6 二つの質問


 タビサを一階の空き部屋に案内し終えたエウフェミアはそのまま事務所の二階へ向かう。


 後で様子を見に来ると言っていたトリスタンが姿を現さないあたり、仕事が立てこんでいるのだろう。会長執務部屋の扉を開けると、まだ片付けが終わっていないのか、出張の荷物が床に放り出されていた。アーネストは出張中に溜まっていたであろう書類の山に向き合っている。


「エフィさん、お疲れ様っス。タビサさんは今どうしてます?」

「一階の空き部屋で休んでもらっています。それで、その、タビサさんのお仕事内容についてなんですけれど……」


 ちらりとアーネストを見ると、彼は苛立ったように書類をトリスタンの方へ押しやる。


「やめだやめだ! こんなもん、俺の仕事じゃない! お前が処理しとけ」

「何言ってるんスか! 若様がこの商会の会長でしょう! 僕に仕事を押しつけないでください!」

「日頃言ってるだろ。親父殿の作ったハーシェル商会はどんなことがあってもつぶすわけにはいかない。事故か何かで俺がくたばったときはお前が後を引き継ぐんだ。俺の仕事ぐらい代わりにできるようになってろ!」

「そんな横暴な」


 泣き言を言いながらも、トリスタンは書類を受け取ると応接用のソファに座り書類の処理を始めた。アーネストは煙草に火をつけ、一服し始める。


「で、タビサの仕事内容だったな」

「はい」


 どうやら話をしてくれるらしい。エウフェミアは背筋を伸ばす。


「まだ雇用契約書を交わされていないのですよね?」

「ああ、そうだ。タバサは文字の読み書きが出来ねえ。そんな状態じゃ契約もクソもねえだろ。まずは最低限の文字を読めるようにするのと、自分の名前を書けるようにしねえといけねえ」

「……その、普通は文字の読み書きというのは出来ないものなのですか?」


 ここに二人はエウフェミアの素性を知っている。この質問をしても不審がられないだろう。アーネストはこちらを一瞥すると、煙草の火を灰皿で消した。


「普通の定義次第だな。――帝国の階級制度はもう頭に入ってるな?」

「はい」


 エウフェミアは頷く。これもこの半年で得た知識だ。


 帝国に住む帝国民は三つの階層に分かれる。貴族が構成する上流階級、知識や資産を持つ富裕層が中流階級、それ以外の大多数が占める下層階級だ。それぞれの階級で更にまた階層が分かれているが、大きくはこの三つだ。


 エウフェミアは元々上流階級の人間だった。しかし、今は下層階級だ。ハーシェル商会に勤める従業員も——ゾーイのように中流階級出身者も少なからず存在するが——多くが同様だろう。ただし、商会の代表たるアーネストは中流階級に属する。ハーシェル商会自体がそれだけの資産に該当するからだ。


「帝国に住むほとんどの人間は地方に住む下層階級だ。そのほとんどが文字の読み書きができない。そういう教育体制はこの国に存在しないし、生きていく上でそれほど重要視もされない。むしろ、教育を受けるような歳の子供は貴重な労働力だ。使いもしない文字の読み書きや計算の仕方を教える時間があったら、その分水汲みに行かせたり、家畜の世話をさせたほうがよっぽどいい。そうしなきゃ、食ってけないってとこも多いだろ」


 彼の話はエウフェミアにとっては非常に価値があるものだ。一言一句、聞き洩らさないように熱心に聞く。


「だから、文字の読み書きができるヤツらの多くは中流階級以上だ。子供達に労働させずとも食っていける。むしろ、大人になったときにある程度の教養や知識を身につけておくことは必要不可欠だ。あとは下層階級でも商売をやっていたり、職人あたりは文字の読み書きも教わることも多い。帝都は地方に比べれば上流階級と中流階級の層が圧倒的に多い。そういった相手を客にしてるヤツらも多いから、文字の読み書きが出来るってのは重要なスキルだよ」

「それで、帝都では文字の読み書きができる方は多いのですね」


 アーネストは頷く。


「そういうことだ。まあ、出稼ぎに来てるようなヤツらの識字率はぐっと下がるだろうがな。――まあ、実際のところは分からん。全部感覚だよ。官吏でも帝国民の識字率調査なんてやっちゃいねえだろうしな」


 それで説明は終わったのだろう。アーネストは「で、質問はあるか?」と聞いてくる。エウフェミアは首を横に振った。


「いいえ。ありがとうございました」

「どういたしまして。――さて、本題に戻そう。タビサの仕事だが、今後お前の手伝いをしてもらおうと思ってる」

「私のですか?」


 予想外のことにエウフェミアは瞬きをする。てっきり、ハーシェル商会のほうで働かせるものだと思っていた。


事務所こっちで働かせるにはタビサには教えないといけないことが多すぎる。どう見ても商人に向いてるタイプじゃねえしな。今、お前が休みの日は通いで来る家政婦を入れてるだろ。ただ、それだとイレギュラーには対応させられない。もう一人置いて、お前と交代で働かせてもいいと思っていたんだ」


