君を愛している
@yukoko1234
第1話
地方紙の一面に、中小企業の社員が横領事件を起こしたと報じた記事が載った。犯人は、杉本 宏(すぎもと ひろ)。一億の横領を3年かけて行ったとされる。犯行の動機は遊興費のためとのこと。ごくありふれた動機である。だが、その根底には、彼なりの愛ゆえの行動であった。新聞記事は、そこに触れることはない。週刊誌も同様だ。報じられることのない、彼の真意はなんだったのだろうか。
杉本宏は、上位私立大学情報学部を卒業後、中小企業に就職した。本命ではない会社だったが、彼の就職活動時は、不景気だったため、就職できただけ御の字だった。それに、中小とはいえ、給与も日本人の平均給与は保証されている。もし、待遇に不満があれば、転職すればよい。キャリアを積んで、ホワイト企業に転職するのだ。そう考えると、自分の未来は明るい気がした。彼は、どこにでもいる、若さ故に夢見勝ちな、どこにでもいる若者だった。そんな宏には、若者らしく恋人がいた。彼女の名前は、1歳年下の三好栞(みよし しおり)。宏が大学2年生の時、合コンで出会って交際が始まった。宏のひとめぼれだった。栞の方は当初は杉本のことを歯牙にもかけていなかったが、宏の猛アタックに折れ、付き合うことになった。そのため、宏は栞に頭が上がらない。彼女の少し無茶な要求に応えるのは、至福の時間だった。その関係は、宏が社会人になってから少しづつ歪つなものなっていった。
コンプライアンスが浸透しつつあるが、それは大手企業のみ。中小企業では、そうも言ってられない。コンプライアンスを遵守できるのは、それに見合うだけの資金と人数が必要だ。中小にそれを求めるのは、少々酷である。宏の会社も例外ではない。新人研修の三カ月は、試用期間なため残業はなかったが、三カ月を過ぎると徐々に増え始めていた。
さらに月二回、土曜の午前出勤、所謂半ドン出勤があった。昭和の名残を残す悪習であったが、会社の規定である以上、従うしかない。とは言え、大学で学んだ情報学を実社会で実践することの面白さ、働いた対価として得る給与で、学生時代には手が出なかったバイクやそのパーツを買うことの楽しさに充足感を覚えていた。
もちろん、彼女への気遣いを忘れない。初任給が支給された時、真っ先に思い浮かんだのは、栞へのプレゼントだった。今までは大学生御用達の手ごろなブランドしか選べなかったが、あの頃と財力は違う。栞にリクエストを聞いてみた。
「そうだね、アクセサリーが欲しいな。指輪以外で。」
ベッドの中で甘えながら、栞は答えた。
「指輪以外?」
「指輪は、しかるべきときに貰いたからね。」
と、ちゅっと軽くキスをくれた。
その答えは、宏を高揚させた。彼女が自分との結婚を視野に入れてくれると暗に伝えてくれたからだ。高揚は下半身にも伝わった。若さに任せ、彼女と熱く濃い夜を過ごした。
その後も、記念日ごとに、豪華なディナーに饗したり、彼女の好きなテーマパークで遊興に耽った。とても楽しい時間で、青春の輝き、ここに極まれり、と形容したいほどだった。
歯車がかみ合わなくなったのは、栞が就職して半年が経ったころだ。宏の会社は、土日祝休み(繁忙期はその限りではない)が、栞は化粧品会社のBAのため、勤務体系はシフト制だった。休みは意識して合わせないと、合わすことができない。とはいえ、独身で新人の栞の休みが、全て土日祝になる訳がない。それでも最初は、栞も健気に頑張っていた。それも一年を過ぎるころには、徐々に萎れていった。
「すれ違って自然消滅するなんていやよ。」
「それは俺も一緒だよ。」
ある日の夕食(と言っても、時間も遅かったので、イタリアンのチェーンのファミレスだったが。)を二人で取りながら、今後について話が出た。安いグラスワインだが、酔いが一気に冷めた。そうだ、栞と別れるなんて考えられない。自分も25だ。若いと言われるが、家庭を持ってもおかしくない年なのだ。
「なら…。」
「待って。ここで言わないで。」
栞が宏の言わんとしていることを察し、続く言葉を制止した。
「ごめん、何か希望ある?」
「そうだね、忘れられない、とびっきり素敵なものにしてくれない?もちろん指輪もね?」
「約束するよ。」
二人の間に幸せが、周りの客へ伝わった。
