2024年4月13日 「僕らは『読み』を間違える』(水鏡月聖著)を読んで

「同レーベルの同賞の先輩にあたる水鏡月先生の作品なのに、今更読んだんかい」という非難の声もあるだろう。


 それについては申し訳ない。


 今更読んだ。そして、もっと早く読んでおけばよかったと思っている。


 そのくらい面白い作品だった。


 今回は、水鏡月先生への謝意と、まだ読んだことのない人へ向けての啓蒙を込めて、『読みえる』の感想を書いていきたいと思う。


 ちなみに、最初に言っておくがクソ長いぞ。

 作中の考察までしたからな。


 後半はほとんど邪推にも似た考察話になる。

 恐らく、穿ったものの見方になったせいで『読み』を間違えていることもあるだろうが、そこはご容赦いただきたいところだ。


 では、まず、ネタバレなしの感想から書いていく。


※ちなみに、筆者はまだ1巻しか読んでいないので、私が得意げに語っている考察が2巻の情報により全くの見当違いだと判明した場合は、思う存分笑ってくれ。




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 さて、未読の方へ向けた感想を書いていこうと思うのだが、正直なところ、難しい。

 なぜならこれはミステリの作品構造を持っているからである。


 私は犯人やトリックがわかっていてもミステリを楽しく読める性質の人間だが、世の中には親の仇のごとくネタバレを嫌う人もいるだろう。


 なので、この作品内における謎要素には直接触れず、それが明かされた時の心境を主に語っていきたいと思う。



「おいおい、物語の面白さが後半から急加速したぞ」


 恐らくどの感想サイトにも必ず書かれている文言であろうが、私もまずこう思った。


 前半がつまらないというワケではない。


 この作品は、捻くれた主人公の捻くれた感性による文学作品の批評から、章ごとにストーリーが展開されていく。

 それぞれの感想はなるほど独自性が見られて面白いし、主人公以外が語る批評も、知己や新視点にあふれていて見応えがある。


 単純に、文学オタクの会話を見ているようで面白かった。


 だが、本作の見所はなんといっても後半である。


「後半ってどこだよ」と思うかもしれないが、それは読めばすぐわかるので読んでくれ。


 後半では、前半にたっぷりページを使ってばら撒かれた細やかな描写から、伏線がすごい勢いで回収され始める。謎が解けていく。気分はさながら定置網漁。大漁大漁で気分が良くなる。


 この作品が第27回スニーカー大賞で【銀賞】を獲得した時、書評欄で書かれていたのだが、「1度目よりも2度目を読んだほうが楽しめる」という文言に嘘偽りなしだ。


 読み返すと、「ここも伏線だったのね~」と新たな発見があるので、未読の方はもちろん、既読の方も回収し忘れた要素があるかもしれないから再読してみるとよろし。


 そして作品全体の感想となるが、「青春群像劇としても、学園ミステリとしても面白かった」というものになる。


 この作品は学園ミステリではあるものの、主人公たちのところに依頼人がやってきて~というような、明白な事件などは起こらない。


 ではどこがミステリ要素なのかというと、「主人公たちの人間関係そのもの」が、ミステリの謎として複雑に絡み合い、そして綺麗にほどかれているのである。


 これはまったく新しいミステリの形であるし、「青春群像劇」という要素も同時に満たすウルトラCの一手であると思った。


 おかげで、読み終わった時には、ミステリを読み終わった時の爽快感と、純文学を読み終わった時の「嗚呼、青春……」という感情を同時に味わうことができる。


 あんまり情緒を語りすぎると未読の方へ良くない印象を与えてしまうかもしれないのでこの辺で切り上げたいと思うが、とにかく、めちゃくちゃ面白いし、考察も捗る作品なのでぜひ読んでくれ!



 ここから先は既読の方へ向けた感想垂れ流しゾーンとなる。ネタバレありまくりだからご注意を。



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 「僕らは『読み』を間違える」という作品……



 めっちゃくちゃ面白くない?


 いや、面白くないはずがない。(誤った反語の使い方)


 面白いよなぁ!!!!!!


