第9話

「おい、いつもこんなに気分が悪くなるのか?」

 ジントに心配されるのも仕方ないほど、イサナはへばっていた。水の入った桶は、とっくの昔にジントに持ってもらっている。体が重く、気分も重い。テティの為に早く大神殿に辿り着きたいのに、体が拒否反応を示している。

「大丈夫。平気。何てことない。まだまだ行ける。僕は元気」

 イサナは自分に言い聞かせるように、言葉を並べる。

「平気そうには見えないぞ。顔色悪いし、冷や汗もかいてるし」

「……正直、結構きつい。おかしいな、いつもはもっと近づいても平気なのに。今日はこの距離でこんな風になるなんて」

 大神殿の敷地には足も踏み入れていないのに、この有様だ。大神殿に入るには、まだ目の前に続く九十九段の階段を登りきらなければならない。よろけながらも、イサナは階段をのぼり始める。

「イサナ。いいから少し休め」

 ジントが見かねたように声をかけてくる。

「でも、テティが……早く行かないと」

「そんなふらふらしてたら、階段から落っこちてテティに会う前に死ぬぞ。そうだ、この水少し飲めよ」

 ジントはポポロニアの泉の水が入った桶を持ち上げた。生き物が棲めない水、しかし、汚いわけでも毒があるわけでもない。キレイすぎるその水は、喉を潤すにはちょうどいい。

 イサナは暫し迷ったが、大人しくジントの言うことを聞いた。どう考えても休憩せずに九十九段登りきれるとは思えなかったからだ。

 階段に座り、手のひらを丸めて桶から水をすくう。透明で光をきらきらと反射させる水はとてもキレイだ。イサナは、ゆっくりと手にした水を飲む。すると、潤いが体中にいきわたり、重苦しさが薄れていった。

「ジント、ありがとう。ちょっと楽になったよ」

「そうか、よかったな」

 鳥が飛び立つ羽ばたきが聞こえた。ざわめく風が、二人の間をすり抜けていく。ほのかにサルビアの香りがした。

「今度こそテティいるよね」

 イサナは、確信を持って言った。

「いると思う。少なくとも大神殿には、誰かがいる。儀式の最中でしか使われないはずの、花蝋燭の香りが漂っているからな。誰かが火を燈しているはずだ」

 しばらく沈黙が流れる。一呼吸置き、イサナは話し始めた。

「ずっと犯人について考えていてさ……この手回しの仕方といい、何となく身に覚えがあるんだけど」

「そうだな。この回りくどい感じ、やり方が似てる。断言は出来ないが、あいつである可能性は高いと思う。まだ野望をあきらめてないってことなんだろうな」

「……まったく、城の中の人たちは意味が分からないよ。こんなことのために、テティを巻き込むだなんて、僕は絶対許さないから。今度こそ、はっきりさせてやる」

 イサナは決意も新たに立ち上がる。すると、ジントが手を差し出してきた。

「手、繋ぐか?」

 ジントは真顔だ。真意を測りかねて、イサナは一歩ひく。

「ジント……どうかしたの?」

「大神殿に向かうんだから、また気分悪くなるだろ。危ないから」

「あぁ、そういうことね。でも大丈夫。無理だと思ったら、休憩するから」

「……そうか」

 心なしか、ジントががっかりしているように見えるのは気のせいだろうか。しかし、そんなことをうだうだと考えていても仕方ない。一時しのぎとはいえ、体調が復活しているうちに、進めるところまで進もうとイサナは思った。

 途中、二回の小休憩を挟みつつ、何とか階段を上りきった。目の前の水路を越えれば神殿の敷地内、つまり神域だ。神殿前の広場には大きな円柱が等間隔に立ち並び、その円柱の上で花蝋燭の火が揺れている。

 イサナは呼吸を落ち着けて、神域へ足を踏み出す。そのとたん、今まで以上の不快感が襲ってきた。捨て去りたいような赤黒い感情が、呼吸をするたびに充満していく。イサナは、思わず座り込んでしまった。

「大丈夫か?」

 ジントが心配そうに、覗き込む。

「息をするのが……辛いんだ。ここの空気、今日は特に気持ち悪い」

「俺は平気だけどな……ちょっと花蝋燭の匂いがするくらいで」

「ちょっとどころじゃないよ! 花蝋燭の香りが、びっくりするほどきつい。息を吸うだけでむせ返るんじゃないかって思うほど濃密だよ。しかも、何か空気自体が粘っこくて重い気がするし。うぇ……吐きそう」

