第22話:クラーラの愛

「お義母さま、機織りを教えていただきとうございます」

 ビルング城に戻ったミーナは、真っ先にカタリーナのもとへおもむき、丁重に頭を下げた。

「まあ、そんなにかしこまって、どうしたの? それより、今日は疲れているでしょう。ゆっくり休んだらどう?」

「ご心配いりません、お義母さま」

 ミーナは真剣なまなざしでカタリーナを見つめた。そのまなざしの中にある揺らぎを、カタリーナは敏感に受け止めた。

「何かあったのかしら? 蛮族が侵入して、イェルクがそちらに向かったことなら、わたしも知っているけれど……。イメディング家にも立ち寄ったのよね。コンラートさまはお変わりなくお元気かしら?」

「兄は元気にしております」

 ミーナは短く答えた。

「そう。なら、よかったのだけど。あちらで少しゆっくりしていっても、よかったのよ?」

 普段のミーナなら、ここで、お兄さまに追い返されたと泣きつくところだが、この日のミーナは凛と姿勢を正して立っていた。しかし、その目にいつもの無邪気な輝きはなかった。カタリーナはミーナの様子がおかしいことを悟りつつ、これ以上の詮索はしなかった。

「わかりました。では、教えましょう」

 カタリーナはメイドを数人呼ぶと、城内の倉庫にミーナを招いた。


 カタリーナが倉庫から取り出したのは、木の枠だった。かなりの大きさで、一メートル四方を超えていた。木枠の上下の辺には、等間隔で釘が打ちつけてあった。その間隔はかなり狭かった。

 カタリーナはそれをいったん家事室に運び入れるようメイドたちに命じたが、ミーナはそれを自室に運ぶようメイドたちに頼んだ。カタリーナは何も言わずに受け入れた。

 木枠をミーナの部屋に運ぶと、カタリーナはそれをテーブルに立てかけた。そして、ミーナに、染めた糸の中でも十分な長さのあるものを持ってくるように言った。ミーナは鏡台の側に置いたかごから一番大きな糸玉を持ってきた。

「それなら大丈夫そうね。今から機織りのやり方を教えます」

 カタリーナの言葉にミーナは首を傾げた。目の前にあるのは、ただの木枠で、織り機ではない。

「この織り機はとても簡単。なにしろ、人々が魔法を使えるようになる前から使われていたのよ。上の釘から下の釘へ、下の釘から上の釘へと、経糸をかけていくだけ。そこへ、一列目は、奇数の経糸をすくいながら緯糸を通す。二列目は、偶数の経糸をすくいながら緯糸を通す。その繰り返し。必要なのは、集中力と、根気だけね」

