4 新しい日常


 その日もいつも通り、エウフェミアは日が昇るのと同じ頃に目を覚ました。


 身支度を整え、向かうのは寮の厨房だ。エウフェミアと同様にこの寮――もともとアパートメントだったものを改装したものだ――で生活するハーシェル商会の従業員十名のために朝食の用意をしなければならない。


 かまどに火を入れ、夜仕込んでおいたパンを焼く。キャベツの入ったスープを煮込み、卵を茹でる。もうすぐ食べられるという頃に、従業員たちが食堂に姿を現した。


「おはよう、エフィちゃん」

「おはようございます。もうすぐパンが焼きあがりますからね」


 ハーシェル商会でエウフェミアは「エフィ」と名乗っている。いや、そう名乗るようにアーネストに命令された。自身が精霊貴族の出身で、伯爵夫人だったことも隠すように言われている。ただし、そのこと以外の部分についてはおおむね事実を伝えている。家族を失い、伯父一家の下で生活をし、結婚したが一年で離婚した話をすると、周囲はエウフェミアに同情的な言葉をかけてきた。


 朝食を配膳台に並べると、各々それを持って自分の好きな席に座る。エウフェミアも朝食の準備が全て終わると自分の分をとって、厨房に近い場所に座った。


 同僚の一人に「エフィちゃんもコーヒー飲む?」と声をかけられる。受け取ったコーヒーに大量のミルクと砂糖を注ぐと、エウフェミアも朝食を開始した。


 皆が話しながら食事をしているところに「あー、寝坊しちゃった」と言って現れたのは若い女性だ。彼女は配膳台の最後のトレイを手に取ると、エウフェミアの向かいの席をとる。


「おはよう、エフィ」

「おはよう、ゾーイ。コーヒー淹れようか?」

「大丈夫。自分で用意するから」


 そう言って彼女は厨房の方へ向かうとコーヒーを淹れて戻ってくる。それから席に座ると嘆き出した。


「あー、まずい。今日は朝からミーティングなのに、全然準備が終わってない。これじゃあ、会長に怒られる」

「昨日帰ってくるの遅かったもの。仕方ないわよ」

「そうなんだけど、そうなんだけどさあ。それを言い訳にできないのが仕事なのよ。どうにかしないと本当に怒られる」


 彼女――ゾーイはハーシェル商会に勤める唯一の女性従業員だ。歳も二十歳と比較的近く、エウフェミアは彼女のことを友達だと思っている。


 帝都出身で弁護士の娘だという彼女は貴族令嬢にはいないタイプだ。黒髪を耳下の長さで切りそろえ、他の従業員同様男性物の衣服を身に着けて商談や取引のため帝都やその周辺を駆け回っている。こういった働く女性は帝都には少なからずいるらしい。男性と肩を並べて働く姿をエウフェミアは尊敬している。


(そんなこと言っていても、ミーティング前にどうにかしちゃうのがゾーイなのよね)


 彼女は今までどんな窮地に陥ろうと、自慢の賢さと機転でどうにかしてきた。ミーティングの準備が終わっていないというのは彼女にとってトラブルでもなんでもないだろう。この後、どうにかしてしまうことをこれまでの付き合いでエウフェミアも分かっている。


 昨日のゾーイの愚痴を聞きながら朝食をすませると時計を見る。時刻は八時。そろそろ会長の目覚めの時間だ。


「じゃあ、仕事してくるわ」

「いってらっしゃい」


 事務所の裏口でゾーイと別れる。ゾーイが向かったのは一階の従業員用の執務部屋だ。エウフェミアは二人分の朝食の載ったトレイを持って二階に向かう。


 事務所の二階はほとんど会長の部屋だ。彼の執務部屋はもちろん、ここで生活するための私室も何部屋かあるらしい。そちらはプライベートゾーンのため、エウフェミアも入ったことがない。


