第3話
翌朝もイサナは城へ来て、城内の池のほとりに一人で座っていた。ジントは勉強の時間とのことで、家庭教師にイサナも一緒にどうかと誘われたが丁重にお断りしたのだ。
「僕が帝王学を学んでどうするっての。僕は……この城の人間なんかじゃないんだから」
ぼつりと池へ向かってつぶやく。
イサナは少々落ち込んでいた。国王から、ジントが暴力をふるいそうになったら止めてくれと頼まれていたのに、さっそく止められなかったからだ。しかもきっかけを作ったのは自分ときた。役立たずもいいところだ。
「ちゃんと、ジントを止めないと。僕がジントの道を守らなくちゃ。あ、でも忘れてたけど、ジントを見張るってことは、先生とこの手伝いも出来ないってことだよね。聖礼祭終わるまで、ノアの帆の資金が稼げないなぁ。大口叩いたけど、オーナーの言うとおり、霧の月になっちゃうかも」
小石を池へ放り投げる。小さな水音を立てて、石が沈んでいく。その円形の波紋を眺めていると、円を乱すように一葉のノアが進んできた。
「うわっ最新のノアだ。ピカピカのツヤツヤで、舟体の形もなだらかで恰好良い……だけに、残念だ」
装備はすべて最新のパーツを使ったノアが、超スローな速度で、しかも蛇行しながら進んできたのだ。そして、ノアを追いかけるように、一人の少年が走ってきた。十歳くらいだろうか、ノアを必死に見つめている。
「このノアは君のかい?」
イサナは少年に声をかけた。城内の池でノアを走らせているのだから、恐らく王族のなのだろう。サラサラの髪をまっすぐに切りそろえ、身なりも整っている。上等そうな服にきれいな刺繍まで入っているのだ。
「うん。でも上手く走らないんだ」
少年は拗ねた表情で、水面からノアを持ち上げた。
「そうだなぁ、バランスが良くないと思うよ。舟体が安定性よりもスピード性を重視した形だからね、帆が大きすぎるんだ」
「帆が大きいといけないの? だって、風をたくさん受けた方が早く進むよ?」
「確かにその通り。でもね、さっきも言ったけど、この舟体は安定性に欠けるんだ。だから、風の影響を受け過ぎてまっすぐ走れない。もう少し幅の狭い帆にしたら、まっすぐ走ると思うよ」
「そうなの? お兄ちゃん詳しいね。屋敷に帰ったら試してみる!」
少年は目を輝かせてイサナを見上げていた。
「試してみて。ところで、君はどこの子だい?」
「僕は――――」
少年が話そうとした時だった。
「彼はジャルヌ・ポー・ドレンテだよ。久しぶりだなイサナ。こんなところで会うとは驚きだけどね」
したり顔で登場してきたのは、先日ジントに突っかかった挙句に蹴られた人物だった。赤みがかった茶色の髪、とくいそうに伸びた鼻、小者臭漂う馬面のクロヴィス・フィル・ドレンテだ。
「久しぶりだね、クロヴィス。また背が伸びた?」
「そうとも。反対に君ときたら、悲しいほど変化がないねぇ。ちゃんと食べているのかい? 貧乏な庶民暮らしをしていると聞いたよ。何だったら、僕の屋敷に来るといい。使用人として雇ってあげるよ。もちろん、賃金は弾むさ。なんせ僕の叔父様だからね。そこのところはちゃんと特別扱いしてあげるさ」
「はは……それはどうも」
相変わらずの上から目線だ。こんな調子で話しかけるから、ジントに蹴られてしまうのだ。
「時にジャルヌ、君がここにいるということは、また君のお父上が国王に馬鹿な話をしに来てるってことだね」
クロヴィスは、汚いものを見るような目つきでジャルヌを睨んだ。怯えたジャルヌが、イサナの後ろに隠れる。
「クロヴィス、こんな小さな子を睨むもんじゃないよ。怖がってるじゃないか」
「イサナ、これは君にも影響の出ることなんだぞ。君は本当に世事に疎いな」
「僕には城の中の話なんて、どうでもいいことだよ」
「無関心も程々にしたほうがいい。自分の身は自分で守る。そのためにも情報は必要不可欠だ。そして、自分の将来は、自分自身の手で掴むものだ! 無関心は無責任だ! 流されるままに流された挙句、文句をいうことほど身勝手なものはない! 君はそれでいいのか! いや、いいわけがない!」