 語りたいところはいっぱいあるのだが、とにかく私はその物語内における「人間関係の錯綜」具合がたまらないと思った。


 めっちゃくちゃ複雑!!!!!!


 読み終わって、しばらく整理が追いつかなかった。

 青春群像劇だからそりゃ人間関係だって入り組むし、各々向ける感情も異なるのは当然だが、ここまで複雑だともはやアッパレである。


 私は読み進めながら、創作者的な目線で、

「こんな複雑なプロット、自分には組めないな」

「なぜこれほどまでに複雑になった人間関係を、最後鮮やかに解いているんだ……?」

「作中の文学作品に対する批評も示唆に富んでいて無駄がないやんけ!」

 などと、ひたすら驚嘆していた。



 あと、文学作品をこんなに真正面から扱って、物語の展開に活かせているのは本当にすごいと思う。


 私はそれなりに文学に触れていると自負しているし、自分の好きな作品をモチーフにして、展開を考えたりもする。


 だが、こんなに真正面から立ち向かうのは無理だ。


 怖すぎる。


 うまく扱えなかったときは「ニワカが知識ひけらかしてて草」とスベり倒すこと間違いないし、変にオリジナルの解釈をして文学ガチ勢からお叱りを受けるのも嫌だ。


 私ならば、せいぜい、「わかる人には元ネタわかるよー」くらいの謎解き要素にするのが関の山だろう。

 

 だからこそ、臆することなく真正面から文学作品に向き合い、巧く物語と調和させた水鏡月先生には敬意を感じずにはいられない。





 話は個別の「ここよかったポイント」に移るけれども、いや~好きなところがたくさんあるんだよな~。


 個人的に好きだったのは、やはりラストだろうか。


 肯定されたがゆえに捻くれた感性を持ち続けていた主人公、優真が、最後は瀬奈に感化されて上を向き、坂を駆け上がるラストシーンは、心境の変化を感じられてとても良い読後感になれた。


 あとな~、純文学的な目線だと、鳩山くん(通称ぽっぽくん)の一人称で語られる「春琴抄」の章も好きなんだよな~。


 鳩山くんが紙飛行機を飛ばしていた真意がわかった時は、優真の初恋エピソードを別の観点から見ることができたし、なにより最後、前の章で扱っていた『蜘蛛の糸』が再び出てきて、カンダタと鳩山くんの行動がリンクするところとか、大好き!


「糸が切れてしまうかもしれないなんて心配するくらいなら、下にいる人たちを振り落とすことよりも、糸が切れる前に上りきることに専念すればよかったのよ」とは、太陽少女、瀬奈の言葉だ。


 初恋の人を優真に奪われまいとして横槍を入れた結果、優真と共に初恋を散らした鳩山くんにとっては胸が痛くなる言葉だったろう。


 ああ、無情! でもこの無情感がイイのよ!


 『読みえる』は第1巻時点だと、誰も恋を成就させずに終わっている。

 それどころか、作中ではたびたび破局の描写がなされて、我々の心を抉ってくる。


 見方によれば「全員バッドエンドやんけ!」と憤ることも可能なのだが、私はむしろ、「誰かと誰かがくっついて終わり! ヨカッタネー」な展開にならなくて良かったと思う。


 なんというか、こちらのほうが美しさを感じるのだ。


 ラブコメを謳っていたら確かにこの展開は受け入れられないかもしれないが、「学園ミステリ」「青春群像劇」であれば、この苦味はむしろ味わい深いと思う。


 とにかく、面白かった!!!!!!!!!



 そんなワケで、主に純文学的な目線でをした感想は、以上となる。



 では、次からは、悪趣味と思われるかもしれないが、によって導かれた、本作における考察を語っていこうと思う。


 もしかしたら、既読の方は気分を害するかもしれないので、ここから先は自己責任で読んでくれ。(でも誰かに怒られたら素直に消します)


