駆けつけてきた黒猫 3

 夜――


 夜着の上にガウンを羽織って、ソファに座ったヴィオレーヌは緊張しながらルーファスの訪れを待っていた、

 王都に来る前にも同じ天幕や宿の部屋で休んでいたけれど、あの時はただ同じベッドを使っただけだった。


 しかし今夜は違う。

 わざわざ来るとルーファスが宣言したのだ。妃としての務めを果たさなくてはならない。


 部屋の準備を整えて、ミランダはそそくさと侍女の部屋に下がってしまった。

 その際に、ヴィオレーヌのベッドの上で堂々と眠ろうとしていたアルベルダも回収していってしまったので、部屋の中には一人きりだ。ルーファスが来たら二人きり。

 扉の外には護衛のためにジョージーナが立っているけれど、問題が発生しない限り彼女が室内に入ってくることはない。


 ローテーブルの上には、夜食と、それから酒が置かれている。

 酔ってしまった方が勢いで何とかなるだろうかと、酒の入ったグラスに手を伸ばしかけ、ヴィオレーヌは「やっぱりやめよう」と手を下ろした。

 下手に酔っぱらって醜態をさらすことになったら目も当てられない。


 ドッドッドッと、夜の静かな部屋の中に自分の鼓動の音が響いている気がする。

 マグドネル国で教わった閨の手順を思い出しながら深呼吸をしていると、がちゃりとドアノブが回される音がした。

 ハッと振り返ると、黒いガウンを羽織ったルーファスが入って来る。シャワーを浴びた後だからか、前髪が完全に降りていて少し雰囲気が違うが、それは宿でも見たので違和感はなかった。


 扉が閉まる音がやけに大きく響いて、ルーファスが無言でこちらに歩いてくる。

 隣に座った彼は、ローテーブルの上の酒に視線を向けた。


「飲んでいたのか」

「いえ……用意されていますが、まだ口をつけていません」

「そうか。……飲むか?」

「わたしは、遠慮しておきます」


 緊張と醜態を天秤にかけた結果、飲まない方がいいと判断した。緊張しすぎてすぐに酔いが回りそうだからだ。


 ルーファスが無造作にグラスに手を伸ばし、琥珀色の液体を注ぐと躊躇いなく口をつける。そういえば彼は酒に強いタイプだったなと、王宮に来る前の天幕での出来事を思い出した。あの時も強い酒を平然と煽るからびっくりしたのだ。

 膝の上で拳を握ってじっとしていると、酒を飲み干したルーファスが、不思議そうな顔をする。


「今日はやけにおとなしいな。ああ、緊張しているのか」

「……殿下は、デリカシーがないと言われませんか?」

「初対面で俺に剣を突きつけた女がよく言う」


 ふっ、と鼻から抜けるような笑い声をあげて、ルーファスが立ち上がる。

 無言で片手を差し出されたので反射的に手を伸ばせば、ぐいっと腕を引かれて立ち上がらされた。

 軽くふらついたヴィオレーヌを、ルーファスが抱きしめるようにして支える。


 湯上りの少し高い体温にびくりと肩を震わせると、ヴィオレーヌに顔を覗き込んだルーファスが楽しそうに笑い出した。


「お前でもそんな顔をするのか、そうしていると普通の女に見えるな」


 普通の女でなければなんだと思っていたのだろう。

 顔が熱くなっているので、赤くなっているのはなんとなくわかる。

 視線を斜め下に落とすと、ヴィオレーヌから離れたルーファスが、ベッドの縁に腰を下ろして手を差し出した。


「来い」


 一瞬ためらって、おずおずと彼のもとに向かえば、腕が取られて視界が反転する。

 気づいたときには、ベッドの上に押し倒されていた。

 体重をかけないようにのしかかって来たルーファスが、目を白黒させているヴィオレーヌに笑う。


「今なら簡単に首が取れそうだな」

「……試してみます?」

「馬鹿言え。お前の首を取ったらもれなく俺も死ぬじゃないか」


 睦言とは程遠い物騒なことを言いながらも、ルーファスの機嫌はいい。

 生きたまま獲物を抑えつけて、さてどうやって食ってやろうかと模索している肉食獣のような顔をしている。


「先に言っておく。俺は側妃の部屋に通うつもりはない。俺の心臓を縛った時、お前は運命共同体と言ったんだ。その言葉は守れよ」

「……義務は果たします」


 ぽそりと答えると、ルーファスは軽く片眉を上げてから「それならいい」と答える。


「あと、これはまだ決定ではないが、結婚式についてはおそらく一、二年先になるだろう。戦後でまだごたごたしているからな」

「結婚式、する予定があったんですか?」

「当たり前だ。正妃を娶って結婚式をしないはずがないだろう。側妃じゃないんだぞ。ただ、それにかける金を、今は復興に回したい。だから後回しになる」

「それは構いませんけど……」


 むしろ、結婚式自体しなくてもいいのだが、大国ともなればしきたりだの外聞だのの問題があるのだろう。


「正式な日程はそのうち決まるが、こういう事情だ、その前に子ができても問題ない。むしろ一人ぐらいいたほうが、お前の立場的には都合がいいはずだ」


 確かに、敗戦国、そして小国の王女であるヴィオレーヌの立場は弱い。そういう意味では世継ぎを生んでおいた方が地固めができていいということだろうか。


(わたしが世継ぎを生むことも、モルディア国のためになるものね)


 無駄に緊張していたが、これは仕事で祖国のためだと思えば少し緊張が和らいで来た。

 ヴィオレーヌをいじめて楽しんでいるような顔をしているルーファスだが、さすがに無体なことはしないだろう。もし乱暴されそうになっても、ヴィオレーヌは魔術で彼を大人しくさせることができる。

 そう考えると、緊張する必要も怖がる必要もないはずだ。


 くっ、と顔を上げると、ルーファスが眉を寄せる。


「緊張が解けたのはいいが、なんで今から戦に行く兵士のような顔をしているんだ、お前」

「覚悟が決まりましたから」

「……死線に向かうような覚悟が必要なことか?」


 はあ、と息を吐いたルーファスが、ごろんと横に寝転がった。


「興が覚めた。寝るぞ」

「え? しないんですか?」

「手を出した瞬間に斬りかかってきそうな顔をした女を抱く趣味はない」


 そんな顔をしたつもりはないのだが。

 ついさっき、立場的に一人くらい子を生んでおいた方がいいなどと宣ったくせに、何もしないらしい。


 拍子抜けしたが、ヴィオレーヌ的にはそれはそれで問題ないので、もぞもぞとベッドの中にもぐりこむと、同じく隣にもぐりこんだルーファスが、何を思ったのか腰に腕を回して引き寄せてきた。

 ぎくりと肩を強張らせると、ヴィオレーヌを抱き寄せたルーファスがふっと口端を上げる。


「しばらくの間、毎日ここで寝るつもりだからな。急ぐ必要もない」

「はい?」

「いい返事だ」


 いや、返事をしたのではなく疑問を口にしたのだが、ルーファスは語尾の上がった返事に満足して、指先にくるりとヴィオレーヌに髪を巻き付けた。


「おやすみ、俺の妃」


 ちゅっと、指に巻き付けた髪にルーファスが口づける。

 ぐわっとヴィオレーヌの体温が上がった。

 心臓がドクドクして、とてもではないが眠れそうにない。

 それなのに、ルーファスはさっさと目を閉じてしまって、ヴィオレーヌは目の前にある彼の顔に頭突きをくらわしてやりたくなった。


 その夜、ヴィオレーヌは結局一睡もできなかった――




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