 ミーナは木枠の中を見つめた。何もない空間に、これから布ができていくのだ。一メートル四方の布。それを織るのは、わたし。

「さあ、糸をかけましょう。一人でやると糸がたわんでしまうから、ヘリガ、手伝ってあげて」

 ミーナはヘリガに手伝ってもらいながら、くぎに一本一本、経糸をかけていった。最後のくぎに経糸をかけたあと、経糸の端と端を木枠に結びつけた。

「お次は緯糸ね。さあ、最初の列はどの糸をすくっていくのかしら?」

「奇数の経糸です」

「ええ、そのとおりよ」

 ミーナはカタリーナから杼の使い方を教わった。杼に緯糸を巻き付け、その杼を経糸にくぐらせていくのだ。

「さあ、やってみて」

 ミーナは一、二、と唱えながら杼で経糸をすくってはくぐらせ、またすくってはくぐらせていった。

「あ、違うわ!」

 ミーナはあわてて、一本経糸を飛ばしてしまった。

「じゃあ、間違えたところからやり直しね。どこから間違えたかわからないなら、この緯糸の最初からやり直したほうがいいわ」

「わかりました」

 そのあと、ミーナは糸が切れたときの対処法や、青く染めた糸と染めていない糸の交換方法を教わった。

「ねぇ、集中力がいるでしょう? 今日はもう休んだほうがいいわ」

 カタリーナは優しく休憩を勧めたが、ミーナは首を横に振った。

「これから一人で頑張ります。お義母さま、ありがとうございました。皆、下がって……ヘリガもよ」

「ミーナお嬢さま……」

 ヘリガは心配そうに言った。

「さぁ、ヘリガも行きましょう。たまにはお茶でもしましょうか。ミーナ、晩餐の前で切り上げるのですよ」

 カタリーナはミーナの部屋の戸を優しく閉めた。皆の足音が消えたあと、ミーナは部屋の鍵を締めた。


 誰もいなくなった部屋で、ミーナは鏡台を見つめていた。ミーナは相変わらず、鏡に映る自分を見たくなかった。

(わたしは、今までひとの気持ちを考えたことがあるのかしら……)

 ミーナはため息をついた。

(わたしは、自分のことで頭がいっぱいだった……)

 鏡台の引き出しの中には、大切な鞠と、イェルクがくれた東方の女神像が眠っていた。

(そのうえわたしは、自分のことすら見つめようとしない)

 ミーナは鏡台の側に行き、久しぶりに引き出しを開けた。女神像はやわらかな笑みを浮かべていた。ミーナはぶるぶる震えながら、鏡に据え付けた扉を開けようとした。

(嫌! イェルクが愛想をつかしたわたしの顔なんて、見たくない!)

 ミーナは据え付けた扉から手を離し、後ずさった。

(どうしてそんなに怖いの、自分の顔でしょう? どうして、どうして!)

 ミーナは頭を抱えてうずくまった。

(そうだわ……鏡に映るわたしの顔は、わたしの知らない誰かの顔なのよね)

 ミーナはもう一度、鏡台の前まで歩み寄った。しかし、どうしても鏡に据え付けた扉を開くことはできなかった。

(機を織り、ビルング家の女としての務めを果たしたならば、扉を開ける勇気が出てくるかもしれない……)

 ミーナは木枠の織機をじっと見つめた。青い経糸がびっしりと並んでいた。ここに緯糸をかけていくことで、布が出来上がる。

「あなたたち二人が、縦横の糸になって、一枚の布に織り上がるには、まだまだ時間がかかるのだと思うわ」

 ミーナはカタリーナの言葉を思い出していた。

(もし、一枚の布を織り上げたなら、わたしたち、やり直すことができるかしら……)

 ミーナは希望を持つことにした。なにしろ、ミーナは光の子、希望の子なのだ。


 その日からミーナは食事の時間すら外に出ずに、ひたすら機織りに没頭した。部屋には鍵をかけ、ヘリガすら通そうとしなかった。ヘリガにはミーナの畑の世話を任せた。ミーナは無心になって経糸を杼ですくっていた。

「一、二、一、二……」

 何かと過去を手招きした糸紡ぎと違い、機織りはミーナを集中させた。それは、身体に与える感覚の違いなのか、間違えてはいけないという緊張感からなのか、それともミーナの心構えが変わったからなのか、ミーナ本人にもわからなかった。

 ある程度青い帯を織ったら、今度は生成りの白い糸に変えて帯を織っていく。そうして、青と白の横縞を織っていくのだ。それが、ビルング家の紋章だった。ミーナが愛し、守りたいと思った、ビルング家の象徴だった。しかし、布を織る今は、それすら頭の中になかった。

「一、二、一、二……」

 今のミーナにあるのは、ただ、糸と杼と自身の呼吸を合わせることだけだった。


 こうして、ついに、ミーナは一枚の布を、自らの手で織り上げた。ミーナは務めを果たしたのだ。


 ミーナは無の世界から戻ってきた。向き合わなければならないことを思い出した。ミーナは、鏡台の引き出しから女神像を取り出した。

「お母さま。一緒に探しましょう。わたしの本当のお父さまの面影を」

 ミーナは女神像をぎゅっと抱きしめ、鏡台に置き、いつも身につけている帽子をとり、恐る恐る鏡を開いた。

 鏡の中のミーナは、疲れてぼさぼさになった赤毛を垂らしていた。その瞳はどんぐりのように茶色く、疲れて輝きがなかった。目の形は少し細かった。この目がアーモンドのように美しい形をしていたら、とミーナはため息をついた。頬の色は赤かった。白くてわずかな赤みがさす程度ならどんなによかっただろうと、ミーナはまたため息をついた。唇だけは気に入っていた。笑うと少しだけ女神像に似ていた。

