5 寮の新人
ハーシェル商会寮に新人がやってきたのはその翌月のことだった。
新しい調理器具が届き、古い物の処分と一緒に厨房の整理をしていると玄関のほうから「エフィさーん」と名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
玄関へ向かうとそこに立っていたのはアーネストとトリスタン、そして一人の女性だった。トリスタンはともかく、アーネストが寮にやってくるのは非常に珍しい。エウフェミアは首を傾げる。
「どうなさったんですか?」
「新人だ。一階の奥に空き部屋があったろ。今日からあそこに住む。寮の中を案内してやってくれ」
そう言われて、エウフェミアはマジマジと新人と呼ばれた人物を見る。
そわそわと不安そうに立っているのは二十歳前後の女性だ。橙色の髪はボサボサで、服も継ぎはぎだらけ。肌は日焼けのせいか少し黒くなっており、そばかすも目立つ。
エウフェミアは女性ににっこりと微笑む。
「こんにちは、はじめまして。寮の管理人をしておりますエフィと申します」
「ワ、ワタシ、タビサって言います」
女性――タビサは慌てて頭を下げる。その様子をエウフェミアはきょとんと見つめる。彼女の話し方の抑揚は特徴的だ。訛っている、と言えばいいのだろうか。
「任せたぞ」
「また後で様子を見に来るっスから」
そう言い残すと、アーネストとトリスタンは事務所のほうへ戻って行ってしまった。
「ご案内しますね。どうぞ、こちらに」
「あ、ありがとうございます」
残されたエウフェミアはひとまずタビサを食堂へ案内する。オドオドした様子の彼女を椅子に座られ、自分はまず紅茶の用意を始める。昨日作ったクッキーの余りをお皿に移すと食堂に戻る。
「どうぞ。よろしければ召し上がってください」
「い、いいんですか?」
「ええ。余りもので申し訳ないですけれど」
躊躇いながらも、タビサはカップを手に取り、一口飲む。――途端に彼女の表情が明るくなる。もう一口、二口と紅茶を飲み、クッキーにも手を伸ばす。それから彼女ははしゃぐような声をあげる。
「美味しいです! こんな美味しい紅茶とクッキーを食べたのは生まれて初めてです! 帝都ではこんな美味しいモンが食べられるなんて、信じられないさァ」
「タビサさんはどちらからいらっしゃったんですか?」
彼女のような特徴的な話し方をする人にはこの帝都で何度か会ったことがある。帝国の外れ、辺境と呼ばれる地方で生活していた人たちだった。
「ワタシの生まれはインズです。ピアーズ山脈の麓です」
「ピアーズ山脈、ですか?」
以前見た地図を思い出すが、言われた地名も山の名前も聞き覚えがない。帝都周辺の地名と地形は頭に入っているので、それよりずっと離れた場所なのだろうか。
「帝都にお住まいの方が辺境の田舎のコトなんてご存じなわけありませんでしたね。ここからずーっと西の農村です」
「いえ、申し訳ございません。私はあまりものを知らないのです。その、どうしてここにいらっしゃることになったのですか?」
確かに二週間ほど前から事務所を留守にしていたアーネストは商談に出かけていると聞いていた。しかし、それとタビサを新人として連れて帰ってきたことが繋がらない。当事者であるタビサに質問をしたが、なぜか彼女も戸惑っている。
「正直、ワタシにも何でこうなったかがよく分からないンです」
そう言って、タビサが教えてくれたのは彼女の生い立ちと帝都に来るまでの経緯だった。
タビサの故郷は先ほど彼女が言った通り、西の辺境にある農村らしい。育てた農作物を税の代わりに地主である準男爵へ納め、自給自足で生活をしていたそうだ。
「でも、ここ数年ずっと日照り続きでしょう? 麦もろくに育たないんです。ウチは兄弟が十人ほどいるんですが、食べ物も全然足りなくて皆出稼ぎに行くことになったンです。有難いことにワタシは準男爵サマのところで奉公させてもらえることになりました」
そうしてタビサは準男爵の屋敷で下働きとして働くようになった。それが今から七年前のことだと言う。当時、彼女はまだ十五歳だったそうだ。
「最初のうちは下働きだったんですケド、途中から紅茶を淹れるのが上手いって奥様のお付きにしていただいて。そんな風にずっと働いていたんですケド――」
事態が急変したのはほんの数日前のことだった。
準男爵夫人の大事にしていた宝石がなくなってしまったらしい。夫人の私室に保管されていたそれを持ち出せる人間はかぎられている。使用人の身体検査を行い、部屋を調べたところ、宝石はとある場所から見つかった。
「それが、タビサさんのお部屋だったのですね」
「精霊サマに誓って、ワタシ盗みなんて働いてないンです!」
タビサは大仰に首を横に振る。
