第10話 血塗られた皐月の刃【皐月side】

 * * *


 ナイフを鞄に入れる。支度を終えてから、一誠くんに連絡をした。


 私の儀式は、ほとんど終わったようなものだ。生命を奪うのは、事務的な作業に過ぎない。前菜に過ぎない。


 命を奪うこと自体は目的ではない。一誠くんを私だけの物にするのが、真の狙いなのだから。


 目的さえ果たせれば、私はなんでもよかった。


 自分のおかしさくらい自覚している。恋人である一誠くんのことを信じられなくなり、すべてを終わらせたいと願いようになるなんて。


 いまの私は無敵だ。法も秩序も知ったことじゃない。


 すべては、終わった後に考えればいい。「その先」に未来があるかと祈るだけだ。


 理想と現実のギャップについて、何度も考えた。


 現実を理想に近づけられないと悟ったとき、私はひとつの考えに至った。


 ――私自身を、理想の世界に埋没させればよいのだ、と。


 そのためには、現実を「棄てる」必要がある。揺るがない覚悟を決める必要があった。


 危うさと引き換えに、私と一誠くんだけの世界を手っ取り早く作れる方法があった。


 一誠くんを「次のステージ」に押し上げる。


 つまり、一誠くんの生命――魂をもらい受けるということだ。


 命を奪えば、失われていく魂を自分だけの手中に収めることができる。空気中に溶けてしまう前に。そう私は信じる。


 私の崇高なる理想を、一誠くんは受け入れてくれるだろうか? 正直、わからない。


 理想のために自ら命を捧げられるのは、相当な覚悟を決めた信奉者だけである。


 一誠くんがそんな信奉者だとはいいきれない。正直、彼にとっては苦しい結末だろう。


 強引なやり方だと思う。でも、やむをえない。これしか私には残っていないのだから。


 ……そろそろ家を出よう。




 学校に着くまではあっという間だった。


 ここからが本番だ。


 警備の目をかいくぐれば、学校に忍びこむなんて楽勝だ。事前に警備のルートや監視カメラの死角は、当然ながら把握している。


 校内のあらゆる鍵は、あらかじめ型を取っているのでスペアキーがある。学校のセキュリティ意識は甘すぎる。


 テンポよく侵入を果たし、屋上に出た。


 夜風がひんやりとしていて涼しい。


 バッグを開けて、ナイフを二本取り出した。両手で握る。刀身を夜空にかざすと、光が反射して綺麗だ。


 きょうは月が出ている。決行の日にふさわしい。


 決行してしまえば、平穏な日々には戻れない。人としてのレールを踏み外すことになる。


 覚悟は決めているので、躊躇ちゅうちょする理由もない。決行を中断したくなるような雑念はない。


 一誠くんがくるまでは、リハーサルだ。


 どんな言葉を最後にかける? 刺すときのモーションは? 後処理は?


 イメージは克明にできている。一誠くんからの反論もおおかた想定済みで、いいかえす言葉も決まっている。素振りは何度もした。


 準備万端というところで、私は一度深呼吸をした。

 ――悪くない人生だった、と思う。


 大事な一誠くんと一緒になれなくて残念。でも、私の思いはきっと果たされる。だから怖くない。


 強烈な望みは、不可能をも可能にするらしい。だから、わずかな可能性だとしても賭けられる。


 私の信じる理想郷がどこか存在し、いずれたどり着ける、という可能性に。


 目を閉じると、夜風を感じる。自分が風になったようで、心地がいい。


 瞑想状態だった私を現実に引き戻したのは、屋上のドアが鈍い音を立てて開いたときだった。


「お待たせ、さつ――」


 やってきた一誠くんは、私の異様さにすかさず気づいた。


「待ちわびたよ、一誠くん。きょうは、サプライズがあってきたんだ」

「サプライズ? 夜の高校に呼んで、両手にナイフを持って?」


 一誠くんの警戒心は高まっていた。当然だ。いきなりナイフを両手に持っていては、冷静に会話もできないだろう。


 いったん、左手のナイフをぽとりと落とした。


「右手のナイフも下ろしてほしい」

「だめ。これは必要」

「俺、ずっと悪かったと思っているんだ。こちらから告白して、なのに皐月のことをわかるのが怖くなって。最近、避けようと必死になってた」

「うん、そうだね」

「またやり直したいんだ。最初の頃の皐月みたいに、小さな幸せを手の中で大事に育てていた、あの頃みたいに」


 違う。私の願いは、違う。


 生きるなかで埋められなかった欠落感を、一誠くんに求めた。ふたりで足りないところを埋め合わせる、ふたりでひとつのような存在。


 だから、頻繁な連絡も拘束も仕方のないことで、ニコイチな一誠くんは認めてくれるはずで。


「――ねぇ、なんでわかってくれないの? 一誠くんは、わたしをわかってくれるって信じてたのに」


 そのつもりだった、といわれても困る。


「つもりじゃだめなの。心の底から信じられなきゃ、意味がないもの」


 否定し、誠心誠意、と口にした段階で、私は遮った。一誠くんが嘘をつくときの常套句じょうとうくだから。


 その場しのぎの言葉は、無意味だ。


 覆水盆に返らず。やり直しもきかないのだ。


 説得の言葉は、想定の範囲内だった。最後までわかってくれなかった。残念だ。


 ようやく幸せになれる。一誠くんはあっちの世界――次のステージにいく。いってしまう。


「さよなら、私の愛しい人。そして、未来永劫、私の物になる一誠くんに、はじめまして」


 慣れたモーションで、一誠くんを狙う。逃げ遅れたところを、ひと思いにいく。


 行く手を阻む。逃げようとする勢いを利用して、突き刺す。


 自分の内側でなにかが壊れた。一誠くんの身体が、機能を終える。


 返り血を見て、私の行為が現実のものだと、身をもって感じた。


 この手で奪った物の大きさは、得たものの大きさでもあった。消えゆく魂が、私の中に入っていく感覚は、至上のものだった。生命と引き換えの等価交換だ。


 死の匂いにあてられて、私はに移行することを改めて決意した。


 現実を棄てた私に残るのは理想だけだ。現世に理想はない。理想のない世界は、私にとっては意味がなかった。


 ――私も、「次のステージ」にいかなくちゃ。


 残ったもう一本ではなく、一誠くんの物を使うことにした。引き抜くと、凄惨な光景が広がる。


 私と一誠くんが、今度こそ幸せになれる世界がありますように、なんて月に祈りを捧げる。


 来世こそは、一誠くんと。絶対に、必ず。


 信じることで、私は勇気を得た。恐怖も震えもなにもかも、一誠くんのためなら感じない。


 血塗られた刃が、今度は自分のために振るわれる。




 ……楽には逝けないな、というのが、最期の感想。


 痛みの中、ゆっくり意識が消え、そして――。







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