2024年5月3日 感想『竜胆の乙女 わたしの中で永久に光る』

【はじめに】


 「なにやらスゴい作品らしいぞ」という情報はなんとなく知っていた。


 当作品は第30回電撃小説大賞において【大賞】という輝かしい結果を残した作品であり、書籍をくるむ帯もラメ入りでキラキラ輝いていたため、クオリティが高いことはわかっていた。


 しかしどうも、帯に書かれた推薦文や、Twitterで流れてくる感想を読む限り、どうやら「ただ面白い」というだけではないらしい。


 なにやら読者の度肝を抜く展開が待ち受けている作品のようであるが、読んだ人はことごとく「読んでくれとしか言えない」「何も言えない」と自主的な箝口令を敷いていたため、詳細のほどはわからない。


 しかし、ここまで徹底的に中身を秘匿されると知りたくなるのが人情というものであろう。


 「ようしそこまで言うなら私も読んで度肝を抜き取ってもらおうではないか」と、私はこの本をレジまで持っていったワケである。


 結果、どうなったか。


 ご多分に漏れず、私の度肝はスポンと抜けてしまった。


 以下、感想をつらつらと書いていく。




【あらすじ】


「驚愕の一行」を経て、光り輝く異形の物語。

 明治も終わりの頃である。病死した父が商っていた家業を継ぐため、東京から金沢にやってきた十七歳の菖子。

 どうやら父は「竜胆」という名の下で、夜の訪れと共にやってくる「おかととき」という怪異をもてなしていたようだ。

 かくして二代目竜胆を襲名した菖子は、初めての宴の夜を迎える。 おかとときを悦ばせるために行われる悪夢のような「遊び」の数々。何故、父はこのような商売を始めたのだろう?

 怖いけど目を逸らせない魅惑的な地獄遊戯と、驚くべき物語の真実――。

(メディアワークス文庫公式サイトより)



【感想(未読の方向け・ネタバレなし)】


 この作品のジャンルは「近代日本を舞台にした幻想文学」になるのだと思う。


 正直言って、私はこのあたりのジャンルに明るくない。


 純文学もたまに読むとはいえ、基本的に私が読書体験に求めているものはエンターテイメントであり、ジャンクフードであり、アドレナリンなのである。


 「耽美」や「叙情」といった風情ある作風は、私の子供舌にとってみれば敷居の高いコース料理であって、緊張で肩がこわばるばかりで味わうのにも難儀する。


 そんな食わず嫌いを発症していた私でも、この『竜胆の乙女』という作品は楽しく読むことができた。


 あらすじの通り、この作品はなんにも知らないいたいけな少女、菖子が『竜胆』という肩書を背負って、夜毎訪れる「おかととき」という怪異をもてなすという物語なのだが、この「おかととき」という存在がとにかく悪意に満ち満ちた存在だ。


 「商物」とされた美青年三人を弄んでは痛めつける加虐精神のカタマリである。


 時には口の中に花を突っ込みまくって嘔吐させるし、女装させて服を剥いだり髪を刈ったりするし、そんな趣味のない『竜胆』にそれを強要させようとしたりする。


 デスゲームものの作品に出てくる趣味の悪い金持ちみたいな振る舞いである。


 ここだけ抜き取ると、「おいおい、この作品はいたいけな少女にSMプレイを強要させ、一人前のサディズムに目覚めさせる性癖のお話なのかい?」と誤解されそうだから一応言っておくが、そんな展開ではないので安心してほしい。


 『竜胆』は終始「商物」とされる美青年に対して深い情を持っているし、おかとときの行為に一貫して嫌悪感を抱いている。


 この作品は、人為ではとても太刀打ちできないおかとときという理不尽の権化に対し、『竜胆』という少女が立ち向かう物語である。


 確立された世界観、『竜胆』がただの少女から成長していく姿が、緻密な描写でもって描かれている。


 間違いなく、『竜胆の乙女』は幻想文学として優れた作品である。


 だが、この作品の真に面白い部分は、そこではない。


 しかし、非常に歯がゆいのだが、その内容は、未読の方へ向けてはとてもお伝えすることができない。


 例に漏れず、「この作品の最も重要な部分」については、私も口を閉ざさせていただく。


 気になる方はぜひ読んで、それから下のネタバレあり感想に進んでほしい。


 