いきなりクロヴィスが演説モードに入ってしまった。イサナは困ったと思った。イサナにとって、クロヴィスの高飛車なところはあまり気にならないのだが、この暑苦しくておせっかいな演説モードは苦手なのだ。しかも、壮大な演説も行動が伴えば素晴らしいのだが、いまのところ、彼の壮大な行動は見たことがない。つまり彼は口だけなのだ。
「あのクロヴィス? 僕達はそろそろお暇するよ」
「待て! まだ本題に入ってない。せっかく話してやるのだから、ちゃんと最後まで聞いて行くのが礼儀だろう」
大袈裟にクロヴィスは腕を広げ、イサナ達の行く手を阻む。
仕方ないので、ジャルヌだけをこっそり逃がし、イサナは時間稼ぎのために話を聞くことにした。おそらくジャルヌにとって気分の良い話のはずがない。ジャルヌがここを十分に離れられるくらいの時間は稼ごうと、腹をくくった。
「分かったよ。ちゃんと聞くから、あっちに座ろうか」
クロヴィスの意識を、前方の石造りの椅子へ向けさせ、その隙にジャルヌの背中を反対方面に軽く押す。ジャルヌはイサナの意図に気付くと、小さく頭を下げ、ウサギのように走って逃げて行った。
「頭の回転の速い、賢い子だなぁ」
イサナは小さくつぶやく。それにくらべ、得意そうに椅子にふんぞり返って座っているクロヴィスときたら、頭の中が逆回転でもしてるんじゃなかろうか。いくらこっそりだったとはいえ、ジャルヌが去ったことにまったく気付く気配がない。
「じゃあ、本題ってなんだい?」
イサナは斜め向かいの巨木にもたれかかる。クロヴィスの隣にはなんとなく座りたくなかったのだ。
「ジャルヌの父親は、分家の出身。つまり王族といえども、俺とは比べものにならないくらいの格下だ。それなのに、王位を狙っているのさ」
「ちょっと待って。ジャルヌの父親は何歳なの? さすがに二十三歳は超えてるでしょ」
「まぁ話は最後までゆっくり聞けって。ジャルヌには姉がいてな、この前ちらっと見たんだがなかなかの美人だ。この美人な娘をジャルヌの父親は、国王の妃にしようと暗躍している。国王は正妃を即位前に亡くして以来、ずっと正妃を迎えていない。だから、ここに娘をねじ込もうってわけだ。そうすれば、ジャルヌは国王の義弟だ。分家とはいえ王族の血を引いてるわけだし、そうだな、イサナと同じくらいの立場にはなれる。お前だって、腐っても国王の弟だからな。というか、国王の弟が庶民暮らしとか普通ありえんだろ。我々は女神に祝福された一族、つまり女神に大地を潤す力を与えられた選ばれた一族なんだぞ。庶民から崇められるべきなのに、庶民に同化しているなど恥ずかしいと思わんのか」
話が逸れてきた気がする。何故か矛先がこちらに向いてきた。身分が高ければ高い王族ほど、実際には雨乞いの能力など信じていないくせに、こういう選民思想だけは持ち合わせている場合が多い。そんな思想を押し付けられても困るのだ。こっちは王族も庶民も、そして自分のこともただの人間としか思ってないのだから。ここは適当にまとめて、話を終わらせようとイサナは決めた。
「あーつまり、君のライバルが増えるのが面白くないってこと?」
クロヴィスの動きが止まった。一瞬驚いたように目を開いた後、小さく咳払いをした。どうやら図星のようだ。
「イサナ……それは違う。君が俺のライバルじゃないのと一緒だ。ジャルヌごときが俺のライバルになるわけがなかろうが。俺は後継者にもっとも近いと噂されているんだぞ! まともな後ろ盾もない君らなんか相手にもならないね」
誤魔化すように、クロヴィスが早口で言い立てる。
「だったら、気にしなくていいじゃん。じゃあ、これからはジャルヌを見ても睨んじゃダメだよ?」
「えっ……あ、ああ。もちろんだ。そもそも今日だって睨んでなどない。君の気のせいだ。変な言いがかりをつけてもらっては困る」
「そっか、ごめんね。それより、こんなに話し込んじゃって時間大丈夫?」
「ふん、余計な心配は無用だ。言われなくても、そろそろ行こうと思っていたところだ」
「うん、じゃあまたね」
イサナは満面の笑顔でクロヴィスに手を振る。クロヴィスは苦虫をかみつぶしたような顔をして去って行った。
クロヴィスが去った後、ふいに人の気配をイサナは感じた。
「誰かいるの?」
すると、巨木の陰からジントが笑いながら出てきた。
「気付かれたか。面白すぎて、笑いをこらえるのが大変だったんだぞ」