「重症だな。一旦戻るか?」

 ジントに言われて、イサナはすぐに顔を上げた。

「戻らない。戻るわけにはいかないよ。行こう」

 戻ったところで、何の解決にもならない。神域に足を踏み入れれば、結局こうなるのならば進むしかないではないか。イサナはよろけながらも、神殿へ向かって、広場を前進していった。

 そして、石造りの大きな神殿の前まで来た。人の姿は見えないが、明らかに気配を感じる。

「テティを返して下さい!」

 イサナの叫びが神殿に響いた。しかし、何の応答もない。イサナは、もう一度叫ぶ。

「ちゃんと僕はここへ来たんだ。僕が狙いなら、テティはもう必要ないはず。返してよ!」

 叫ぶだけでも、体力が相当削られる。イサナは、肩で息をしながら、必死に倒れまいと足を踏ん張る。しかし、息をするたびに気持ち悪い空気を取り込むので、だんだんと意識が朦朧としてきた。

 その時だった。神殿の奥から、人影が出て来る。ゆっくりと姿を現したのは、思いもよらぬ人物だった。その人物は、神殿の壇上で止まると、イサナ達を観察するように見た。

「大丈夫かい? 私もここの空気は好きではないけれど、そこまであからさまに影響を受ける人物は初めて見たよ。まぁ今日は特に、儀式仕様にしているから、余計に影響は受けやすいのだろうがね」

 見覚えのある青年だった。国王に呼ばれたとき見かけたことがある、側近のザーク・フィル・ドレンテだ。彼のイサナを見つめる目には、嫉妬や羨望、諦めなど様々な色が浮かんでは消えていく。

「テティはどこです」

 イサナは、必死に声を絞り出す。

「君は、国王になる気があるのかないのか。その返答によっては、返してあげるよ」

「ない!」

「即答だね。そうか、ないのか。やはり変わっているな。私は……自分が国王になるにふさわしいと思っていたし、なるべきだと思っていた。それが国民のためにもなるとね。だから、どんなことをしても許されると思っていたよ」

「だからって、テティを誘拐するなんて卑怯すぎる。あなたがこんなことをするとは思ってなかった。頭脳明晰、冷静沈着、眉目秀麗、あなたを尊敬している人は多い。そんなになりたいのなら、あなたがなればいい。僕は国王などに興味はないんです」

 正直、イサナは別の人物がテティを誘拐した犯人だと思っていた。予想が外れたとなると、テティのことが余計心配になってくる。

「だが、アラン国王は君に譲りたいと考えておられる。だから、君が邪魔だったんだ。君もジャルヌも……今さら新たにしゃしゃり出てこられても困るんだ」

「ちょっと待って! もしかして、テティを誘拐しただけじゃなく、ジャルヌの事件も、あなたが仕組んだんですか?」

 この前の件は、サルジェが黒幕ではなかったのか。思わずジントを見る。ジントも驚きの表情を隠せないようだ。

「そうだよ、私がリーナを使ってすべて仕組んだんだ。残念ながら、失敗に終わったけれどね。君たちは本当にサルジェがやったと思っていたのかい? あんな小物には無理に決まっているだろう。そんな報告を信じるだなんて、純粋というか、ただの馬鹿というか。情報なんてものは、そのままだったら単なる噂話みたいなものだよ。裏読みしてこそ情報だ。だが、まだお子様達だから仕方ないか」

 ザークは壊れたように笑い出した。イサナは、既視感を覚えた。どこかが壊れている、このどうしようもなく危ない感じ。そう、リーナとそっくりだ。

「リーナが、サルジェの隠し子というのは嘘か?」

 ジントが苦々しい声で、問いかけた。

「もちろん嘘だ。あんな凡人から、リーナのような才気あふれる女性が生まれるわけないだろう」

 笑いが止まると、呆れた口調でザークがいう。ジントは悔しそうにうつむいてしまった。

「さて、話を戻そう。私はね、イサナを見て考え方を変えたんだ。認めるのには少々時間がかかったが、やはり、君の能力は桁違いだ。このフィルドレンテ公国を守るためには、君のほうがふさわしい」