プロポーズは、ドレスコードが必要なレストランで計画を立てた。スタッフにも相談してサプライス、と言っても店内を暗くし、プロポーズをする、ベタなものである。マネージャー、シェフは慣れているのか、快諾してくれた。加えて、当日のコース料理を予算内でスペシャリテにしてくれるという。ありがたいことである。栞の好物や苦手な食べ物を伝え、メニューに組み込んでもらうことにした。残るは、婚約指輪である。結納時に渡せばよいと思っていたが、栞はどうしてもプロポーズでないといけないと言う。訳を聞けば、結納をやるお金がもったいないとのことだった。確かにそうだ。女性側にも負担を強いることになる。栞の家は、裕福ではあるが、父親を早くに亡くしている。面子の問題もあるだろう。栞のリクエストはこうだった。
「最低給料三か月分がいいな。」
最初聞いたときは、冗談と思った。宏は25歳。給与三カ月などポンと出せる金額ではない。それは大企業に勤める人間も同じである。
「え、と…。」
「えー、一生に一度なんだよ?みすぼらしい指輪が贈られたなんて知ったら、うちの家族卒倒するわよ?」
可愛らしく追撃をする。ぎゅっと抱き着き、豊満な胸を押し当てる。よく知った感触だが、宏はこれに弱い。別に命をかけたおねだりではないのだ。叶えられるものなら、叶えるべきだ。彼女のためだ。
「分かった。」
彼は決意した。そのため、節約と残業に勤しんだ。彼女も宏を応援してくれて、仕事が休みの日は、昼食のお弁当を作ってくれるようになった。市販品がある日も多かったが、それでも栞の愛情を噛み締め、仕事に励んだ。
半年後。何とか給与三カ月の金額が貯まったので、栞と一緒に百貨店の高級宝飾店に行くことにした。彼女の希望の指輪が見つかって良かった。サイズ調整のため、受け取るには一週間程度かかるという。それでも、
「これ、普段にもつけるね。」
満面の笑みを浮かべる栞を見て、なくさないでほしいと思ったことは一生の秘密だ。
そしてプロポーズ当日。件のレストランに栞をエスコートした。ドレスコード(男性は、タキシードもしくはそれに準ずるもの、女性はイブニングドレスもしくはそれに準じるもの)が入店のルールだったので、宏は父親から借りたダークネイビーのスーツ(きちんとポケットチーフも揃えている)、栞は、ピンクのキャミソールワンピース(もちろん上着として薄いショールを肩にかけている)で、少し浮ついてみえるかもしれないが、若さ故許される装いだった。支配人はじめ、スタッフは宏と栞を快く迎えてくれた。席に案内され、食前酒が運ばれる。食前酒は、キールロワイヤル。グラスを傾け、乾杯をする。栞は美しかったし、それを真正面で見る自分の幸運に早くも酔いしれた。
その後、料理が運ばれてきた。前菜、スープ、魚料理。どれも素晴らしい。パンもバターも絶品でつい食べ過ぎてしまう。ですが、主菜の肉料理が控えている。
「どれも美味しかったけど、メインは何かしら?」
栞は、メニューを確認したが、そこには本日のスペシャリテとしか書かれていない。
「まあ、楽しみにしてよ。」
ワイングラスを傾けながら宏はもったいぶる。ワインの味は良く分からないが、これが上等なワインというのだろう。口当たりが柔らかい。
そうして歓談していると、噂のスペシャリテがサーブされた。
「わあ…!」
最高級の牛フィレステーキに、色とりどりの食用花いわゆるエディブルフラワーが飾られていた。華やかで、栞らしい一品だった。冷めないうちに、賞味することにする。
「んー!」
言葉にできない美味しさだった。二人ともしゃべることもなく、主菜を堪能した。
メインの皿が下げられ、口直しのソルベを食べていると、店内が暗くなった。
宏と栞のテーブルのみ照明があたった。栞が戸惑いと期待が入り混じった表情を浮かべる。宏は、隠し持っていた小箱を取り出し、蓋を開けた。
「三好栞さん。僕と結婚してください。」
大枚をはたいた、ダイヤが光り輝く。
「…はい。」
栞がはにかみながらプロポーズを受け取ってくれた。彼女の左手薬指に指輪をはめた。その瞬間、店内で祝福の音楽が流れ、スタッフ、その他の客が、拍手で若きカップルを祝福した。その後、マネージャーとシェフが花束を栞に贈呈した。栞と約束した最高のプロポーズができたと思う。彼女の笑顔がその証拠だった。