「わたしは……誰なの? 誰の子なの?」

 ミーナが鏡の自分にたずねると、突然、聞き覚えのある声が頭の中にこだました。

「蛮族の子!」

 それがあのアラリケの声だとわかった瞬間、ミーナの世界はまた真っ白になった。


「来ないで! いやあ!」

 修道院で若い娘が暴れていた。ミーナは先ほどこの娘に薬湯をかけられたばかりだ。

「落ち着いて! どうか、落ち着いて!」

 ミーナはこの娘を落ち着かせたかった。近づいて、背中を優しくさすってやれば、そっと抱きしめてやれば、娘は落ち着くと思ったのだ。

 しかし、娘は激しく暴れ、ミーナの顔を引っかいた。あまりの痛さに、ミーナは、何をするの! と叫んだ。そのとき、ミーナは頭の布が外れるのを感じとった。あわてて赤毛を隠そうとしたが、もう遅かった。ミーナの赤毛があらわになると、娘は白目をむかんばかりの顔をして、今までミーナが聞いたこともないような、断末魔の叫び声をあげた。

「赤髭の子! いやああああ!」

 ミーナはそれを聞くや否や、娘の手によって気絶させられた。娘はミーナを突き飛ばし、したたかに壁に打ちつけたのだ。


「いやああああ!」

 色を取り戻した世界の中でミーナは絶叫した。ミーナは鏡を殴りつけた。ミーナの力では割れなかった。ミーナは椅子を持って振りかざした。鏡は砕け散った。

 ミーナはその椅子を投げ飛ばし、テーブルを引き倒し、洋服掛けから全ての服を引きずり出してめちゃくちゃにぶん投げた。部屋にあるものを、引っかき回してぐちゃぐちゃにした。敷き詰められた香草が、ほこりのように舞い散った。ミーナは狂ったように笑い出した。

「あ、あはは、あはは、そういうことね。イェルクはあの夜、わたしの顔に憎き敵の面影を見たのね! なんて、なんて、おぞましいのでしょう! こんな巡り合わせがあるというの!」

 ミーナは自分の顔をかきむしった。髪の毛をむしり取ろうと引っ張った。

「こんなに醜いわたしは、もう、生きていけない!」

 ミーナは鏡の破片を手にして、自分の喉に突き刺そうとした。

 そのとき、鏡の破片が真っ赤な夕日を反射した。ミーナはまぶしくて目が眩んだ。目を開けると、ぐちゃぐちゃになった部屋を夕日が照らしていた。その中心に、あの女神像が転がっていた。

「お母さま!」

 ミーナは女神像にかけよった。

「お母さま。お母さまは、どうしてわたしを産んだのですか? 全てをお忘れになったからですか? もし……おぞましい過去を思い出されたら、わたしをお捨てになりますか?」

 ミーナは泣き叫んだ。沈む夕日が部屋の全てを赤く染めたとき、ミーナは亡き母の声を聞いた。

「あなたはわたしの子よ。誰がなんと言おうと、たとえ何があろうと。あなただけが、わたしのたった一人の家族。わたしが守るべき、ただ一つの命なのよ」

 ミーナははっとして顔をあげた。昼と夜の狭間で、美しい母の影がゆらめいていた。その影はミーナを優しく包み込んだ。

「そうですか……お母さまは、あのとき、すでに……。なのに、わたしを、子と呼んで、愛してくださるのですか……」

 ミーナの視界があふれた涙でふたたび濡れた。

 やがて夜の闇が部屋を包み、優しい影は消え失せた。しかしミーナは、母の優しさに包まれたまま眠りについていた。

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