【感想(がっつりネタバレあり)】


 「こんなことしていいんだ」と思った。


  言うまでもないことであるが、この感想は『竜胆の乙女』内における、いわゆる「驚愕の一行」を読んで、作品の構造を理解した時のものである。


 正直なところ、完全に予想外だった。


 というか、予想できてたまるかと思った。


 私とて、さんざん「なにかある」と匂わされた作品に対し、無策で挑んだワケではない。


 作中において姿が見えないのにちょくちょく現れる「私」という存在や、章の末尾に記された謎の時間について考察はしていたものの、それらはせいぜい『竜胆の乙女』という幻想文学の枠内に収まるものであった。


 まさか、その枠を吹き飛ばしてしまうギミックだとは思わなんだ。


 明かされてしまえば「なるほど」と唸るギミックではある。 枠物語というか、メタ的な構造というか、とにかくそんな感じだ。


 今まで似たようなギミックを持つ作品はいくつか読んできたのだが、『竜胆の乙女』は私の脳内にある類型とは微妙に違うように思える。


 特徴的なのは、「ジャンルの乖離」と「徹底的なひた隠し」であった。


 まずは「ジャンルの乖離」について述べる。


 こういったメタ的な構造を持つ作品には、作品のジャンルにある種の親和性があると思っている。


 SFやファンタジーがその典型例といえるだろう。


 今ぱっと思いつく限りのメタ作品を脳内で展開してみたが、『UNDERTALE』も『レッドスーツ』も『学校を出よう!』もファンタジーやSFの要素が色濃い。


 だが、『竜胆の乙女』は先にも述べたとおり、「近代日本を舞台にした幻想文学」である。


 「耽美」や「優雅」を彷彿とさせる叙情的なこの作品は、メタ構造というSF的なギミックと中々結びつかないだろう。


 だからこそ、我々は読み進めながらもこの作品の構造に気付くことができなかったし、そして知った時にすさまじい衝撃を感じたのではないだろうか。


 次に「徹底的なひた隠し」について述べる。 


 『竜胆の乙女』のすごいと思うところは、「匂わせ」がほとんどないということだ。


 私もメタフィクションを書いた経験があるのでわかるのだが、世に出回っているメタフィクションは、たいてい、作中において「匂わせ」がある。


 それは読者に気づきを与えるような何気ない文章であったり、描写だったりする。いわばヒントだ。


 読者を仮初の世界観に没頭させながらも、「この作品、実はこんなウラがありましてですね……」という雰囲気をなんとなーく漏らしていくのである。


 そうして、読者に意識・無意識的に違和感を覚えさせ、物語の後半で種明かしするのだ。そうすると、道中抱いていたもやもやが一気に晴れて、すさまじいカタルシスを得られるというワケである。


 『竜胆の乙女』はそれがない。


 マジでない。


 表紙もあらすじも見事に「和風ファンタジー」の皮を被っているし、作中の文章も徹頭徹尾「和風ファンタジー」として描かれている。


 強いて「匂わせ」の要素を挙げるならば、姿の見えない「私」という存在と、章の末尾の時間標記くらいのものだ。


 あれはメタ的な構造を匂わせるヒントとしてはかなり弱い部類だと思う。


 時間標記は確かにかなり「構造」というものを意識させる記述だが、章の末尾にしか現れないので情報量としてはかなり少ない。


 姿の見えない「私」という存在については、先にも述べた「ジャンルの乖離性」がうまく働いているので、「主人公に気づかれていないなんらかの上位存在」くらいを想像するのが関の山だと思う。


 「作品構造を超越するギミック」があるなんて思わんて。


 さて、ここで言っておきたいのは、「匂わせが少ない」というのは確かに前例は少ないと思ったものの、私にとっては決してマイナス要素ではないということだ。


 というか、作者も編集部もかなり思い切った試みをしたなと思っている。度胸がすごい。


 おかとときのような強い悪意を持った言い方をしてしまえば、この『竜胆の乙女』という作品はすさまじい「表紙詐欺」をしている作品であるからだ。


 私は「やってくれたなコンチクショウ!」とむしろ騙されて大喜びだったのだが、純粋に幻想文学を求めていた読者であればハシゴを外された感覚を抱くこともあるだろう。


 そういった意味では好き嫌いに明確な差が出る作品ではあると思う。


 総じて、前例を見ないかなり尖った作品であると思った。

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