プロポーズの後は、ひたすら現実的な事務作業である。両家の挨拶、会社への報告、結納の準備、式場選び等々。出席者のリストアップ、式場のプラン決め。楽しいことだけでない。この程度を乗り越えらえないのであれば、結婚生活など到底無理と思わせるものだ。双方仕事をしているし、栞は周期的に情緒不安定になる。女性特有のものだから仕方ない。なるべく栞でなければならないこと以外は、宏が対応するようにした。このおかげで事務処理能力が飛躍的に向上した。栞も頑張ってくれたが、それでも感情がマリッジブルーも相まって怒ったり泣いたりした。その度にケアをしてきた。宏も根をあげたい気持ちだったが、これを乗り越えないと栞と結婚できない。その一念で準備を進めた。
当面の問題は資金である。結婚資金で贅沢もせずに貯めていたのだが、足りなくなってきた。もちろん、両家の親が結婚祝いとして、まとまった資金を贈与してくれたが、それを合わせても足りない。原因は、栞のリクエストを全て叶えてきたことだった。ウェディングプランナーに勧められるまま、一番高いプランやオプションをつけたのだ。しかし、予算内に収めると、質素というか見傍らしくなる。招待客の料理や引き出物をケチると、後々の付き合いや評価に触りがでる。手っ取り早く資金を得るには、私物を売るのが一番だ。幸い、宏の趣味はバイクと自作PCの組み立てだ。これらを売ればまとまった金になる。実際、パーツが高騰しているため、高額で買い取ってくれた。自分の一部がもぎ取られる感覚もしたが、栞を抱きしめるとそれは消えた。栞も宏の頑張りをみて、当初は結婚資金は出さない予定だったが、50万ほど援助してくれることになった。なんとか支払うことができた。栞は、ドレスの試着に浮かれていた。何はともあれ、賽は投げられたのだ。
結婚式当日。親戚縁者、友人、会社関係を招いた、壮大な式となった。上司からは、自分が今まで参列した式場で、一番高いところだと揶揄された。人生で凡人が主役になれる時が、結婚式と葬式を言われている。この日はまさに、宏と栞は主役であった。何も憂いのない、幸せな日だった。
新居は、駅近くのタワーマンションである。親が資産運用用に購入した不動産だが、資産運用がうまくいっていないので、宏夫婦が管理のため、格安で住むことになった。築年数は浅く、設備も最新である。新婚夫婦には分が過ぎているかもしれない物件だが、栞の満足そうな顔を見れば、些末なことなど問題ない。宏にとって、栞が喜ぶことかどうか。それが宏の判断基準だった。事実、居心地は良かったし、家賃の負荷が低いので、遊興費や外食に費やすことができた。共働きなので、自炊は休みの時くらいしかできなかった。それに栞の勤務体系が、シフト制のため休みが重なることは多くはなかった。結婚一年目は、仕事量を調整してもらえたが、中堅と呼ばれる年次に近づくにつれ、夫婦二人で過ごす時間が減ってきた。そして、それは栞の心を蝕んでいたのだ。
ある日の夕食。珍しく二人で夕食を取ることができたので、(出来合いの総菜の食卓ではあるが)食事を楽しんでいると、栞がわあわあと泣き始めた。
「二人で過ごす時間を増やすために結婚したのに、いっつもすれ違って私1人ぼっち。これじゃ結婚した意味がないじゃない!」
「でも仕事がお互いあるんだし、仕方ないじゃないか。」
「仕事、仕事って、私のことおざなりにしてるじゃない。このままじゃ子供も望めない!私、20代のうちに子供産みたいの!30の婆で出産なんて恥ずかしい!」
むちゃくちゃな理屈をまくしたてる。
「栞のことは大事だよ?でも今は、仕事で基盤を固める時期なんだ。それが終われば、給料も上がるから。」
なんとか栞を落ち着かせそうとするが、効果はなかった。
「それっていつよ?そんなこと言ってたら、あっという間に私婆になって、宏に捨てられるのよ?」
かなり混乱している。栞が宏を見限ることはあっても、その逆は絶対に起こりえない。栞は宏にとって、生涯の伴侶なのだ。
「そんなことはないよ。そうだね、少し仕事をお休みしたらどうかな?」
最近、上司が変わり仕事が増えたこと、その上司と相性が悪いことを愚痴っていたことを思い出し、優しい提案をした。
「…いいの?」
言葉とは裏腹に、栞の表情は輝いていた。栞の望みは専業主婦になって、子供を産むこと。今の仕事は腰かけに過ぎない。それに栞の実家は裕福なため、本来は働く必要などなかったのだ。
「子供のことを考えると、早い方がいいしね。ただ、落ち着いたらパートでも始めてほしい。」