 エウフェミアの休みは週に一度だ。掃除と洗濯は一日しないぐらいは問題ないが、調理はそうはいかない。そのため、その日だけは近所の住む老婆が来て食事を用意してくれるのだが、当然それ以外のことが出来ない。確かに二人体制になればそういうことは起きないだろう。――しかし。


 正直なところ、エウフェミア一人で寮の仕事は問題なく回っている。管理人を二人に増やせば仕事がない時間が発生してくるのだ。


「でも、それですと」

「タビサが仕事を覚えたら、お前たちの時間が余るな」


 こちらが言うまでもなく、そのことはアーネストも気づいているらしい。費用対効果コスト・パフォーマンスを気にする会長はそれで良しとは思っていないようだった。


「タビサが独り立ちしたら、お前に別の仕事をしてもらいたい」

「――別の、ですか?」

「詳しくは追って説明する。やることは今までとそれほど変わらん。料理を作ったり、場合によって掃除をしてほしい。それだけだ」


 業務内容に関することは事前説明をするアーネストには珍しく言葉を濁された。しかし、やることが変わらないのであれば特段言うべきこともない。エウフェミアは「分かりました」と頷いた。


「本当なら先に雇用契約を結んでからの方がいいが、そうも言ってられないだろう。お前には負担をかけるが、タビサに仕事と文字の読み書きを教えてやってほしい。書く方は署名ができるようになればいいから、読める方を重点的に頼む」


 タビサは元々準男爵邸で働いていたという。寮の管理人としての仕事を教えるのはそれほど難しくないだろう。だが、文字の読み書きについてはどうだろう。エウフェミアは文字の読み書きを教えたことがないし、そもそも雇用契約書には専門用語も書かれている。それを教えるのは大変そうに思えた。


 エウフェミアが考え込んでいると、アーネストが口を開いた。


「必要だったら雇用条件の変更について話し合いをするか? 覚書を作ってやってもいい」


 彼はエウフェミアがタビサに読み書きを教えるのが業務外と思っていると考えたのだろうか。わざわざ時間と手間を取ろうとしてくれる雇用主に首を横に振る。


「いえ、寮のお住まいの方をサポートするのも管理人の仕事のうちですから。ただ、タビサさんと交わす雇用契約書のひな形のような物はいただけますか? どういった単語を知ってもらえばいいのか参考にしたいです」

「分かった。用意しておく」

「急ぎではございませんので、いつでも結構です」

「ああ。それで他に質問はあるか?」


 会長に確認しておくべきことはこれだけだろう。しかし、彼に聞きたいことがもう一つある。少し迷ってから口を開く。


「……タビサさんの親戚には親御さんを亡くされた子供がいるとおっしゃってました。その子は親戚のご夫婦に引き取られて、他の子供と同じように育てられているそうです。引き取った子供を自分の子供と全く違う扱いをするのは普通ではないのですか?」


 この質問は業務に関するものでも、一般常識を問うものでもない。――エウフェミアの境遇について訊ねるものだ。


 エウフェミアはずっと、自身が幸福であったと信じていた。だが、それはきっと自分が何も知らなかったからだ。


 アーネストに連れられ帝都で働き始め、エウフェミアは常識を、世間を知った。世間の当たり前を知った。今までぼんやりとしていた世界が、明確に自分の瞳に映りだした。そうして、疑問を抱くようになったのだ。過去の自分は本当に幸せだったのか、ということを。


「普通、普通ねえ」


 彼は既に火が消えた煙草を灰皿に押しつける。


「俺は引き取った親戚の子供を冷遇した例も知ってるし、血の繋がりのない赤の他人を本当の我が子のように溺愛したって例も知ってる。割合が多い方が普通って言うなら、どっちが多いかなんて俺は知らねえよ。どっちもありえるとしか言えない。ただ、後者の方が恵まれていて、幸福だろうとは思う」

「……では、前者は不幸なのでしょうか?」

「さてな」


 アーネストは肯定も否定もしなかった。


「自分が不幸かどうかは本人が決めることだろ。一般的にどう見えるかは横に置いてな。少なくとも、俺は何も知らない幼気な子供をいいように使って、その癖まるで自分は善行を積んだような言い草をする野郎は最低だと思ってる」


 忌々しそうに吐き捨てる姿は、はじめて出会ったとき、エウフェミアを途方もなく、救いようのない大馬鹿野郎と言ったときのものとよく似ていた。「わかりました」と一礼すると、エウフェミアは執務室を後にした。

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