 ここから先は一切の高望みを捨てよ。


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「まだ明かされていない謎がある」


 読み終えて、作中における『読み間違い』を整理し終えた時、私はこんなことを思った。


 伏線未回収、ではない。

 「あえて隠されていること」「あえて描写されていないこと」があるような気がしたのだ。


 疑問の出発点は、『読みえる』の作品構造にある。


 知っての通り、『読みえる』では、章によって視点が変わる。

 最初こそ、主人公優真の視点で展開していくのだが、いわゆる『後半』、鳩山くんの一人称から始まる章からは、リア王黒崎、垢抜け女子更紗ときて、最後に再び優真に戻る。


 読み終えて、一人称視点で話を展開していったメンツを眺めて、私はこう疑問に思った。

「なぜ、太陽少女、瀬奈の視点がない?」


 彼女は、あえて肩書を付与するならば「メインヒロイン」になるだろう。

 表紙は優真とのツーショットだし、彼に心理的成長を促したのも彼女によるところが大きい。


 では、なぜ、そんな重要な登場人物である彼女の視点が描かれていないのだろう。

 物語においてはモブとも呼べる鳩山くんですら、一人称の視点があったのに。


 そう思って、私は「一人称で語る章があった人物」と「そうでない人物」を整理した。


 前者は、優真、鳩山くん、黒崎くん、更紗である。

 後者は、瀬奈、そして栞先輩、あと、若宮さんだ。

(おっさんとかカフェのマスターは、まぁ、この括りに加えなくてもいいだろ)


 若宮さんに関しては正直微妙だが、瀬奈と栞先輩は、視点がないことのほうが不自然なほど、重要な登場人物であると思う。


 なぜ、彼女たちには視点が与えられなかったのだろう。


 私はその理由について考えてみた。


 「それぞれの章は読書感想文を起点に始まっているから、普段読書をしない瀬奈には起点がなかった」というのが真っ先に思いついた仮説である。


 確かに瀬奈は作中であまり読書をしないと言及されている。


 だが、これだと栞先輩に視点がない理由がつかない。


 彼女は、優真にも引けを取らないほどの文学的教養を持っている。

 彼の捻くれた批評に真っ向から異を唱えるくらい、諸作品に精通している彼女が、この理由で視点を得ていないというのはおかしい。



 では次。


「視点を与えられた登場人物は、その章においてなんらかの『読み』間違いをしていた」


 結論から言うと、私はこの説を支持している。


 視点を与えられた優真、鳩山くん、黒崎、更紗は、その一人称内でなんらかの『読み』間違いをしている。


 これはわざわざ解説するほどのことでもないだろう。

 というか、この「みんな『読み』間違いをしている」という事実こそがこの作品を面白くしている要素だ。


 しかし、もしも作品の設定にこの前提があるとしたら、一番最後、優真の一人称で語られる「『無題』を読んで」の章では、一体どんな『読み』間違いがあったのだろう。


 最終章は、ミステリで言うところの解決編だ。

 今まで『読み』間違いをしていた様々なことが、相手と腹を割ってコミュニケーションを取ったことで氷解する。

 優真は黒崎の真の想い人を知り、黒崎は優真と栞先輩の関係が恋人ではないことを知る。

 

「優真は、更紗の恋心に関しては未だ誤解しているままだから、それが『読み』間違いなんだ」という理屈をつけることはできるが、私には更にもう1つある気がする。


 それは、「優真は、瀬奈の性格を天真爛漫で、まっすぐ、太陽のような存在だと認識していること」である。


 私はこれこそが、最終章における最も重要で、そして、作中ではついぞ触れられることのなかった『読み』間違いではないかと思っているのである。


「瀬奈は実は腹黒キャラだって言いたいんかゴラァ!」と強火なファンにぐさりとやられてしまうまえに先手を打っておくが、そうではない。


 彼女の性格がまっすぐで太陽のように明るいというのは、私の否定するところではない。だが、それはあくまで彼女の一側面に過ぎず、「まだ語られていない別側面」もある気がするのだ。


 根拠はある。


 まずは『D坂の殺人事件』でブルームーンが雨天によって見れないという話での、瀬奈のセリフ。


「――あのね。雨降りの日って、お日様が休憩できるんだよ。いつもいつもニコニコばかりしていると流石に疲れるでしょ。そんな時は雲に隠れて思いっきり泣くの」


「しょうがないよね。月だって泣きたい夜くらいあるのよ……」


 実に示唆に富んだセリフである。

 これまで「太陽のよう」と優真に評されてきた瀬奈が、初めて真意のようなものを、含みを持たせながら語っているように見える。



 次。

 鳩山くんの一人称で語られる『春琴抄』の章では、瀬奈の「太陽のような」イメージとはズレているような行動が散見される。


 それは、(優真と相合い傘をするために)鳩山くんに傘を渡す描写だったり、喫茶店にて、鳩山くんから傘を返してもらったにもかかわらず、それを隠そうとしたりする描写である。