パートであれば、責任はほとんどないし、いつでも始められる。逆に嫌になれば、いつでも辞められる。
「そうだよね、お小遣いくらいは自分で稼がないとね。」
栞も納得してくれたようだ。前向きに未来を見据えている。本音を言えば、結婚式でかなりお金を使ったので、できれば正社員で働いてほしいが、今は栞の機嫌が上向いているので、今は本音を言わないことにした。
後任への引き継ぎや事務手続き(そして賞与を貰わなければならない)があるため、退職は3か月後となった。それでも栞は嬉しそうだった。その笑顔が見られて嬉しかったが、先立つものは金だ。通帳の残高を眺めて、こっそり溜息をついた。
そして栞は会社を辞めた。念願の専業主婦になったのだ。嬉しそうにしていたのは半年程度だった。家事や雑事は、慣れてしまえば単調である。日々はつまらなくなっていた。気晴らしに栞は友人を遊びに誘うが、ことごとく断られてしまった。仕事が忙しい、自身の結婚準備のためそれどことではないと。タイミングの問題かもしれないが、自身が嫌われているのではないかと自己嫌悪に陥った。事実、それは当たっていた。早く結婚したことにより、周囲に優越感を抱いていたこと、仕事に熱心でないのは仕方がないにしても、他人の仕事を無意識でもケチをつけることは、その人のプライドにナイフで突き刺すことだ。突き刺された痛みは蓄積され、決して消えることはない。小さいことの積み重ねで人間関係が崩壊することは、よくあることだ。栞に起こったことは、人生においてありふれた平凡なことだ。それを顧みえることができるか、そうでないかは人による。栞は後者だった。わが身に起こった不運をただひたすら嘆くだけだった。
「どうして、人生うまくいかないのかしら??せっかく専業主婦になれたのに、友達に距離置かれるってありえない、ねえ、どう思う?」
栞が心情をぶちまけられるのは、宏と実家の家族しかいなかった。
「そうだね、きっとみんな栞に嫉妬してるんだよ?」
前は仕事で忙しいんだよ、と返答したら2時間ほどでもでもだって繰り返された。その轍は踏むまい。
「そうだよね。でも、嫉妬されるほどすごくないけどね。宏だって大手の会社とかじゃないし、この家も中層階でタワマンの中ではランクも高くないし。隣の芝は青いって?なら見てみなさいよ?」
栞の発言は、宏をも傷つけた。こういう発言があるから嫌われるんだという言葉をどうにか飲み込んだ。栞は、典型的なお嬢様だ。周囲に大事にされて当然である、自分の言動は問題ない、といった傲慢さが、彼女の欠点である。父親を早くに亡くしている事実が、周囲の人間が諫言を呈することを躊躇わせた。
「まあね。俺は風呂入って寝るよ。」
栞との会話を打ち切り、シャワーを浴びた。それでも心は晴れない。こういうときは、布団を被ってとっとと寝るに限る。それが宏のストレス解消法だった。
ある日、宏が大学時代の友人と飲みに行くことになった。当初は、栞も快諾していたが、当日になって反対し始めた。
「なんで行くの?」
「なんでって、前から約束したし。」
「行かないで。」
「体調が悪いの?」
「ううん。」
「ならどうして?」
「嫌だから。」
要領を得ない。このままでは、約束の時間に遅れてしまう。
「このままだと遅れるから。帰ったら話聞くから。」
「嫌。」
「だからなんで?」
少しイライラしながら、彼女に詰める。
「…私が友達いないのに、貴方が友達と楽しそうにするのを見るの、辛いの。」
「は?」
「だって、私は独りぼっち。貴方以外はいないのに。でも貴方には、他にも世界があるじゃない。貴方に捨てられるかもって思うと…。」
そこから先は、言葉にならなかった。泣きじゃくながら、栞はその場にうずくまった。
「そんなことないよ。俺こそ栞に捨てられたらと思うと恐怖だよ。」
優しく栞を抱きしめた。このまま飲みにいっても、あまり楽しめないのは明白だ。
「今日は栞といるよ。」
「えう、う、う、ありがとう、ごめんね…。」
栞はまた泣き始めた。2時間はこのままだろう。宏は友人に詫びを入れるため、携帯をとった。
栞の情緒不安定は、それからも続いた。宏もなるべく栞に寄り添うようにはしたが、限度がある。どうしても断れない時は、栞同伴で参加することにした。友人や会社の同期は、栞の同伴に驚きながらも、宏の心情を察し受け入れた。なるべく栞が主体になるような話題を選んだり、栞が好む店を選んだりと、彼らなりに気を遣った。最初は、栞も感謝していたが、段々それを当然と思うようになってきた。