「あの……話が良く分からないんですが。ザークさんは、国王に、なりたいんですよね? だから、僕のことが、邪魔なんですよね? なのに、なんで僕が、国王にふさわしいっていう話になるんですか?」

 ただでさえ朦朧としてきている意識が、余計に混乱してしまう。

「つまり、私以上の力を君は持っている。だから、次の国王になってほしいと言っているんだ」

 イサナはしゃべっている人物を凝視した。これと同じことを国王にも言われた。もしかして、目の前にいるのは国王で、朦朧とした自分がザークだと勘違いしているのではないかと思ったのだ。しかし、どんなに頑張ってもザークにしか見えない。

「国王になんて、なりません。みんな頭がおかしいよ。僕には何の力もない。城を追い出された、ただの厄介者だ」

「そんなことを言ってもらっては困る。次の国王になると約束してくれなければ、妹さんを返すことは出来ないな」

「どうして! 今まで、見向きもしなかったんだ。これからも放っておいてよ。僕には関わらないで。もう、巻き込むのも巻き込まれるのも嫌なんだ」

 イサナは気力の限界を感じていた。意識を保つのが相当つらい。本当は今すぐにでも手放したいくらいだった。しかし、テティを助けるまでは、手放すなど出来ない。歯を食いしばり、意識を繋ぎとめる。

「関わるなといわれても、それは無理な話だ。君には、国王になる資格と責任がある」

「……だから、意味がわかりません」

「意外と強情だね。ほら、空を見てごらん。薄暗くなってきた」

「……夕方、だからですよ」

「仕方ないね。では最後の手段だ。妹さんには死んでいただこう」

 ザークは右手をかざすと、指を鳴らした。

「何を言ってる! テティは関係ないだろ」

 イサナはザークにつかみかかろうと、走り出した。しかし、体が思うように動かず、地面に思いっきり倒れこんでしまった。代わりにジントがすばやく飛び出していったが、ザークの護衛に阻まれる。さすがのジントも多勢に無勢、歯が立たない。

「神殿の上の方を見てごらん。そう、崖側のバルコニー部分だ」

 ザークの言葉に、イサナは地面から顔を上げた。神殿の西側は、崖になっているのだが、崖上のバルコニーに人が立っていた。何故かこちらに向けて、大きく手を振っている。

「イサナ様! こちらですわ~」

 イサナは自分を呼ぶその声に、心臓が止まるかと思った。

「リーナ……なの?」

 罪をすべて被せられ、医術院送りにされたはずのリーナがそこにいた。嬉しそうにしているのが声で分かる。

「またお会いできて嬉しいのですが、さらに、イサナ様がとっても苦しそうなので、もっと嬉しいです~」

 リーナは相変わらずの変態発言をしている。

「そーしーてー、こちらを見てください~」

 バルコニーに新しい人物が出てきた。体格のいいその大男は、腕に何かを抱えている。

「ま……さか。抱きかかえているのは……あれはテティ? テティなのか?」

 イサナは鼓動が早くなるのを感じた。冷や汗が噴き出してくる。抱きかかえられた少女は、眠っているのかピクリとも動かない。だがあの小柄な体格、強風になびく柔らかな髪、そして強風によってスカートがめくれ上がったことにより確信する。顔は見えないが、苺柄ははっきりと見えた。

「イサナ様! 最高です。もっとその苦しげなお声を聞かせてください~」

 リーナは踊りだしそうな声だ。

 そんなリーナの様子を、ザークは笑って見ている。

「リーナは本当に君のことが好きみたいだね。あんなに楽しそうなのは初めて見たよ」

 やはりこの二人、心のどこかがぶっ壊れているとイサナは思った。

「崖の下は相当深いし、岩だらけ。落ちたら確実に死んでしまう。可哀想に、まだ十二歳だというのにもうこの世からさよならだ。君のせいだよ、イサナ。君がちゃんと現実と向き合わないから、妹さんを巻き込む羽目になったんだ。責めるなら自分を責めるんだね」