「盗み聞き? いつから聞いてたの」
「人聞きの悪いこと言うな。お前の方からこっちに来たんだろ。イサナがいるのを見つけて声をかけようとしたら、胸糞悪いクロヴィスが出てきたんで、この木の陰に隠れたんだよ。つまり、俺のほうが先にここにいたってこと」
「あ、そうだったんだ」
「でもイサナはすごいな。あんなイラつく奴と、まともに会話ができるなんて。しかも、最終的にクロヴィスを丸め込んでるんだからな」
ジントは再び笑い始めた。
「丸め込むだなんて……ジントこそ人聞きの悪いこと言わないでよ。僕はただ適当に話を聞いてただけ」
そう、イサナは適当に流しているから、そこまでクロヴィスにイラつくことはない。ある意味、ジントの方がクロヴィスと真正面で向き合っているから、蹴りたくなるほどイラついてしまうのだろう。皆はあまり気が付かないけれど、こういう部分、ジントの良いところだとイサナは思う。ジントはどんな相手であろうと、ちゃんと向き合っているってことだ。
「それにしても、クロヴィスは何であんなに王になりたいんだろうな。継承権のある奴には、すぐに絡む。それにクロヴィスだけじゃなく、ジャルヌの父親にしろ、他の奴らにしろ、裏では足の引っ張り合いやってるし。俺には分からん」
ジントが呆れたような口調で言った。
「きっと、たくさんのものを持っている人は、もっとたくさん欲しくなるものなんだよ。僕は……今あるものがなくならなければ、それでいい」
イサナは小さく「それだけでいいんだ」と繰り返す。
「そうだな。俺もそう思う。王なんて、やりたい奴がやればいい。俺らには関係のないことだ」
ジントは、空を見上げてつぶやいた。そんなジントを見て、イサナは心の中でつぶやく。興味がなくても、やりたくなくても、ジントが王ならきっと、いろんなことが変わるのにと。
しばしの間、無言で池を眺めていた。イサナもジントも、王族の争いに少なからず巻き込まれ、傷ついてきたのだ。お互いがそれを思い出していることに気付いていたから、沈黙がかえってありがたかった。
すると、その沈黙を破る怒鳴り声が聞こえてきた。しかも女性の声で、かなりのけたたましさだ。
「なんだ、うるさいな。誰だよ」
ジントが眉を寄せて、声のする方向を睨んでいる。イサナもつられて見やると、女性がまさに池に落ちている最中、一瞬遅れて派手な水音が聞こえてきた。イサナは慌てて走り出す。
「イサナ、行くな。あいつがいる――――」
ジントが叫んでいたが、人命救助が最優先だ。見た限り池はあまり深そうではないが、それでも衣服を着て水に落ちれば身動きが取りづらくなる。溺れていたら大変だ。池に沿うように走り、落ちた場所へ急ぐ。
しかし、イサナは直前で足を止めた。そして、気付かれる前に回廊の柱の影に身を隠す。幸い落ちた人物は溺れておらず、びしょぬれの状態で池の中に立っていた。黒地のワンピースに白いエプロンが張り付いてグレーに変わっている。どうやら城に勤めている侍女のようだ。ただ、雰囲気がおかしい。
「どうかお許しを!」
その侍女は水滴を滴らせながら、岸辺に立つ人物へ懇願していた。岸辺には数人いるのだが、その真ん中にいる人物を見て、イサナは固まっていた。見ているだけで、体が強張っていくのが分かる。
遅れてジントもイサナの隣で足をとめていた。ぎこちなく見上げると、ジントは呆れた顔をしていた。
「だから行くなって言ったんだ」
ジントの小言が胸に刺さる。
真ん中にいる人物は、前国王の正妃にして、現国王アランの母であるテレジア・マース・ドレンテだった。いうなれば、イサナの義理の母親という存在にあたる。しかし、イサナにとって、この世で一番会いたくない人物だ。贅沢な生活を体現している太めの体、しかし、その膨れた体が威圧感をさらに増強させている。つり上がった目からは、突き刺すような視線、真っ赤な唇は、イサナには血の色に見えた。
池の水に胸元まで浸かった侍女が、必死に許しを請うている。しかし、テレジアは手にしていた扇を投げつけた。
「しつこい! 無能なものは去りなさい」
恐ろしいほどの迫力だ。
「本当に、申し訳ありません。もう二度と花瓶を割ったりしません。誓います。ですから、どうぞここに置いてください。他に行くところがないんです」