「ねえ、この間、田中さん?からなんかやんわり嫌味言われたんだけど。」
「貴方の会社の同期の渡邊さん、きもいよね。」
などなど。天真爛漫に毒を吐く。10代から20代前半までであれば、それも可愛らしいと許されてきただろう。だが、大人の振る舞いを求められる20代半ばの人間が、毒舌を吐いても白けるだけだ。彼女はいつまでも少女のままだった。
「あんまりそんなこと言わないでよ。」
「事実だから仕方ないでしょ?」
自分の意見がさも正しいと言わんばかりに返される。宏は彼女に肯定しなければならなかった。可愛い恋女房だが、たまに息苦しくなる。自分は幸せなはずなのに、なぜだろう。学生時代は、こんな傲慢ではなかったはずだ。彼女の変わりようは、先天的な資質が開花しただけなのか。ふと、結婚式直後のことを思い出した。
結婚式が終わったので、両家の親戚にお礼の挨拶に伺ったときのことだ。栞の母方の親戚の家に訪問し、結婚式の参加のお礼とその心づけを渡した。時間も午後のお茶の時間で、紅茶とクッキーの素朴なお茶会だった。
栞の祖父は、地元では少し名の知れた実業家らしい。事業だけではなく、所謂地主でもある。結婚式にかなり資金援助をしてくれた。新居に最新家電を揃えることができたのは、この人のお陰だ。アクが強く、また少々自慢話が多いが、それも貰った金額を思えば我慢できないことはない。
「改めて結婚のお祝いありがとうございました。」
「はは、大事な孫娘の結婚式だからね。奮発したよ。」
「もう、おじいちゃんたら!」
「いえ、大変助かりました。お陰でよい家電を揃えることができました。」
「最近の家電は高品質だが、合わせて高価格だしな。」
と栞の祖父が同意する。
「ねー。洗濯機と冷蔵庫いいもの揃えられたのよね。」
栞の発言がきっかけだった。
「…洗濯機と冷蔵庫だけか?」
「うん。そうだよ。」
「いや、家電一式をそろえるくらいには渡したぞ?」
「いえ、いただいたのは、50万でしたが…。」
「100万、渡したぞ?」
「え?」
「いや、確かに沙也加に渡したぞ?」
沙也加は、栞の母親である。
その場にいた全員が沙也加に目を向けた。
「私も知らないわよ?」
「そんなことはない!お前に確かに渡した。ばあさんも、見ているし、日記
にもつけている!」
栞の祖母も強く頷く。
「お前、正直に言え!」
祖父の怒声が部屋に響いた。
「…だって、お父さん、栞に渡せっていったでしょ?その手間賃分も含まれていると思って…。それで、欲しかったエルメスのバック、買ったの…。」
言い訳でない、身勝手な理屈を言った。可愛らしく言って許してもらうつもりだが、五十路の女のぶりっこなど、気持ち悪さしかない。宏は嫌悪感を覚えた。そして、一言申すつもりだったが、栞の祖父が口火を切った。
「何を考えているんだ、この大馬鹿娘!」
老人とは思えない熱量だ。空気が震え、誰も口を挟めない。
「娘の結婚祝いの金を盗む親がどこにいる!しかも自分の贅沢のため?馬鹿か?」
「こんな非常識だとは思わなかった!俺に恥をかかすのか?宏君に申し訳ないと思わないのか?」
激昂した栞の祖父は、誰も止められない。沙也加に対して一時間、叱責を続けた。宏が口を挟む隙はなかった。
結局、沙也加が盗んだお金は、分割で沙也加が栞に渡すことになった。正直甘いと思うが、そこは実の娘に対する温情なのだろう。それなりに厳格に見えた祖父だが、沙也加を甘やかして育てたことが容易に想像できた。沙也加の資質が栞にも受け継がれている。裕福故に想像力が欠けているところ、他人は自身のために存在している思い上がり。まさに、栞の短所である。それでも、一緒にいるのは、惚れた弱みというやつだろう。宏は、そう結論づけ、寝室でふて寝することにした。
栞の言動に疲れ、日に日にフラストレーションがたまる。発散する方法は、趣味に没頭することだが、結婚を機に趣味はほとんど辞めた。アニメ鑑賞はいまでも続けているが、それも栞は良い顔をしない。行き場のない鬱屈を徐々に周囲にぶつけるようになっていた。
ある日。同期の女子社員が賞与で買った鞄や服を見せ合っていた。少し姦しかった。
「清水の舞台に飛び降りたの!はは、貯金すべきなのにね。」