「でも、誰も信じてくれませんでした。奥様もです。盗人と言われ、屋敷を追い出されることになりました。本当に困りました。他で雇ってくれるところがないか探したのですが、どこも門前払いでした。ワタシが盗人だという話は既に町中に広がっていたんです。ワタシがお金を稼いで仕送りをしないと故郷の家族が困ってしまいます。どうしようかと困っていたところを、会長サマに拾っていただいたンです」
行き場を失くし、街を彷徨っているところ、声をかけられたそうだ。そのあと、身の上を話し、色々と質問をされ、気づけば帝都に連れてこられたと言う。
「そうだったのですね」
彼女の話をエウフェミアは複雑な気持ちで聞いていた。――きっと、帝都に来たばかりの自分だったら今の話を聞いても何も感じなかっただろう。カップの水面に視線を落とす。
「それで、エフィさん。ワタシはここで何をすればいいんでしょうか? なんだってやりますよ」
新しい就職口に困っていた彼女はよっぽど助けられたと思っているのだろう。こぶしを握り、やる気に満ちている。しかし、エウフェミアは不思議に思う。
「会長は何もおっしゃらなかったのですか?」
「いいえ、何も」
「契約書では――雇用契約書には何と書いてあったのですか?」
「コヨウケイヤクショ?」
「どういった条件で雇ってくれるかということが書かれた紙です。サインをなさったのですよね?」
自身が雇われた経緯を思い出しながら訊ねる。しかし、タビサは困ったように首を横に振った。
「いいえ。ワタシ、読み書きが出来ないんです。自分の名前だって書けません。そのお話は会長サマもお伝えしています」
――そんな。
エウフェミアはこれが自分の知らない世界のことだと理解した。
「それで、今まで困らなかったのですか?」
「麦を育てるのにも、家畜を育てるのにも文字は要りませんよ」
当たり前だと言うように彼女は笑った。
「準男爵サマのところでも、文字の読み書きができないといけないのは使用人の中でも偉い方々だけでした。ワタシなんかは特に……。そのぉ、ここでは文字の読み書きができないといけないンでしょうか? 都会の皆さんは皆字が書けるンですか?」
「――いえ」
帝都に来たばかりの彼女に誤った常識を植えこんではいけない。エウフェミアは力強く否定してから、迷いながらも口を開いた。
「私は、その、かなりの世間知らずなのです。ここで働いている方は皆さん文字の読み書きはできますが、帝都でそれが常識なのかは分かりません」
今まで接してきた人たちは全員字が読めた。しかし、それはエウフェミアが接する相手が店を持って商売をしている人たちだからだろう。そうではない人々がどうなのかは知らない。
「エフィさんは帝都の出身ではないンですか?」
「はい。私の出身は……キーナンのほうです。ここから南の方ですね」
生まれた屋敷がどこにあるか分からないとは言えない。いつもエウフェミアは嫁ぎ先であるイシャーウッド伯爵の別邸があった辺りが生まれ故郷だと説明している。
「ですが、ここで働き始めるまでは家の外に出たことがなかったのです。家族以外とはほとんど話をしたこともありませんでした。だから、本当に常識がないのです」
そうして、エウフェミアは自身の身の上を説明する。以前、ハーシェル商会の同僚たちに伝えたのと同じような内容だ。しかし、話を聞き終わったタビサの目には涙が浮かんでいた。
「随分と苦労をされてたンですねえ」
鼻をすすりながら、彼女は言う。それはきっと、本心からの言葉なのだろう。だからこそ、エウフェミアは訊ねた。
「……そう思われますか?」
「ええ、そりゃあ! まだ小さい血の繋がった姪を使用人のようにこき使うなんてとんでもない話ですよ! イトコのお嬢さんたちとは全然違う扱いをされていたんでしょう?」
「…………はい」
伯父の二人の娘たちはそれはそれは溺愛されていた。どんな我儘も伯父は聞き入れ、何でも買い与えていた。
「ウチの親戚にも両親が事故で亡くなったって子を引き取った夫婦はいますけどね。他の子と同じように育ててましたよ。もちろん、裕福な暮らしをさせるなんてことはできませんが、一人だけに家事を押しつけたり、残り物だけを食わせるなんてことはしません。一緒に働いて、一緒にご飯を食べてました」
「……そうなのですね」
タビサの話はエウフェミアの当たり前とはあまりに違っていた。――親を失い、精霊術師の才能もない子供を屋敷に置いておくだけ、自分たちは寛大だ。その自分たちのために身を粉にして働くのは当然のことだ。伯父はエウフェミアにそう言った。
だから、エウフェミアはこれは当然のことだと七年間伯父一家に尽くしていた。でも、本当はそれは当たり前のことだったのだろうか。
エウフェミアは一度息を吸う。それから笑顔をタビサに向ける。
「タビサさんのお仕事内容については私からも聞いてみます。長旅でしたでしょう? 今日はゆっくりお休みください」
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