 決して「腹黒い」とまではいかないが、「したたかさ」は感じる描写である。


 本当に天真爛漫な性格であるなら、傘を携えたまま「相合い傘しよう」と言っても、そこまでおかしくはないはずなのに。


 

 そして最後は、最終章、花火のシーンで、優真と瀬奈が「キスするのかい!

 しないのかい! どっちなーんだい!」となっているところのセリフ。


「月が……きれいだね……」


「月は……太陽の光を浴びてはじめて輝くことができるんだよ……」


 またも現れた三点リーダと月と太陽の比喩である。


 前者は好意の伝達という意味だろうが、後者については、更に婉曲的で、どう解釈したらよいか迷うところだが……、私は後者のセリフを、


「瀬奈は自分の性格は本来、月のようなもの(暗いとかネガティブとか)だと思っており、普段は太陽のような性格を演じているに過ぎない。

 それは本来の自分(月のような性格)に自信を持っていないということであり、太陽のような性格になることで、ようやく、他者から認められると思っている」と解釈した。


 ここに関しては、正直「論理の飛躍だ!」と誹りを受けても仕方がないと思っている。

 自信もそこまでない。勘ぐりすぎだと言われたら顔を赤くして引っ提げる所存である。



 さて、ここまで長々と書いてきたが、私が結論として言いたいのは、以下の2点である。


「瀬奈の太陽のようなイメージは、あくまで彼女の一側面でしかなく、まだ明かされていない別の暗い側面も持っている」


「優真は、最終章で精神的に成長したが、それは瀬奈の太陽のような側面に影響されただけ。彼女の本当の性格については、未だ『読み』間違いをしている」


 ラストの優真の成長が、「実は勘違いによるポジティブな影響」だったら人間関係の複雑さを描いていて面白いと思うし、「僕らは『読み』を間違える」というタイトルにも別の趣を感じることができる。


 改めて言っておきたいのは、仮にこの説が正しいのだとしても、それは決して瀬奈というヒロインのネガキャンにはならないということだ。


 むしろ、いつも明るい少女が、誰にも見せない弱味を持っているというのは、私にとっては高評価ポイントだ。ますます推したくなってしまう。


 この説が正しいのか、それともオタクの行き過ぎた妄想なのかどうかは、『読みえる』の続編で明かされることであろう。

 それまで、待て、しばし。


 さて、以上で邪推にも似た考察は終わる。




 本当は、「栞先輩、すべての人間関係を操作していた黒幕説」についても触れたかったところだが、材料と時間と気力がないため、メモを軽く記して終わる。


 メモ① 『走れメロス』の批評で示された「石匠フィロストラトス、メロス暗殺の黒幕説」は、実は栞先輩が暗躍している暗喩なのでは。

 その後、優真は自らの考察を「栞先輩の意のままに誘導された結果」と語っている。

 

 メモ② 『D坂の殺人事件』の章では、優真が明智小五郎を「すべての黒幕」ではないかと考察している。

 また、再び現れた「もしかすると僕はしたたかな誰かにまんまと騙されているのかもしれない」という優真の語りは、「この物語にも皆を騙している黒幕がいる」という暗喩のように見える。



 

 以上が、「僕らは『読み』を間違える」を読んで抱いた感想及び、邪推にも似た考察となる。


 考察に関しては「これこそ真実!」だと吹聴して回る気などサラサラないし、水鏡月先生に「違うし作品のイメージを損なうので消してください」と言われたら土下座も辞さない覚悟である。


 ただ、この作品は、これだけの文量を用いてもまだ語り尽くせないほどの深みを持っているということは事実である。


 改めて、作者の水鏡月先生へ、敬意と感謝を。


(2巻はこれから読みます)

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