そういってハイブランドのショルダーバックを見せびらかす。
「いや、これは買うしかないでしょ?仕事にも使えるじゃん。」
「バックいいなー。この時期にPCとタブレットが壊れたから、そっちを優先したんだよね。」
「それは仕方ないよ。でも最新型買ったんでしょ?」
「そうそう。折角だし。」
女子のトークは尽きない。周囲の年配社員は微笑ましく見守っていた。
そこに宏が割り込んだ。
「そんなのにお金使ってどうするの?」
場が冷えたが、宏は気にせず続けた。
「そんな高いもの買わなくても、もっと手ごろなものあるでしょ?わざわざ買うなんて、自分が浪費家って言ってるようなもんだよ。それじゃ、結婚できないよ?」
「はあ…。」
「あ、もしかして頑張っている自分アピール?痛いよ?インフルエンサーじゃないしさ。」
「貯金して投資。これが常識になるよ?彼氏にも堅実アピールになるし。」
彼女らが黙っていることをいいことに自説を述べる。人生の先輩としての心がけを教えてやっているのだ。この快感はたまらないものであった。すると、うち1人、桜井が反論した。
「別に自分で稼いだお金を何に使っても私の勝手でしょ?あんたには関係ない。」
「いや、俺は君らのためを思ってわざわざ言ってるからね。いつまでも自分のことばかりじゃダメじゃん?」
「余計なお世話でしょ?貴方に借金しているわけでもないし。」
「分かってないなあ。」
更に他の女性社員の池田が口を挟む。
「いちいち口挟まないでくれるかな?杉本がイライラしているのは知ってるけど、それを私らにぶつけないでくれる?」
「奥さんのために頑張ってるアピール、既婚は大変アピール、うざいのよ。そのくせ自分の仕事をこっち投げて成果を横取りして評価上げようとして。正直、上もそのあたり問題視してるの。」
「たぶん杉本のストレスって、奥さんがらみでしょ?本来なら、そのストレスとなる事象を奥さんと話し合うべきなのに、そこから逃げてるし。なのに、私らには奥さんの愚痴を延々と聞かせるしさ。」
一息ついて、さらに言葉を続ける。
「正直、お似合いよ。杉本と奥さん。同類なんだからさ。」
女にまくしたてられると、男は黙るしかない。杉本が二の句を継げないでいた。緊張状態の場の空気を破ったのは、上司の関だった。
「あ、盛り上がっているとこ悪いけど、ちょっと声が大きいし、会社でする話じゃないし、少し控えようか。」
関は、その場にいた人間を一瞥する。
「ちょっと、個別に話したいから、社員番号順に、ミーティングルームに来てくれないか。」
優しく、しかし有無を言わさぬ強い口調で告げた。
順に関に呼ばれ、宏の番となった。多忙な関だが、いつにも増して疲れた様子だった。
「まあ、経緯は聞いてるが、杉本から改めて聞きたい。」
話すよう促され、宏は同期とのやり取りを関に伝えた。
「…話は分かった。」
関は深く溜息をついた。そして、己の見解を伝えた。
「池田らも挑発に乗ったのは良くないけどな、喧嘩を売ったのはお前の非も大きいと思う。」
「最近杉本の様子がおかしいのは、他の社員からも話が上がっていた。仕事も雑になってるし、仕事自体放棄している傾向もあったしな。」
多忙で不在が多い割には、関は社内の状況を正確に把握していた。
「20代で家庭を持って立派だと思う。だけど、そんなに肩肘張らなくていいと思う。実際、空回りして自分のことできていないだろ?」
「会社に属している以上、最低限周りとの協調性が必要だと俺は思う。家庭と会社で大変なのは、俺も分かるけど、もう少し周りにも優しくしてあげてほしい。」
関は、一息ついて水を飲んだ。
「これは、個人的な見解だけど、お前、奥さんとうまくいってない?」
「そんなことは…。」
核心をついた質問だ。
「お前が奥さんを大事にしているのは、分かるけど、奥さんはお前と同じくらい大事にお前を扱っているか?たぶんそうじゃなだろ?」
あの手のタイプは自分が大好きだからとぼやく。
「恋人同士なら、それでもいいかもしれない。けど、一緒の生活を送る夫婦なんだから、お前の不満を奥さんに話してみたら?」
「…。」
そんなことをすると、栞は烈火のごとく怒り狂って、実家に帰るだろう。なんなら離婚
届けを突き付けられる可能性も高い。