「おはようございます。朝食をお持ちしました」


 両手がふさがってはノックもできない。大きな声で呼びかけると、中からトリスタンが現れた。彼は「おはようございます。エフィさん」と笑う。


 会長補佐である彼はエウフェミアたちと同じように寮に部屋があるが、会長に付き合って事務所の二階で寝泊まりすることも多い。そういうときはアーネストの分も合わせてエウフェミアが朝食を持ってくるのも業務の一つだ。


 執務部屋に入ると既にアーネストが椅子に座り、難しい顔で新聞とにらめっこをしている。朝食を応接用のテーブルに置くと、エウフェミアはトリスタンに声をかけた。


「あの、先日調理器具の買い替えをご相談させていただいたと思うんですけれど……」

「ああ、覚えてるっスよ。来月の予算に組み込んでるんで、あともう少し待っててほしいっス」


 厨房にある器具はいくつか壊れかけの物がある。買い替えることができないかと頼んだところ、翌月の備品の予算から必要経費を出してもらえることになった。


「そのことなんですが、その話をハドリーさんが聞きつけてきて……三割引きするからウチで買ってくれないかっておっしゃるんです」

「駄目だ」


 どうしようか、と訊ねる前にアーネストが口を挟む。その視線は紙面に注がれたままだ。


「アイツが持ってくる商品はどれも粗悪品だ。断れ。しつこく粘られるようなら俺のところに連れてこい。黙らしてやる」


 エウフェミアはトリスタンと顔を見合わせると苦笑いを浮かべた。アーネストの反応はエウフェミアの想像通りだ。


「そうですよね。ハドリーさんにそうお伝えしておきます」

 

 アーネストは何かとハーシェル商会の周りをうろちょろし、なんとか自分のところの商品を買ってもらえないかと交渉してくるハドリーを毛嫌いしている。


 そのことが分かっているからハドリーはエウフェミアに取りなすよう頼んできたのだ。ただ、ここ数日街に買い出しに行くたびに彼に付きまとわれて大変な思いをしていたところだ。アーネストの言葉を伝えれば、きっとハドリーも諦めてくれるだろう。


 ここ数日の懸案事項が解決されて、エウフェミアは安堵する。それから執務部屋を退出し、厨房に戻って朝食の食器を洗い始めた。


 午前中のうちに寮の住人が出した衣類の洗濯を終えたエウフェミアは食材の購入のために市場に繰り出した。事前に一ヶ月分の献立を決め、必要な食材はまとめて寮に届くように手配してもらっているが、欠品などでメニューの変更や買い出しが必要な場合がある。今日は調味料の減りが早いのと頼み忘れていた日用品の購入が目的だ。


 途中で案の定ハドリーに遭遇したものの、「会長にお許しをいただけませんでした。でも、ハドリーさんと直接話してもいいと言っていました」と言うとすぐに逃げて行ってしまった。おかげでエウフェミアは穏やかな気分で市場を巡り、買い出しをすませることができた。


(よし。今週はちゃんと予算内に収められそう)


 寮の管理人に就いた最初の頃は物の高い安いも、必要量も分からず、値段の高い――そして、それほど質の良くない――物を大量に買い込み、激怒したアーネストに徹夜で物価相場を教わったこともあった。


 しかし、ここ一、二ヶ月ほどは予算オーバーになることはほとんどない。あったとしても翌週の買い出しを工夫し帳尻を合わせられる。市場で並んでいる商品を見て、何が安いか高いかも分かるようになった。


 今の自分を見て、少し前までお金の価値も分からない世間知らずだったとは誰も思わないだろう。


 エウフェミアは空を見上げる。帝都には高い建物がいくつもそびている。だから、その分見える空の面積は狭い。帝都にはこの光景を嘆く人もいる。


 それでもエウフェミアはこの空が好きだった。ガラノス邸で家事の合間に見た空よりも、イシャーウッド家で一人中庭で見た空よりも、今のこの光景のが好きだ。


 寮に戻ると、今度は昼食の準備がある。終わったら寮の掃除をし、干した洗濯を取り込み、夕食の用意をする。


 これが帝都にやってきてから半年間の日常であった。

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