夫が帰ってくるまで

犀川 よう

夫が帰ってくるまで

 ある党から夫の公認を取り消された。


 選挙の公示からほんの数日前のことであった。わたしたちでは手の届かない世界で行われた政治的な綱引きの結果なのだろう。わたしはその一報にただ狼狽した。

 わたしはすでに市役所を退職して立候補をしている夫を見た。夫はただ選挙事務所の天井に貼られている虫食いボードを見つめていた。何がいけなかったのかを探るように、穴のようなデザインひとつひとつに視線を合わせて目を動かしているのだ。

 党の関係者がやってきて事情を説明してから土下座をした。彼が決めたことでも決められるような話でもないのに、夫を担ぎ出した責任を感じて泣きながら詫びてきた。もともと党の中で候補者が割れての出馬である。不穏なスタートになるとは予想していたことであるが、選挙を開始する前に勝敗が決まってしまったので、夫の落胆だけに留まらず、選挙スタッフや後援会の士気にも大きく影響した。ある者は「不戦敗」という言葉を呟き、慌てて手で口を塞いだ。わたしは夫の手を握って意識を呼び戻そうとしたが、夫はただ天井にあるシミのような模様に視線を漂わせるだけであった。


 党からの援助がなければ当選は無理であった。さらに、選挙開始前というのに莫大な借金を抱えてしまうことが決定的になってしまった。わたしと後援会及び選挙プランナーの三者との間で「ゆるやかな撤退」を考え始めることにした。公認を応援するという大義を掲げて最小限の出血で済ますというストーリーを練り始めた。プランナーは「次の選挙を考えるなら必死に活動するのも無駄ではない」と主張したが、それに見合う資金も意欲もわたしたちには残されていなかった。ただ、定職を失ったことと重い借金についてしか意識を向けることができなかった。それが当然と理解するのに十分だったのは、銀行の融資担当がすぐにやってきたという事実であった。


 夫の心は解体されていく選挙事務所の石膏ボードのようにバラバラになっていった。正義感という青白い炎を燃やして戦いに挑もうとした矢先の挫折である。家も抵当に入れられ帰るところも危うかった。夫は寝室でわたしに「ごめんね」と小さな声を漏らしてから泣いた。そこから繊細で優しい心が壊れていった。

 選挙の敗戦処理をわたしたちに任せた夫は酒に溺れるようになった。元々酒に強い人ではないので、すぐに酔っては自我を壊していった。ある時は泣き、ある時は自分を責めた。良いことなのか悪いことなのか、夫は他人に怒りを向けることはなかった。ただ、その純粋さがかえって夫を傷つけているように見えた。酒をガブ飲みしては、わたしの顔を見て謝罪をする夫。夫の眩い希望と若い理想はかくも脆く純粋なものであったのかと、わたしは胸がとても苦しくなった。


 一本化された公認候補が当選すると、夫は家を飛び出してしまった。わたしは必至に夫を探した。お金や家は失っても夫を失いたくはなかった。だけど、わたしには夫を慰めるだけの言葉を持ち合わせてなかった。既に夫にはわたしの気持ちは届いていなかった。わたしは夫が壊れていくさまを、ただ見守ることしかできなかった。暴飲に始まり、言動が不安定になり、幻という目には見えないものと戦うようになっていった夫。それでもわたしに手をあげることはなかった。ただ、わたしを見ては「ごめんね」と謝るだけになっていた。それを何度か繰り返した後、わたしを見ること自体がなくなってしまった。夫はわたしから、あるいは全てから目を逸らし、わたしたちの存在を消してしまったのだ。


 家を出て時間が経っていなかったようで、近所にある土手の橋の下に座り込んでいた。川は穏やかでわたしたちの気持ちを汲んでくれることもなく、きらきらと輝いていた。静かな水の音が世界の定常性をわたしたちに訴えかけてきているようで、夫はただその水面に視線を漂わせていた。わたしはその視線の質感を覚えていた。あの選挙事務所で見たものと同じものであった。

「帰りましょうか」

 しゃがんでいる夫の背中に手を添えると、夫は胸元から金属製であろう銀色のスキットルを取り出して、その蓋を開けた。

「帰りましょうか」

 わたしはもう一度言ってから、夫の背中に縋りつく。夫はただスキットルを手にして煽るだけ。時の川を遡って思い出を語りかけても、夫は何も反応をしてはくれなかった。周囲の期待という黒い油にまみれた身体に火をつけて燃えながら走り出すような人に、わたしの声はやはり届かなかった。すべてが灰になってももはや後悔はないのだろう。わたしの前にいる夫は、そんな死人に近い存在に成り果ててしまった。

「大丈夫だから。あなたは何も、心配しなくていいのよ」

 夫はその言葉を受け止めることなく、ただ酒を飲むだけだった。わたしはそれを見て、日が暮れるまでは夫に寄り添ってあげようと決心をして、涙を拭いた。――夫がわたしを見るまでは、せめて泣かないでいてあげなくては、と。

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