「片方の我慢で成り立つ関係は、いずれ破綻するぜ。破綻したくないなら、細かいことでも話し合う。これが夫婦生活の要だと思う。まあ、俺もできてないところあるけどな。まあ、話だけならいつでも聞けるから、いつでも連絡してほしい。」
話は終わり、宏は会議室を後にした。
栞と話し合う?そんなことは不可能に近い。お嬢様育ちの栞は、自分の要求は全て叶えられると思っているからだ。ただ、栞のわがままに付き合うのにも、疲れているのは事実だ。
自分は包容力のある男だと思っていた。それは若さ故の傲慢だった。自分が優しくした分、他人に優しくされたい。凡庸な望みだった。栞とはこれから先、死が二人を別つまで一緒に時を過ごしたい。なら、上司の言う通り、自分の気持ちを言葉にしなければならない。幸い、明日は休みだ。落ち着いてゆっくり話し合いができるはずだ。
しかし、宏の淡い期待は、義母の襲来によって粉々に砕かれることになる。
休日の昼下がり。栞の精神状態も安定しているように見えたので、宏は話を切り出そうとした。その時、リビングに義母が入ってきた。
「お、お義母さん?どうして?」
この義母に万が一のために、合鍵を渡していたが、どう勘違いしたのか、連絡もなしに頻繁に来訪するようになった。約束もなしに来るのはやめてほしいと、本人に言ったが、聞く耳を持たなかった。栞の祖父母にも強く注意をされたが、効果はなかった。栞曰く、今彼氏がおらず、暇だからとのことだ。未亡人だから、恋愛は好きにすればいい。暇つぶしのために、新幹線を使ってまで訪問するのは勘弁してほしかった。約束を取り付けていないのに、結婚した娘の家に無断で入るのは非常識ではないか。学も金もない人間が、それをするのは、まだ理解できる。失礼であることを理解できないからだ。だが、義母の沙也加はそうではない。第一印象は上品な貴婦人といっても過言ではないし、就業経験はないが、名門女子大を主席で卒業している。それなのに、至極下品な行動を当たり前にしてしまう。宏は義母の矛盾が生理的に受け付けなくなった。できれば、義母との関係は冠婚葬祭くらいでいい。宏は世間の嫁姑の苦労を身をもって味わっていた。
「いえ、栞のことでね。」
嫌な予感がする。
「とりあえず、今日は栞さんと話すことがあるので、できれば別日にしていただけると嬉しいですが。」
なるべく下手に出る。だが、沙也加を拒んだ事実が、沙也加と栞の逆鱗に触れた。
「低収入のくせに!何口答えしているの!」
「そうよ!今日は宏のことを叱ってもらおうと思って、私が呼んだんだから!」
「そ、それは…。」
「とにかく、床で正座してよね?」
言われるがまま、床に正座する。そして糾弾が始まったのだ。
「宏さん、娘に不自由な暮らしをさせてるってきたけど。」
いきなり何のことだろう。少なくとも、明日の食べ物がないなど、夫婦二人が今すぐ路頭に迷うことはないくらいには稼いでいる。
「記念日や誕生日のプレゼントが、こんなしょぼいなんて…。あなた栞のこと愛しているの??」
何を言っているのかさっぱり不明だ。
「シャネルの一つも買えないなんて、給料低すぎじゃないの?」
栞もうんうんと頷く。
「お言葉ですが、僕はまだ今の会社で若手です。将来的には給与は上がる見込みですが…。」
「何口答えしてるのよ!!」
「そうよ、私がこんなにしんどいのに、宏は何もわかってない!」
栞が口を挟んだ。
「毎月の記念日だって、最低ディズニーって言ってるのに、半年に一回よ?婚約指輪だって、ハリーウィンストンだけど、最低価格のものじゃない!私のこと本当に愛しているの?」
「婚約指輪は納得してくれたんじゃなかったのか?記念日だけど、仕事の繁忙期だから仕方ないって言ったじゃないか?」
言われっぱなしでは、腹が立つ。思わず反論してしまう。しかし悪手だった。
「はあ?私と仕事どっちが大事なの?私でしょ?愛しているなら、さっき言ったことくらいできるでしょ?それとも何?私への愛は片手間なの?」
言ってることが無茶苦茶だ。栞は心療内科に行くべきだと感じた。
「それは、そっちだってそうじゃないか。専業主婦なのに、掃除も飯も作らなくなったじゃaないか。」
「今時、男も家事をするのが常識でしょ?あんたの甲斐性なしを栞ちゃんのせいにするんじゃないの!」
論理展開が破綻している。宏の目の前いるのは、ただの狂人二人だ。
その後、三時間、狂人による糾弾は続いた。