もう叫ぶように、侍女は泣きながら頭を下げていた。
「頭が、全く下がっていませんね。その程度で許されるわけがありませんよ――――死ぬ気で謝りなさい!」
テレジアは、冷たい目で侍女を見下ろしている。しかし、ただでさえ額は水面ぎりぎりなのだ。これ以上頭を下げたら、顔が水の中に入ってしまう。つまり、死んで謝れと言っているようなものだ。
花瓶を割っただけで、死ねというのか? 花瓶なんて城の中には山ほどあるじゃないか。それをひとつやふたつ割ったところで、何の問題がある? でも、誰も恐ろしくてテレジアを止めることは出来ない。イサナに至っては、足ひとつ踏み出せない。国母という立場もだが、このテレジアという人間が醸し出す圧力に、ほとんどの人間が畏怖を感じてしまう。おそらく彼女をいさめることが出来るのは、夫である前国王くらいだ。
イサナは自分が言われているわけではないのに、息が苦しくなってきた。思い出したくない記憶が、じわじわと攻め上がってくる。そして、どす黒い気持ちも、じわじわ広がっていく。
微かに雷鳴が聞こえた。空を見上げると、黒い雲が西の方角から流れてくる。
「イサナ、言葉でいえよ」
ジントが前方を見たまま、イサナの頭に手を置いて言った。
「えっ?」
とっさに意味が分からず、ジントを見ようと思ったが、手で頭が固定され見えない。
「別に……。コル爺のところ行くか」
コル爺とは、城の厨房でパンを専門に焼いているコルザのことだ。幼いころは城に来るたび、ジントと一緒に厨房へ行ってはコル爺におやつをもらっていたものだ。今でもたまに厨房を覗くと、ニコニコしながらおやつを出してくれる。
「急にどうしたの? お腹減ったの?」
イサナが言い出すならともかく、ジントが言い出すのは珍しい。
「そうじゃない……ただ、俺は雷が嫌いなだけだ」
ジントはそう言うと、来た道を戻り始めた。
「確かに雷が来そうだけど……ジント雷嫌いだったっけ?」
びしょぬれの侍女が気になったけれど、イサナにはどうすることもできない。後ろ髪を引かれながらも、ジントの後を追った。
その日、雷が止むまでコル爺のところで時間をつぶそうとしたが、幸いなことにすぐ治まった。そして夕焼けで空が染まるころ、イサナが城の門を出ると、一人の女性が座り込んでいた。着古したブラウスに、布が継ぎはぎされたスカート、上着はなくショールを羽織っている。持ち物は大きめのカバンがひとつ、よく見ると髪がしっとりと濡れていた。イサナは素通りすることが出来ず、彼女の前で止まる。
「あの……大丈夫ですか?」
感情の失せた瞳がイサナを見上げた。やはりあの侍女だ。しかし、返事はない。
「その……こんなところで座り込んでいると、風邪引いちゃいますよ。そう、髪も濡れてるし」
彼女は寒いのか、縮こまって震えていた。池に入ったまま、ずっと頭を下げていたのだろうか? だとしたら、そこまでしたのに許されずに追い出されたということか。
幼い日の記憶と重なる。母親と手をつなぎ、カバンひとつで城を出た。母親は泣いていた。いつも笑顔を絶やさぬ人だったのに。後にも先にも、イサナは母親の涙を見たのはあの時だけだった。
テレジアはイサナの母をとにかく毛嫌いしていた。王族でも貴族でもなく、庶民から国王の側室に上った母を、何かにつけては呼び出し、酷い言葉を幾度もぶつけていた。幼いイサナは恐怖に震えながら、その様子を物陰に隠れて見ていた。おそらくイサナの知らない嫌がらせも沢山あっただろうと思う。
「えっと……とにかく、ここにいるのは良くないです。家はどこですか? 送ります」
すると、弱々しい声が返ってきた。
「帰る家なんて、ない」
そういえば、行くところがないから許してくれと必死に言っていた。自分の浅はかさが嫌になる。
「じゃ、じゃあ、僕の先生のところに行きましょう。先生は見た目こそ少し変だけど、とってもいい人なんですよ」
イサナは片方の手でカバンを持ちあげ、座り込んだ彼女にもう片方の手を差し伸べる。彼女は数秒迷った後、震える手を差し出したのだった。
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