 ザークは再び右手をかざした。すると、大男はバルコニーの手摺へ近付く。

「……やめろ」

 イサナから震えた声が零れる。

 しかし、ザークはにやっと笑うと、指を鳴らした。乾いた音が神殿にこだまする。

「やめろー」

 イサナの叫びと被るように、少女の体は崖の下へ落ちていく。数秒後、ドスっと嫌な音が響いた。


――――逃げてばかりだと、他の人にも迷惑をかけてしまいますよ


 ローラの言葉が甦る。その通りだった。突きつけられた現実と向き合わず、逃げた結果がこれなのだ。国王からも再三呼び出しがあったが、イサナは無視をし続けた。

 自分のせいで、テティが死んだのだ。とても大切で、唯一肉親といえる存在で、何を失ってでも守りたいと思っていた。それなのに、今、目の前で、死ななくてもいいのに死んだ。

「僕が……テティを殺した」

 イサナは呆然とつぶやいていた。

 一気に後悔の念が押し寄せてくる。それに反応するように、体の中に充満した赤黒い感情が、暴走を始めた。悔しさ、悲しさ、寂しさ、恨み、嫉み、虚無、恐れ、負の感情がマグマのように湧き上がってくる。赤黒い感情に、侵食されていく恐怖。しかし、その恐怖を超えるほどの、情けない自分への後悔が膨らんでいった。


 気付けば、頭の中に祝詞が流れていた。大音量で、耳を塞ぎたくなるほどだ。しかし、耳を塞いでもちっとも効果はない。

『馬鹿ね。頭の中で呼んでいるから無駄よ』

 女性の声が響く。これも頭の中だけで聞こえているのだろうか。

『辛いのでしょう? 嫌なのでしょう? だったら、すべてを恨みなさい』

 楽しそうな、でもそれでいてどこか寂しげな声だ。

「恨んで、いいの?」

 不思議な声に、イサナは問いかける。

『いいのよ。辛いんだもの、恨んで呪って祟ればいいの』

 不思議な声が後押しをする。

「辛いよ。理不尽なことばかり起こるんだ……どうしてだよ、どうして僕はいつも残されるんだ!」

 イサナの中に、ある古ぼけた映像が浮かぶ。燃え盛る家を、幼いテティと手を繋いで泣きながら見ているのだ。これは……なんだ? でも、心が締め付けられる。悲しみが倍増していく。


「うわぁぁぁぁぁぁっ」

 イサナは感情のままに、叫び声を上げていた。その叫びに呼応するように、幾筋もの閃光が空を翔る。その中の一筋が、神殿横の大木に落ちた。大木は勢いよく燃え始め、ゆっくりと傾いて行き、豪快な音を立てて倒れる。それでも尚、空には閃光が煌き続けた。

 数箇所で導雷針に吸収されなかった閃光が落ちた。地響きとともに、火柱も上がっていく。そして、大粒の雹が降り始めた。大きいものになると、拳ほどもある。こんなものが直撃したら即死だ。それでも、感情のままに叫ぶイサナは、そのことに気が付かない。

 雹の襲来を避けながら、ジントがイサナに近付いた。

「イサナ! イサナ、しっかりしろ。俺の声が聞こえるか」

 イサナの反応はない。狂ったように叫び続けている。

「イサナ、戻って来いよ!」


 ぼんやりと、遠くで誰かの叫びが聞こえる。あれ、この声、僕? うるさいなぁ、何で僕は叫んでるんだ。近所迷惑だから、もう黙ってよ。でも、僕が黙ってほしいと思っても黙らないってことは、どうしたらいいんだ?

 ジントが横にいるみたいだ。ジント! 僕はここだよ。ダメだ、全然聞こえてないみたい。でも、必死の形相で僕に何か言ってる。何だろう、聞こえないなぁ。

 あれ、ジントが離れていく。いつもは鬱陶しいくらいに傍に居たがるのに、こんなときに離れるだなんて薄情なやつだなぁ。どうしよう、僕、一人ぼっちになっちゃった。

 寂しいなぁ。悲しいなぁ。家族や友達や恋人に囲まれている人がうらやましい。何故、僕の周りの人は、すぐいなくなっちゃうんだろ。

 あ、ジントが戻ってきた。何かに当たって痛そうにしてる。あ、何か手に持ってる。えっ、何するの? うわっ、何これ冷たい――――でも、ぼんやりとしていた世界が、急にすっきりとクリアになっていく。


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