宏を糾弾することに飽きた二人は、夕食をとりに出かけていった。栞はそのまま実家に戻るらしい。期間は未定だ。宏が反省して、行動を改めるまでらしい。
1人残された宏は、行き場のない感情を吐き出せないでいた。
なぜ自分が責められなければならないのか。自分はそこまで悪いことしてないはずだ。夫婦だから、互いに不満があることも仕方ないことだ。ただ、夫婦のことで、簡単に義理の実家を巻き込むのは、筋が違う。独立して世帯を持ったのだから、ある程度のことは自分たちで立ち向かうべきと宏は考えている。栞はそうでなかった。いつまでも娘気分で、周りがちやほやしないと、不機嫌になる。友人らはそれが嫌で離れていったのだが、夫である自分はそうもいかない。なぜ自分は、栞を見限ることができないのか。理性では、こんな女より、いい女は世間にいることは分かっている。栞だって可愛らしい顔をしているが、栞より美人な女はごまんといる。それでも心は、栞を求めている。栞と出会って3年以上経つのに、彼女を初めてみた時のことは鮮明に記憶に刻まれている。人を愛することは、理屈ではないのだ。栞と出会った時、世界が輝きだした。今まで見ていた世界は、白黒で味気ないものだと気づいたのだ。煌めく世界を知ったのだ。もとの味気ない世界には戻れない。セックスだって、童貞を捨てたのは栞だったのだ。人生をかけて愛すると決めたのだ。彼女と一つになった時の感動を思い出すと、下半身が熱く昂る。
栞は宏の全てなのだ。
上司も宏の両親も、栞への盲目的な愛を危惧していた。ただ、時間が経てば落ち着き対等な夫婦関係になるだろうと半ば願望のように思っていた。
しかし、彼らの願いも虚しく、宏は栞を崇拝的に愛していたし、栞はそれを当然としていた。上下のある夫婦関係などうまくいくはずもない。結婚前にこの二人が釜占いすれば、釜は不幸な未来を告げたに違いない。
それでも、宏も栞も離婚する選択肢はなかった。栞も自分程度の女では、宏以上の男は見つからないと分かっているのだ。だから、宏を手放す気はない。宏も栞を至上の女性である考えを変える気はない。真面目な男性にありがちだが、一度思いこむとその考えから容易には抜け出せない。互いの存在が伽藍締めになっており、どこにも逃げ出せないでいた。
玉繭であれば、美しい糸を紡ぎだすが、彼らは何も生み出せない。互いを己をそして周囲を傷つけながら、破滅に向かいうしかないのだ。
家にいても仕方ないので、仕事場に行くことにした。こういう時こそ、友人と飲みにでも行くべきだが、宏は栞によって友人関係が希薄になっていた。趣味も結婚を機に辞めたので、仕事しかすることがなかったのだ。
休日なので当然他の社員はいない。パソコンを立ち上げ、メールチェックや雑務を淡々とこなす。それも終わるとネット記事を検索する。特に目的を持ってみているわけではなく、ただの時間潰しだ。すると、官僚の横領事件が目に入った。億単位の横領だ。ダミー会社から助成金を不正受給する手順だ。官僚が犯罪を行ったことで、コメントは非難の嵐だったが、宏は違う感想を持った。金額が大きいから露見するのだ。なら、少額ずつ色々なとこから、金をとればいいのだ。この国は老人を優遇しているせいで、宏のような若者が苦労するのだ。自分が払った税金を自分で取り返すことなど悪いことではないはずだ。早速宏は横領のプランを考え始めた。
天網恢恢疎にして漏らさずという。老子の願望のような言葉であるが、悪人への呪いでもあるに違いない。頭脳明晰な官僚が計画した横領が露見し、当人は逮捕されたのだ。凡人である宏のお粗末な横領など、すぐに発覚した。会社が警察に通報し、宏は取り調べを受けた。刑事からは、優しくだが、じわじわと尋問を受けた。
近年コンプライアンスが厳しくなっている今、横領した社員は解雇とすると会社から通知を受けた。その後、裁判のため拘置所に送られた。拘置所に面会に来た両親と弟は面会時間中、ずっと泣いていた。栞は一回も来ないどころか、両親に記入済みの離婚届けを渡してきたらしい。宏はそれを聞いて、何もかもどうでもよくなった。家族が帰ったあと、与えられた部屋でぼんやり天井を眺める。最初に思ったのは、やっと息ができる、解放されたという安堵だった。
君を愛している @yukoko1234
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