそこに立っていた。美しい瞳を一つだけ曝け出し、もう一つを無粋な眼帯の奥に仕舞い込んだ年若い青年。
ジルド・ヴィレラウはアレクシアの閉じた世界に、一陣の風を吹かせた。迷ったと言って箱庭に入り込み、外の世界を自分に教えた愛しいひと。
「それで、今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
父の齎す閉じた世界を受け入れていながら、外の世界を夢見てる。
欲張りな自分を嗤いながら問えば、返ってきたのは常と異なる、どこか硬さを感じる笑みだった。小首を傾げ、彼の言葉を待つ。
「今日の話はエルンスト様からです、アレクシア殿下」
彫刻のように美しい顔で言葉が紡がれる。思いもよらぬ言葉にぱちくりと目を瞬かせた。
「お話は、エルンスト様の執務室にて」
「お父様、アレクシアが参りました」
重厚な装飾の施された、分厚い扉を叩く。
すぐさま返ってきた許可に樫の扉を開けば、父エルンストが書類の山の隣で立ち上がる。
柔く垂れ下がった目尻と緩く持ち上がった口角。娘を受け入れんと広げた父の腕の中に、アレクシアは一も二もなく飛び込んだ。
途端、暖かな体温がアレクシアを包み込む。胸元に頬を押し付ければ、爽やかな香りが鼻腔を蕩かす。安堵が体内を巡っていく。
ずっと父の腕の中にいたかったけれど、話があると聞いて来たのだ。自分を抱きしめる父の腕、それに添えた手に力を入れる。
檻から抜け出し一歩離れる。父の全身を視界に入れればどことなく悄然とした面持ちで、思わず笑ってしまう。
「それで、話であるが」
咳払いをして威厳を取り戻そうとするエルンストではあったが、無造作に整えられた白髪の隙間から見える耳はほのかに赤らんでいた。
「――お前に頼みたいことがあるのだ」
「私に?」
何を?
父の真意が分からず、伏せられた瞳をじっと見つめる。音もさせずにカップをソーサ―に戻す。視線は合わず、しかし潤いを増した唇が確かに次の言葉を紡いだ。
「『ロゼの瞳』が盗まれた」
がたん、と音がした。
それは自分が立ち上がって机を揺らした音で。自失から戻れば、父の瞳が着席を促していた。
『ロゼの瞳』。
それは、アレクシアが継ぐデュウォル王国に伝わる美しい宝珠の名であった。
国宝であり、初代より受け継がれたが故に王権の証明であり、国を守る結界の要でもあった。
ちらと、父の背後にある肖像画を盗み見る。今は亡き母の戴冠式での一幕が写し取られた肖像画。王冠を戴いた母が笏と共に手に乗せている球体が、『ロゼの瞳』である。
「どうして、そのようなことが? 宝物庫に押し入られたのですか?」
そう言いながら、アレクシアは自分の言葉が間違っていると確信していた。
侵入者の類があれば流石に騒ぎになる。箱庭に籠りきりのアレクシアであっても、その騒動を全く知らないというのはおかしい。
「宝物庫に窓はない。扉は一つのみ。
そして、扉の前にいた見張りは何も見ていないと言う」
忽然と姿を消した国宝。
力なく首を振る父の姿に、膝上で握りしめた拳に力が入る。
「では、衛兵に探させねば」
「それはならん」
勢い立ち上がろうとするアレクシアの提案は、瞬きの間に切り捨てられた。
どうしてですか!と逸る鼓動のままに飛び出しそうになった言葉は、じっと自身を見据える光のない瞳に怯えて喉奥に仕舞われた。
「彼らを動かせば、国宝が盗まれたと喧伝することになる。
あれは国の守り。たとえ絶対の守りがあり不壊のものであろうと、不届きものの手に渡ったと知れ渡れば、悪戯に民を不安にさせることとなる」
それはならん。
地を這うがごとく低く潜められた声が、静かな部屋の音を飲み込んだ。
いつの間にか止めていた息を吐き出して、動揺のままに跳ねた心臓を落ち着かせる。数舜の沈黙が流れた後。俯き、拳を握りしめてたエルンストがアレクシアの瞳を捉えた。
「そこで、お前にも宝珠捜索の任を担ってもらいたい」
想像だにしなかった言葉に、目が点になる。
「わ、わたくしに……?」
できるわけがない。
まず浮かんだのはそれだった。
アレクシアは普段、自室とそれに併設された庭園にしかいない。外は危ないからと、王宮内ですら出歩くことは多くない。
そんな自分が、王宮に忍び込み、見張りの目を搔い潜って行方をくらませた宝珠を見つける?
土台無理な話だ。
けれど、父の頼みである。
王であった母が没し、王女たる自分はまだ幼く国王として不適。国の政務を一手に担い、今も目元に深い隈を飼っている父の頼みを、切り捨てるなど考えただけで胸が軋む。
「お前も、もう十三になる。外の世界を知るにもちょうどいいだろう」
外。
その言葉に、心が擽られた。
アレクシアは狭い世界しか知らない。故にこそ“外”を齎すジルドに話をせがんだ。
その、外に、自分も赴けるかもしれない。
能力の不足への不安。父への罪悪感。外への期待。
ぐるぐると心中で渦巻く気持ちに、身動きが取れなくなる。
「大丈夫だ。お前ならばやり遂げられる」
机を挟み向かいにいたはずの父が、身を乗り出し、アレクシアの肩に手を置いている。布越しに伝わる熱が、じわりと固まった体を溶かす。真摯に自分を見つめる瞳と視線が搗ち合う。
「それに、ジルドも付かせる。あやつがいれば、お前も安心だろう?」
耳元に顔を寄せ、揶揄するように笑うエルンストに、ぶわりと顔に熱が集まった。恐る恐る扉前に立つジルドを見やれば、柔らかな笑みを浮かべている。聞こえていないようで、胸を撫でおろした。
「もうっお父様ったら。
ですが、わかりました。不肖アレクシア、宝珠を必ずや取り戻して参ります」
「あぁ、頼んだぞ」
笑んだ声音の父の顔は、逆光になってどうしてか見えなかった。
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